第6話




 ……何かが月の髪の毛に触れている。


(しまった。いつの間にか、眠ってしまっていた……)


 外から差し込む光は橙色に変わっていた。

 昼間より気温は下がってきているものの、まだぬるい空気が漂っている。


(……旦那様!) 


 慌てて跳び起きようとしたが、それは叶わなかった。

 なんとつきは、あきらと同じ布団のなかで横になっていたのだ。しかも、触れているのは麗の手。


「起きたか」

「麗様。た、大変申し訳ございません!」


 布団から飛び出ようとした月だったが、今度は麗の手が背中へと伸びてきた。


「いい。わたしが寝かせたのだ」

「!?」


 ぎゅ、と抱きしめられてしまう。


「おおお、お体の調子は……」

「万全ではないが、鱗は消えた」


 ほら、と麗が腕を見せてくる。

 言葉通り、皮膚は確かに人間のものへと戻っていた。声も平常に戻っている。


「よかったです」

「心配をかけてすまなかった。ただ、まだ起き上がるには万全ではない。しばらくこのままいてくれるか」


 月は口ごもる。

 それを不安に感じたのか、麗の口調が強くなる。


「約束を反故ほごにして申し訳ない。次の休みこそ、必ず共に出かけよう」

「わたしのことは気になさらないでください。お出かけもしたかったですが、それ以上に、休息を取っていただきたかったんですから」


 麗の胸のなかで月は答える。

 

「夫婦となったのですから、お出かけはこれからいつでも何回でもできます」

「……そうだな。秋になったら改めて結婚の儀を行おう。きみが私の妻であることを、きちんと世に知らしめたい。きみの家族も招いて、盛大な披露宴を」


 月の実父も義母も、何回か甘味処へ足を運んでくれている。

 麗のあらぬ誤解は無事に解けていた。


「きみと、きみを取り巻くすべてを、一生かけて守り抜き、愛したい」


 月は麗を見上げて応える。


「わたしも、麗様のことを愛しています」


 そしてふたりは深く口づけを交わす。

 まだ初夜すらも迎えていないふたりである。初めての接吻に、月は、瞳を潤ませた。


「あ、あの、麗様……?」

「私だって男だ。理性もあれば、欲望もある。きみの心の準備ができるまで、いつまでも待つつもりだ」


 麗の眉間には皺が寄っていた。

 あまりにも神妙な面持ちに、月はふっと微笑みを浮かべる。

 それから月は麗の両頬を手で包み込んだ。


「麗様のことをずっとかっこいいと思ってきましたが、今はじめて、可愛らしいと思ってしまいました」


 今度は己から、麗へと口づける。


「夫婦となったのですから、おそろしいことなんてありません。だって、麗様が守ってくださるのでしょう?」

「いいのか?」

「勿論です。どうか望みを叶えてください。あなたの望みは、わたしの望みでもあります」


 とはいえ、月の手は震えていた。

 拒まなければ今から何が始まるというのか。いくら初心うぶな月でも、それくらいのことは理解している。


(受け入れたい。麗様のすべてを)


 ただ、恐怖よりも覚悟よりも上回るのは、麗への渇望だった。


「月……」


 堰を切ったように麗の熱が月を侵食していく。

 体の奥深くから指先まで熱に浮かされる。ふたりを止めるものは何もない。

 蕾は膨らみどんどん花開く。


「愛してる、月……」


 うわごとのように麗が繰り返す。応じるように月もまた、麗を求める。一度求めてしまえば、いくら満たされてもすぐに足りなくなってしまう。


「麗様。わたしも、愛しています……」


 それが愛なのだと、月はその日、初めて知ることとなった。







 数日後。

 麗は体調不良からすっかりと回復して、公務に戻っていた。


 月も月で、甘味処『涼月りょうげつ』はますます盛況となって忙しい日々を送っている。今は秋限定のメニューについて試作を始めたところだ。今度は月だけではなく、好など、他の従業員からも意見を募っている。さらに冬はゲラァレの代わりとなる外国の甘味を検討中。

 月としては、どんどん甘味処を大きくしていきたいと考えている。


 その一方で、実家からとあるものを取り寄せていた。


「おかえりなさいませ、麗様」


 月は大きな花瓶を床の間へと置く。

 大ぶりの花。茶色い花の周りを黄色い花びらが見事に彩っている。


「それは?」

「隣国に咲く、向日葵という花です」


 実際は畑で無数に咲き誇っているのだが、その大きさ故に一輪でもなかなか見応えがある。


「見事だな」

「花も立派ですが、種からは油を搾ることができます。隣国の産業のひとつですね」

「あぁ、なるほど。そう言われてみれば聞いたことがある」


 麗は向日葵をまじまじと見つめた。

 月は麗の隣に立つ。


「なかなかお出かけはできなくても、こうして、隣国のものを眺めたら、旅行している気分になれるかなと思いまして」


(できないから諦めるのではなくて、どんどん、考えを広げていけたらいい)


 月だって元々は家業を継ぐつもりだったのだ。

 それが、こうして貴族のもとへ嫁いで、甘味処を営むことになった。


 人生というのはどう転がるか分からない。

 実に不思議なものである。


「たくさん話をしましょう。これまでのことも、これからのことも」

「それならば、もっと近くに来ておくれ」

「えぇと、それは」


(照れるので)


「月」


 言葉を飲み込んだ月に対して、麗の口調は強い。


「お待ちください、旦那様。夕餉の支度ができていますので、まずはお召し上がりください」

「まずは? ということは、夕餉の後は、いいのか?」

「そ、それは」

「約束したぞ?」


 麗が悪戯を思いついた子どものように片目を瞑ってくる。

 月は赤面して、口をぱくぱくとさせるのみ。


(参りました。というか、最初から勝てたことはないけれど……)







 夏も真っ盛り。

 今日も空は青く晴れ渡っている。雲ひとつない、眩しいほどの青空だ。

 汗が流れるのを感じながら月は思う。こんなに暑いのに、蝉はどうしてあんなに激しく鳴けるのだろう。

 さらには、もし月がふつうの氷だったら、あっという間に融けてしまうに違いないとも。


(暑い……)


 空を見上げて目を細める。

 すいは、お休み。昨日の帰り際、小鳥遊と出かけるのだと嬉しそうに言っていた。暑いとはいえ今日はお出かけ日和だろう。

 ということは、甘味処にはたくさんの客が来店するということでもある。


(よしっ。いつも以上に気合を入れて働こう)


 月は柄杓ひしゃくを持つ手に力を込める。


「いらっしゃいませ、開店までもう少しお待ちください。って、旦那様。どうされたんですか!」


 店の軒先で打ち水をしていると、人力車から降りてきたのは麗だった。

 

「少し時間ができたから、月の働いている姿を見に来た」

「ご覧の通りです」


 袖を捲り、たすきをかけている上に、両手には冷水の入った桶と柄杓。

 確実に、貴族へ嫁入りしたようには見えない姿である。


「ずっと眺めていたが、活き活きとしていてとてもよい」

「ずっと!?」


 麗は口元に拳を当てたまま、くすくすと笑う。


「月」

「……はい」


 わざと月が少しむくれてみせると、麗は、懐から何かを取り出した。

 そのまま月の髪に何かを挿す。


「うん、よく似合う」

「わたしからはまったく見えないのですが」


 すると麗は再び懐から何かを取り出す。

 手鏡で、月の顔を映してくれる。


 ――見慣れない銀色の簪の先に、見たことのある花の、飾り。


 月は麗を見上げた。


「これはもしかして、向日葵ですか」

「ご名答。取引先にたまたま隣国の行商が来ていて、見せてもらった中にあった」


 向日葵から伸びた細い鎖の先には、小さくても眩い宝石が揺れている。


金剛石ダイアモンドだよ」

「そ、それは、とんでもなく高価な品物ということでは」


 麗は微笑んだまま、唇の前で人差し指を立てた。


「今日も頑張って働いておいで。私の可愛い可愛い月」


 月は照れながらも頷いた。


「麗様も、お気をつけて」


 頷くと、麗は人力車に乗り込んだ。

 本当に束の間だけ立ち寄ってくれたようだった。


(一生、敵う気がしないなぁ)


 その姿は月には煌めいて映った。最愛の夫の背中へ向けて、月は声を張る。


「行ってらっしゃいませ!」


  




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

氷屋へ嫁ぐことになりましたが、旦那様は冷たいどころか溺愛してきます。 shinobu | 偲 凪生 @heartrium

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ