第6話
★
……何かが月の髪の毛に触れている。
(しまった。いつの間にか、眠ってしまっていた……)
外から差し込む光は橙色に変わっていた。
昼間より気温は下がってきているものの、まだぬるい空気が漂っている。
(……旦那様!)
慌てて跳び起きようとしたが、それは叶わなかった。
なんと
「起きたか」
「麗様。た、大変申し訳ございません!」
布団から飛び出ようとした月だったが、今度は麗の手が背中へと伸びてきた。
「いい。わたしが寝かせたのだ」
「!?」
ぎゅ、と抱きしめられてしまう。
「おおお、お体の調子は……」
「万全ではないが、鱗は消えた」
ほら、と麗が腕を見せてくる。
言葉通り、皮膚は確かに人間のものへと戻っていた。声も平常に戻っている。
「よかったです」
「心配をかけてすまなかった。ただ、まだ起き上がるには万全ではない。しばらくこのままいてくれるか」
月は口ごもる。
それを不安に感じたのか、麗の口調が強くなる。
「約束を
「わたしのことは気になさらないでください。お出かけもしたかったですが、それ以上に、休息を取っていただきたかったんですから」
麗の胸のなかで月は答える。
「夫婦となったのですから、お出かけはこれからいつでも何回でもできます」
「……そうだな。秋になったら改めて結婚の儀を行おう。きみが私の妻であることを、きちんと世に知らしめたい。きみの家族も招いて、盛大な披露宴を」
月の実父も義母も、何回か甘味処へ足を運んでくれている。
麗のあらぬ誤解は無事に解けていた。
「きみと、きみを取り巻くすべてを、一生かけて守り抜き、愛したい」
月は麗を見上げて応える。
「わたしも、麗様のことを愛しています」
そしてふたりは深く口づけを交わす。
まだ初夜すらも迎えていないふたりである。初めての接吻に、月は、瞳を潤ませた。
「あ、あの、麗様……?」
「私だって男だ。理性もあれば、欲望もある。きみの心の準備ができるまで、いつまでも待つつもりだ」
麗の眉間には皺が寄っていた。
あまりにも神妙な面持ちに、月はふっと微笑みを浮かべる。
それから月は麗の両頬を手で包み込んだ。
「麗様のことをずっとかっこいいと思ってきましたが、今はじめて、可愛らしいと思ってしまいました」
今度は己から、麗へと口づける。
「夫婦となったのですから、おそろしいことなんてありません。だって、麗様が守ってくださるのでしょう?」
「いいのか?」
「勿論です。どうか望みを叶えてください。あなたの望みは、わたしの望みでもあります」
とはいえ、月の手は震えていた。
拒まなければ今から何が始まるというのか。いくら
(受け入れたい。麗様のすべてを)
ただ、恐怖よりも覚悟よりも上回るのは、麗への渇望だった。
「月……」
堰を切ったように麗の熱が月を侵食していく。
体の奥深くから指先まで熱に浮かされる。ふたりを止めるものは何もない。
蕾は膨らみどんどん花開く。
「愛してる、月……」
うわごとのように麗が繰り返す。応じるように月もまた、麗を求める。一度求めてしまえば、いくら満たされてもすぐに足りなくなってしまう。
「麗様。わたしも、愛しています……」
それが愛なのだと、月はその日、初めて知ることとなった。
★
数日後。
麗は体調不良からすっかりと回復して、公務に戻っていた。
月も月で、甘味処『
月としては、どんどん甘味処を大きくしていきたいと考えている。
その一方で、実家からとあるものを取り寄せていた。
「おかえりなさいませ、麗様」
月は大きな花瓶を床の間へと置く。
大ぶりの花。茶色い花の周りを黄色い花びらが見事に彩っている。
「それは?」
「隣国に咲く、向日葵という花です」
実際は畑で無数に咲き誇っているのだが、その大きさ故に一輪でもなかなか見応えがある。
「見事だな」
「花も立派ですが、種からは油を搾ることができます。隣国の産業のひとつですね」
「あぁ、なるほど。そう言われてみれば聞いたことがある」
麗は向日葵をまじまじと見つめた。
月は麗の隣に立つ。
「なかなかお出かけはできなくても、こうして、隣国のものを眺めたら、旅行している気分になれるかなと思いまして」
(できないから諦めるのではなくて、どんどん、考えを広げていけたらいい)
月だって元々は家業を継ぐつもりだったのだ。
それが、こうして貴族のもとへ嫁いで、甘味処を営むことになった。
人生というのはどう転がるか分からない。
実に不思議なものである。
「たくさん話をしましょう。これまでのことも、これからのことも」
「それならば、もっと近くに来ておくれ」
「えぇと、それは」
(照れるので)
「月」
言葉を飲み込んだ月に対して、麗の口調は強い。
「お待ちください、旦那様。夕餉の支度ができていますので、まずはお召し上がりください」
「まずは? ということは、夕餉の後は、いいのか?」
「そ、それは」
「約束したぞ?」
麗が悪戯を思いついた子どものように片目を瞑ってくる。
月は赤面して、口をぱくぱくとさせるのみ。
(参りました。というか、最初から勝てたことはないけれど……)
★
夏も真っ盛り。
今日も空は青く晴れ渡っている。雲ひとつない、眩しいほどの青空だ。
汗が流れるのを感じながら月は思う。こんなに暑いのに、蝉はどうしてあんなに激しく鳴けるのだろう。
さらには、もし月がふつうの氷だったら、あっという間に融けてしまうに違いないとも。
(暑い……)
空を見上げて目を細める。
ということは、甘味処にはたくさんの客が来店するということでもある。
(よしっ。いつも以上に気合を入れて働こう)
月は
「いらっしゃいませ、開店までもう少しお待ちください。って、旦那様。どうされたんですか!」
店の軒先で打ち水をしていると、人力車から降りてきたのは麗だった。
「少し時間ができたから、月の働いている姿を見に来た」
「ご覧の通りです」
袖を捲り、
確実に、貴族へ嫁入りしたようには見えない姿である。
「ずっと眺めていたが、活き活きとしていてとてもよい」
「ずっと!?」
麗は口元に拳を当てたまま、くすくすと笑う。
「月」
「……はい」
わざと月が少しむくれてみせると、麗は、懐から何かを取り出した。
そのまま月の髪に何かを挿す。
「うん、よく似合う」
「わたしからはまったく見えないのですが」
すると麗は再び懐から何かを取り出す。
手鏡で、月の顔を映してくれる。
――見慣れない銀色の簪の先に、見たことのある花の、飾り。
月は麗を見上げた。
「これはもしかして、向日葵ですか」
「ご名答。取引先にたまたま隣国の行商が来ていて、見せてもらった中にあった」
向日葵から伸びた細い鎖の先には、小さくても眩い宝石が揺れている。
「
「そ、それは、とんでもなく高価な品物ということでは」
麗は微笑んだまま、唇の前で人差し指を立てた。
「今日も頑張って働いておいで。私の可愛い可愛い月」
月は照れながらも頷いた。
「麗様も、お気をつけて」
頷くと、麗は人力車に乗り込んだ。
本当に束の間だけ立ち寄ってくれたようだった。
(一生、敵う気がしないなぁ)
その姿は月には煌めいて映った。最愛の夫の背中へ向けて、月は声を張る。
「行ってらっしゃいませ!」
氷屋へ嫁ぐことになりましたが、旦那様は冷たいどころか溺愛してきます。 shinobu | 偲 凪生 @heartrium
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