第5話




 は今日も満足そうに微笑む。

 目尻の皺が日増しに深くなっているのは気の所為ではないだろう。

 笑顔の理由は、めったに私用で外出しないあきらが久しぶりの休日に外出するからだった。


「ほんとうにつき様は青色が似合いますこと。最初の振袖も青でしたね。麗様の髪色とお揃いで、お似合いですわ」


 現在、るゐは目いっぱい月を着飾ろうと張り切っているのである。

 外出用の少し洒落た装いを、ああでもない、こうでもない、と着せ替え人形のごとく提案してくる。

 月は若干その勢いに押されながらも、なんとか着るものを決めた。


(るゐさん、本当に楽しそうで、嬉しそう)


 子どもの頃の麗はどうやら日光に弱く、すぐ体調を崩していたらしい。

 るゐが月へ対してそんな説明をしたとき、麗はるゐに向かっていつまで子ども扱いするのだと不満そうにしていた。


「……あの、るゐさん」

「なんでしょう?」


 るゐが簪の箱から顔を上げた。


(るゐさんは知っているんだろうか。旦那様が、わたしとの婚約を決めた理由を)


「いえ、何でもありません」


(いけない。こういうのは、直接本人へ伺うべきだわ)


 月は考えを改め、咳払いをひとつ。無理やり話を変える。


「ところで、旦那様は、支度に手間どっていらっしゃるのでしょうか?」

「そうですね。少し遅いような気がしますので、ちょっと見てきます」

「あっ。それなら、わたしも行きます」


 ふたりは揃って最奥にある麗の部屋へと向かう。

 なお、月は未だに麗の部屋へ入ったことはない。招かれることはあったものの、麗の目の下に隈を感じて、やんわりと断ってきたのだ。


(……今日はるゐさんもいるから、いいよね)


 何かを自らへと言い聞かせ、月はるゐの後ろを静かについて行く。


「麗様、入ってよろしいですか?」


 るゐが問いかけるも、返事がない。ふたりは顔を見合わせて首を傾げた。


「麗様ー? 入りますよ。裸だったらごめんなさいね」

「る、るゐさんっ!?」


 大胆な行動。間違いなく麗の幼少期を知る、るゐにしかできないことだろう。

 るゐはふすまに手をかけると、一切の躊躇いなく、勢いよく開いた。そして、るゐは慌てて部屋へ飛び込んだ。


「麗様っ!」


 麗は畳の上に倒れていた。息苦しそうに胸の辺りを押さえている。瞳は閉じたまま、眉間に皺が寄っていた。傍らには羽織が無造作に落ちている。


「旦那様!」


 月もなりふり構ってはいられなかった。入室して麗へ駆け寄ると両膝をつく。

 るゐが、失礼しますと言って麗の袖をまくった。


(えっ)


 月は目を見開いた。

 麗の腕の一部に、鱗のような模様が浮かび上がっていた。さらにはきらきらと静かな光を帯びている。


(まるで人間の皮膚ではなく、本当に、鱗……)


「ただの疲労ですね。布団を敷いて寝かせましょう。月様、手伝ってもらえますか」

「は、はい」


 ところが、るゐは一切動揺していない。淡々と対処している。

 月は両手で頬を叩き、気を取り直す。


(ということは驚くべき事象ではない。しっかりするのよ、月)


 立ち上がると、るゐの指示に従って布団を敷き、手伝って麗をそこへ寝かせた。


「水枕を持ってくるので、麗様を見ててください」

「はい。分かりました」


 ばたばたとるゐが駆けて行く。

 麗は、苦しそうに時々体を動かしている。


「旦那様……」


 やがてうっすらと瞳を開けると、月の姿を認識したようだった。


「月か。……すまない」


 口から出たのは、謝罪の言葉。

 出かけるという約束に対してだと判断して、月は首を横に振った。


「いえ、やはり今日は静養なさってください。お出かけはいつでもできますから」

「そうじゃ、ない」


 麗の声が僅かに掠れている。疲労の色が滲み出ているだけではないことは明らかだった。


「驚いただろう」

「……と、いいますと?」


 鱗模様のことを示しているのは月にも理解できた。しかし、わざと首を傾げてとぼけてみせる。


「……申し訳ない。本来ならば最初に話しておくべき事柄をぎりぎりまで黙っていた」


 麗が腕を上げる。

 はっきりと、鱗模様が煌めいていた。


 麗の説明によると。

 この模様は本物の鱗であり、夏越家の一族が氷龍の子孫である証。

 普段は制御しているため現れないが、数年に一度、体調を崩すと鱗が皮膚に出てきてしまうのだという。


「気味が悪いと感じただろう」

「驚きましたけれど、気味悪さは感じませんでしたよ」


 月は、麗の手のひらへ、そっと自らの手のひらを重ねた。

 そのまま、ゆっくりと指を動かして。


 麗の腕の、鱗に触れる。


「硬くて、冷たいですね。まるで蛇のような――」


 そのとき、月のなかに、流れ込むようにして記憶が蘇ってきた。


(蛇。って、まさか)


「――もしかして、あのとき助けた蛇が」


 幼少の頃。

 たまたま出逢った、薄水色の鱗が輝く蛇の姿を、月はまざまざと思い出していた。







 それはまだ月の実母が存命だった頃のことだ。


 母は月を産んでから病気がちとなり、床に臥せることが多くなったらしい。

 父の計らいにより、自然の豊かな地に別邸を与えられ、月と母親はそこで生活していた。


 月はよく、家の近くにある森で木の実や虫の採集研究に勤しんでいた。

 おてんばといえばまだ聞こえはいいが、好奇心旺盛な少女は、泥にまみれながら自然と戯れていた。痛い目を見ることもあったがそれ以上に森が好きだった。


「あまり遠くまで行ってはいけませんよ」

「はい! かあさま」


 行ってきます、と大声で宣言して家から飛び出して行く。

 その瞬間に母親との約束は頭から消え去っていた。


 その年は梅雨が長かった。

 久しぶりの晴天。森で遊ぶには絶好の機会だ。


 土のにおいはむせ返るほど強く、踏みしめる大地は重たい。

 生い茂る葉の隙間から零れる光。見上げる空は青く、生命の息吹はあちらこちらから感じられていた。

 子どもの背丈でしか入り込めない枝と枝の隙間を縫うように歩く。それだけで、立派な冒険だ。


「ふふっ。今日は何を見つけられるかな」


 地面がぬかるみ、空気もじっとりと湿っている。しかし、それは怯む理由にはならない。

 地面に落ちていた木の枝を拾うと、鼻歌混じりでどんどん森の奥へと進んで行く。


 そこで月は遭遇した。美しい蛇に。


「えっ……蛇……?」


 その蛇は、一帯で最も太い幹に結ばれていた。

 薄水色の鱗が露に濡れて輝いている。蛇というよりは小さな龍のようにも感じられて、その美しさに月は息を呑む。


 ただ、蛇はまるで人間のように、途方に暮れているようにも見えた。


 いつからそこに囚われていたのか。

 少なくとも前にここを通ったときにはなかったはずだ、と月は想像を巡らす。


(人間の悪戯だとしたらひどすぎる……)


「待っててね。今、助けるから!」


 鼻息荒く、月は木に近づいた。

 昆虫や爬虫類を触ることに抵抗のない子どもだったため、何のためらいもなく蛇に触れる。

 見た目ほどきつくは結ばれていなかったので、すぐに解くことができた。


 するり、と蛇は地面に降りた。

 月はしゃがみ込み、蛇と目線を合わせる。


「おまえ、瞳が蒼玉サファイアみたいね。とってもきれい」


 にこっ、と月は微笑む。


「もう人里に出てきちゃだめだよー」


 逃がしてあげたというのに、蛇は、月を何度も振り返りながら去って行った。

 後でその話を母親へしたところ、蛇が毒を持っていて咬んできたらどうするつもりだったのだと叱られた。

 しかし何故だか大丈夫だという確信が月にはあった。


(きっと、あれは神様の遣いなのだわ。だって、瞳がきれいだったんだもの)







「そうだ。子どもの頃は体が弱くて、度々、あの姿になってしまっていた」


(つまり、この婚約は)


 記憶と同時に、すとん、と腹落ちする。麗のこれまでの態度の意味を、理解する。


(蛇ならぬ、龍の恩返し?)


 まさかすぎる話ではあった。

 しかし、月の推測を裏付けるように麗は掠れた声で告げる。


「記憶が曖昧だったため、誰に助けてもらえたのか分からないまま過ごしてきた。それでも些細な手掛かりを元に、ずっと、命の恩人を探してきた」

「よ、よくわたしだと分かりましたね……」


 脱帽する、とはまさにこのことか。

 月が幼少期に過ごした藤堂家別邸のことは、調べても中々分からなかっただろう。


「しかし、ここまでかかってしまった」


 麗が腕を裏返した。

 月の指先が、鱗から離れる。そのまま、麗は指を絡めてきた。


「!」

「ずっときみに恋していたから、諦めたくはなかった」


 にわかに月の心臓は早鐘を打つ。


「ようやく出逢えた、運命の人」


 運命の人。

 それはなんて重たく、甘美な響きであることか……。


「月。ひとつだけ、頼みがある」


 声が、甘い。

 熱で浮かされているのだろうか。


(鼓動が、うるさい。胸が詰まって、息苦しい……)


 声を出すのにも力がいる。なるべく平静を装いたかったが、それは無駄な試みでもあった。


「な、何でしょう」

「名前を呼んでくれないか」


 ……ぎゅ。

 麗が、絡めた指を曲げてくる。


 月は、じわり、と心の奥が疼くような感覚に襲われる。

 なんとか正気を保たなければと本能が告げていた。必死に、唇を動かす。


「あ、麗、様」


 いや、却って逆効果だったかもしれない。身の内から生じた情を帯びる声は、どうしても上ずってしまう。


「麗様。わたしも、あなたのことが好きです」


 名前を呼ぶ度に、自分のなかに知らない自分が湧きあがってくる。


「好きです」


 麗は満足そうに口角を上げると、そのまま、眠りに落ちてしまった。

 るゐが戻ってきても、月はずっと、麗の傍に付き添っていた。

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