第4話

「いらっしゃいませー!」


 割烹着を着たつきは、甘味処『涼月りょうげつ』で働いていた。

 最初はあきらからもからも反対された。

 しかしゲラァレを麗へ教えたのは月なのだ。月だからこそ分かることだってある。

 何よりも、外で働きたいと主張した結果、珍しく麗の方が折れた。

 ただ、月は店長ではない。立場としては一従業員である。


(だって屋敷で静かに旦那様を待つより、割烹着を着て体を動かしている方が性に合うんだもの)


 夏越家へ嫁いだことにより実家の跡を継ぐことはなくなったが、商売に携わってみたいという熱い思いは、まだ月のなかに確かにあるのだ。


 一緒に働く給仕のすいが大声で月を呼んだ。


「つ、月様ぁー!」


 おかっぱ頭の好はいつも元気ではつらつとしている。しかし月を呼ぶ声色からして、困っているようだった。

 月と好は出会ってすぐに気が合った。ただ、同い年だし共に働く仲間だからと言っているのに、夏越家当主の妻ということで敬称を付けられていることには少々不満を抱いている。


 好が月を呼んだ理由を察し、月は、わざとらしく溜め息をついた。


「えーと、好さん。今日こそ誘うって言ってましたよね?」

「そ、それは、そうなんですけど……」


 好の語尾が儚く消えていく。

 理由は単純明白。好は恋をしているのだ。

 お相手は『涼月』の常連客である、小説家の小鳥遊たかなし。すらりと背が高くて、黒縁眼鏡をかけている。

 彼は今日も甘味処の隅で、ちょうど、ゲラァレを頼んだところだった。


(わたしからすれば、小鳥遊さんも好さんへ恋しているように見えるのに)


 月は首を傾げる。

 しかし好へ何回言っても信じてもらえない。

 小鳥遊が忙しいなかでも笑顔を絶やさない好へ、熱のこもった視線を向けているということを。近頃は忙しい時間を避けて来店することが多いことを。


 今、店内に客は小鳥遊ともう一人だけだ。

 月は決意して、言葉に力を込める。


「分かりました、好さん。一緒に行きましょう。そしてわたしは好さんを置き去りにします」

「おおお、置き去り?!」


 月は好の手首を無理やり掴んだ。

 そして勢いよく小鳥遊の席へ進み、好の後ろへまわると両肩へ手を置いた。


「小鳥遊さん、本日もご来店ありがとうございます!」

「あああ、ありがとうございます」


 つられるように好が口を開くも、既にしどろもどろだ。

 小鳥遊が顔を上げて、好へ視線を合わせた。


(やっぱり、小鳥遊さんは好さんのことしか見ていない)


 確信した月は言葉を続ける。


「小鳥遊さん。ところで、本日のこの後のご予定はいかがですか? ちなみに、好さんはあと四半時三十分もすれば今日の仕事はおしまいです」

「そう、ですか」


 何かを思案した後、ゆっくりと小鳥遊が口を開いた。


(初めて声を聞いたけれど、旦那様よりずっと低い声をしているのね)


 小鳥遊が何か考えるように口元へ手を当てる。


「……この後は取材が入っているのですが……」

「ででで、ですよね。売れっ子作家さんはお忙しいですよね!」

「取材後は空いています。よかったら、牛鍋屋にでも行きませんか」

「……はい」


(しっかりとふたりだけの世界ができている。あとは詳細を詰めるだけね)


 重要任務、完了。

 くるりと踵を返して、月は厨房へ戻る。皿を洗いながら遠目に眺めていると、どうやらうまくいきそうな雰囲気に映った。


(よしよし。結果がどうだったかは、また次の出勤日に尋ねてみよう)


 洗い終えた皿を清潔な布巾で磨き上げる。


(……お出かけ、か。いいなぁ。って、今わたしったら何を)


 不意に手を止めてしまう。

 麗は相変わらず多忙で、なんとか帰宅しても夕食後には出かけてしまう。夜を共にしたことも、ない。

 そもそもどうして月を婚約者として迎え入れたのか、まだ訊けていない。


(それなのに、出てきてしまっている、欲が。もっと一緒にいたいとか、もっと旦那様のことを知りたいとか……)


 ふるふると首を横に振り、月は心のもやを晴らそうと努めるのだった。







「月様。麗様の仕事風景をご覧になってみたくはありませんか?」


 突然るゐが提案してきて、月は戸惑った。


「見たいとは思いますが……邪魔になりませんか」

「問題ありません。宮中行事のひとつに、手伝いとして参加する。ただそれだけのことですから」


 宮中行事ということは、多くの人が関わる内容だと月は推察する。

 どうやらるゐは毎年手伝いに行っているらしい。


「ご安心ください。表立って行動することはありません。あくまでも裏方に徹しますので、麗様に見つかることはございません。いかがでしょう」

「それならば、是非」


 麗がどれだけ多忙なのか、実際にこの目で見てみたい。

 生来の好奇心も相まって月はるゐの誘いに乗ることにした。




 四季省天夏庁。

 それが麗の職場だ。

 首都の中心、官公庁街のさらに一等地に四季省は位置する。煉瓦造りの建物は威風堂々としており、ある意味、要塞のようにも見える。


「こ、ここが……? あっ、待ってください、るゐさん!」

「行きますよ」

「お、置いて行かないでください」


 外観に怖気づく月をよそに、るゐはどんどん進んで行く。


 るゐもるゐで、月が誘いを断ることなど想定になかったのだろう。制服を用意してくれていたので、早速月はそれに袖を通す。

 小袖とも袴とも違う、隣国の衣服ワンピースを模したような装いだ。腰から足元にかけて膨らむ裾。その上から割烹着ではなく白いエプロンを被る。三角巾の代わりには、ヘッドドレス。

 月は、眉を下げる。


「おかしく……ありませんか……?」

「ちっともおかしくありません。とてもかわいらしいです。さぁ、参りましょう」


 なお、るゐも同じ格好に着替えている。

 そしてふたりが向かったのは調理室。


「久しぶりですねぇ、るゐさん」

「今年もよろしくお願いしますね。こちら、月様です。月様、こちらは料理長です」

「月と申します。今日はよろしくお願いします」


 月は深く頭を下げた。


「あらあらまぁまぁ。夏越様からお話は伺っておりますよ。後でわたくしめにもゲラァレの作り方を教えてくださいな」

「は、はい」

「では早速始めましょうか」


 るゐの説明によると、今日は賓客をもてなすために、普段よりも調理人が多く必要となるらしい。

 しかしもてなす相手は高貴な身分である。一般人では対応ができない。ということで、るゐは毎年手伝いに来ているのだという。


 甘味処で鍛えているだけあって月の動きは的確だった。

 あっという間に必要な作業を終えての休憩時間。

 月たちが持参したゲラァレを口に運んだ料理長は満足そうに微笑んだ。


「これがゲラァレですか。何十年と料理人をしておりますが、初めての食感です」

「お口に合いましたでしょうか」

「大変美味しいです。食堂で出す昼食に是非とも加えたいですね。夏越様もお喜びになることでしょう」


「私が何だって?」


「きゃ!」


 月が驚いて振り返ると、そこには麗が立っていた。

 麗もまた普段の装いとは違ってフロックコート姿だ。


(和装とは違う衣装も、本当にお似合い……)


 一瞬月は見惚れてしまったものの、視線が合うと、麗が目を見張った。


「月? 何故ここに? それに、その恰好は」

「お似合いでしょう?」

「……るゐ。お前の仕業か」


 麗が額に手を遣る。


(いけない。るゐさんが怒られるようなことになってはいけないわ)


 次の言葉が紡がれる前に、月は一息に主張した。


「すみません。旦那様の職場がどのような場所か、見てみたかったのです」

「とはいえ休みの日までこうやって働くことはないだろう」


「お似合いじゃないですか。おふたりとも、働き詰めで」


 口を挟んできたのは料理長だ。

 麗は少しむっとしたが、すぐにとりなす。


「そんなに見てみたければ案内しよう」

「旦那様こそお仕事中ではないのですか」

「今は休み時間だ。少しなら問題ない。行こうか」


 麗が月の手を取る。


「だ、旦那様っ」


 絨毯の敷かれた廊下は留学中でもほとんど歩いたことがない。


「お疲れさまです!」


 すれ違う人々は口々に麗へと挨拶してくる。その態度だけで、麗が職場の人々から並々ならぬ信頼を寄せられているのは明らかだった。


「毎年るゐが手伝いに来てくれるから、労おうと思って顔を見せたら。まさか、月がいるとは」

「……すみません」

「謝る必要はない。先ほどは言いそびれたが」


 麗は立ち止まると、月と向かい合った。


「その装いも似合っている。どんな格好でも可愛らしいな、月は」


 破顔され、赤面したのは月の方だった。







 甘味処が軌道に乗ってきたある日のこと。

 珍しく太陽が沈む前に帰ってきた麗は顔を綻ばせた。


「久しぶりに丸一日休みを取れそうなんだ。何かしたいことはあるかい」

「ゆっくり休んでください」


 月は即答した。

 麗がまともに睡眠を取れているとは到底思えない。主人のことを気遣ってこその発言だったが、麗としては不満だったようで口を尖らせた。


「月、私が問うているのは、きみのやりたいことだよ? いや、正しくは、きみが私としたいことだ」

「わたしは旦那様のお体が心配なんです。ゆっくりと過ごして、英気を養っていただければ。それがわたしの望みです」

「分かった。それならば街へ行こうか。月に似合いそうな装飾品を選んであげよう。佩物おんものでもいいな」

「えぇと、旦那様?」


 お互い、会話がかみ合っていない。

 しかしこうなると麗は決して譲らないのだ。短い付き合いではあるものの、月にも理解できていた。


(旦那様のお気持ちはものすごく嬉しいけれど、休んでほしいのも本心。すぐに決めて帰ってくればいいかな)


「分かりました。是非とも参りましょう」

「流行の店を幾つか押さえておこう。楽しみができたおかげで、仕事にも精が出そうだ」

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