第3話
早速、食事後。
「寒天、というのか。海藻から出来るとは到底思えない見た目だな」
麗が物珍しそうに、麗が粉寒天の紙袋を覗き込む。塩とも砂糖とも違うさらさらとした半透明粉は、わずかな明かりを受けて静かに煌めいていた。
月がるゐに頼んで用意してもらったものこそ、粉寒天だった。
外国の食材は希少で高価だ。るゐも寒天というものの存在を知らなかったが、月の提案を受けて町外れの輸入食品店まで、二つ返事で買いに行ってくれた。
「不思議ですよね。海に接していないこの国と違って、隣国は海産物が豊富なんです」
「いつか行ってみたいものだ。そのときは案内をしてくれるか」
「勿論ですとも」
月は微笑む。
三年間過ごした隣国は、ある意味第二の故郷でもある。
暮らしていたのは海辺の都市。開放的な雰囲気があり、多種多様な価値観を受け入れる余裕があった。
月はそこで多くを学び、また、語らい合えることのできる友人ができた。
(旦那様を案内することができたら、楽しそう)
月は密かに、麗との旅行を空想する。
尤も多忙な麗が長期間この国を空けるのは難しいだろうとも、考えつつ。
「それでは、
「あぁ、頼む」
ゲラァレ。基本の材料は粉寒天、水、砂糖。
そこへ果汁や色素を加えて味や見た目を変化させる。
手順としては、まず、鍋に液体と粉寒天を入れて熱する。
沸騰後、粉寒天がしっかりと溶けたところで、器へ流し入れる。
粗熱が取れたら
月は説明しながら実際に調理をして見せた。
炊いたことで、土間いっぱいに果汁の甘い香りが広がる。
激務で疲れている筈なのに、麗は手際よくゲラァレの試作をしていく。そして氷匣のおかげで、あっという間にゲラァレは固まった。
完成品を皿の上で揺らしながら、麗は満足そうに微笑んだ。
「ゲラァレ。これは、とても面白い。人々へ提供できるようになれば喜ばれると思わないか?」
どうやら麗は氷に似た隣国の水菓子へ商機を見出したようだ。
(流石、氷匣を発明して普及させた方だけある。隣国に興味を持たれていることといい、旦那様がわたしへ求めているのは、ひょっとして留学で得た知識なのかしら)
仮説を立てる月。
それでもずっと立ちっぱなしで竃へ向かう麗に不安を覚え、尋ねてみた。
「旦那様。休まなくてよいのですか?」
「問題ない」
(……絶対に、そんなことはない筈)
「信じていないな?」
「どうして分かったんですか」
「顔に書いてある」
水へ粉寒天を振り入れ溶かす手を止めて、麗が月の頬に触れた。
「月と話しているだけでもどんどん力が漲ってくるのだよ。抱きしめたら、もっと元気になれるかもしれない」
「だ、旦那様? 今、何て?!」
驚いた月の声は裏返ってしまう。
「……駄目か?」
突然、月が仔犬のように機嫌を窺ってくる。
わざと背中を丸めて、上目遣いで月を見た。しゅっとした格好よさとは真逆の可愛らしさ、あざとさという表現がぴったりだ。
(そ、そんな表情もするなんて反則です……!)
心臓が早鐘を打つとは正にこのことか。
じっと麗は蒼玉の瞳で月を見つめている。月が肯定するまで麗は待ち続けるに違いない。
「月。つ、き?」
「……駄目じゃ、ないです……」
そこへ、るゐの大声が響いた。
「あらあらまぁまぁ! 五日ぶりにお帰りになられたというのに、寝室ではなく土間にいらっしゃるなんてどういうことですか?」
「しっ、……」
(るゐさん、いきなり何てことを!)
いくら婚約中の身とはいえ、正式に結婚するまでは純潔であるべきなのだ。そう教えられてきた月は、恥ずかしさで顔が熱くなってくる。
呆れたように麗が溜め息を吐き出した。
「るゐ。月が困っているだろう」
「そういう麗様だって、頬が朱に染まってますよ」
「るゐ!」
「はいはい。邪魔者はさっさと退散しますね」
言いたいことだけ言って、どたどたと、嵐のようにるゐは去って行った。
「……やれやれ」
ふぅ、と麗が溜め息を吐き出し、薄水色の髪の毛をかき上げた。ぱさり、と降りる髪の毛の束は、粉寒天よりも眩しい光を放っている。
「続きをしてもいいか?」
「あっ、はい」
動揺していた月は、麗の示すことはゲラァレ作りだと信じきっていた。
ところが違った。麗は月の背へ両腕を回して、引き寄せ、ぎゅっと抱きしめてくる。見た目とは裏腹にしっかりとした胸板に受け止められ、月はすっぽりと収まってしまった。
「だだだ、旦那様!?」
月の頭の上で、すんすんと麗が鼻を動かす。
「甘辛く炊いた鶏肉と同じにおいがする」
しみじみと呟かれる。それはそうだ。食事を作ったのは、月なのだ。
「美味しい香りだ。月の本当の香りも、きっと心地いいのだろうな」
「……!」
抱きしめられているから耐えているものの、そんなことを耳元で囁かれて、自力で立っていられる自信がない。今麗からいきなり腕を離されたら、確実に腰が抜けて座り込んでしまう。事実、足は震えていた。
(……ずるい)
男性への免疫など皆無である月は、そう思うのがやっとだった。
まだ、二回しか会っていないというのに。
★
やがて形ばかりの式を執り行い、ふたりは正式な夫婦となった。
さらに、麗はゲラァレを世に広めようと決めたようで、あれよあれよという間に、ゲラァレ専門の甘味処を作ることになった。
使う果物は時期によって変える。今は檸檬、桃、梨。
それから、月が麗へ向けて作った、無色透明なものに食用花を閉じ込めたもの。味つけは砂糖のみだが、目で楽しめるところを売りにした。
店舗は屋敷からすぐの長屋だ。ちょうど空き家になっていたということで、麗が手続きをしてくれた。
ゲラァレを保管する氷匣は特大で特注品。さらに、店内の中央に置くことで、目でも涼を楽しむことができる。
氷匣を敢えて店内に配置するというのは月の提案だ。
「氷匣は夏越家の象徴です。目立たせることで、人々へ訴求します。氷匣がもっと普及すれば、食事情はさらに改善します!」
そのように月は訴え、麗は月の意見を尊重した。
(せっかく商売を勉強していたんだもの。活かせることは活かしたい)
父から『夫となる者の後ろを歩け』などと言われたことはすっかり頭の隅へと追いやられていた。
ゲラァレの試作、店舗内装の総指揮、器などの買い付け。
さらには従業員の採用活動や教育、帳簿の準備まで、主体的に行う。
麗も麗で多忙を極めていたので、ふたりが顔を合わせるのは食事時間くらいだった。
いよいよ開店を迎えた甘味処。店名は、『
連日の蒸し暑さに、目でも口でも涼を楽しめる色とりどりのゲラァレはすぐに人気を博した。
何といっても、夏越家による新商品。話題と涼を求めて、甘味処には連日行列ができている。月の目論見通り、店内の氷匣は人目を引いた。
今やゲラァレは氷匣と並ぶ知名度となり、夏越家現当主の地位をますます確固たるものにするだけではなく、月のことも商才のある妻だと知れ渡るようになっていた。
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