第2話




 つき夏越なごし家へ来て五日ほど経った。

 一方、その期間、月はあきらの姿を屋敷内で目にすることがなかった。

 曰く、毎年今の時期は庁舎に泊まり込みで働いているらしい。おそらく月がやって来た日は、無理やり時間を作って帰宅したのだろう。


 主人のいない屋敷はひっそりとしていて、虫の声だけがやたらに響く。

 住み込みはるゐだけであり、他の使用人たちは通いで屋敷の手入れを行っているから、というのもある。

 使用人たちは皆、月に対してよくしてくれる。しかし会話の相手も乏しく、初めのうちは外国の本を読んで過ごしていた。ただ実家から持ってきたものは少なく、あっという間に読み終えてしまった。


(そんな多忙な時期にわたしを屋敷へ招いてくださっただなんて、却って申し訳ないばかりだわ)


 月のお気に入りの場所は、庭を一望できる縁側。藤堂家のそれとは違って古式庭園として整備されている。るゐから、枯山水と呼ぶのだと教えてもらった。


「そうだ!」

 

 何かしていないと落ち着かない。そう考えた月が選んだのは、屋敷の掃除だった。

 袖をまくり、襷をかける。雑巾の水をしっかりと絞り、両膝を床につけ腰を上げた。


「せーの、っ」


 長い廊下を一直線に駆け抜ける。

 当然ながら一往復で拭ききれる幅ではない。元来た道を戻ろうと、再び片膝をつき前傾姿勢を取ったところで悲鳴が聞こえてきた。 


「つつつ、月様ぁ!?」


 どこからともなくすっ飛んできたのはるゐだった。

 顔に動揺の色が浮かんでいる。今にも月の雑巾を奪い取りそうな形相でもあった。


「何をなさっているんですか!」

「見ての通り、廊下拭きです」


 月はえへん、とるゐへ胸を張ってみせる。


「なんてことを。この屋敷の奥様となる御方なのですから、掃除なんてなさらなくても」

「手持ち無沙汰になるのが耐えられない性分なんです」


 月は、掃除中の使用人に頼み込み、桶と雑巾を用意してもらったのだと説明した。

 しばし固まった後、るゐは天を仰いだ。


「……なんという」

「今日こそ旦那様は帰ってこられますよね。料理もさせていただきたいのですが、よいでしょうか」

「も、勿論ですけれど……」


 初めは狼狽うろたえていたるゐだったが、ふと、何かを思いついたように両頬へ手を当てた。


「そうですね。麗様もきっとお喜びになると思いますわ」

「因みに、旦那様のお好きな食べ物はありますか?」

「鶏肉を炊いた物は好んで召し上がります」

「では、味付けを教えてもらえますか?」


 料理は嫌いではない。せっかく嫁ぐことになったのだから、主人となる者の好物は押さえておきたいところだ。


「承知いたしました。それと、麗様は甘党なので、甘味もお好きです」

「甘味、ですか」


(それならば、作ってみたいものがある)


 閃いた月は瞳を輝かせながら、るゐに向かって両手を合わせた。


「るゐさん。ひとつお願いがあるのですが……」







「ようやく……ようやく帰れた……」

「お帰りなさい、旦那様」


 そしてついに、麗が帰宅した。

 どことなくやつれて見えるのは気のせいだろうか。ただ、その美貌が揺らぐことはない。

 月は玄関先で出迎え、差し出された羽織と、革製の鞄を両手で受け取る。ところが鞄はずっしりと重たく、月は一瞬瞳を見開いた。

 月がバランスを崩しかけたところを麗が支えて、さりげなく鞄を持ち直した。


「誓ったにも関わらず、すぐ放ってしまうことになり申し訳ない。不自由がたくさんあっただろう」

「いえ。皆さまとてもよくしてくださって、不自由などございません。今日は掃除もしましたし、それに、今夜の食事はわたしが腕を奮わせていただきました」

「きみが……?」

「はい、わたしが」


 すると、麗の瞳に、急に生気が点った。


「それはすぐに食べないと! 着替えてくる!」

「だっ、旦那様?」


 麗は宣言すると、慌てて自室へと走って行った。

 取り残される形となった月は首を傾げる。


(全くもって、わからない。旦那様は、どうしてそんなにわたしに対して甘いのだろう?)


 月が生まれてこの方、夏越麗と接点はなかった。相手は四大貴族だから当然のことといえば当然のことである。

 また、力をつけてきたとはいえ、一商家である藤堂家実家に上流階級との繋がりはない。


 普通の娘ならば灰被りシンデレラのような夢物語に心浮かれるかもしれない。外国から入ってきた童話は人気で、月も、翻訳版と原書版の両方を読んだくらいだ。

 しかしこの現状は実家の跡を継ぐつもりで生きてきた月にしてみれば青天の霹靂でしかない。そこで、決意を新たにする。


(早々に尋ねてみなければならない。わたしを婚約者に選んだ理由を)







 宣言通り、たちまち麗はよそゆきから小紋へ着替えて広間に現れた。

 夕餉ゆうげの内容は一汁三菜。特に、甘辛く炊いた鶏肉からは湯気が立っている。冷たい物は冷たく、温かいものは温かく。すべてが食べ頃に仕上がっていた。


 それを見た麗は瞳を大きく見開く。


「すばらしい。きみには料理の才があったというのか」

「るゐさんに色々と教えていただきました。味付けも指示通りにしましたので、満足していただけると思います」


 横からるゐが口を挟む。


「月様は筋がいいです。流石、才女だと思いますわ。ささ、是非是非」

「そうだな。早速いただこう」


 ごゆっくり、と言い、るゐが退室する。

 向かいで美味い美味いと頬張る麗を見て、月はほぅ、と息を吐いた。


(召し上がるときの所作も美しい。やはり、貴族と庶民では、箸の持ち方ひとつとっても違うものだわ)


 そして高足膳の上はあっという間に空になった。


「どれもこれも美味しい。なんとか時間を作り帰ってきて、本当によかった」

「お褒めいただき光栄です」


 月は頬を赤らめる。


「甘味もお好きだと伺いました。水菓子がそろそろしっかり冷えたと思うので、お持ちしますね」

「水菓子もあるのか? なんということか……」


 麗と関わらなければ分からなかったことがある。

 見合い写真で見た麗は、どこか冷たい雰囲気を纏っていた。巷の噂でも、常に冷静沈着だと耳にしていた。

 しかしどうか。屋敷内での麗は、喜怒哀楽をその美しい表情に乗せることを厭わない。


(冷徹そうだと思っていたけれど、全然、そんなことはないのよね)


 夫となる男と久しぶりに顔を合わせた月は、しみじみと考える。

 中座して土間へ向かうと、食事係が満面の笑みで待っていた。


「麗様はもうすべて召し上がられたのですか。よほど、月様の手料理をお気に召されたのでしょうね」

「よほど空腹だったのかもしれません」

「ご謙遜を。麗様は元々食が細くて、すべて召し上がるのに半刻一時間はかかる御方なんです」


 食事係が氷匣こおりばこの扉を開けた。

 月の背丈と同じくらいの氷匣。決して融けない不思議な氷は、夏越家の能力によるものだ。

 なかなか一般の家庭では見かけない巨大なそれは、迫力がある上に扉を開けるだけで涼しい風が奥から流れてくる。


(やっぱり、すごいなぁ)


 月は改めて感心する。実家にこれほどの大きさのものはなかった。

 扉を閉めても、透明ゆえに中は透けて見えた。


「さて、と」


 月は仕込んでおいた水菓子の器を確認して、少し揺らす。ふるふる、とわずかに震える水菓子。


「無事に固まりましたね」

「えぇ。麗様の氷匣に冷やせないものはございませんから!」


 月は、水菓子を黒い丸皿へと滑らせる。

 拳よりも一回り小さな、透明の立方体。閉じ込めたのは色とりどりの食用花だ。


(喜んでもらえるかしら)


 歩く度僅かに揺れる水菓子を、盆に載せて慎重に運ぶ。


「お待たせいたしました、旦那様」

「何だこれは。初めて見る」


 麗が丸皿と月の顔を交互に見た。


ゲラァレゼリーといって、隣国では広く知られている水菓子です。そこに、庶民の間で流行っている食用花を入れてみました」

「げらぁれ。耳慣れない響きだ」

「是非とも旦那様にも知っていただきたくて作りました。夏越家の氷に憧れている人々は多いです。わたしもそのひとりなのですが、留学中にゲラァレを知り、見た目が氷のようだと驚きました」


 ほぅ、と麗は感心したように呟く。

 匙で掬って口に運び、そっと瞳を閉じた。


「砂糖の甘さを感じる。それから、僅かに柑橘類の爽やかな香りも」

「果汁を入れて風味や味を変化させることもできます」

「詳しい材料と作り方の手順を教えてもらえないか?」

「はい、勿論です」


 月は快諾し、微笑んだ。

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