氷屋へ嫁ぐことになりましたが、旦那様は冷たいどころか溺愛してきます。

shinobu | 偲 凪生

第1話




 藤堂とうどうつきは三年に及ぶ隣国への留学から帰国すると、婚約者が決まっていた。


 突然決まった月の嫁ぎ先とは、四大貴族のひとつ・夏越なごし家だった。

 相手は夏越家の現当主、夏越あきら

 見ず知らずの貴族からの求婚に疑問は生じるものの、両親がいい縁談だと手放しで喜んだため、月は申し入れを受けることにした。勿論、最初から拒否権などなかっただろうが、それはまた別の話である。


(結婚なんて考えていなかったのに……)


 そもそも、月が留学していた理由は、家業を継ぐための勉強だった。

 ひととおり学んだ経済学を活かせることはないのかもしれない。気落ちしなかったといえば嘘になる。

 だからこそ嫁入り道具の中に、経済学の書物を紛れ込ませて実家を出ることに決めた。いつか、この知識が何かに活かせるかもしれないという、儚い希望を残しながらの門出だった。



 そして。

 現在、月は、急用で外出したという現当主の帰りを、彼の乳母であると共に、屋敷の縁側で待っているところである。

 ちょうど月と入れ違いくらいに出て行ってしまったようで、戻ってくるには少し時間がかかりそうだった。


 濃くどこまでも澄んだ青空、遠くに臨むのは入道雲。太陽がじりじりと世界を灼く、一年で最も暑い時期に差し掛かっていた。

 座っているだけでも、汗がじわりと滲む。


「麗様は心底残念そうにしておられたんですけどねぇ」


 むしろ、発言主るゐの方が残念そうに溜め息をついた。

 はつらつとしたこの女性は、単身訪ねてきた月を歓迎し、この屋敷の家事を取り仕切っているのだと説明してくれた。髪にほどよく白いものが混じっているということは、月の母が存命であれば近い年頃だろうと推察する。


 ちりりん、と窓辺の風鈴がるゐの発言へ同意するように鳴った。


「ちょうど一年で最も忙しい時期でしょうから、仕方ないと思います」

「月様はなんとお優しい方なのでしょう! 強引であったと怒ってもよいのですよ?」

「い、いえ、流石にそれは……」


 月は顔を引きつらせた。

 まだ見ぬとはいえ将来の夫ではある。月が怒っていいような相手ではない。もし不興を買えば、月だけではなく藤堂家実家が滅びかねない。それは実家の意志から最も遠いところにある結末だ。


(というか、四大貴族の当主さまが、どうして一商家の娘を嫁にしようと思ったのかしら)


 月はどれだけ考えてもその結論を見出すことができなかった。

 一方で、実家からは早々に、花車柄の振袖を着せられて送り出された。

 伸ばしている黒髪も立派に結い上げられ、飾られた簪は少し重たい。

 これらがいつ用意されたのか驚いたものの、この婚約自体が本人の知らぬ内に決まっていたのでつまりはそういうことなのだろう。


 なお、おてんばな性格はなるべく隠して、当主の五歩後ろを歩くようにと、父からは再三注意された。

 三歩ではない。五歩だ。

 商家としては、貴族と繋がりを持てる願ってもない好機なのだ。


 この国における四大貴族の役割とは、春夏秋冬の象徴である。

 『夏』を司る夏越家は、春の終わりから宮中行事で忙しい。


 夏越家の家系図を建国まで遡ると、という伝説の生き物に辿り着く。

 氷龍の力を受け継ぐ一族は、熱だけでは決して融けない氷を作ることができる。

 そのため、夏が始まろうとするこの時期は、皇室へ氷を献上するのが習わしとなっている。


(上流階級しか口にできない、夏越家の氷。一体どんな味なんだろうな)


 月は想像して、唾を飲み込んだ。


(まぁ、嫁入りしたからといって食べられるかどうかは分からないけれど)


 特別な氷の恩恵は庶民へも与えられている。

 その名も氷匣こおりばこ

 名前の通り、非食用の氷でできた特別な容器である。

 大きさは様々で、食材を冷やすことができるおかげで食事情が昔に比べて改善されたという。

 現当主の麗こそが、これまで上流階級しかあやかれていなかった氷の恩恵を庶民まで普及させた偉大な人物である。


(食材を冷蔵保存しておけるようになったことはありがたいと、大人たちは口を揃えて言う。だからこそ、両親も今回の婚約を心から歓迎していた訳だし)


 月の実家は都でも指折りの商家である。特に、食料品を多く取り扱っているため、夏場の食事情を改善してくれた夏越家はひときわ特別な存在だった。

 夏場でも食品が腐らず、新鮮な状態を保てるというのは、数年前まではありえない話だったのだ。


 月はぱたぱたと団扇うちわを仰ぎ、るゐが出してくれた冷たい緑茶を口に含む。

 口のなかが一気に涼しくなり、爽やかで上品な緑の香りが鼻を抜けていった。飲み干すと、その分、額に玉のような汗が浮かぶ。


 風鈴に混ざって、蝉の鳴き声が遠くから聞こえてくる。

 ふたりが他愛のない世間話をしていると、廊下を走る音がだんだん大きく響いてきた。


「あら、お帰りになられたようですよ」


 るゐが言い終わるか終わらないかのうちに、勢いよく障子が開かれた。


「待たせてすまない! 私が夏越なごしあきらだ」


 うなじ辺りでひとつに束ねられている薄水色の髪の毛が、さらりと揺れる。

 初めて目にする夏越家の現当主は、月の想像の何倍も、眉目秀麗な男性だった。

 見惚れる、とはまさにこのことか。

 月はまじまじと、これから夫となる男性を見つめる。


(……! なんて美しい御方なのかしら。比喩ではなく、眩くて目が開けていられない……)


 鼠色の着物に、紺色の羽織を羽織っている。少しだけ乱れているのは、足音通り走ってきたからなのかもしれない。それでも透き通るような白い肌には汗ひとつかいていない。


 慌てて月は立ち上がる。

 背筋のすっと伸びた麗と向かい合うと、彼の方が頭ふたつ分背が高いことが分かった。

 月は、袖と裾を整えながら深く頭を下げる。


藤堂とうどうつきと申します。この度は……」


(どう言うべき?)


「わたしには勿体ない申し出をありがとうございます。謹んでお受けいたします」


 というか、それ以外に言いようがなかった。

 月が恐る恐る顔を上げると、麗はやはり眩しすぎる笑顔で月を見つめていた。


「快諾に心からの感謝を。君が留学から帰ってくる今が好機だと考えたのだ。生家では、酷い目に遭わされてきたのではないか?」

「いえ、そんなことはありません。義母……正妻と父との間にはまだ子どもがおりませんので、わたしは義母から実の娘のように愛してもらえています。今回の留学だって」


 月は考える。

 麗は月との婚約のために身元調査を行ったのだろうか。

 月は父親とめかけの間に生まれた庶子であり、実母は病気で他界している。つまり、陰で義母から虐げられてきたのではないかと麗は心配しているのだ。


 なお、正妻は現在妊娠中ということもあって、今回の婚約がすんなりと進んだともいえる。


「藤堂家の跡を継ぐために外国の商いを勉強するものでした。巷でよく耳にするような継子ままこ虐めは一切ありませんのでご安心ください」

「……そうだったのか」


 虚を突かれたように、麗が目を見開いた。


「すまない、出過ぎたことをしたようだ。将来もきちんと考えていただろうに、我が家へ来てくれたことを再度感謝する。生家以上に穏やかに過ごせる場所となるよう、誠心誠意努めよう」


 麗が月の両手を取る。

 男性の手とは思えない滑らかで、少し冷たい手。だけど、力はしっかりと込められていた。


 不意に、月の心臓が跳ねる。


 美しいから、だけではない。

 こんな風にしっかりと見つめられるのが初めてだったからだ。月の頬から耳まで、一気に朱く染まり熱を持つ。

 そしてふたりの視線が合う。

 黒髪黒目の月と違って、祖先が人ならざる者なのだと教えてくれる麗の瞳。吸い込まれそうになる、深い青。


(まるで、蒼玉サファイア……)


 静かに、月は息を呑む。

 麗は破顔したまま、月の名を呼んだ。


「月」


(やわらかくて、澄んでいて。まるでわたしの名前じゃないみたい)


「きみのことを、大事にする」


 麗はそっと月の手の甲へと口づけた。




 ――それが、ふたりの顔合わせだった。

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