第10話

 街を歩く人々は空虚に虚空を見つめ、力なく歩みを進めている。淡々と交通ルールを守り、歩行者にも車にも一定の秩序がある。その一部の人々が、なにか申し合わせでもしているかのように次々と手近なビルに入っていく。彼らは各ビルで列を作り、なにかを待っている。学生やサラリーマン、浮浪者、裕福そうな男性や女性、老若男女問わずあらゆる人々が列を成している。外でなにか鈍い音が鳴りはじめ、列が動きだした。

 ドン。ベシャ。グチャ。

 静まり返った街に、次々に気持ち悪い音が響く。

 急いで階段を駆け上がる。列は屋上まで続いている。そして屋上の柵の果てで、その列は途絶えていた。列の中に偶然リナの姿があった。

「リナ!」ジャクスは肩を掴んで、思わず揺さぶった。「なにをしてるんだ! 一体なにを!」

「ジャクス」リナは感情のない瞳でジャクスを見つめる。「もういいの。なにも感じないから。なにも」

 彼女は手短にそう言うと、ふと駆け出して、そして――

 ドン。

 彼女が消えた屋上、遥か下の地上で、また音が鳴った。

 リナのあとを追うように次々に屋上から消えていく人々を眺めながらジャクスが膝から崩れていると、そこにヴォルフがやってきた。

「原因はおそらく『感情オーバードーズ計画』だ」

 ヴォルフはあまりに落ち着いた口調だった。

「我々の計画によって世間はセンセーショナルな情報娯楽で溢れていた。そして低刺激な『幸福プログラム』では満足できなくなった人々がそれに頼らなくなった……そこまではよかったんだ。だが過剰な刺激は、それを受ける以外の場面での感情の鈍化を促した。感情の高揚と低下が極端になり、人々がこの極端な感情から逃れる唯一の方法は、自分自身を〈無感動〉な状態にすることだったんだ」

 ヴォルフがそこまで言うと、ジャクスは床のコンクリートを叩きながら声をあげて泣きはじめた。

「僕はみんなの感情を取り戻したかった! それだけだった!」

「あぁ。けれどやはり人々は一人一人がギリギリの状態だったんだ。カイくんが〈無感動〉になったのも今回と同じ理由かもしれない。もちろん私も。そしておそらく君も」

 ヴォルフがそっとジャクスの肩に手を置き、途切れることなく進む列の中へと加わった。

「先生……?」

 ジャクスの呼びかけにヴォルフは簡単な笑みだけ返し、そして、消えていった。


 ジャクスはしばらく放心状態にあったが、太陽が夕日を描き出した頃、ようやく身体を動かすことができた。今もまだ続く人々の列が、一人が飛び降りるごとに、一歩だけ歩みを進めている。ジャクスは階段を下り、淡々と死体処理を続ける赤ランプの車両たちを眺めながら帰路についた。

 途中、この惨状に立ち上がったと思しき人々が彼を取り囲んだ。すべての元凶はお前だとか叫んでいるが、放心状態だったジャクスの耳にその言葉はうまく入らない。

「お前が社会から奪った感情を、おれたちが取り戻す!」

 だれかがそんなようなことを言った瞬間、ジャクスの腹部になにかが刺され、強い痛みが広がった。しかし恐怖も憎悪も悲哀も生まれない。ただ血が広がり痛みや寒気といった事実だけが身体全体を支配していく。

 世界が感情を取り戻せますように。

 地面に倒れ、意識が薄れゆく中、ジャクスはそう願っていた。

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無感動オーバードーズ 丸山弌 @hasyme

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