第9話

 計画が始動してから数週間ほど経つと、街の雰囲気が明らかに変わりはじめていた。人々の表情に、なにかが生まれている。それは怒りかもしれないし、喜びかもしれないし、または混沌とした興奮かもしれない。しかし確かなことは、それは人々自身が生み出したものであるということだ。

 計画は順調だった。M社が広告代理店を通じて手掛けるすべての映像は、これまでにないほど刺激的で感情を刺激するものになっていた。それらが人々に強烈な感情を与え、その感情はプログラムでコントロールできないほどに強く、生々しいものだった。

 この『感情オーバードーズ計画』によって、人々は自らの感情を取り戻しはじめている。

 しかしそのさらに数週間後、この変化に影が落ちはじめていた。やがて人々が強烈な感情によって翻弄され、暴力事件が増加し、人々の間に不穏な空気が流れるだろうことはジャクスも覚悟していたが、むしろそれは感情を取り戻すうえで重要な過程となる。ところが、社会はいつまで経ってもこの過程へと達しないのだ。

「ヴォルフ先生、本当にこれでいいのでしょうか?」

 計画自体は成功している。『幸福プログラム』は崩壊寸前だ。それでもジャクスはなにか言い知れない不安を抱いていた。

「人々が感情を取り戻す過程は必ずしもスムーズではない。いずれにしてももう我々に干渉の余地はないんだ。あとは見守るしかないよ」

 ヴォルフの言葉に、ジャクスはしっかりと頷く。

 同時にヴォルフは看護師に呼ばれ診察に入った。

「こんにちは、ヴォルフ先生」

 そこには遠慮がちな笑顔で椅子に座るカイがいた。今まで表情すら見られなかった〈無感動〉のカイは、徐々に寛解に向かいつつある。

「先生のプログラムのおかげで、僕はゆっくりとですが、自分の感情を見つけはじめています。その喜びを感じながら、でも、ゆっくりと、リナが居なくなった切なさも感じはじめています」

「嬉しいことも辛いこともある。それが感情であり人生だ。それを君が感じはじめていることを、私は医者として嬉しく思っているよ」

 その言葉に嘘偽りはない。

「はい、そうですね」カイは頷いたが、なにか言いたそうにしていた。「あの、先生」

「なんだね?」

「最近、周りの人たちが変なんです」

『感情オーバードーズ計画』による変容を感じ取っているのだろう。

「なんだか、昔の僕のような人たちが多いような気がして」

 なにげないカイの言葉でヴォルフは危うく聞き流すところだったが、ふと、ヴォルフの心の中に爆発的な恐怖が発生した。

「先生?」

 急に表情を強張らせたヴォルフは、カイの声に答える余裕もなく、おもむろに立ち上がって踵を返し、ジャクスが待つバックヤードに戻った。カイの言葉を聞いていたのか、彼もやはりヴォルフと同じ表情をしていた。

「我々はとんでもないことをしてしまったのかもしれない」

 ヴォルフが呟くように言う。

 頷いて、ジャクスは慌てて外に飛び出した。

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