夏に至る

淡島ほたる

第1話 あらしのまえの

 容二朗ようじろうはあたりまえみたいに、私のことを匿ってくれた。ずっと。

 川に浮く桜の花びらをアパートの窓から見下ろしながら、あのひとは「結婚しようか」と言った。

 けれど彼は、私と娘の奈桜なおを置いて、旅にでた。二年前の八月、葉がきらきらとみがかれるころ。


「奈桜っ、お弁当と水筒、ちゃんと持った?」

「もったー! コアラのマーチも入れたよ!」

 奈桜は元気よくそう返すと、いってきまあす、と玄関から跳ねるみたいに飛びだしていった。きょうは、先週から奈桜が楽しみにしていた遠足だ。お天気は快晴、行き先はとなり町の博物館。

 今夜はぐっすりだろうなあ。彼女の喜び勇んだ背中を思い返しつつ、布団の上に散らばった奈桜のパジャマを洗濯機に入れる。

 朝ごはんの食器を片づけたあとは、洗濯物が終わるまでいったんお茶の時間へと移行する。

 インスタントの熱いコーヒーをいれて、窓際の壁にもたれかかる。蒸し暑さで肌に纏わりつくシャツが、開け放した窓から通りすぎてゆく、七月のはげしい風に揺れた。

 台風が来るのかもしれない。瞬きをすると、ふいに懐かしい雨の匂いがした。


 お昼すぎ、知らない番号から電話がかかった。受話器を取る手がとまる。縁を切った実家ではないはずだ。容二朗だったらいい、とは、端から思わない。彼は電話ではなく、かならず手紙をくれるから。

 意を決してどちらさまですかと問うと、がちゃんと切れてしまった。きっといたずら電話だろう。そう思うことにする。悲しい知らせも良い知らせも、今の私には不必要だ。


 夕方、奈桜が遠足から帰ってくると、行き違いみたいに雨が降りはじめた。強い雨。けさのニュースでは、台風が来るのはあす以降だと言っていたが、すこし早まったようだ。部屋じゅうの窓をしめるのを、奈桜も手伝ってくれた。

「ママ。これ、おみやげ!」

 そう言って奈桜が若草色のリュックから取り出したのは、真っ白の、つやつやしたまるい石だった。

「わあ、綺麗だねえ。どこでみつけたの?」

「博物館の近くの砂浜だよ! 海も、すっごくきれいだった」

「ありがとう、奈桜。大事にするね」

 鏡台の上、アクセサリーケースのとなりに、柔らかくひかる石を飾った。奈桜はその後も興奮したようすで、遠足のお土産話を語ってくれた。私も彼女もお風呂に入るのがだいぶ遅れたが、きょうは金曜日だし、構わないだろう。

 夕飯はオムライスにした。奈桜はきょう行った博物館のキャラクターをケチャップで描き、ご満悦だった。彼女がうれしそうだと、つられて幸福な気持ちになる。


 奈桜が眠ってから、私は鏡台の抽斗をあけた。窓がごとごとと音をたてている。風は依然としてやまなかった。奈桜が起きないだろうかと不安になるが、その心配も要らないほど、彼女はぐっすりと眠っている。

 抽斗の奥には、群青色の便箋がいくつも入っている。その宛名の端正な字をみて、私はどきりとする。

 白浜 さくさま。

 私宛ての、彼からの手紙だ。


「朔は、困ったさんだね」

 私が些細なことで悩むたび、容二朗はそう茶化して、笑ってくれていた。

 私が親と縁を切りたいと泣いて打ちあけたときだけは、「君は、そうするべきだよ」ときっぱりとした口調で答えをくれた。

 容二朗は、どこへ行ったのだろう。手紙には、彼の居場所や目的地なんかは、いつだってひとつも記されていない。湖に立つ鷺がとても勇ましかったので、写真を送ります。向日葵の花弁がこぼれるみたいに咲いていました。写真を送ります。そこには奈桜が掬い上げてくるような美しい発見ばかりが切り取られていて、私は郵便受けに見慣れたブルーの便箋をみつけて封をあけるたび、落胆しながら安堵している。


 七月七日、金曜日。夏の嵐はゆるやかに、奈桜と私のところまで近づいてきている。

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夏に至る 淡島ほたる @yoimachi

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