川を下った人魚姫
@yoleafy
川を下った人魚姫
1
(いったい、どうしてしまったの?)
少女は、戸惑う。
(わたしはどこにいるの)
まったく見当もつかないまま、彼女の体は川にさらわれるばかりだ。
流れに逆らおうとヒレをいくら動かしても、水流の力に歯が立たない。
川下へ流れる人魚の意識は、やがて薄れていく。その片隅には、あの人――陸の王子の端正な顔が、ふとよぎるのだった。
真っ黒の無から浮き上がった人魚の目に最初に飛び込んだのは、兜と鎧、そして刀を携えた一人の青年だった。かたわらにはイヌ・サル・キジが取り囲んでいる。哺乳類二頭と鳥類一羽をお供につけている青年は、心配そうに人魚の顔を覗き込む。
「あなたは、わたしを助けてくださったのですね。もしよろしければ、あなたのお名前を教えていただいても?」
人魚の問いに対して、困惑を隠せない顔をするのが、一行の精一杯の答えだった。
(言葉が通じていないのかしら)
人魚はじっと、青年を視る。
彼が身にまとう頑強な衣服は、人魚にとって夢の中にもでてきそうにない。またその顔も、明らかに人魚のそれとは違う。特に髪と瞳の色だ。
彼女の持つ、金色の髪と空色の瞳に対して、青年はどちらも真っ黒だ。
「これはまた、めずらしい。異人の人魚とは」
と、サルが感銘の声をあげた。
イヌは尻尾を振りつつ、
「幸運ですなぁ、桃太郎さん。人魚です、人魚。それも異人の。きっとその霊力、半端ではありませんよ」
と、はしゃぐ。
「この者の肉食らえば、子々孫々・千年万年・未来永劫私たちの命が長らえましょう。特にこれからの鬼退治には全くもって好都合。私たちは残りでかなわないので、桃太郎さん、お先にたっぷり召し上がれ」
「ねえ、イヌさん、ちょっと、それは違うんじゃないの」
キジが翼を広げてたしなめる。
「いくら人魚とはいえ、異人の人魚だよ。死なないようになるどころか、食べたらすぐに死んじゃうかもしれないじゃないの」
「異人といえども、人魚には違いありませんよ。少なくとも、死ぬことはないでしょう。味も、マグロ・タイ・サケ・ハマチその他もろもろの魚などとは比べものにならないでしょう。赤身か白身かは存じませんが」
「お前たち、そろそろいい加減にせよ」
それまで人魚を見すえ、黙っていたサルが、急に叫んだ。
「我々はそもそも、桃太郎殿の家来だぞ。殿を差し置いて、何を勝手にのたまっておる。この女の人魚の命、これよりいかに扱うには、桃太郎殿がお決めになられるはずだ。違うか」
どなられ、しょんぼりうなだれるイヌとキジだった。
「やめなさい、サル。二匹とも十分それは承知しているはずです。ただ、イヌよ、人魚を食べると言ってはいけません。彼女も私たちと同じように、命を持っているのです。そしてキジも、異人だからと言って、決して蔑んではいけません」
桃太郎と呼ばれる青年は、人魚に一歩近づいた。
川へ揚げられたままの姿勢 ――ヒトの少女の、上半身の部分が陸にざばりと打ち揚げられ、下半身のサカナの部分は水中に入ったままの姿 ―― を、人魚はようやく変えた。地面に両手をぺったりつけ、肘を伸ばして上半身を起こした。
桃太郎は、ゆっくり膝をかがめて首を伸ばし、人魚の顔と肉薄した。
「そなたが、
ぽつぽつと、青年の顎から水滴が滴っていた。
「いかなる経緯で、そなたがこうなったかは存じません。しかし、ご表情を見るに、そなた自身もわかっていらっしゃらないようですね。大変な何事かに巻き込まれてしまったのではないでしょうか。そうであれば、そなたをこのまま放っておく訳には参りません」
「しかし、桃太郎殿」
太郎の心を見透かしたサルの声が低く響く。
「仮にこの女を連れて行くにせよ、村人たちに見つかればどうなる。たちまち囲まれ、食われてしまうぞ。さらに、我々の向かっている場所は、ただの島ではなく――」
「島から私たちが帰ってくるまでここに彼女を留めるのは、村人たちの目に触れる恐れがあります。ですから、まずは川の底を泳がせながら、私たちに着いてこさせます。幸いにも、村と川の距離とはそれほど近くではありません。人々は我々の姿にみな目を奪われて、川には目もくれないでしょう」
「でも、この子が泳ぐ目印はどうするの?」
「あなたがその役目です」キジを指さした。
「私たちと距離を置きつつ、川の上を飛ぶのです。彼女が水の中から見上げれば、あなたの姿を捉えられるでしょう」
桃太郎は視線を人魚に戻し、
「絶対に、そなたが元の場所へもどれるよう努めてまいります」
と微笑んだが、瞳の奥は真剣だった。
こくり、とうなずく人魚の瞳。
(このかたがたは、わたしを怖がっていない。捕まえようとも考えていないみたいだわ。 でも……)
ひとかけらの不信感を、いますぐここでぬぐい去る事は難しかった。
「まったく、本当に桃太郎さんはお人よしですなあ。特に女に対して。私たち三匹はキビ団子一コで買収なのに、この人魚は命を助けたどころか、あとの面倒までしっかり見るんですからねぇ。さっさと刺身にして食べちゃって、鬼退治したほうが、はるかに多くの人々を救えるはずなのに」
「ボ、ボクだって、急に目印になれって、そんなの……」
「まだ言っておるか、お前たち!」
混沌の家来たちに構わず桃太郎は、人魚に
「それでは、着いていってください。 ――自己紹介を忘れておりましたね。私は桃から生まれた桃太郎。悪しき鬼どもを倒すため、鬼ヶ島へ向かう道中でございます」
そして、背を向けて歩みだした。
サルと、彼によって頭にコブをもらったイヌが続く。
キジが人魚の頭上で浮遊しつつ、彼女を見下ろす。
「このまま鬼ヶ島まで着いてこさせるのかな……。桃太郎さんの言うことには、逆らえないけど……」
不安げにぼやきながらも、
「じゃあ、行くよ、人魚さん」
と川を眼下にして羽ばたいていく。
前進する桃太郎の姿が小指ほどの大きさになった頃、少女は決めた。
ちゃぷんと水しぶきが上がり、人魚の姿は水の底に消えた。
2
あの出来事がなければ、いつもと変わらない夜の海のはずだった。違うのは、風が普段よりも少し強かったことだけだった。
人魚は、小岩に腰かけ月を眺めていた。昼にはそこで他の人魚達が日光浴のひとときを過ごす場所だ。
海に投げかけられた月の像が美しく歪み、たゆたう姿は彼女のお気に入りの一つだ。神秘を生む法則にしたがって円が変形していくさまは、ヒトと変わらぬ二十三の
風がまた少し、強くなった。感情の海もやや波打ったが、さらにそれを強める光景が眼に入った。相当に豪奢な外見の船が、遠くのほうに見えた。ゆっくりとではあったが、確実に小岩の方向へ向かっているようだ。
彼女はすぐさま海面に降り立ち、岩のかげに、ちゃぷりと隠れた。
船が、こちらに向かっている。
そして、その乗り主の容姿が判別できたとたん、彼女の頬はかすかに赤く染まり、心蔵は明らかに鼓動を強めた。
端正な顔立ちに、輪郭の激しい鼻立ち。むしろ、それを中心として唇や眼、そして額などが配置されたかのような、美形の王子だった。
「なんと美しいお人なのかしら」
感情が思わず声に出ていた。
(ああ、早くもっと近くへ来てください!)
はやる気持ちを抑え、抑え、ぐいと船の方向へヒレを動かしたその瞬間。
突如、雨が降った。しかも、土砂降りだ。金塊が
「なんなの、これは!?」
叫んだが、止むはずなどあろうことがない。
それどころか、海上に
いや、正確には
なすすべなどなく、人魚の体は深く暗黒の海中へ引きずり込まれていく。まさに、アリジゴクに落ちたアリと同じ状況だった。
「おのれ、薬の調合に失敗したようじゃ」
と、けたたましく響く老婆の声。そして深い海の中、何か巨大な物体の崩壊する激音が鳴り響いたのが、気のせいであったのかどうかは謎のままだ。
意識は落ちてゆく。
3
キジに先導されつつ、人魚は想いに
(もう一度、せめてもう一度、あの方にお会いできれば……)
違う支流に入りそうになるとすぐさまキジの鳴き声が飛ぶ。
これでもう四度目だ。
しかし、今回はその声が明らかに、震えていると水中でも読み取れた。
キジも、さすがにその光景には動揺をあらわにする。
「桃太郎さん、――あれはいったい何でしょう……!?」
ふるえ声とともに、キジが翼で指し示す。川岸よりいくばくか離れた水面へ、一行が一斉に目をやった。茶色い何かが十二、三ほど、列になって流れているようだ。
岸に近寄ってさらに目を凝らすと、ニワトリの死骸だった。
どの首も真横に切断され、残った体が腐敗しきってぷかぷかと浮いていた。
「もったいないですねぇ。せっかく殺したのならしっかり食べないと、彼らも成仏できないでしょうに」
普段は軽い態度のイヌに対しても、さすがにこれには誰もが同意した。
水面に漂う死体の列を、川底から見上げた人魚は
(なんということをするの)
と、心を痛めた。特にキジは、同じ鳥類の無残な死に、よりいっそう心を痛めた。
やがて一行を取り巻く光景は、森から村へと徐々に姿を変えた。人魚は村人たちに見つからないよう、川に潜ったまま桃太郎たちについていく。
村人たちは彼らを見つけるなり、次々と家から飛び出て懇願する。
「おねげえしますだ」
「おねげえしますだ」
「死なんでくだせえ」
「おらのなけなしの小判、どうか頼みますだ」
「女房に内緒のへそくりも頼みますだ」
「とっておきの春画もおねげえしますだ」
悲痛な声ひとつひとつに、太郎は勇ましく応える。
「かならず、鬼どもから取り返してみせます」
切実な期待の張り付いた無数の顔が、背中を見送っていった。
村を抜け、砂浜に
「ようやく、着いたな」
サルが目をつぶってつぶやいた。人魚に初めて出会った時ほどの感銘は表れていなかったものの。
「あれが鬼ヶ島だね」
水平線の向こうに、ゴマ粒ほどの大きさで置かれた島が、鬼どもの本拠地だ。
村人たちから借り、かついできた舟と
「さて、では行きましょうか」
イヌが、いの一番に乗り込む。キジ、サルが次に続く。家来三匹が先に舟へおさまったのを見届けると、桃太郎は人魚のもとまで歩み寄った。
「ここまで私たちに着いてきて下さったのに、大変申し訳ありませんが」
海と同じ色の瞳の彼女が、彼を見つめる。
「この海を渡った先は、鬼ヶ島です。何の罪も、
うつむいた顔を再び上げて続ける。
「そなたはとどまるのです。ほかの者に見つからぬよう、入り江に潜っているのです。心細いでしょうが、私たちは必ず、日の暮れるまでには戻ります。決して、空の暗くなるまでそなたを待たせません。どうか、信じてください」
口もとをぐっと引きしめ、人魚の瞳を今までになく見据えて、語りかけた。一瞬たりともそらさず、青の虹彩を黒の虹彩で捉え続けた。
「寂しい思いをされるでしょうが、そなたの身を案じているからです。 ―― それでは、行って参ります」
砂浜に足跡を点々と残して、太郎が舟に乗った。
一人の人間と三匹の動物の背後に横たわる無限の青は、少女にとっておなじみの、なつかしい景色だ。
「では、行って参ります」
舟は鬼ヶ島へと進んでいった。サルとイヌが、櫂をそれぞれ持って舟を動かす。
その姿が朝顔の種ほどの小ささになったのと同時に、
「絶対、そこでお待ちください」
の声が風に乗って耳まで運ばれたのは、錯覚だったのかもしれない。
4
王子は混乱していた。
自分の性癖など、外部に、ましてや周りの黒髪族などに知られるなど、想像しただけで剣で首を跳ね飛ばしたくなる。
王子は、村人たちに助けられていたのだ。
おそらく、人魚姫が村を抜けるのとほぼ同時期に。
「あれは、なんだべ?」
指さす先は、王子にとっては最悪で最低な光景。
首が真横に寸断されている、茶色いニワトリ。
それだけなら、まだしも……。
総排泄口は凌辱されまくっている、王子のせいで。
なにより、行為の最中で首を切断すれば、王子はいくらでも絶頂に達するのであった。
「だれがやったかしらねが、そうとう変だな、あれは」
自覚がある分、よけい善良な村人たちに顔向けできない。
(いっそ、このまま
「おぉい、
奥歯を噛みしめ、剣を振り回すのを耐えた。
むしろこんな機会だから、伝説や、
激高は興奮へと姿を成し、周りの静止など振り切って、海岸へ飛んで行った。
桃太郎一行は、安堵しきっていた。
鬼といえども、心根は人間よりも優しいかもしれない。そう思えるほどの無血和平だった。ただでさえ狭く、シカかせいぜいトラツグミほどしか動物が目立たない環境に、何十年も棲み続ければ、略奪したくなるのも当然。
真の悪者ではないと踏んだ太郎は、育ての親の形見になるかもしれない
「いやな予感がするね」
キジが言う。
「いえ、あのように美しい方が傷を負わされるなど、だんじてありません」
「本当にそれはどうですかな」
櫂を手に取っているイヌが、復路の半分ほどで小さく叫んだ。
「どういうことです」
「つまり、あの女だけでなく、もう一人いるだろうと告げているんですよ、この鼻が」
くんくんと鼻をさかんに鳴らすイヌを見て、太郎の不安はたちまち黒く
5
「いいではないか、一回くらいは」
「いやです、やめてください」
王子は、いつもの付け焼刃の理性はどこへやら、完全な変態と化し、人魚姫に飛びかかろうとしていた。
元の世界で、すでに五、六人は斬っている剣を振り回そうにも、両腕はがっちりと村一番の巨漢に取り押さえられ、びくともしない。それでも、残された理性は完全に吹き飛び、人魚の総排泄口にだけ野暮ったい意識が向けられていた。
「これは、なんということです」
太郎が叫び、尋ねる。
「あぶねえやつだわ、こりゃあ。鶏の首ちょん切ってまぐわうわ、
それならば、と、桃太郎は脇差で有無を言わさず王子の首を跳ねた。
ころりん、と転がり、血がクジラの潮吹きのごとく吹き出た。
これで、すべて平和です。
わたくしは、この人魚と
静かに、己にささやく太郎であった。
人魚の耳には、聞こえていたのか……。
彼女の左目から、なみだがひとつ、ぽとんと砂浜に染みをつけた。
完
川を下った人魚姫 @yoleafy
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