人魚は歩けない
いぬきつねこ
人魚は歩けない
生ぬるい水の中を沈んでいく。
俺の人生を例えるならそれだ。
俺が十歳の時に母が再婚した。義父と反りが合わなかった俺は高校卒業と同時に家を出て、それきり連絡を絶った。家族から連絡がくることもなかった。
どこにも繋がっていない身分は気楽で、軽くて、どうにでもなった。しかし、後には何も残らない。
水はいくら掴んでも、指の間を流れ落ちていく。次第に何もかもがどうでもよくなった。
生ぬるい水の中をゆっくりと沈むように、俺は生きてきた。
人間関係が煩わしかったから決まった職にはつかなかった。少しばかりものを書くことが得意だったから、毒にも薬にもならない記事を書くことで糊口をしのいだ。生活がそこまで苦しくなかったのは、俺は顔だけは良かったからである。だから、好き大好き愛してると言い寄ってくる女が必ず現れた。その中から特に頭の弱いのを選んで付き合う。金の無心に、彼女たちは快く応じてくれた。金の出し渋りが見えたり、関係が重くなったらすぐに別れた。目の前で手首を切る女や、当てつけのように飛び降りる女もいたけれど、そういう時もうまく逃げてこれた。
だいいち、彼女たちに死ぬ気などない。去ろうとしている男をちょっと驚かせて心変わりを狙おうという打算なのだ。その証拠に、これまでは誰も死んだ者はいなかった。
しかし、今度の女は別れをちらつかせたら呆気なく死んでしまった。瀬戸内かどこかの田舎から出てきたという、みるからに幸の薄そうな女だった。パチンコから帰ると、彼女は薄暗い部屋の中で揺れていた。これ見よがしにゴミ箱には使用済みの妊娠検査薬が捨ててある。俺の子かはわからない。風俗で働いていたわけだし、金を稼ぐために本来店では禁止されている行為を許していることを、いかに俺を愛しているかと並列にして語っていたのだから、俺の子でない可能性は大きい。
女が残したのは、床の染みと曲がったロフトの手すりだけではなかった。
いつの間にか借金の保証人に俺の名前があった。
返すアテもないから逃げ回っていたら、路地裏で殴られた。朦朧とする意識の中で、頭に何か被せられたのがわかった。口の中に血の味が満ちていた。
次に気がついたら、海の上だった。
もう目隠しはされていない。しかし口にはタオルで猿轡が咬まされている。
相変わらず両脇を厳つい顔のお兄さんたちが囲んでいて、俺は後ろ手に縛られていた。
小さな漁船はひどく揺れていた。灰色の雲が広がる空の下、灰色の波の上を漁船は疾走する。
船底を波が叩いている。
海に沈めて魚の餌にしてやる。使い古されたヤクザ映画のセリフが浮かんでくる。震えていた。俺は命が惜しかったのかと今更ながらに気がついた。
船には、2人のカタギとは思えない男の他に初老の男が1人乗っていた。彼が船を操っていた。白髪混じりの短い髪に日焼けした肌にがっしりした肩周りは、男が漁師であることを物語っている。船の上では、誰も何も言わなかった。
海だけが騒いでいた。
雲間から落ちてくる月の光が、波をわずかに煌めかせた。その途端に波の音とは違う、飛沫の上がる音がした。船を操っていた男が囁くような小さな声で何か言った。波間で何かが跳ねていた。
あれは、大きな魚……?
どのくらい経ったのかわからない。船のスピードが落ちた。波が岩場にぶつかって砕ける。白が灰色の波の中にパッと散る。
風が吹き抜ける低い唸りが聞こえてくる。
唸りは高くなり、そう思えば低くなり、途絶えずに聞こえていた。
低く、高く、細く、力強くうねる。かと思えば優しく囁くように流れる。奇妙な音階を奏でて鼓膜にまとわりつく。恐怖で混乱した頭の中にも、その歌は侵入してきた。
歌の正体はすぐにわかった。ごつごつした岩でできた小島があったのだ。島には洞穴が口を開けていて、湿った海風はそこへと吸い込まれるように流れ込んでいた。そこから、歌は聞こえてきた。
洞窟の手前に、簡素な船着場があった。
「歩け」
強面のお兄さんに背中を突かれて、俺は船から降りた。陸地だ。魚の餌にはならなくて済んだようだ。
船を運転していた男はついてこなかった。
彼は洞穴に向かって手を合わせていた。
すっかり萎えてしまった足は言うことを聞かず、両手は後ろ手で縛られていたので何度もよろけた。
ぬめっていて歩きづらい。海から入り込んだ水が地面を薄く覆っている。俺の靴はすぐに水を吸い、足取りはより重く、しんどくなった。洞穴の中は暗いからなおさらだ。何度も転ぶ。その度に乱暴に引き起こされ、尖った岩で脛はすぐに傷だらけになった。足を踏み出す度に、何か小石が擦れるような音がする。それは岩肌を這う無数の船虫がたてる足音だった。俺の足から滴った血が岩を濡らす。そこに足の多い銀色の虫たちが集まるのを、俺は見ないようにした。
代わりに上を向いてみる。暗くてよく見えないが、天井は高い。
洞の内側には、風の歌が満ちていた。
道はゆるやかに曲がり、奥へと続いている。
風は洞穴の壁の凹凸を舐め、独特に反響する。
内部に入り込んだ海水が壁に当たる音もそれに加わり、あたかも女の声のように聞こえるのだ。
どのくらい歩いただろうか。
目の前が開けた。洞穴を抜けたのかと思ったが違った。
そこには、広い空間だった。
男たちは俺の猿轡を外し、腕の拘束を解いた。
洞穴の壁の高い位置に松明が燃えている。
ここに入って初めての灯りだった。炎がぬらりと岩壁を舐めて照らしている。
建物があった。
洞窟の中にあるとは思えない、しっかりした造りの建物だった。神社のような造りだ。切妻屋根に朱塗りの柱と大きな扉。
岩盤に柱が突き立てられ、床面は潮溜まりから浮いている。造りは重厚だが、はげ落ちた塗装から年月を感じられた。光量が少ないから、陰がやけに目立つ建物は神々しいというよりも、どこか不気味だ。
男たちは正面の観音開きの扉を恭しく押し開いた。
蝶番が軋む。
両脇のにいちゃんたちは、開いた空間に向かって両手を合わせていた。
建物の中もぼんやりとした明かりしかなかった。
建物の中はそう広くなかった。八畳かそのくらいだろう。中は板間になっている。奥の方に白くぼんやりと天蓋が浮かんでいる。確か、
古い時代の貴族の寝屋を思い出した。あれは確か中学の国語の教科書だった。教科書を熱心に眺めていた頃は、俺もまだ未来があると思っていたことまでもが芋蔓式に思い出されきて、つい俯いた。足元では船虫が蠢いている。
「
強面の片方が言った。ツカエと聞こえたような気がする。
薄暗がりから、皺だらけの顔がにゅっと現れて、俺は情けなく悲鳴を上げかけた。
枯れ木のように細いのに、妙な湿り気を持った指が無遠慮に俺の顔に触れてくる。
白い着物を着た老婆はしげしげと俺の顔を眺め、しばらくしてしわがれた声で呟いた。
「ええじゃろ。これならエビスサマもお喜びになる。さあ、お入りなさい」
老婆は俺の手を掴むと、ぐいと引いた。洞窟の中では気にならなかった潮の匂いが、ことさら強く感じられた。
俺の後ろで扉がゆっくりと閉まる。肩越しに見た背後では、男たちがまた手を合わせていた。
「ここはどこなんですか?」
俺の問いかけに老婆は答えなかった。
代わりに答えるように風が歌い始めた。
建物のどこかに風が抜ける道があるのだろう。
御帳の白い布が僅かに揺れた。
俺はその両脇に奇妙な像があることに気がついた。
魚だろうか。尾を大きく上にしならせた形で、それが互いに向き合うように配置されている。
「ご挨拶をせえ」
老婆は御帳に向き直り、手を合わせた。
膝を折って傍らにしゃがみ込む。
「失礼をいたします」
深く首を垂れ、老婆が入口にあたるのだろう布を巻き上げる。
どうっと潮の匂いが濃くなった。
御簾の向こうに、彼女はいた。
一段高くなった、畳の上で、大人しく座っていた。
紅の引かれたように赤い唇は僅かに開いていた。
大きい目を濃いまつ毛が飾り、深い青色の瞳がぼうっとこちらを見ている。
両手を太ももの上に重ねていた。
緋色の袴に包まれた両足は、腿の真ん中あたりで膨らみを失っている。
「この子、足が……」
思わず声に出した俺の耳元に老婆は囁きかけた。
「ご挨拶せえ」
少女は、どこか生気の感じられない眼で俺を見ている。目の中で深い青が揺れる。
何かの目に似ている。
なんだったか。俺の頭の中で泡が弾ける。
水槽のエアポンプの泡と、その中で泳ぐ長い
「よろしくお願いします」
俺はその後に自分の名前を告げた。
彼女はまだぼんやりと俺を見ていた。
足が不自由なだけだはないのだろう。おそらく、頭の方も見た目よりは幼そうだ。
巫女が着ている着物に似た白と赤の取り合わせの着物は彼女の体の線を隠してはいない。長い黒髪と着物はどこか湿って、なだらかな身体の曲線を際立たせていた。
体つきは大人といっていい。少なくとも十五は超えているだろう。
不具ではあったが、美しいことに変わりはなかった。
「来なさい。エビスサマ、少し失礼いたします」
俺とエビスサマと呼ばれた少女を交互に見て、老婆は俺の服の裾を引いた。
俺は言われるままに老婆についていく。御簾は上がったままで、エビスサマは虚な青い眼でまだ俺を見ていた。
建物の後方、御帳の真後ろへと、老婆は俺を誘った。そこには小さな横穴が口を開けている。俺は体を折って奥に進んだ。
入り口の狭さに反して中は思っていたよりも大きな空間があった。
そこに、水と缶詰の入った箱がいくつも置かれていた。自然のままの岩肌と、人工的なペットボトルの取り合わせは酷く場違いだ。
「食いもんはここじゃ。厠はない。向こうのタライにやって海に流せば魚が食う。買い残しも海に流して始末しろ」
「その、あなたは誰なんですか?」
老婆は答えなかった。
「エビスサマの世話は
言いながら、老婆は水の詰まった箱の脇から、小さな陶器の壺をそっと取り出した。
「これを毎食一切れ、エビスサマの食事としてお出ししなさい。替えの服は向こうの
壺の中には塩漬けされた何かの肉が入っているようだった。生臭さは感じない。洞穴に満ちる潮の匂いで鼻がおかしくなっているだけかもしれない。
「つまり、俺はあの子の面倒を見るために連れてこられたってことですか?」
老婆は俺を見上げた。眼差しの中に、憐憫が見え隠れしている。居心地が悪い。
「半年後の大祭の日になれば全てがわかる。それまでは、誠心誠意お仕えなさい。エビスサマは生き神様だ。海から来て、そしてわしらの業を背負ってくださるヒトザカナ様、それがエビスサマだ」
聞いたことのない単語が耳を通り過ぎる。
老婆は俺の背中を一度撫でた。孫にするような仕草だった。
「七日に一度、食糧を補充に島の者が来る。しっかり務めを果たせ」
老婆は洞穴を出て行った。
もちろん俺はそっと後を追ったが、すぐに今度こそ全て悟った。無慈悲に船のエンジン音が遠ざかる。
潮が満ちていた。俺が来た時には船着場だった場所は、水没していた。そればかりか、洞穴の中にも潮が満ちてくる。
俺は潮から逃げ、必死で建物の中に走り込んだ。
海水はぴったりと建物の手前で歩みを止めた。
閉じ込められたのだ。
開いたままの御帳の中から、エビスサマが俺を見ていた。息せききって駆け込み、戸口で躓いて転んだ俺を見て、彼女は初めてケタケタと笑った。
否応なしに、俺はエビスサマに仕えることとなった。
おおかた予想していたが、エビスサマはほとんど口が利けなかった。意味のある言葉を発することはない。ここにいると今が朝か夜かなどわからないが、彼女は日がな一日御帳の中にいて、気まぐれに、慰みのためにか置かれている鞠を転がしたり、読めもしないだろうに置かれている絵本を開いたりしている。
彼女は俺の手からあの壺の中の肉を食べた。手から餌を食べる小鳥のようだった。
俺は保管されていた缶詰を食べた。排泄は最初は抵抗があったが、そのうち慣れた。
潮の流れは奇妙なもので、汚物がこちらに戻ってくることはなかった。洞穴の外へと全て流れていく。
エビスサマの体を拭くのは戸惑いがあった。なんせ、相手は生身の女だ。
俺が水に浸した布を持っていくと、彼女はおとなしく着物を脱いで俺と向き合った。最初はできるだけ見ないようにしていたが、これもすぐに慣れてしまった。
やはり、エビスサマは少女というよりは大人に近かった。表情のあどけなさと知能の遅れが彼女を幼く見せるのだろう。
月のものがあったら困るなと思った。備蓄の中にはそれらしきものはなかったし、何より彼女は下着を身につけていなかった。トイレも自分で済ませているようだった。
それ以外は何もない。何もすることがない。
ここには娯楽は何もなかった。
エビスサマの世話をして、そして用意された寝袋で寝る。それだけだ。
だから、俺は、もう十年以上離れていたはずの、物語を紡ぐという愚行に走ることになったのだ。ここでは、それ以外することはない。家を出てすぐ、俺は作家を志していた。奥深くに仕舞い込んだ思い出が、刺激のないこの空間で溢れ出てきた。
ここには紙もペンもない。だから俺は、壁に向かってひたすら物型を語り聞かせた。かつて出版社に持ち込み、散々に批判された物語の形を整え、磨きながら語った。君ねえ、ちょっと複雑な家庭で苦労していたらいい話が書けると思ってんじゃないの?甘いんだよねえ。俺の生い立ちを聞いた編集者が、せせら笑った顔がちらついたが、それもすぐに消えた。
バン!と床が鳴らされた。
まだ飯には早い気がした。最近のエビスサマは、腹が減るとこうして床を叩いて俺を呼ぶ。
エビスサマは、自分で几帳を捲り上げ、腕だけでずるりと這い出してきた。
俺が駆け寄ると、彼女は大きな青色の目で俺を見上げた。異国の血が入っているのか、それとも何かの病なのかはわからない。エビスサマの目は青いのだ。
「——青い目をした異国のお姫様のお話です」
俺は壁ではなくエビスサマに話しかけていた。
物語を解するほどの知能はないと思っていたが、エビスサマは予想に反して物語に聞き入っていた。じっと俺の声に耳を傾けた。物語が終わると、エビスサマは俺の手を握った。暖かくて、少し湿っていた。
七日後、老婆の言う通りに洞穴に来訪者があった。いや、来訪者があったから、七日後だと気がついた。あの老婆は来なかった。アタッシュケースを抱えた男と、まだ十代だろう日焼けした若者だった。
アタッシュケースから出てきたのは注射器といくつかの試験管のようなもので、エビスサマはおとなしく採血をされていた。男はとった血にAと書いて鞄に収めた。男は医者なのだそうだ。
「あんた、新しい仕か」
若者はまだ少年の面影を色濃く残している。
彼は俺を呼ぶと、御帳から離れた。
「あんた、わかってやってんのか?」
若者は俺を睨んだ。
「エビスサマの世話がどういう役目だかわかってんのか?」
俺は首を振った。
「わからない。大潮の日まであの子の面倒を見ろと婆さんに言われた」
「——あの子は贄だよ」
「ニエ?」
医者がこちらを気にするそぶりを見せた。
若者はスッと俺から離れてエビスサマの側に傅いた。
その日の夜は、エビスサマに物語を聞かせ終わってもまだ眠れなかった。
ニエ。贄か。洞窟で隔離して育てられる女。奇妙な風習。そして、老婆の言っていた、エビスサマは「ワシらの業を背負ってくださる」の言葉が頭の中をぐるぐる巡る。
「生贄……」
頬に温かいものを感じて俺は飛び起きた。
いつのまにか、側にエビスサマがいた。
御帳から這って抜け出してきたのだろう。
ひどく近くに、青い二つの目があった。
まるでそうするのが当たり前のように、エビスサマは俺の唇を吸った。止める間もなく、抗うこともできなかった。
また七日経った。
その間に俺はいくつかのことに気がついていた。エビスサマの御帳の前に置かれた魚の像、あれは人の顔をしていた。人面魚。いや、浮世絵で見た人魚だ。老婆の言葉「ヒトザカナさま」は、人魚のことだろう。エビスサマ、は恵比寿様に違いない。足のない姿で産まれて、海に流された蛭子のことだ。
創作のために遥か昔に集めた知識が頭の中でパチパチと繋がっていく。
医者とあの若者が来た。
医者はまたエビスサマに採血し、試験管にBと書き込んでいた。
「水が今のペースだと足りなくなりそうなんだ。次はもう少し早めに持って来てもらえるか?」
それを口実に、俺は若者を呼んだ。
若者は名前を草太と言った。
「あの子は次の大祭に食われる」
声を顰めて、しかしはっきりと草太は言った。
「足のない子が生まれてある年齢まで育てると、ここで隔離するんだ。そして大潮の日に儀式をする。情がうつらないように、世話は余所者にやらせる。あんたもこのままだと殺される」
「食われるって?」
俺は自分が殺されるよりも、その言葉が衝撃だったのだ。
「足のない子を人魚に見立てて、人魚の肉と呼ばれているあれを食わせて育てるんだよ。その肝を食うんだ。そうすると長生きできると島民は信じてる。婆さんは今年で105歳だ。前の儀式で肝を食ったから、あんなに若く見えるとみんな信じてる。狂ってるよ。なあ、センセイもそう思うだろ」
採血の用具をしまっていた、医者がこちらを向いてわずかに頷いた。
草太が俺の肩を掴んだ。
「やめさせたい。あの子を助けたい。協力してくれ」
俺は傍で眠る彼女の顔を見た。
こんなに衛生状態がよくない中で暮らしているのに、肌には吹き出物の一つもない。白く、すべすべとした美しい顔。
そっとまつ毛に触れると、くすぐったそうに顔を背けるが、唇が笑みを作る。
たまらなく愛おしくなっていた。
彼女は俺の物語を聞いてくれた。純真な心で、愛に応えてくれた。
女を守らねばならないと感じたのは初めてだ。ただ沈むように生きてきた俺が、初めて自分の足で水を掻いて水面を目指していた。
俺は決意を固めていた。大潮の儀式の日に、この子を連れて逃げよう。
何度目かの七日後が来た。
いつものように医者がエビスサマの採血をし、試験管にOと書いて丸で囲んだ。
「七日後に儀式だ」
草太が告げた。
大潮の日、洞穴を連れ出されたエビスサマは、
俺はぞっとした。水中ではためく緋色の袴と、赤く染まった水面が想像できたからだ。
「何とかして輿とエビスサマを繋ぐ縄を緩めておく、あんたは水中から彼女を抱いて泳いで逃げろ。輿を落とす場所の海流に乗れば、またこの洞穴の辺りに流れる。俺たちとそこで落ち合おう」
「君は何でそうまでしてこの子を助けたいんだ」
「……死んだ姉ちゃんに似てんだよ」
草太はひどく言いにくそうに言って俯いた。
その番、私は彼女の腹をそっと撫でた。
僅かに腹が膨れてきたような気がする。
確信があった。
エビスサマと彼女を呼ぶことに躊躇いが生まれていた。彼女を助けて、そのあとどうする。あの医者が何とかすると言っていたが、彼女も自分も追われる身だ。
だが、不思議と落ち着いていた。
守ってやらねば。そう思った。
七日後、俺は洞穴を出た。
少し遅れて、彼女が男たちに担がれて出てくる。半年前、俺をここに連れてきた男たちに間違いなかった。
彼女はまた、あの青い目でキョロキョロと辺りを見ていた。
半年ぶりの外は、満月だった。
薄青い月が輝いている。
俺はまた目隠しをされ、船へと押しやられた。口に薬を押し込まれて、嚥下してしまう。
また、風が歌うのが聞こえた。意識はすぐになくなった。
「おい!早くしろ!」
颯太の声がした。俺はどこかの土間に寝かされていた。体に力が入らない。睡眠薬を飲まされていたのだろう。
「儀式が始まる」
草太は俺を無理矢理に立たせると手を引いた。
「縄をゆるめといた。婆さんも気づいてねえ」
私は何度も躓きながら、走った。
草太は俺を村の高台へと誘った。
そこは切り立った崖になっていて、いくつもの松明が煌めいていた。エビスサマを乗せた輿が、ゆっくり進んでいく。草太は先に用意しておいたのだろう手漕ぎの船を器用に操って、崖の下につけた。
明かりはない。
「俺の合図で水に入れ。あそこから輿が落とされたら、男たちがここに銛を持って走ってくる。その前にエビスサマを抱えて流れに乗れ。俺たちは先にあの洞穴に行く」
私は頷いた。
水音が轟いた。
暗い海に飛沫が弾ける。
草太との合図で、俺は飛沫が上がった方に泳ぎ出した。服がまとわりつくのも構わず、泳ぐ。
不思議と目が冴えた。水中に没した、緋色の袴がはっきり見えた。エビスサマが青い目で俺を見ている。唇が笑みを作る。
助けに来てくれたの?そう問いかけているようだった。
俺は夢中で彼女を抱きしめた。
ごり、と肉の抉れる音がした。
水の中にぱっと赤い色が散る。
焼け付くような痛みが、背骨を通って体を走り抜けた。次に脛に噛みつかれた。
青い目が、俺の足元から俺を見ていた。
必死で水中に顔をだす。腕の中のエビスサマがまた俺の肩を喰む。
とぷんと水音がして、静かに白い顔がいくつも波間に浮かんだ。
エビスサマだ。同じ顔だ。
それらがすうっと俺に近づき、水中に沈む。
脇腹に食いつかれる。だらりとした細長いものが引き摺り出される。
俺の体は俺の意思に反して沈み始めた。
「胎に子がおるからなあ。たんと食べて良い子を産んでくだされ」
岸から俺を灯りで照らしているのは、あの老婆だった。蟷螂は交尾の後に雌が雄を食う。痛みの谷間、そんなことが俺の頭に浮かんだ。
「あんた、馬鹿なんだなあ」
老婆の隣に草太がいた。医者の男もいた。
「ここは人魚の養殖場なんだよ。昔網にかかった人魚と交わった男がいた。人魚は子を産んだ。そうして増やした人魚の肉をこの村は商ってきた。不老不死の力はないが、食えばそれなりに健康に長生きできる。この村の男たちでは血が濃くなっていい人魚が生まれないんだ。だからこうやって定期的に外から男を連れてくる。そして閉じ込めれば、みんな人魚とまぐわう。あんたはエビスサマを愛してると言ったが、夜毎に違うエビスサマを抱いてたんだぜ?寝屋の下に海とつながる通路があるのに気がつかなかったのか?」
美しい赤い鱗を閃かせて、一人のエビスサマが俺の指を食いちぎる。
俺は思い出した。医者が採血の時に書きつけていたアルファベット。あれは個体を区別するためだったのか。
「陸に上がると彼女たちの鰭は乾いて縮むんだ。だから足がないように見える。愛されてるとでも思ったか?魚に心はないよ」
草太の笑う声がした。
「草太はな、あんたの家で死んだ娘の弟だ」
告げたのは老婆だった。
「エビスサマは顔が美しいほど尊ばれるからな。
白い腕が、俺を海中に引き摺り込む。
真魚、まな?そうだ、あの女、マナという名前だった。確か瀬戸内の田舎、変な風習がある村で育ったと……。
水の中で、真魚と目があった。赤い尾鰭が振れる。
ごうっと風が鳴る。
遠くから、風の歌が聞こえる。いや、違う。
歌っているのだ。人魚が。
幻覚なのか幽霊なのか、俺はもう頭が働かなかった。真魚の下半身が魚に変ずる。赤い鱗がきらめく。真魚は愛おしそうに胎に手をやる。
——今度はちゃんと産むからね……。
真魚の顔がエビスサマに変わる。
鋭い歯が、俺の首筋に食らいついた。
真魚の黒髪なのか、それともエビスサマの髪かわからないものが俺に巻き付く。
海水は鮮血が混ざって生ぬるい。
生温い水の中を、俺はゆっくりと沈んでいった。
エビスサマのあるいは真魚の指が俺の二本しかなくなった指に絡まる。
――海の底で一緒にいましょう。人魚は歩けないもの。
人魚が俺に囁いた。
人魚は歩けない いぬきつねこ @tunekoinuki
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