席替え

 事件が起きたのは、その翌日のことだった。

 朝、いつものように朝食をしっかりり、余裕をもって登校し、汚れ一つ無い真っ白なスニーカーを下駄箱にしまい、教室の引き戸を左手で開ける。何変わりない日常の中に一歩踏み入れたはずが、クラスメイト達はそこいらで楽し気に小躍りしていた。そういえば、席替えであった。

 僕も馴染んだ座席に向かうのをやめ、黒板前の群集に混ざることにした。ため息は吐かない。なぜなら、過去に対してなげくのは全くの無意味だからだ。

 人垣ひとがきをかき分け、最前列にたどり着くには多少の努力と時間が要った。もうホームルームが間近に迫っている。僕は堂々ど真ん中までやって来ると、腕を組み、整然と張り出された座席表を睨んだ。さながら人事異動である、と思った。座席表によると、僕は遥か東方に左遷させん、つまり窓側から二列目の、その最後尾の座席の主に任じられていた。

 さっそく席に座ってみる。こんなに後ろから教室中を眺めるのは久しぶりだ。机にはくだらない落書きが残っている。備品に落書きなんて、と消しゴムで消そうと試みたが、油性ペンでしっかり書いてあった。この机ある限り後世まで脈々と受け継いでいく気概きがいであるらしい。結構。


 そんなふうに暇を持て余していると、ふと、視界の端に栗色が映った。──まさか。左に視線を流すと、〝やつ〟が隣の席を陣取って退屈そうに寝ている。陽に照らされたあやふやな輪郭が、目障りなほどきらきら光っていた。

「何でそこで寝ている」と思わず。〝やつ〟はのそっと起きて、「やあ秀才くん」「何でお前が僕の隣に座ってるんだ」あくびと共に、「だっておれの席だもの」

 急いで表を確認すると、確かに僕の隣に連ねられていた名は〝高槻夏乃たかつきなつの〟の四文字だった。さすがの僕も、一度ため息を吐いた。

 懺悔ざんげする。

 僕はこれまで、席替えひとつで一喜一憂いっきいちゆうするなんてばかだと思っていた。実際のところ、こんな些細ささいなイベントで狂喜乱舞きょうきらんぶする連中の中に僕より成績の良いやつなんか一人もいなかった。教室は授業を受け勉強する為の部屋に過ぎないし、勉強は一人黙々とするものだから、どの席で誰の隣かなんてどうでもいいことだ。いて選ぶなら前列が望ましいが、席替えでワクワクするやつらは大抵後列に座りたがる。席替えというのはそういうイベントだ。だからばかだと思っていた。

 今日、僕は信じてもいない神に懺悔し、この考えを改める。理由は説明できないが、これから約二か月間、高槻夏乃の隣に座り続けるという事実はそれくらい苦痛なことに思われた。理由は説明できないが、それくらい高槻夏乃のことが大嫌いだった。アーメン。


 僕は懺悔を終えると、絶望のふちに立たされながら先生の言葉を思い出していた。直接関わってみろ、なんて無理難題もはなはだだしいが、ここまできては言われた通り対峙するほかない。第一として、昨日の時点ではそのつもりだったのだし、これはむしろ好機と捉えるべきだ。そう思うことにする。……するが、もしかしてこれは先生によって仕組まれた事態なのではないか? 僕は考えるのをやめた。

 これより会話を試みる。

「今日は、休講なのかい」

 我ながら相手に寄り添った良い一手目だ。〝やつ〟はナマケモノと同じスピードでこちらを向き直すと、眉を吊り上げて変な顔をした。

「え、今、おれに話しかけてる?」

 失礼な男である。僕は仕方なく首肯しゅこうする。

「で、今日は休校なのかい」

「キュウコウ? 何言ってんのさ。秀才くんも元気に登校してるのに。……秀才なのにへんなこと言うなあ」

「……そうじゃない。いつもやってるじゃないか。クジラがどうとか、犬がどうしたとか」

 何度かラリーしたところで、それまで眠そうにぽやぽやしていた〝やつ〟の瞳が急に輝いた。

「おれの話に興味があるの!?」

 拡声器いらずの大音声だいおんじょうは、教室と言わず学校中に響き渡った。言わずもがな、一瞬にして注目の的となった〝やつ〟はふんすふんすと息巻いて、何がそんなに嬉しいのかスパンコールでも散らしたように周囲がきらきらしている。ように見えた。まさにA5ランクの和牛ステーキを前にした空腹の犬が如し。僕は少し引いた。

「いや、興味はない」

 あまりの勢いに気圧されて、取り繕うのを忘れた。〝やつ〟は僕の返事を聞くと、みるみるうちにしおらしくなって、やがて元のようになった。つまりは存在感のない生徒Tである。そして息を吐くついでに、ぽそりと言葉を落とした。

「こういう日はだめ。こういう日はね、誰もおれのこと覚えてないから」

「……さしも記憶力の乏しい連中だとは思わないが」

 生徒Tはふふふ、と笑った。「そうじゃないよ。秀才くんって、面白い人だね」



 不可解な夢を見たのは、その日の夜のことだった。

 夢の内容は──正直あまりよく覚えていない。ただ長い間水の中を揺蕩たゆたっているような浮遊感だけがいつまでも離れないので、目が覚めたとき、僕はてっきり浴槽で寝入ってしまっていたのかと勘違いした。

 時計は六時五分を指していた。起床するには十五分早い。僕はぼけた頭で二度寝を選択し、寝心地を求めて身をよじった。……すると、ぐじゅ、という音と共に、何やら不快な感触があることに気がついた。

 嫌な予感がした。まさか、高校二年生にもなってまだ寝小便で架空の世界地図を描くようなドリーマーなのか? 冗談じゃない! 

 僕はここ一番の俊敏さをもって飛び起きた。状況を確認する。脚、びしょ濡れ。おしり、びしょ濡れ。ズボンは全滅の可能性大。よく考えると上半身も濡れている。そういえばさっきから頭が涼しい。全滅。続いて魔窟まくつと化したベッドを標的に定める。恐る恐るシーツに触れると、悟った。全滅。

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空を泳ぐ鯨 七辻 @nanatsuji777

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