水本先生

 五月の頭にもなると時折ときおり、日差しの強さに参ってしまいそうな日がやってくる。立つ風ばかりが冬の面影おもかげを残したように冷たく、着ればいいのか脱げばいいのか毎朝苦悶くもんした。

 僕はこの時期になると必ず、かの有名なイソップ童話を想起そうきする。

 春という季節においては、風と太陽はしばしば仲違いをして、僕たちをからかっているみたいだ。きっと風は冬が好きで、太陽は夏が好きなのだろう。だとすれば、僕はぜひ太陽と仲良くしたい。僕は夏が一等好きなのだ。



 進級からひと月も経つ頃には、クラスメイトはみんな、出席番号順の座席にすっかり飽いていた。

 多くの生徒がホームルームの度に席替えを迫り、水本先生はいつもげっそりしている。どうやら、先生にとって席替えとはひどく面倒な行事であるらしい。窓際の二列目に陣地を構え、これを意外と気に入っている僕としては、たとえ今年は席替えをしないと宣言されても別段構わなかった。むしろ宣言してくれた方が嬉しいと思っているくらいで、実はこっそり、先生にその旨を伝えている。しかし、多勢は僕の意見など歯牙しがにもかけない。

 その日の授業後、ついに席替えを執り行うとのお触れが出たのである。席替え反対派であった僕と水本先生は、とうとう推進派に敗北をきっする形となった。


 席替えはくじ引きで行われた。

 推進派のクラスメイトたちは「好きな子同士がいい」とか「自由席がいい」とか口々に文句を言っているが、ルールである水本先生は元々反対派であるので、頑としてくじ引きを強行した。

 まるでお祭りのように和気藹々わきあいあいと紙切れが引かれていく中、特に希望する座席も仲の良い友人もいない僕は、粛々しゅくしゅくとお気に入りの座席に別れを告げた。

「机の中の荷物は、後ろのロッカーにしまっておきなさい。座席は明日の朝張り出しておくから、各自くじの番号を控えておくように。引いたくじは、帰りに先生まで返却ね」

 僕の順番が回ってきたとき、プラスチック製の容器には二枚のくじしか残っていなかった。僕はそのうちの一枚を引いて、適当なノートに番号を控える。

「最後のくじは誰に渡せばいいのかな」

 僕にくじを回したクラスメイトにそう訊ねると、彼は〝やつ〟を指さして言った。

「ああ、高槻だよ。席替えだっていうのに居眠りしてるやつは、問答無用で余りものだからね」

「なるほど」

「ついでだから、高槻の分も控えておいてやれよ。あいつ、居眠りを始めるとなかなか起きないんだ」

「君がやればいいじゃないか」

「俺はだめ。これから部活なんだ。遅刻すると、先輩が怖いからさ」

 言うが早いか、彼はエナメルバッグを引っ提げ、勢いよく教室を飛び出して行ってしまった。取り残された僕は、目の前のくじと、すやすや眠る〝やつ〟を交互に見てため息を吐く。

 確か、あのクラスメイトは〝やつ〟の講義が大好きな一人であったはずだ。やつの講義が大好きということは、つまり〝やつ〟のファンであると考えて差し支えないだろう。同級生のファンということは、〝やつ〟と友人関係である可能性が極めて高い。友人関係であるならば、やはり〝やつ〟の分の控えを取るのは、あのクラスメイトの方がずっと適任なのではないだろうか。

 何せ、僕は〝やつ〟が大嫌いなのだ。嫌いなやつに対して親切にしてやる義理は、どこにもないはずである。

 そんなことを悶々と考えていると、僕は段々、むかむかしてきた。この程度のことで腹を立てるなんていささか幼稚だと思うが、それでもどうしようもなく、むかむかしてしまった。

 やがて僕は怒りに身を任せ、〝やつ〟の分のくじに大きくやつの名前を書いた。折衷案である。居眠りするやつのために遣う心は無い、というクラスメイト同様に、僕のノートにもまた、〝やつ〟のために使うスペースなどほんの少しもありはしないのだ。

 そうして僕は、先生の元へ二枚のくじを返却した。「僕と高槻の分です」

「……番号は、自分で控えておくようにって言ったはずなんだけど。これじゃあ使いまわせないじゃないか」

 先生は、〝高槻夏乃〟と大きな字で書かれた方のくじをみて、眉間に薄くしわを寄せた。

「これは高槻の字じゃないな。誰が書いたんだい?」

「僕です」

「高槻は?」

 僕が、未だすやすや眠る〝やつ〟の方を見やると、先生も釣られるようにそれを見た。

「まったく、仕方がないね」そう言って、先生は深く息を吐く。

「それで、北守はこれをどうするつもりだい?」

「……一枚くらい、僕が新しいのを作りますよ」

「それじゃあいけない」先生は厳しい顔をして言った。

「資源というものは、いつだって大切に使わなくてはならない。君が〝一枚くらい〟といったこの紙切れを作るのも、タダではないんだよ。たくさんのお金がかかっているし、人手も必要だ。そしてあるいは、命を頂いている。わかるかい」

 先生は眉を寄せて、至っておおまじめであった。僕は少しどきりとして、急に体温の冷えるような感覚を覚えた。何か重大な罪を犯してしまったような、そういう気になった。先生のこの静かなたしなめ方は、僕の心の中へ直接作用して、反発心の芽生えるよりも早く、罪悪感で満たしてしまう。黒がじわじわ心を侵食して本来の色がわからなくなったころ、僕の口から出てくる言葉はいつも決まっていた。

「……ごめんなさい」

「はい。わかればよろしい」

 水本先生のお説教は、僕にとって、いいや、きっと他のクラスメイトたちにとっても、杵田きねた先生に怒鳴られるよりずっと怖かった。しかし、先生はいつも、素直に謝罪をすればすぐに許してくれた。

 やわらかな笑顔を向けて、大きな手で頭をかき混ぜる。そして運が良ければ、ズボンのポケットからあめ玉をひとつ取り出しては、僕たちのてのひらへそれを乗せてくれるのだった。水本先生は他のどの先生よりも怖かったが、同じくらい、やさしい先生だった。


「北守は、高槻をどう思う?」

 先生は〝やつ〟をどこか遠くに見ながら、突然そんなことを呟いた。

「僕はね。なんとなく、なんとなくではあるけれど、彼の気持ちがわかってしまうような気がするんだ。ちょっと僕と似ているのかもしれない。それで、必要以上に気になってね。先生としては、非常によろしくないわけだが」

 もちろん、君のこともたいへん気にかけているよ。付け加えるように言って、先生は悩まし気に頬杖を付いた。

「……先生には、嫌いな人はいないんですか?」

 僕はふと、やさしい先生の心の底を覗いてみたくなった。先生は僕の質問を聞いて、少し意外そうに目を見開いた。──ほんの一瞬、視線が泳ぐ。しかし、次に瞬きを終える頃には、もういつもの先生だった。明日への期待に胸を躍らせるクラスメイトたちの話し声が、先生の心を覆い隠している。そういう気がした。

「いないよ。先生だからね」

 心臓が、三度鳴るか鳴らないかという間のあとで提示されたのは、百点満点の模範解答だった。多くの先生にとって、生徒と適切な心的距離を保つための常套句。喉の奥がもさもさした。

 僕はいち生徒として水本先生を好きであるし、尊敬もしている。だのに、「先生」という言葉が、僕と水本先生との間に大きくて分厚い壁を隔てているように感じられるのだった。毎日顔を合わせて、話そうと思えば何でも話すことができるのに、先生というやつは、芸能人や総理大臣なんかよりずっと遠くにいるのだ。僕は、とてももやもやした。

「僕は……。けっこう、沢山います」

「そうか」

「先生のように、いつか、宇宙的規模の大きな器を獲得できればいいんですけど」

 〝やつ〟は相変わらずすよすよ心地よさそうに眠っている。呑気な奴め。僕がむかつきの残骸を燻ぶらせながらその姿をじっとり睨んでいると、先生はくくくと肩を震わせた。

「なるほど、つまりは高槻のことを言っているんだな」

「いえ。……九割方は、そうとも言います」

「なるほど、なるほど」

 若いなあ。ひげをさすりながら、先生は頬杖つくのをやめて何度も頷く。そうして舐めていた飴玉をガジガジかじって、「〝嫌いな人がいる〟ってことをきちんと受け止められるのは、強いよなあ」とも言った。

「大人になると、合わない相手にエネルギーを割けなくなるっていうこともあるから。よっぽど直接嫌がらせをしないんであれば、心の中でいくら舌を出そうが、自由にしたらいいさ」

 先生は、やはり遠くを見ながら言った。「人間なんて、そんなものだから」

 先生もそうやって大人になったのかと思うと、なんだか少し切ないような気がした。何故かはわからない。

「それがむしろ、大人になってからエネルギーを割かない為の練習ってこともあるのかもしれないね」

 そう言って、先生はまた僕の頭をわしわしかき混ぜて笑った。

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