空を泳ぐ鯨

七辻

高槻夏乃

高槻夏乃の戯言

 ある朝、不可解ふかかいな夢から目を覚ますと、パジャマがぐっしょりれていた。

 いや、パジャマだけではない。昨夜身を預けた布団もタオルケットも、まるで真上からバケツの水をひっくり返されたようになっていた。

 寝汗にしてはひどい洪水である。

 僕は一体どんな悪い夢を見たのだったかしら、と頭をひねったが、無念むねんにも、バクが食べ散らかした残りかすがあるばかりだった。そして次に瞬きをした後には、夢を見ていたことさえもすっかり忘れてしまった。


 眠気に脳を揺蕩たゆたわせながら起き上がる。

 濡れた顔を拭って一息つくと、お尻と布団の接地面からぐじゅっと嫌な音が鳴った。

 どうやらパンツまでしっかり水浸みずびたしらしい。

 僕はため息をくのも忘れて、一刻も早くこの不快な状況からだっするべく、上着の第三ボタンまでを外して豪快にパジャマを脱いだ。

 外気に触れた体が、メンソールを塗ったようにスッとして涼しい。

 脱いだ上着を目の前でかかげてみると、袖口そでぐちすそのあたりからぽたぽたと水滴すいてきが滴り落ちた。まるで、ついさっきまで海にでももぐっていたかの様だった。

 東の空にはうっすらと陽が差している。

 すっかり色の変わったパジャマからは、どこか潮の香りがした。



           □



 近頃の僕はいつも、高槻夏乃たかつきなつの戯言ぎげんについて考えている。理由はよくわからない。ただ、どうしても考えずにはいられない勝手気ままな思考に身をゆだねている方が、抵抗するよりずっと楽だという結論に辿り着いただけの話である。

「その昔、クジラは空を泳いでいたんだ」

 〝やつ〟の十八番おはこといえば、もっぱらこれであった。

 ある時は担任、またある時はクラス委員、大人しい女子や通りすがりの小学生を集めては、自論だらけのいい加減な講義を開く。それがやつの日課であり、僕のストレスの主な原因であった。


 〝やつ〟の自由講義に「臨時休講」という概念は無い。

 週末に二日間の定休を挟んで、基本的に週五日、通常通り学校の門が開けばそれが開講の合図である。ただし、講義の内容は当然のごとく毎度同じであった。

「空飛ぶクジラ」「ミドリムシ観察記」「うちのイヌ」エトセトラ・エトセトラ。そんな稚拙ちせつでキテレツなバリエーションの中から、その都度やつの気分によって議題は選ばれるらしい。

 そんな変わり映えのない見え透いた講義では、早々に気の毒なやつとレッテルを張られて当然である。ゆくゆくは精神病棟にでも収容されて、晴れて僕はストレス・フルな毎日から解放されるのだ。願わくは、僕の健闘をたたえて祝福をたまわりたい。


 ところがどっこい。やつお抱えの聴衆ちょうしゅうときたら、このイカれた講義が大好きであった。

 十割十部が通りすがりの小学生というなら、まだ理解もできよう。しかしあろうことか、体育の鬼教師と評判の杵田きねた先生も、偏屈な数学の縦井たてい先生も、まじめなクラス委員も、大人しい女子も、もちろん担任の水本先生も、みんなやつのファンであった。

 きっと、みんなやつに操られているに違いない。僕はそう考えた。

 クラス替えが行われてからは、ほんのひと月足らずである。その間にこれ程の人気を獲得するなんて、正気の沙汰ではない。加えて、妄言の吹聴ふいちょうに過ぎないやつの講義を、老若男女問わず、あまつさえ知識人である先生までも大好きだなんて。首謀者しゅぼうしゃである〝やつ〟が、何らかの手をほどこしたと考えるのが自然である。

 あまりに非現実的な推理だと、かつての僕は笑うだろう。高校二年生にもなって、どうしてそんなばかげたものに労力を使っているのだと。残念ながら、実にその通りだと思う。しかし、相手にしているものもまた、非現実的で論理的根拠のひとつもない、いわゆるばかなのである。ばかなら、非現実的な手法のひとつやふたつ、簡単に用いかねない。

 僕の推理は、そういう、実に理にかなったものであった。


「あんまり大きいもんだから、ひとたびクジラが空を泳げば曇り空。雨が降るのはクジラが潮を吹いているからだって言い伝えもあるんだ」

「平均サイズは?」

「だいたい十四メートル。もちろん種類にもよるけど」

「何を食べていたの?」

「はっきりとはわかっていないけど、恐らくは雲だって説が有力だね。特に日本はクジラの回遊ルートで、秋には群れで泳ぐ姿が記録に残っている。でもクジラが海に入ってから、増え続ける雲を消費する存在がいなくなっただろ? だから日本では、台風が多く発生するようになったんだ」

 マインド・コントロールという技術がある。僕はまず、〝やつ〟がこれを使ってみんなを操っているのではないかとにらんだ。そして、やつの語る言葉の中に、そのカギとなる暗号が隠されていると仮定して、密かに講義を録音したり、ノートに書き起こしたり、文法を読み解いたりするのにたいへん頭を使った。

 しかし、いくら考えてみたところでそれらしき言葉はとんと見当たらない。何度聞き直しても、何度読み返しても、話の根拠も中身もない。やつの講義は、やはりどこまでいっても戯言たわごとでしかなかった。

「高槻夏乃の話の、どこがそんなに魅力的なんだ?」

 次に僕は、やつの話を熱心に聞いている聴衆に対してこんな問いを投げかけた。やはり調査の定石といえば、聞き込みである。

 聴衆の一人、クラスメイトのAは次のように答えた。

「高槻の話は紛れもなく作り話だけど、単純に相手を楽しませようという気概を感じるから愉快だよ」

 また、同じく聴衆の一人、クラス委員のBは次のように答えた。

「ひとつの主題に関する設定が作り込まれていて面白いわ。大筋はだいたいいつも同じだけれど、まったく同じ話というのは聞いたことがないもの」

 それから、同じく聴衆の一人、担任の水本みずもと先生は次のように答えた。

「高槻の話、というよりはむしろ、彼自身が魅力的なんじゃないかと思うんだ。それはもしかしたら、先生がみんなよりも少しだけ、高槻夏乃という人間について多く知っているからそう見えるだけなのかもしれないけれどもね」

 わざわざ職員室まで来るなんて、何事かと思っちゃった。先生はそう言いながら適当な椅子を引っ張って来て、僕に座るよう促した。僕はそこへ腰を据えてから、神妙な面持ちで「実は、高槻夏乃について考えているんです」と打ち明けた。

 先生は特段驚いた様子もなく、へえ、と相槌あいづちを打っているが、僕は何故だか重大な秘密を暴露してしまったような気持ちにさいなまれた。

 職員室は、僕と先生の密談に気を利かせたようにひっそりとしている。廊下をぱたぱた走る生徒の足音と、先生がキーボードを打つ音と、たまに、僕のように先生に相談事を持ってきた生徒の話し声がぼそぼそ聞こえるくらいで、あとはコーヒーの香りだけが辺りを自由に漂っている。

 僕は、誰かに聞き耳を立てられていやしないかと無性に心配になった。悪事の相談をしているわけでもないのに、目の前にいる先生以外には、誰の耳にも入れてほしくないと思ったのである。

「先生は、高槻夏乃を頭のおかしいやつだと思わないんですか?」

「驚いた。そんな風には思わないよ。北守きたもりは、どうしてそう思うんだい?」

「あんなに堂々と妄言を吹聴していれば、気が触れているんだと考えるのが普通だと思います。……でも、誰にたずねても同意見の人に出会えないんです」

「高槻について考えているというのは、つまりそういうことなんだね」

 先生は、なるほどねと言いながら薄く蓄えたひげをじょりじょりさすった。何かを考えるようにうーんと唸って、スウェット生地のズボンのポケットから徐にあめ玉をひとつ取り出すと、ぱくっと口に放り込む。しばらくそれを口腔内こうくうないで弄んでから、思い出したように僕にも同じものをひとつ握らせた。

「実は、先生は化石の発掘が趣味なんだけれど」

「知っています。以前、アンモナイトの化石を頂きました」

「そうだっけ。まあ、それで、高槻はたまに、僕のところへお喋りしに顔を出すんだけどね。この間、発掘したばかりの化石を高槻に紹介したら、彼は爛々らんらんと目を輝かせて話を聞いてくれたんだ。あんまり食いつきがいいもんだから、先生は嬉しくなってしまって、その化石を彼に譲ろうと思って差し出したんだけど……。その時彼は何て言ったと思う?」

「さあ。何て言ったんですか」

「明日ください、だって。大真面目な顔で言うもんだから、僕はもう可笑しくて可笑しくて、思わず声を上げて笑ってしまったんだけれどもね」

 思い出しながら笑いだしてしまった先生は、ちょっと待ってと言うように右手を挙げたまま、くつくつと肩を震わせている。一体何がそんなに面白いのだか、僕にはまったくわからなかったが、先生が回復するまでの間、貰ったあめ玉を口に放り込んでころころ転がしながら待つことにした。やっぱり、変なやつじゃん。

「……それで、翌日になって高槻はまた僕のところへやって来たわけだ。僕が化石を引き出しから取り出そうとすると、彼は『待て』と言って、僕の前にA4サイズのファイルを広げてね。一体何が始まるんだと思ってじっと様子を見ていると、そのファイルには、どこだかのウェブページを印刷した紙や雑誌の切り抜き、手書きのメモなんかがファイリングしてあった。そして、それらを並べながら彼は僕にこう言ったんだ。『今からそれが何の化石かを当てるから、正解できたらください』。彼は見事正解して、僕から三葉虫さんようちゅうの化石を受け取って帰っていった」

「三葉虫……」

「つまり 先生が何を言いたいかというとね。高槻夏乃という子は思ったよりもずっと努力家で面白いやつだから、回りくどいことは止めて、直接関わってみたらどうかな、ということだよ」

 先生はそう言って、僕の頭に大きな手を乗せると、そのままわしわしかき混ぜた。「もちろん、頭を使って考えるのはとても良いことだ」


 僕はいよいよわからなくなってしまった。

 およそ十七年の歳月をかけて培ってきた知識を総動員しても、やつが特別な話法を用いて聴衆を洗脳しているというかくたる証拠はまったく掴めなかった。では、やつの何が聴衆を魅了するのかと聞き込みに取り組んでみても、その理由は実に様々であり、いささか釈然しゃくぜんとしない。まさか、本当に高槻夏乃という人間的魅力だけて、こんな異常な事態が成立しているとでもいうのだろうか。なんて恐ろしいことだ。もし、僕が立てたこの仮説が本当だとしたら――。

「わかりました。本人と直接対峙することにします」

「とても良い心意気だと思うけれど、でるだけ穏やかにやろう。先生はそのほうが嬉しい」

「もう決めました」

 わずかに、心の底がむわむわ熱くなっていくような感覚を覚えた。

 先生はちょっと困ったような顔をしているけれど、僕は何故だかとてもどきどきしている。

 何としても、あのホラ吹きを人気者の座から引きずり降ろし、みんなの目を覚まさせなければならない。そんな使命感に駆り立てられた。


 僕はたぶん、高槻夏乃が大嫌いだった。

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