隣人は治安が悪い

絶山蝶子

外は雨だった。


ボロ屋と呼ぶにふさわしいアパートの1階角部屋で環宮恵はうつむき畳を眺めている。

襖の向こうの押し入れからカタカタとネズミが這う音が聞こえた。

目の前には美しい男が二人。

一人は若葉色のふわふわしたパーマをかけたツーブロックの派手な顔の男だった。


男の名は三村啓太という。心霊探偵という怪しい肩書だが能力は本物で腕はからっきし。顔の良さだけで顧客満足度を120%叩き出しているという。

その噂は恐らく本物だろう、と納得がいくほど整った顔立ちをしていた。

タレ目で下まつげが長く甘く優しい印象を持たせる顔が、この世のすべてが味方しているかのような自信に満ちた表情で部屋の隅々を見渡している。

バイト先の後輩から紹介された男は黒いスーツに身を包み大人びて見えたが、年は若くつい先日まで高校に通っていたと聞いた。

二十歳を過ぎても垢抜けずよく補導をされる自分とは違う。



「大丈夫?」

もう一人の男が環宮の顔を覗き込んだ。

癖のある長い前髪と長いまつげから覗く瞳は澄んだ青空の色なのに、時折光に反射し蛇のようにギラギラと輝いている。三村とは違った美形で、海蛇謡という隣に住んでいる住人だ。

そして環宮が三村を雇い部屋に呼んだ原因でもある。


二人の男の視線が環宮の後頭部に降り注ぐ。

首を振り、謡になんでも無い旨を伝える。

本音を言うと気分が悪かった。昼に食べたカップ麺が胃の中を泳ぎいつ飛び出してもおかしくないほど胃の中がざわざわとムカついていた。

背中をさする謡の手は優しいが、咥えたタバコを顔に近づけるのはやめてほしい。

喉まで出かけたぐっと堪える。元より謡に反論するのがとても怖かった。



***

「事故物件には事故物件ですよ」

バイト先のメガネが似合う爽やかな後輩があっけらかんと答えた。


環宮恵は何事もついていない青年であった。

小中高と友達は少なく、大人しく根暗で引っ込み思案。ガラの悪い同級生や上級生から気入られ、いじめとまではいかない可愛がりを受け、大学に入っても縁が切れずパシリとして扱われている。

実家は最近父が若い女と再婚し、自分と歳が近い継母とどう接して良いのかわからず、居辛くなって今のアパートに越して以来一度も帰省していない。

先日、半グレになってしまった地元の先輩に騙され300万の借金を背負ってしまった。

コンビニのバイトだけでは返済が苦しくなり途方に暮れ始めた頃に隣に引っ越してきた男が海蛇謡だった。

男は引っ越し初日に菓子折りを持って挨拶にやってきた。

人を見た目で判断してはいけない、と建前で思ってはいるが、自分が接してきたどの半グレより恐ろしい風貌に固まってろくな返事を返せなかった。

両耳、眉、唇に無数のピアスを施し、クビからした全身は黒のみで描かれた入れ墨が服の隙間から常に覗いている。

長い前髪から覗く瞳はぎょろりと大きく獲物を狙う蛇のような鋭さで環宮の姿全身を貫いた。

怯えながら受け取った菓子を食い尽くす前に、謡は女を部屋に連れ込むようになった。それだけならなんの問題はない。上の階の連中など毎週飲めや歌えの大騒ぎを起こして大家と喧嘩している。

この部屋の壁は薄い。普段不気味なくらい隣人からの生活音は全くと行っていいほど聞こえなかったのに、それは夜、異様なほど環宮の耳にまとわりつき睡眠を妨げた。

女のすすり泣くようなか細い悲鳴。

情事の声だけならまだ耐えれたかもしれない。やがて女を連れ込んだ全ての日で暴力を振るうようになった。小さかったすすり泣きは次第に大きくなり、謡の怒声と交えて鼓膜をひどく震わせた。

一晩中続いた悲鳴と怒声で寝不足の環宮に謡は翌日、何事もないように明るく「おはよう」と挨拶をしてきた。

引きつった声で絞り出した返事に嬉しそうに無邪気で満足げな微笑みを浮かべ無言で圧をかける。

”昨日のことが聞こえているんだろう?でも黙ったままでいておけよ。”

実際の謡の真意はさておき、環宮は脅しとして受け、喉元を蛇に巻き付かれた緊張を覚えたのは確かだった。



その日から隣の部屋の治安は悪くなった。

何かを強く叩く音。肉が潰れる音。女の悲鳴。こぼれ落ちる液体の音、低い怒声。薬剤の臭い。壊れたおもちゃのような笑い声。肉が腐る臭い。黒服の男達。 呻き声が聞こえる裏庭のドラム缶。

街で見かけたとき、飲み屋でパールのようなものを振り回し大の男5,6人を相手に大立ち回りをしている姿、自分が金を巻き上げた半グレが怯えながら頭下げていたヤクザが大汗をかきながら土下座をしている姿、黒塗りの高級車にドアを開けてもらい乗り込んでどこかに出かけていく時、謡がただの半グレではないことを知った。

大声で借金の細則に来た男が謡の顔を見て腰を抜かし走り去って以来、取り立てが家に来ることはなくなったし、自分をぞんざいに扱っていた地元の先輩たちがはれものを扱うように接してくるようになった。そのうち態度を変えなかった何人かは姿を消し二度と環宮の前に現れることはなくなった。


謡は、自分にはとても優しかった。

悩んでいることや困っていることがないか、ちゃんと食事を取れているか、借金はどのくらい減ったのか、作りすぎたおかずを持って環宮の部屋をよく訪れるようになった。

得体の知れないソレに環宮は恐怖で兎に角逆らわないように刺激しないようにビクビクしながら接していた。極力視線を合わせず、話はただ頷き、ダラダラと長居する謡を追い返すこともなく好きなようにさせていた。

おそらくそれが駄目だった。

謡はするりと蛇のようなしなやかさで環宮の生活に入り込んできた。

おかえり、という言葉がルーティーンになり夕食をともに食べ休日は共に過ごしそしてバイトに出かける時はいってらっしゃいと送り出される。

謡は女を環宮の部屋には決して連れ込まなかったし、タバコこそ遠慮なく吸うが服用する薬には絶対触らせようとしなかった。

甘美な謡の優しさに体を許すまで時間はかからなかった。告白らしい告白は一度も受けていない。

可愛い、可愛いと幼子をあやす親のような慈愛の瞳で見つめられ恐怖の中に交じる奇妙な優越感に依存してしまいそうになる。


なにより謡は顔がバチクソに良かった。


今まで見てきた中で1,2を争うほど美形だったのだ。

いいか、この顔相手なら。

遊ばれていようがいっときの気まぐれだろうが、この顔のこの立場の男が自分にだけその美しい顔で穏やかな優しい笑みをむけてくれるなら。

しかし顔の良さだけでは日々悪くなる部屋の治安に頭を抱え始めた。

ストレスで夜も碌に眠れない日々が続いた。

腹に溜めた鬱憤をどう仕様もなく持て余し、ついバイト先の仲良くなった後輩にポロッと隣人トラブルで悩んでいる旨をこぼしてしまったとき、帰ってきた反応が冒頭の一言である。


「ようは治安の悪い隣人につきまとわれて困っているわけですよね?」

「うん…」

後輩の少年はまっすぐ視線を環宮に向けたまま淡々と述べた。

「追い出しましょう、そんな奴は。」

引っ越しましょうと言わなかったのは環宮の厳しい懐事情を知ってのことだったのだろう。話したわけではなかったが、身なりの小汚さから何かしら感じ取っていたのかもしれない。

「相手を追っ払うしか無い。」

なら…眼鏡の端をくいっと持ち上げ後輩は得意げに答えた。

「玄関先でうんこしてやりましょう。一発ですよ。」

「物理的に殺されてしまうよ!」

知的な顔立ちをした短髪の爽やかな顔から出たとんでもない提言に思わず激しく首を横に振った。なんてことを言い出すんだ。

「でも相手は暴力を振るうんでしょう?」

「俺には一度もないけど…連れ込んだ女性ややってくる男たちには毎回…」

「下手に刺激すると何されるかわかったもんじゃないですよ。」

「うんこなんてしたらそれこそ何されるかわかったもんじゃねえよ!」

「うんこだからこそ、ですよ。環宮さん。」

脱糞のなにがセーフなのか、脱糞だからこそとはどういうことなのだろうか。

「例えば大家に訴えかけたり張り紙をしたり、直接抗議しようもんなら相手は反社…半グレどころか完グレでしょう、環宮さんも裏庭のドラム缶の仲間入りですよ。でも…うんこは違う。」

後輩の顔は至って真面目だった。

「うんこなら”漏らした”で通ります。漏らした現実に耐えきれず放置した…で押し通せばこちらに故意がないとアピールできる。現に便意はどうしようもありません。回数が増えれば”お隣さんはいい子だけどうんこ漏らしマン”として距離を取って引っ越してくれるかもしれません。」

「俺が社会的に死なない?」

「覚悟の上でしょう?」

「それは、やるなら覚悟の上だけども…やる勇気がないよ…もし、逆鱗に触れてしまったら・・・」

と言いかけて環宮は一度、飲みに連れて行って貰った先で酒に酔い謡の服に思いっきりゲロをぶちまけたことがあるのだが、謡は怒ることなく体調を心配しおんぶして家まで送ってくれたことがあった事を思い出した。

「うんこじゃあ怒らないし呆れない可能性もあるんだ…」

「ああ。そういう層もいますね。その時は全裸でびっくりするほどユートピアと叫びながら夜中に蝶のように舞いましょう。」

「俺の精神が死なない?」

「今だって緩やかに死んでいってますよ。」

本当になんてことを言うんだ。しかしはたから見ればそれだけ環宮が疲弊しきっている状態なのかがまるわかりもしれない。後輩のメガネに反射する自分の顔色は土気色だった。

「では別の方法で事故物件にしますか?」

「別の方法…?」

「ええ。例えば、心霊現象で精神をめちゃくちゃに削ってしまえば相手は引っ越すかもしれません。」

「でもなにか出たなんて一度もないぜ?」

古くてボロく日の当たりも悪いアパートだが、心霊のたぐいが出たことは今の今まで一度もなかった。

「だから……おびき寄せるんですよ。」

「幽霊を…」

おずおずと顔をあげようやく環宮は後輩の瞳を視線を合わす。にっこりと笑みを浮かべ、後輩は答えた。

「僕、学校の先輩にそういうのが得意な人がいるんです。」



***

そうして紹介された相手が三村啓太である。

心霊探偵を自称し、降霊術を得意としているらしく幽霊をおびき寄せこのアパートを事故物件にするために自宅に招いたのだ。

正直胡散臭いと思った。でも藁にも縋りたいほど追い詰められていたのも事実だ。

顔だけで顧客満足度120%という謳い文句に惹かれたのも間違いない。

結局のところ、環宮は面食いなのだ。自覚しても直しようがない性癖だった。

「いやしかし、お前肝座ってんな。普通原因を呼ぶなんて出来ねえぞ?」

部屋に入るなり三村は乾いた笑みを浮かべた。


そう、謡が部屋に来たのだ。

正確には無理やり部屋に押し入ってきた、だが。


交友関係に乏しい環宮が派手な顔のイケメンを部屋に呼んだので、怪しんでやってくるのは無理はないことだった。

何事かと問いただされ「事故物件で悩んでる」とだけ伝えた。その原因が謡であるとはあくまでぼかしたが、察しがいい彼は一言「ごめんなあ」と謝った。

「うるさかったろ、女が、毎晩。ほんま、気ぃ使わんで悪かった。」

「いえいえ!謡さんは悪く…うん…はい…その、俺が我慢できないばっかりに…」

「ふーん、自分が原因だってはっきりわかってんのか。そして絶対に引っ越さない強い意志すら感じる。」

顔がいいと自信につながるのだろうか、襖の前で足を崩し、どっしりと座ってはたまに機嫌良さげに堂々とあたりを見渡していた。

初対面で謡を見た人は大抵まず入れ墨に驚くのだが三村は態度を変えなかった。


部屋に入りぐるりとあたりを見渡し時折目を細め何かを見つめていた三村は、時折ネズミの這う音に振り返り険しい顔で睨みつけていたが、なにかに納得したのかうん、と頷いてすっと座り直しさて、と姿勢を改めた。

「俺への依頼は”この部屋を事故物件にしてくれ”であってるよな?」

「…えっとその、しなくていいです…ごめん、有難う。もう大丈夫だから…あ、支払いはちゃんとするよ、だから…」

謡を前にやってくれとも流石に頼めなかった。一応謝ってくれたし、今後改めるとは限らないが、悩んでいることは伝わったのでこれで良しとしたかった。建前上「事故物件に悩んでいる」なのだから、これ以上謡の前でこの話をすることが恐ろしかった。この後のことを考えると頭が痛いのだ。

来てもらって何もせず即返されるなど、怒られるかと思ったが三村は納得したようににうんと頷いた。

「そうだよな、これ以上!って感じだもんな」

「もう既に幽霊物件なのか!?」

「いやここじゃなくて隣が。なんだが…いやあ、よくこんなやばい部屋に住めたな。」

「隣の部屋が!?」

「え、俺の部屋?」

「今年に入って二人死んでるだろ。」

「具体的な数までわかるの?!」

「しかしまあ」

恵の叫びを遮るように大きめの声で謡が会話に割って入った。

「心霊探偵?ね。俺のシマでこんなアコギな商売しょうるやつおるとは知らんかったわ。」

態度こそ普段と変わりないが、声色は明らかに不機嫌さ含んでいてざっと背中に氷水を浴びせられたような悪寒が走った。謡は環宮の部屋にこそ女を連れ込まないが、環宮の目の前で容赦なく他者を殴る。それこそ些細なことで、環宮相手なら絶対に怒らないような、ほんの些細なことでキレ散らかし相手を真っ赤に染め上げることはよくあった。

「お前、六坂んとこの坊と同校じゃろ。」

六坂とは誰のことなのか環宮は知らなかったが三村はピクと眉を動かした。謡はタバコを灰皿に押し付ける。

「てっきり挨拶に来たと思うたわ。それか恵くんにちょっかいだしにきたか。アホなこと吹き込みに来たか…」

屈み込み三村の鼻に唇が触れるほど近づきふーっと煙を押してる。三村は真顔のまま一切動じることも咳き込むこともなくじろりと睨み返した。

「最近の若いもんは、しつけがなっとらん、のう?そう思わんか?」

「話変わるけど、あんたチンコにピアスあけてねえか?」

「やっべえ!こいつ”本物”じゃ!」

謡は驚いて畳を蹴って後ろに後ずさった。今まで見たことがないくらい焦った顔をしている。

「なんで知ってるんですか…?」

引きつった謡の顔を自信ありげに笑う三村の顔を交互に見ながら、環宮は訪ねた。

謡の股間にはフレナム・ピアッシングが施してある。

尿道に通すのは流石に痛そうなのでやめた、と初めて見て言葉を失った環宮に笑いながら答えたのはつい最近のことだったはずだ。

その事実を知っているのは、謡と性行為をした環宮とここに通う女達、トイレに入って隣になった人、ぐらいしか知らないだろう。少なくとも初対面の三村が知っているはずがない。謡は三村のことを一方的に知っていたようだが、三村は未だに謡の名前すら知らないのだ。

「アンタの部屋にいいる霊は、そりゃあ深い恨みを遺して死んでいって、その矛先はアンタだよ。」

「俺がトドメ刺したんじゃないのに…」

「死に追いやったのはアンタだろ?いつ伽椰子レベルになってもおかしくねえ、それぐらい悲惨で哀れに死んでいった連中だ。だが…」

三村の顔から自信が消え、嫌悪感がにじみ出始めていた。顔がいい男の表情は逐一様になる。何故自分の周りの男はみんな顔がいいのだろう。三村を紹介した後輩も普段は雑誌の読者モデルだ。不公平だ。

「アンタの霊力がそいつらよりやたら高えんだ。その霊力が股間のピアスに集まって威嚇し、これだけの物件で心霊現象を一切起こさない。」

「…ピアスなんか…入れ墨とかじゃなくて…」

「墨はただの墨だろ。」

「でもなんで股間…?耳のうちどれかっちゅーことは…」

「いや股間。童貞だったらもっと強かったかもしれねえけど、それでも十分強い。」

謡と環宮は、はぁーっと息を吐きながら謡の股間を覗き込んだ。

ここについているピアスが、そのような役割を果たしていたのか。

三村は指で環宮を指したあと謡が吐いたタバコの煙を遊ぶようにくるくると回した。

「よほど、そいつを守りたいんだろう。現にそいつに取り付いた一番やべえ生霊はこの部屋に入ってこれねえしな……生霊は…まあ、うん。………そのピアスがついている限りここにいる厄介な連中は誰もあんたら二人に手出しはできねえ。」

「守ってくれているんですか…」

自分を守るために。

そういえば謡はずっと環宮を甘やかしながら「守ってあげる」を口癖のようにささやいてた。

環宮には決して怒らないのも、環宮を大事に思うからこそなのか。

環宮が怯えて暮らす原因は紛れもなく謡のはずなのだが。


「どうして?謡さんは…優しいんですか?どうして、俺を大事にしてくれるんですか?」

いつも訪ねたくて聞けなかった疑問を、やっと、環宮は口にすることが出来た。

股間を見つめていた謡は顔を上げ、一瞬きょとんとした顔で環宮を見つめ、そしてふわりと微笑んで答えた。

「君が、とても好きじゃけえ、かな。」

面と向かって伝わる好意に耳まで赤くなるのを感じた。ガタリ、とふすまから大きな音がした。ネズミよけを薬局で買ってこなければいけない。

湧き上がる羞恥と幸福はいたたまれない優越感を呼び、思わず環宮は視線をそらした。それ以上どうして、とは聞けなかった。


「あ!そ、その怖く、ないんですか?その、謡さんは…おばけとか…」

照れ隠しで露骨に話題を変えたが謡ははぐらかされたことに対して何も言わなかった。

ああ、と頷いたあとうーんと首をひねり頭をポリポリとひっかく。

「どうなんじゃろ、だって実在せんのだし…それに…」

新しいタバコを取り出すと火をつける。吹いた煙は環を描き天井へ消えていく。

「死んだ”先”で俺に勝てると思うてつきまとっちょるなら、めでたい連中よの。」

「さすが!股間がホタルみてえに光ってる男は言うことが違うぜ。」

「ちょっと待て、お前の目から俺は一体どう見えようるんか?」

駄目だと思いながらも環宮は謡の股間を凝視せざるを得なかった。これからは彼の一物を奉仕する度にホタルを思い浮かべるのだろう。

「チンボタル氏が良ければ、隣の部屋にいる奴ら祓ってやるけど?」

「トシジエル弟よりひどいあだ名付けられたもんじゃ…」

「え!?知阿那のトシジエルが身内にいるのか!?」

「くそ、やっぱ語り継がれよる…」

「あなた方、もしかして同郷なのですか?」

トシジエルが気になったが、よほど触れられたくない話題のようで謡はうつむいてタバコをくしゃりと灰皿に押し付け答えることはなかった。

「で、どうなんだ?チンボタル氏。相手が強いからそれなりの額は貰うぜ?」

うーんと謡は再び首をひねった。

こんな屈辱的なあだ名を付けられても怒らないあたり、謡の知る三村の同校の「六坂」とやらは相当やばい相手なのかもしれない。いつもなら割れたビール瓶片手に相手を殴り飛ばしている。

「そうしてくれるのは有り難いが、それは俺が背負うべき業じゃろう。チンピのお陰で威嚇できて恵くんに危害が加わらんかったらそれでええ。」

「謡さん…」


いや、ちゃんと祓ってもらってくれ。


今この時間お金を三村に払っているのは俺…だと言いかけて、環宮はグッと飲み込んだ。

そもそも謡が殺人未遂をしなければ事故物件にはならなかったはずである。

「それより被害者遺族から俺の部屋を事故物件にしやがった件で慰謝料むしり取れんかな?」

「発想が悪魔かよ。」

「まあ殺したのは俺じゃないし…」

「中に出さなければセーフより酷いくらいクソミソな理論だな。」

「恵くんよりお前の方が肝が座っとるよ。そこまでわかって警察にはいかんのじゃろ。証拠を残すほど俺もバカじゃないが…いいね、いい感じに倫理観死んどる。」

品定めが終わったのが、謡はようやく苛立ちを解いた表情で三村を眺めた。とりあえずのところ、三村を敵ではないと認識したようだ。

「俺はアンタに会うのは初めてだし、アンタの名前も素性も知らねえ。がここにいる悪霊の肩を持つほどお人好しじゃないし、生きてるアンタを敵に回すほど愚かじゃない。ただ、一言、これだけは言わせてくれ。」

三村はすっと立上たり、環宮と謡を見下ろす。その顔ははっきり侮蔑の色が含んでいて環宮は背筋に汗を流した。

「俺が死んだら、その”先”でアンタに勝てるぜ。」

「・・・」

静かな牽制であった。はっと気が付き、環宮は全身から力が抜けるのを感じた。


三村の命自体、今まさに危なかったのだ。


謡はとどめを刺してないと言いながら、刺さないとは一言も言っていない。

環宮の前では一度も殺しはしていないものの、それは今までの話で、暴力は常に振るっていたし、謡にとって都合が悪い存在ならいつ牙を向いてもおかしくなかった。

そういう危険な立場に置かせたのが他でもない環宮であること。

謡がいない時間帯に呼べばよかったのにやらなかった落ち度。

自分の軽率な判断が、いつ無関係な人を殺してしまうかわからない。

喉から嗚咽がこぼれた。

罪悪感と、恐怖。

「恵くん、どうした?大丈夫?」

心配そうに背中を擦る謡の手は優しい。

この場でこの怪物の手綱を握るのは他でもない自分だった。

怪物の好意に対する優越感が麻痺させていた、他者が傷つくことに対する嫌悪感が胃の中を駆け巡る。

自分勝手な保身が、人の命を左右する。

やはり、自分が出ていくしか無い。

出ていった先で謡がついてこないとは限らない、もし、謡の目的が気まぐれではなく自分だとしたら…という疑問が自意識過剰ではなく本物だとしたら…

先々で自分が疫病神になるだろう。

結局のところ、環宮は自分本意な性格だ。それは耐えられないほど恐ろしかった。

「お前。おもしれー男じゃの!」

何がツボに入ったのか謡はゲラゲラと声を上げて笑った。その間も三村は嫌悪と侮蔑を隠すことなく終始軽蔑した視線のまま、謡と環宮をじっと見ていた。


雨はやまない。

風も出てきて窓が強く揺れた。外の獣が中に入り込んで来るのは無理がない。

「………やっぱり全裸で踊りながらうんこするしかないのかなあ…」

「なんで?」

「いや確かに効果的な除霊方法ではあるが…どこで知った?」

「謡さんは俺が突然全裸で踊りながら家の前でうんこしたら、俺のこと嫌ってくれますか?」

「嫌わんよ!とりあえず病院を紹介するわ。」

「……ですよねえ。」

振り出しに戻った。

無償の愛の出どころもつかめず、隣人の治安が悪い事故物件は隣人と心霊の治安が悪い物件になり、環宮は悩まされる日々を送るのだ。


「俺は、幽霊より生きたねずみのほうがよっぽど怖いよ。」

飛び散った肉片をかじる姿を初めてみた時の足元が崖っぷちに立たされたかのような恐怖感。

環宮が精一杯吐き出した抵抗に謡ははっと気がついたように三村と顔を見合わせた。





「焼肉食べに行こう。」

思うついたように謡が立ち上がり、環宮の腕を引っ張った。

「こんなところで睨まれながら百物語始めるより、焼肉屋で猥談したほうがよっぽど健康には良さそうじゃ。」

「それがいい。俺もそろそろ頭おかしくなりそうなほど怖かったんだ。」

三村も同調し部屋をずかずかと後にする。

「あの、焼肉って…今?」

「肉は何時に食べてもいいんだよ、恵くん。」

スマホを取り出しどこかに連絡を入れる。車を呼んでいるのだろう。謡は免許を持たない。

「カルビ丼食いてえな。」

「お前も来るのか。まあ、いいわ。肉は大勢で食べるほうがうまい。」

今日は奢りじゃ。

アパートの屋根の下で雨音を聴きながら謡が呼んだ車を待っている。

「アンタ、ネズミ怖いんだな。」

「えっ?ああ、うん。」

ほぼ独り言のような三村の言葉に侮蔑の色は消えていた。愚者を憐れむような、居心地の悪い同情をまっすぐに向けられ環宮は思わず下を向いた。


「そうだよな、生き物の方がよっぽど怖えよな。」

「5,6人呼んだが、はたして勝てるかねえ…」

「えっ?」

黒塗りの高級車が数台アパートの前に停まり、そのうちの一台に三村と謡とともに乗り込んだ。

「恵くん、今日はホテルに泊まろうか。引越し先を一緒に探そう。あの部屋、暫く臭いと思うわ。」

武器のような何かを抱えた数人が、自分の部屋に入るのを見た。












***


雨音以外の音がして、押し入れの襖から男はぬっと這い出した。

右目から額に施されたタトゥーが光の反射で黄金色に輝く。

右手の小指はなくバランス悪そうに持ったスマホの画面にはまだあどけなさが残る青年の顔が何枚も写し出されていた。

はちみつ色の目を細めため息を付きながら画面を眺める。もう片方の手で愛おしそうに写真をなで上げ、男は長い髪をかきあげた。


怒声が聞こえる。

品のない奴らだ。


「入っておいでよ。逃げも隠れもしないから。」

そう言って、”彼”からは恥ずかしくて顔を出せない自分の情けなさに苦笑いがこみ上げる。


転がっていたビール瓶を壁に叩きつけてかち割ると、男は玄関の方に向かって歩いていった。





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