いつか見る八月の青い空

岡田旬

いつか見る八月の青い空

 スロットルレバーから伝わってくるハ45「誉」の 振動は力強い。

和樹の耳朶を打つその咆哮は、二千馬力級の力を叩きだす発動機に相応しい音声だ。

 和樹は警報を受け緊急発進の任についている。

愛機を駆り駆け上がる八月の空はいつものように青く澄んでいる。

地上から五千メートルも上昇すれば蒼穹という言葉のイメージ通りの青に出会える。

 宇宙空間と地上の間に挟まれた大気の青は悠久の時を湛えている。

もちろん、大気の青はちっぽけな人の営みなどには無関心だ。

だからこそ、その大気の中心を真っ直ぐに急上昇していく限り。

青そのものの純粋さが和樹の魂と肉体を無垢なる高潔へと洗い清めてくれるような気がする。

 そうして一メートル高度が上がる度さっぱりしていくこの心と体を、大気の青が消える更にその先へ。

星々が住まう優しく冷たい真空の黒へと、自分を連れて行ってくれないだろうか。

和樹はスロットルを全開にして操縦桿を目いっぱい引く度にいつだってそう望んでいる。

自分が駆る天馬、キ84 四式戦闘機「疾風」の疾駆に子供じみた願いをかけてしまう。


 富士山を目標にして日本にやってくる敵の爆撃機は、戦闘機が護衛に付くようになってからは余裕で昼間の爆撃を行う。

和樹にとり大切な人が暮らすこの懐かしい土地を敵の仕事から守らなければならない。

和樹は天馬を駆り、護衛戦闘機を蹴散らして爆撃機を屠りに行かなければならない。

だがいくら和樹が頑張ろうとも、現在この土地を管理運営している政府は早晩滅びることになるだろう。

それは戦争を始めた最初の最初から逃れようのない事実だ。

 なんとかなるだろうと営々と安易な決断を下し続け。

起こって困る厄介ごとは起こらないに違いない。

そう楽観し続けてここまでやって来た夜郎自大で愚かな大人たち。

この国に生まれた者の義務とは言え、そんな大人たちの尻拭いをさせられるのはいい迷惑だと思ってきた。

 だがある時和樹は根本から考えを改めた。

今眼下に広がるこの土地とそこで暮らす大切な人のためであれば仕方がない。

大好きなこの大空で殺戮の血を流すことも厭いはしない。

和樹は自分の形而上的主題を、たった一人の人間存在に定めることにしたのだ。

その他のことはもうどうとでもなれ。

滅びたいのであれば遠慮なく滅びよ。

そう考えると気が楽になり敵に立ち向かうのが楽しくさえなった。

 和樹も和樹の友人たちも。

知り合いですらない同年代の者たちも。

負けと決まった戦に、皆こうして御呼ばれしている。

戦に負けることが確定してる政府の禍根を断つ贄になれとお願いされている。

和樹はひとりそのくびきをコケにした。

 

 開戦の朝、凍えるほど寒い教室の黒板に教授が書き連ねたのは、小さい数字と大きい数字だった。

人口から始まる工業や農業、貿易、兵力、国民の年収に至るまで日米を比較する統計値だった。

一言も物を言わない教授は、学生達が板書をノートに取り終える頃合いを見計らって、黒板消しを手に取った。

教授はゆっくり丁寧に黒板消しを使った。

そうして板書を消し終わると、教授は一言の解説もしないまま通常の講義を始めた。

 いやしくも最高学府に学ぶ程の知性と教養を備えた学生ならば。

客観的事実に基づいて、始まったばかりのこの戦争がどうなるか。

その行く末について、各々で推論を立ててみせろ。

そうした意図だったろうか。

 善と悪、誠実と不実、好きと嫌い、怯懦と蛮勇、利益と不利益、得と損・・・。

客観的であろうと努力する目を曇らせ惑わせる言い訳は山ほどある。

だが和樹は生来素直な性質だったので、数字を一瞥してたちまち結論を得た。

「必敗」

深く考えるまでもなかった。

 講義の終了後級友の間では当然議論になった。

だがみな等しく得たはずの結論を口にする者は一人も居なかった。

お調子者が精神論をぶち上げてみせても、当の本人がそれをつゆとも信じていない。

そうである以上、中身のない精神論は質の悪い冗談にしか聞こえなかった。

 

 開戦からほどなく学生も戦場に駆り出されることになった。

反対を唱えることも逃げることも自殺以上に無意味なことだった。

必敗の確信を胸に秘めていても、必勝を口にしてそれ願うのは簡単なことだった。

なぜなら分別のある大人も分別のない子供も。

ものが分かった子供もものの分からない大人も。

みな等しく同じ様に振る舞ったからだ。

 みな自分が茹でガエルであることには気付かないふりをする。

火勢が強まりつつあるものの、みな一緒にまだぬるい湯の中に居る。

何れ熱湯になることが分かっているのに、誰もそこから出ようとするものはいない。

みながそう振る舞う以上、自己欺瞞など和樹にとってもお安い御用だった。

 

 和樹はその他大勢の若者と同様、自分がこの戦さの幕引きに必要な贄であることを強く自覚していた。

戦なんてものには敵味方双方が納得できる大義名分なぞありはしない。

正義も不正義も存在しない。

そこにあるのは、責任を放棄した卑怯な大人が捏ねまわす屁理屈と、誠実とは無縁な薄汚い功利の野心だけだ。

そんなこともはなっから承知している。

だから和樹は、どうせ大人の尻拭いをやらされるのなら良かろう。

自分の好きなようにしてやる。

そう考えて自ら空の戦場を選んだ。

そして今「疾風」のコクピットに居る。


 「見て子猫」

水音がほほ笑みながら和樹を見上げた。

「廃屋だな。

古いけど昔は立派な屋敷だったんだろうな」

八月の空を眩しそうに振り仰ぐ和樹の顎の先から汗が滴る。

「このお屋敷もう人が住んでないみたいだから。

誰かが捨ててったか、ママ猫がここで産んじゃったんだよ」

ミュウミュウなく子猫を抱き上げた水音が立ち上がる。

 「他に子猫はいないみたいだぜ。

兄弟とかいないのかな」

雑草が生い茂る玄関脇や門からのエントランスを調べた和樹が水音に声を掛ける。

「そうね」

「とりあえず公園まで行こう。

こんな日差しの下にいたら子猫ばかりか俺らまで焦げちゃうよ」

「そうだね」

 

 ふたりは高台の中腹に建つ廃屋の玄関先に居た。

駅から少し歩くと道は下り坂になりやがて大きな公園にたどり着く。

水音と和樹はその公園でボランティアを務めるためにやってきた。

 公園では今日、地域の子供たちを集めてキャンプが行われる。

ふたりはその手伝いに駆り出された大学生だった。

ふたりの所属するゼミの教授がキャンプを主宰する団体の顧問を務めている。

その関係でふたりとも教授にボランティアを引き受けさせられたという訳だ。

水音と和樹は東京者なので夏休みでも在京している。

そのことがふたりにとって運の尽きだった。


 坂を下り切れば公園の入り口と言うところで水音が子猫の鳴き声に気付いた。

一戸ごとの敷地が広い閑静な住宅街だが、子猫の鳴き声が聞こえてきた家は廃墟だった。

家と言うよりは、お屋敷と呼ぶのが似つかわしい廃屋には、生活の気配がまったくない。

どうやらもう長らく人が住んだことのないお宅のようだ。

お屋敷の敷地は広く、朽ちた門から玄関先までのエントランスは石畳になっていて車回しまである。

 水音は子猫の鳴き声を聞きつけると立ち入り禁止と書かれた門からひょいと敷地内に入り込んだ。

和樹はそんな水音の自由過ぎる振舞にはもう慣れっこなのだろう。

窘めるでも慌てるでもなくそのまま水音の後に続いて門内に侵入した。

 「子供や父兄がいっぱい集まるからさ。

誰か飼ってくれる人がいるんじゃね」

和樹がお気楽そうに伸びをする。

「そうなら嬉しい」

「貰い手が見つからなくてもオヤジに頼めば何とかなるっしょ」

「こんな時、おじさまは最後の頼みの綱ね」

「いい迷惑だっていつも溜息つくけどな」

獣医なんだしそれも仕事の内だよと和樹が無責任なことを言う。

水音も水音で、なんにも心配していないという顔で子猫の頭を撫でている。

 ふたりは幼馴染だった。

小学校から大学まで一緒と言う腐れ縁ながら、いつまでも仲良しだった。

双方の両親や兄弟友人たちも、始終一緒でよく飽きないものだと半ば呆れ半ばむず痒い羨望の眼差しで二人を見ている。

 八月の空はどこまでも青く、雲一つないのに雷の音が聞こえた。


 「子猫ですか。

これは珍しい」

和樹は目を丸くして水音を見た。

「そうですのよ。

今朝方お庭の茄子畑の所におりました。

鳴き声がしたので探したら。

茄子の葉っぱの上で こう鎌をもたげたカマキリの真下に。

この子がおりましたの」

水音は片手でカマキリの真似をしたが、招き猫のようにしか見えない。

「水音さん。

それでは怖いカマキリと言うより、可愛らしい猫ですよ」

和樹が嬉しそうに笑う。

水音はつば広の真っ白なサンハットの下で大きな目をすがめてニャアと鳴いた。

「こんなご時世でもまだ子猫が生まれるんですねぇ。

なんだかホッとするお話です。

今度基地からヤギの乳を持ってきますよ。

子猫ってヤギの乳は飲みますか?」

和樹が不安そうな顔をすると水音がパッと明るく表情を綻ばせる。

「明日、学校へ顔を出す予定がありますから図書館で調べてみます。

和樹さん、今日は父に御用ですか?」

「いいえ、先日水音さんにお借りした本をお返ししようと思いまして。

ウエルズの宇宙戦争は改造社版では読んでましたけど原書は初めてです。

そう言えばあの本も最初は、子供の頃に水音さんからお借りしたのでしたっけ」

「ウエルズ、ベルヌ、押川春浪。

空想科学小説って本当に面白うございます。

Amazing Storiesと言うアメリカの雑誌があるのです。

戦前に叔父が持ち帰ったものなのですけれど。

わら半紙みたいな紙に印刷された宇宙をまたにかけたおとぎ話がいっぱい載っていて。

パルプマガジンって言うらしいんですの。

これが血湧き肉躍る?

楽しくて楽しくて。

憲兵や特高の皆さんに言わせれば敵性文学になるんでしょうけれど、そんなのバカみたい。

差し支えなければ和樹さんにならお貸しします。

トランク一杯あります!」

憲兵隊と内務省警保局には極秘ですからねと水音が目を輝かせる。

 水音と和樹の家は父親が友人同士と言うこともあり、昔から家族ぐるみの付き合いがあった。

強いて言えば水音と和樹は幼馴染と言える。

水音は高等女学校から女子大に進み、和樹は旧制高校を終えた後帝大に進んだ。

 兎角男女の仲には制約の多い時代である。

ふたりは学校生活を共にしたことは無かったが、幼少の頃からお互いに気のおけぬ中であり続けた。

成人になりかけて最近は少し改まった口調で会話をしている。

子供の頃の無遠慮と野放図が影を潜めた分、ふたりがお互いを強く意識していることを伺わせた。

それをストレートに恋愛と言う関係性で説明はできないかもしれない。

だが、ふたりともいずれは一緒になるものと決め込んでいる節はある。

両家共にそれに依存があるわけではなく、戦争が終わったら正式に話を進めよう。

誰も口にはしないがそれが両家の人々の暗黙の了解事項だった。

 「今日はゆっくりできますの?」

水音は子猫を撫でながら和樹に屈託のない笑顔を向ける。

「乗機が整備中なんです」

実は昨日の出撃で敵の戦闘機と空戦になり、和樹の愛機はしこたま被弾したのだった。

運よく帰投出来たし和樹に怪我はなかったが愛機はズタボロになった。

帝都を守る戦闘機のパイロットであるとはそういうことだった。

和樹はいつでものんびりした笑顔を水音に向けている。

日々が死と隣り合わせであることを匂わせたことは無い。

自由に空を飛ぶ楽しさを語っても敵の爆撃機に肉薄する時の緊張と恐怖を話したことはない。

 こんな時代でも死ぬことはやはり恐ろしい。

それでも和樹が平然と戦いに赴けるのは、自分の生きる主題をたったひとつに絞り込んだからに他ならない。

水音を守る。

他のことどもはどうでも良い。

あえてそう自己規定し自分の戦いの主題を水音という少女ひとりに思い定めた。

「飛行機が故障してしまったの?」

「そういうこと。

これ幸いと半休取って、やって来てしまいました。

すぐそこが基地ですからね」

 

 水音の住む屋敷が建つのは東京の郊外だが、武蔵野の雑木林と畑地に囲まれていてまるで別荘のような趣がある。

屋敷の立つ高台の中腹から少し見下ろすと和樹の勤務する基地がある。

その基地は先年のドーリットル空襲を期に、帝都防空のため急遽建設された飛行場の内のひとつだった。

 屋敷は大正時代に建てられたものなので、基地の方がこの辺りでは断然新参者だった。

「子供の頃から遊んでいた場所に飛行場ができて、まさかそこに自分が勤務することになるなんて。

人生、先のことは分からんものです」

「和樹さんおじさんみたいな言い方。

可笑しい」

顎をさすりながら溜息をつく和樹をみて水音が笑い転げる。

「すっかり老け込んだおにいさんですねぇ」

水音は愛しそうに子猫に頬ずりする。

 八月の空はどこまでも青く、雲一つないのに雷の音が聞こえた。


 和樹は自分が酔っぱらっているのだろうかと怪しんだ。

酒を呑んだ覚えはないし変な薬物に触れた訳でもない。

さっきまで確かに、テントを張ったり。

薪を運んだり。

子供たち相手にふざけて走り回ったりしていた。

そうだったはずなのに、和樹はいつしか奇妙な感覚の中に放り込まれている。

森や広い芝地で賑やかに騒ぐ子供らに重なって、草も木もない茶色く広大な地面がひろがっている。

木々や芝生と二重写しになって見えるのは、毎日のように愛機の離陸と着陸に使っている滑走路だ。

愛機。

そう愛機で離陸し空戦を終えて着陸する。

そんな景色と記憶が現在の情景に重なるようにして意識の中に映り込んだのだ。

頭の中はまるで酩酊したようにぼんやりとしている。

だがその異常な状況に自分が全く違和感を感じていないのが不思議だ。

公園に重なるこのだだっ広い場所が飛行場であることを和樹は知っている。

その証拠に今しも五十メートルほど先の雑木林の中に、スロットルを全開にした戦闘機が離陸していくのが見える。

走り回る子供たち中を突っ切って飛び立つ戦闘機は、自分がいつも乗っている愛機と同じ四式戦疾風だ。

今風に言えばスクランブルだな。

和樹は水の入ったポリタンクを両手に下げたままそんなことをぼんやり考えている。

 戦争に負けた後、この飛行場はこんなに広くて美しい公園になるのだな。

子供や大人があんなに楽しそうに笑っている。

傍らには和樹と同様ぼんやりとした表情で突っ立っている水音がいる。

水音さんも元気そうだ。

僕の主題の置き方は間違っていなかったのだな。

 そろそろ火を起こす準備しないとな。

お約束の飯盒炊飯とカレーつくりだよ。

今日もあの日のように高く青い空が美しいな。

 さっきから時々大きな飛行機が飛んでいるのが見える。

ジェット機かもしれない。

軍用機じゃない。

旅客機だろうか。

 公園の上空は羽田のアプローチになっているみたいだ。

結構ひっきりなしに定期便が飛んでる。

スマホのフライトレーダーを覗いて見るかな。

 ふたりの和樹の意識が昭和二十年の八月と現代に重なり合い全くの違和感もなしに意識が同化していく。


 「和樹!

今の何?

あたしと和樹が今と今じゃないところにいた」

「・・・確かに。

この公園昔は飛行場だったんだよ。

俺はそのことを知らなかったのか?

いや・・・知ってるな。

俺は戦闘機のパイロットだった」

「あたし。

さっきの廃墟で暮らす女の子だった。

和樹と幼馴染で・・・」

「「同じ子猫を抱いてた・・・」」

驚きは無くふたりはただ今はもう知っていることの確認だけをする。

現在と過去。

今昔ふたりの和樹と水音の意識が交錯し重なったのだ。

それは自明の理のように確かなことで、どちらの和樹と水音にも驚きはなかった。


 緊急発進をスクランブルというらしい。

なんだか少し未来の響きがする。

フルスロットルで発進したが八月の湿って暑い空気は重い。

ハ45はそれなりに快調だが会敵までに充分高度を稼げるかどうか微妙なところだ。

 納税者の子弟を戦に駆り出すなら、もうちょっと高性能の兵器を支給しろと和樹は心の底から思う。

敵の飛行機にはスーパーチャージャーがついているし、高オクタン価の燃料や質の良いオイル、点火プラグも使っている。

松の根っこから作った燃料や女学生が組み立てた機体を使ってる自分たちとは雲泥の差だ。

 未来の記憶ではこの同じ空をジェットエンジンの旅客機が飛んでいた。

ドイツではジェット戦闘機を実用化したようだが、戦局を変えることは適わなかった。

まあ、最初から負けは分かっていたことだし。今更無いものねだりをしても詮無いことだ。

負け惜しみではないが、なまじ高性能な兵器を持たされたら悲惨と悲劇が長引くだけだったか。

そう考えなおして和樹は苦笑いを浮かべる。

 噂では、どうやら広島と長崎で核分裂反応を利用した兵器が使用されたらしい。

学生の頃皆で議論したものだが、それこそ当面は空想科学だと思っていた。

空想科学兵器がまさか実戦に投入されるだなんて誰が考えたろう。

 核分裂で解放されるエネルギーを都市で兵器として使う。

いくら戦争とはいえ正気の沙汰とも思えない。

日本がやって来たことを考えれば、大東亜共栄圏の人たちからは因果応報と言う言葉を投げつけられそうだがそれは違うだろう。

 法学の教授が言っていた。

王侯貴族や為政者は国が窮地に陥った時に責任を取るために存在する。

それが正しいならば戦争が終わった後、戦争を指導した軍人や政治家を裁けば済むことではないか。

勝ちが決まった戦で威力が半端じゃない新兵器を使うなんて。

それも軍隊ではなく民間人に使用するなんて。

敵の為政者も日本の同業者と一緒でとてもまともとは思えない。

 だが待てよ。

もし日本が核分裂兵器の開発に成功していればどうだったろう。

参謀本部の勘違い秀才どもの俺様ぶりを考えれば是非もない。

事なかれ主義で役所の人事にしか関心のない官僚もそうだ。

躊躇うどころか後先考えず喜び勇んで使うことだろう。

それを思えば世界のどこへ行ったって為政者という人種は、ろくでもない大人ばかりなのは確かだ。

 和樹は日本のこれからを想像して不安になりかけたが、未来の色々を思い出して安心が蘇った。

戦のために急造された飛行場は緑豊かで広大な公園に変わっていた。

そこで遊ぶ子供たちは清潔ななりをして元気がよく生き生きしていた。

それに何より、水音の笑顔には一筋の影も差していなかった。

未来には未来なりの苦労も心配もある。

それも分かったが少なくとも未来の和樹は戦闘機を駆り敵を求めて飛んではいない。

和樹の振り仰いだ八月の空には爆撃機と戦闘機の代わりに、世界と繋がる旅客機がひっきりなしに飛んでいた。


 出撃の直前、水音の父親から和樹に電報が届いた。

和樹は自分が戦うにあたり、ただそれだけに心を傾けた主題を永遠に失ったことを知った。

胸が張り裂けるかと思った。

 だがどうだろう。

今こうして操縦桿を引きスロットルをめいっぱい押し込んでいる自分の精神に、迷いや動揺はあるだろうか。

一心に空を駆け上がる自分の目は涙で曇っているだろうか。

 あの公園には、子供たちと屈託なく笑いさざめく水音がいる。

そんな水音を誰よりも大切に思い手を繋いで一緒に笑う和樹がいる。

信頼と愛情で結ばれたふたりが共に生きる、もう少し先の未来をなぜか自分は知っている。

そしてあのフワフワの子猫がみゅうみゅうと鳴いている。

 

 昭和二十年八月に水音と和樹が精いっぱい生きた意味は確かにあったのではないか。

自分たちが古い日本の贄となった成果があの未来なら、この人生にもいくばくかの価値はあったろう。

今の自分には怒りも憎しみもない。

和樹は心の内を確かめて透き通る様な微笑を浮かべる。

照準器いっぱいに映る敵機に吸い込まれていく曳光弾は、和樹がこれから訪れる世界への導き手にも思えた。

 八月の空は今日も深く青い。



 































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いつか見る八月の青い空 岡田旬 @Starrynight1958

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