吸血鬼に嚙まれて、死

海沈生物

第1話

 人間関係に疲弊していた。私は誰に対しても平等に接して、八方美人として生きようとしている。けれど、その試みは毎回失敗してしまう。多くの人間は私というただの人間に身勝手な幻想を抱き、しばらくして多大なる失望する。やがて「お前はそんな矮小なやつだったのか」「お前のことなんてもう知らない」なんて侮蔑の言葉を吐いて、どこかへと去っていく。


 それは彼らにとっては気持ちの良いことであるが、私からすれば普通にメンタルに来る罵詈雑言だ。最初の内はなんとか耐えていたが、何度も失望されていく度、私のメンタルは徐々に擦り減っていった。だから、私はそのような過程を「置換メタモルフォーゼ」することにした。「まるで迷惑クレーマーのようだな」と別の物事へ置換メタモルフォーゼすることによって、自分の心が傷つくことを避けた。


 けれど、何も傷つけない「何か」に置換して置換して置換して。「嫌だ」と感じたことを「笑い話」に変えていっても、侮蔑の言葉を吐かれたという過去は消えない。麻酔で痛みを消せたとしても、手術をした事実は消えないのと同じだ。


 ただ息をして生活をしている時、ふとした瞬間に置換する前の剥きだしの「過去」がフラッシュバックする。どうしようもないぐらいの恐怖というか絶望というか、後悔の上位互換みたいな「鬱」の塊みたいな感情に苛まれた。


―――――だからこそ、その女吸血鬼との出会いは「救い」になった。


 彼女はある日の夜。人間関係に対してのストレスから来る不眠症で眠れない私の部屋の窓を割って入ってきた。


「いてて……」


 まるで月明かりのように白い肌をした細身の女は、月のように丸っこい目を赤く点滅させていた。片手でぶつけた自分の尻を撫でながら、もう一方の手で身体に纏わりついたガラスの破片を私の部屋の床に落としていた。


「ふぅ……」


 彼女は真っ赤な唇を細めて息をつくと、不意にベッドで目を開けている私の姿を見つけた。彼女は「美人」を絵に描いたような顔は、猫とネズミが追いかけっこをする某有名なコメディ作品のように、コメディチックな「驚嘆」の表情を見せる。


「あの……貴女、誰?」


「誰って、いや、私……ここの部屋の住人なんだけど」


「そうなの。そうなのね……」


 なんだか勝手に納得したような顔をすると、ガラスの破片の上を歩き、ベッドの上にひょいと乗ってくる。


「あの……重いんですけど」


「失礼な子だね。成人女性一人分の体重なんて、たかが40kg前後でしょ?」


「5kgのお米八個分ですよ? 普通に重いですって」


 そう主張したのに、まだ彼女は「失礼失礼」「人間の癖に、本当に失礼だわ」とぶつくさ言いながら、少しずつこちらに近付いてくる。勝手に窓を割って部屋に侵入してきた癖に、こんな罵詈雑言を受けるなんて。圧倒的な理不尽に気持ちが辟易としてくる。彼女の言動に剥き出しの「過去」がフラッシュバックして、吐き気のするぐらいの「鬱」が私の身体を、感情を苛む。どうか、一刻も早く私の部屋から出ていってくれないか。


 そんなことを祈っていた刹那、不意に視界が真っ暗になった。何が起こったのか理解できなくて「驚嘆」の顔をしていると、背後から彼女の「にっひひ」という声が聞こえた。どうやら、いつの間にか背後に回っていた彼女の手が、私の目を覆っているらしい。


「あの。手、退けてほしいんですけど」


「嫌だ、って言ったら?」


「警察を呼びます」


 彼女は私の真面目な口調がツボに入ったらしく、背後から発情期の猫みたいなやかましい声が聞こえてくる。本当に迷惑なので、早く帰ってほしい。そのことをいい加減に口に出して言おうとすると、まるでそんな感情を先読みしたかのように、彼女の笑い声が止まった。


「……さっ。馴れ合い前戯はもういいや。いいわよね? そんなことよりも、私がこんな辺鄙な家畜部屋に突っ込んできたを果たさないと」


「本題……? 窓に突っ込んできたような人に本題もクソもあるんですか?」


「貴女、本当にブレないねー。今から貴女の身体中に存在する血液を一滴残らずにしてあげるっていうのにさ」


 吸血。創作においてしか絶対に聞かないワードが聞こえてきた。というか、突然窓を割ってきた上に「血を吸わせてもらいますー!」って言ってくれるの、大分……というか、かなり盗人根性猛々しくないか。図太い星からやってきた図太い星人なのかもしれない。そんなくだらない「置換」をすることで、また現実の危機的状況を「笑い話」にしてしまう。本質的に一切笑えない状況であるというのに。


「あー……"なんでもするので、吸血しないでください!"って泣いて懇願したら吸血しないでくれますか?」


「無理だね。さっき入ってきた時に、私の目が赤く点滅しているの見たでしょ? あれって私の肉体が血液不足の緊急を知らせる、言わば"ランプ"みたいなものなんだよね」


「自然界の生物にそんな機械みたいな機能付いていることあるんだ」


「ふふっ、そうね。それじゃあ、吸っていくわねー」


 不意に私の小さな肩へ刺さる、彼女の長くて太い犬歯。十センチほどのごん太の歯が、あまりにも自然な流れで私の肉体を裂いて侵入してくるのだ。脈絡も刺された歯は私の肉体を抉り、脳をグラつかせるほどの痛みとして襲い掛かってくる……はずだった。けれど、私が覚えたのは「快感」だった。


 他人の異物が私の身体の中に入ってくる、身体がゾクゾクとする異様な気持ち悪さ。それはとても気持ち悪くて拒絶したいものであるはずなのに、彼女の「吸血」はどうしてか、私に「快感」を覚えさせた。


 身体が緩い倦怠感を纏う。視界が霞がかる。「嫌なこと」を「笑い話」に「置換」しないと生きていけなかったはずの世界が、世界そのものが「置換」される。心地良い快感と無根拠な万能感が私を包み込む。彼女から「吸血」をされている間、私はずっと「幸福」なんて簡単な言葉では片付けられない、もっと根源たる「何か」に浸れていた。ただの「置換」による応急処置などではない。真の「救い」に浸ることができていたのだ。


 この快感に満ちた世界に一生居たい。元の複雑な人間関係と失望の連続によって嫌な「過去」ばかりが蓄積される現実になんて、もう戻りたくない。そんな淡い祈りを抱いていたが、この「世界」というものは非情である。永遠に続くと思われた吸血は突然中断されてしまった。その瞬間、置換以前の「現実」が戻ってくる。彼女の犬歯が抜かれた肩は強烈な痛みを発して、倦怠感だけではない吐き気が胃腸を荒らし、そして世界は全くの元通りに「置換」されてしまう。


「いや……なんで……なんで……」


 ズタボロで死にかけの私の掠れた声に、いつの間にかベッドから立ち上がっていた彼女は溜息を漏らした。


「貴女……気付いてないかもしれないけど、吸血中に”はへへ……"とか”もっとぉ~”とか、ヤバすぎる声を発してたのよ? 最初は血を吸い終えるまでと堪えていたけど、やっぱ無理。気持ち悪すぎ。目の赤色の点滅が消える程度には吸うことができたし、もういいわ。帰るわね」


「え……なんで……最期まで吸っていって……よ……」


 私は死にかけの身体でひゅーひゅーと息をしながら、なんとか帰ろうとする彼女の服の袖を掴む。しかし、その手は粗雑に振り払われてしまう。


「……ただの人間の分際で気安く触れるな、家畜が。所詮は吸血するだけの家畜にすぎない人間の望みなど、私にとってはただの家畜の鳴き声に等しいのよ。分かった? その気持ち悪すぎる声を出すしか能のない頭で理解した? 理解したのなら、さっさとベッドの上で野垂れ死んで。私、こう見えても忙しいのよ。この後、お茶をする友達と"人間の血吸引パーティー"をする予定があるから。―――――それじゃあ、ね」


「いやっ、いかな―――――」


 私の声など聞こえていないのか。飄々と「救い」を与えてくれた吸血の彼女は、割れた窓の外から出ていく。ただ一人部屋の中に「放置」された私は、もう浸ることのできないあの「吸血」の感覚をの中で何度もリピートする。何度もリピートする度、何度もあの「救い」にもう二度と浸ることはできない現実を理解してしまう。もはや、置換されたあの理想郷は「過去」になってしまった事実を理解してしまう。


 私は迫りくる数秒後の自身の「死」を感じながら、もはや「置換」することのできない「現実」に、どうしようもないほどの「鬱」を感じていた。

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