背に腹は換えられず、大学の寮に入った。隣の部屋のHと親しくなったが、彼はオカルトや心霊ものが好きで、私がつい口を滑らしたこの話に、格別な興味を持ってしまった。

 しかも悪いことに、二年に上がるのを機に寮を出てどこかアパートにでも入ろうと探していた最中で、私が「死んでもやめろ」と言うのも聞かず、すっかりそのカレンダー女の虜にでもなったかのように、翌週にはもう、あのアパートの、私のいた三階二○二号室に入っていた。

 すっかりむかついた私は、「もう知らん、逃げ帰ってきたって、絶対部屋に入れてやらんわ」というつもりでいた。



 ところが、何日しても何事も起きない。数週間後には、「せっかく入ったのにいくら待っても幽霊どころか不審な物音の一つもしないぞ」と愚痴まで言われて閉口した。壁から天井から、床からトイレから、部屋中のどこからも、なんの泣き声も笑いもしないという。あのカレンダーは、そのまま壁に下げられているそうだが、定期的に全部めくったりして調べても、何かがいたような痕跡一つない、とのことだった。

 文句を言われても私のせいじゃなし、げんなりはしたものの、幾分ほっともした。



 おそらくHには霊感のようなものが皆無で、「これまでも霊の類を見たことはおろか感じたこともない、いっぺんこの目で見てみたいもんだ」としょっちゅう言っていたから、たとえ部屋にあの女がいても、その存在を感じ取らないのだろう。


 よくアパートなどで、自殺があったとかのいわくつきの部屋があって、入った人はみんなその自殺者の霊を見てすぐ出て行くのに、たまに全然気にせず何年も平気で住む人がいる。もともと霊が見えない、感じないという体質なのだ。

 Hもたぶんそうなので、なら、このまま卒業まで住み続けても大丈夫だろう、と安心した。




 ひと月もするとHも不平を言わなくなり、元は寮で隣だったぐらいのつながりしかなかったので、電話もかかってこなくなった。私はあの部屋のことが多少は気になっていたが、外は桜がとうに散って青葉の茂る頃になり、今さら真相を確かめようという気は起きなかった。

 あのときは、もう一刻も早く離れたかったため、大家に女のことを話すこともせずにアパートを出てしまったが、もうそれでいいと思った。大学にいるときにふっと思い出しても、またあれに関わると思うと、たちまち首筋までまっさおになるほど動揺する。

 それほどに、あの女の引きつった顔、うらめしい上目、気味の悪いあざけり声、そして厚みのない体、それらの全てが悪夢のようにおぞましかった。もう二度と、あんなのはごめんだ。

 そう思い、あの体験のいっさいを忘れることにした。




 ところが、ある日の夕方。またサークルもバイトもなく、まっすぐ寮に帰り、部屋に入った直後のことだった。

 スマホが鳴り、名前を見るとHだった。出て「どうした」と聞いてみると、なにも言わない。

「おい、どうした」

 また聞くと、不意にそれが聞こえてきて、全身が凍りついた。


「……うふふふ、うふふふ、んふふふ……」


 あの懐かしくもおぞましい、女の悪意に満ちたあざけり声だった。あれを忘れようはずがない。



 思わずスマホを落として身を引いた。だがあの女の笑いは、床に横たわるスマホのスピーカーから、稲妻のようにけたたましく響き続けている。私は恐ろしさをこらえて必死に右手を伸ばし、脇のスイッチを切ると、声はやんだ。

 混乱が収まると気づいた。

(これは、やはりそうか)

(とうとう奴が、Hの部屋に現れたのだ……!)


 いや、Hが気にしなかっただけなら、今までもずっと目の前にいたはずだ。なのに、どうして今頃こんなことが起きたのか? まさかHが私を脅かそうとして、わざわざ女の声を聞かせたのか?

 着信を見ると、今の電話は確かにHからだ。

 何もかも不可解だったが、といってあのアパートへ行って確かめる勇気もなかった。



 しかし、彼に真相を聞く機会は、唐突に失われた。翌朝のテレビのニュースで、Hがあの三階の部屋の窓から飛び出し、外の駐車場の路面に叩きつけられて死んだと報じられたのである。その時刻は、まさに昨日の夕方、私がスマホから女の声を聞いた直後だった。

 彼の名前は出なかったが、アパートのある区名と部屋番は出たし、部屋の中を調べる捜査員の姿が映され、壁のカレンダーまでがテレビの画面を横切った。そこは明らかに私の住んでいたあの二○二号室だった。


 後日、Hの実家の電話番号を調べてかけてみると、死んだのは間違いなく彼だと分かった。あまりに突発的で動機もなにもないため、最初警察は殺人の線で調べたらしいが、侵入者の形跡もなく、結局は自殺ということで片付けられたらしい。

 だが私は、彼を殺した奴が誰だか、おぼろげに分かっていた。



 しかし、だからといって、いったいこの私に何が出来るというのか。相手はこの世のものではないのだ。ぺらぺらで厚みのない、カレンダーと壁の隙間に入るような、化け物の女なのだ。

 そうだ、こんな場所にいたら俺も殺される。一刻も早く逃げなくては……!



 とりあえず、また電話が来たら嫌なので、ショップに行ってスマホを買い換えた。電話にHの住所と履歴がなければ、あの化け物との忌まわしい縁を断ち切れるだろう。






 ところが数日後、ショップから電話がかかってきた。私を担当した店員からで、最初は何かしどろもどろで、言いにくそうに言葉をにごすので、私はイライラしてつい大声で「つまり、どうしたんですか?!」と言った。


 すると彼は、重苦しく、かすかに震えた声で、やっとこう言った。

「いえ、実はですね……お預かりした機種のことなんですが。

 店の棚の上で、いきなり電源が入って、女性の、なにか上ずったような笑い声が聞こえてきたんです。電源を切っても声が止まらないんで、さすがにみんな気味悪くなりまして。

 中を調べようということになって、私がドライバーで電池パックのフタをあけたんです。そしたら、あけたとたん、びっくりして床に落としちゃいました。ええ、スマホを、です。


 なぜかと言いますとね。その声がですね。いきなり笑い声が、わっ、と大きくなったんですよ。

 まるで、中に小さい女性でも入っているみたいにね……」(「泣く女」終)

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泣く女 ラッキー平山 @yaminokaz

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