泣く女
ラッキー平山
一
私は東京郊外の大学から歩いて十五分ほどの場所にある、この小さなアパートの一室を借りている。入学時にここに入ってもう二年になるが、薄くて明るい新緑の葉を豊かにまとう街路樹の並ぶ石レンガの小道を、二階の窓から望む四室しかないこのアパートには、私のほかは隣に一人暮らしのお婆さん、それに一階に若い夫婦が入っているきりだった。
私はちょうどその上の階にいたが、もしほかの入居者が気の合う学生ばかりなら、さぞ楽しかったろう。しかし、格安の家賃に釣られてここを選んだので、仕方のないことだった。寮は人間関係がウザくて嫌だし、あとは学生の多いマンションが学校のすぐ前にあるが、実家からの仕送りの少ない私の入れるところではなかった。
といって、入居者の夫婦に別段悪いところはないし、私も入るとき大家に注意されたとおり、友達を連れ込んで騒ぐようなことはしなかったから、近隣の付き合いは、わりあい上手くやっていたんじゃないかと思う。今年の春は二年生に無事上がり、私の学生生活は万事が平穏だった。
あの晩、部屋であれが起きるまでは。
その日はサークルもバイトもなく、夕方に授業が終わると、そのまままっすぐ帰ってきた。先週末はコンパで大騒ぎして(うちのサークルは女性部員がおらず男子校状態なので、店の個室で騒ぎ放題だった)、けっこう疲れたので、月曜からはまじめで地味な生活を堪能していた。こういうダレた日々は、会社員になったらもう送れまい。
私は風呂から出ると冷蔵庫からビールを出して、部屋の真ん中のガラスの小テーブルにトンと置くと、その前に腰をおろした。いま座っている私の向かいに窓があり、春とはいえまだ風が冷たいので、閉めて濃い紺のカーテンを引いている。右の壁には、大判のカレンダーがまっすぐに下がっている。四方の壁には、それ以外には何もない。殺風景な四畳半の部屋である。これといって好きなアイドルとかもいないので、ポスターの類はない。
カレンダーも、正月に実家に帰ったときに、父が会社で余っている奴だから持っていけと言うので、もらってきたやつだ。上半分に一月なら雪山、夏なら山のみずみずしい渓流などの四季の写真がいっぱいに広がり、下半分は太字で書かれた日付と曜日がびっしり並んでいる。まあ、特になんでもない、ふつうのカレンダーだ。
今は四月なので、まばゆいばかりに爆発したピンクの桜である。ただのカレンダーとはいえ、さすがにこれだけきれいだと、目の保養になる。
私はビールをぐいとあけると服を着て、コンビニ弁当をレンジで温めて食べた。部屋にテレビはなく、娯楽はノートパソコンで動画を見るだけで事足りた。天気もニュースもみんなネットで見るから問題ない。ただサークルでのテレビ番組の話題に付いていけないので、安いのを買いたいのだが、なんせ貧乏学生だから、なかなか手を出す気になれない。
夕飯を終えて一服し、ノーパソでもあけようかと腰を上げかけたときだった。私はすぐにまた腰をおろし、右の壁を見た。
(……声がする)
「ううう、ううう、うう……」
女のおえつだ。糸のようにか細い、上ずった女の泣き声が、途切れそうに弱弱しく続いている。くぐもって聞こえるので、どうも隣の部屋で泣いているらしい。声の高さと艶からして、隣のお婆さんとは思えない。
しかし、若い女なんて隣にいたろうか。孫かなんかが来ているのかもしれない。こんなにか細いのに、こもっているだけでこうもよく聞こえるということは、おそらく向こう側でこっちを向いて、壁に額でもくっ付けて泣いているのだろう。
だが、どうにも尋常ではない雰囲気で、心配になった。お婆さんの身に不幸でも起きたのだろうか。
そんなに会話したことはないが、たまに作りすぎたと言って鍋ものを持ってきてくれて、夕飯が助かったことはある。笑うと目じりに優しいしわが寄る気さくなお婆さんで、子供の頃、まだ存命だった実家の祖母を思い出す。
何かあったとしたら気の毒だ。しかし、といって隣のドアを叩いて事情を聞くのも変すぎる。別に親しいわけでもないし。
仕方なく畳に座ったまま、いつまでも隣から重苦しく響く悲痛なおえつを聞いていた。
そのうち、妙なことに気づいた。声が聞こえだしてから、もう数分は経っているのだが、泣き声いがいの言葉を何一つ発しないのだ。
べそをかく場合、ふつうなら、泣きながら「ちくしょう、なんで自分がこんな目に」とか「もういやだ」みたいに、なにか不平や文句の一つは出ると思うのだが、今のこれは、ただ「うう、うう」と延々うめくようにすすり泣くばかりで、愚痴の一つもこぼさない。言葉を発しないのだ。
いや、もしかしたら自分の勘違いで、実はたんにこっちの壁に背をつけたテレビの声が聞こえているだけかもしれない、とも思った。しかし、こうも泣き声ばかりを繰り返し流す番組なんてあるだろうか?
それとも、なにかわけでもあって、ラジカセなんかで女の泣く声を何度もループさせているのか。たとえば演劇の練習のためとか。
しかしよくよく聞いてみると、その声には生々しい肉感と色つやがあり、とてもスピーカーから出ている音声には思えない。それに単調な繰り返しではなく、時々途切れたり、わずかに強弱が変わったりする。これはやはり、生身の女がこっちに向かっていま現実に泣いている声だ。
それにしても、終わらない。聞いているうちに、だんだん気味悪くなってきた。女の泣く声なんてただでさえ陰気なのに、こうも続けられると、なんだかぞっとしてくる。
(まさかこいつ、俺が隣にいるのを知ってて……)
(脅かそうとして、わざとやってるんじゃないだろうな……)
そんなアホらしい被害妄想すらわいてきた。
どうにも嫌だ。
そうだ、あと五分して終わらなかったら、隣へ行ってチャイムを鳴らそう。知り合いでもない男が若い女を訪ねるからって、別に変な意味じゃなし、隣から妙な声が続けば、どうしたのかと心配するのは自然なことだ。
そうだ、そうしよう。
そう思うと、すぐに気持ちが収まった。テーブルに置いてある小型の時計を見て、八時になったら行こうと決めた。決めてしまうと、逆にやる気になって落ち着いてくる。それどころか、妙な興奮すらおきる。
知らない人を訪ねるなんて何年ぶりのことだろう。それも若い女だ。女と聞けば男は誰でも自分の理想の顔が浮かぶが、自分もそうだった。
そういう子供のようなわくわくを抱えて、しばらく座って耳を傾けていた。
ところが、そのいったん持ち上がった気持ちは、いきなり急速にしぼんでしまった。聞いていて、またおかしいことに気づいたのだ。
声が大きすぎる。
いくらすぐ隣の部屋で壁にくっ付いてやっているからって、こんなによく聞こえるのは、おかしくないか?
壁が薄いといっても、板一枚じゃあるまいし、コンクリで、ある程度の厚みがあるはずだ。確かに女の声は高いからよく通るが、ここまではっきりした聞こえ方はおかしい。
不審に思って壁を見ていると――
急に、嫌な考えが起きた。
(これ、隣じゃなくて――)
(こっちから、してないか……?)
くぐもっているから、てっきり隣室で泣いているとばかり思っていたが、どうもそうではなく、この部屋の中で声が響いている気がする。あまりにもバカバカしいことだが、そのときは、その考えがたちまち頭を席巻してしまった。
この部屋に誰も入れた覚えはないから、自分しかいないはず。
(だがもし――)
(本当はそうでない、としたら――?)
壁を見ながら立ち上がると、思わず身を引いた。そこには、そう、あのカレンダーが下がっているのである。そして女の泣き声は、ちょうどその向こう側から、いっそう大きく悲しげに聞こえてくる……。
(まさか……!)
(いや、そんなはずは……)
躊躇したが、結局はゆっくりと手を伸ばし、まず上の一枚目のすそをつかんだ。四月の桜の爆発が、不意に肉体が破裂しているように見えてきて嫌だったが、思い切って、一気に音を立ててめくった。
――ばっ!
ぎょっとした。
声が少し大きくなったのだ。
(そんなバカな……!)
(ありえない……!)
あせり、左手で四月の紙を上げたまま、今度は右手で次の五月のすそをつかみ、まためくった。
――ばっ!
泣き声はいっそう大きく悲しげに、しかも、さっきよりクリアに聞こえてきた。
これで私は確信した。
この女は、隣の部屋にいるのではない。
この部屋の中。
それも、このカレンダーの、後ろにいるのである……!!
声がこもっているのは、この何枚も重なった紙の向こうで泣いているからだ。横三十センチ、縦五十センチ四方という大きさで、厚みなどない場所に、身を隠して延々泣きじゃくる。そんなことが出来る人間など、この世にはいない。
ということは――
これは、この世のものではない、ということだ。
人間ではないのだ。
背筋が、いっぺんにぞーっとした。
が、今さらやめられない。
私は四、五月ぶんを左で持ち、震える右手で次の六月をつかむと、今度は、ゆっくりとめくった。
ふわり……。
めくれるうちに、女の声はわっと一回り大きく、さらにはっきりと聞こえた。
「ううう、うううううっ……!!」
不気味なおえつに肌がざわざわとあわ立った。
すぐ目の前に、そいつがいる。確実にいる。
気配がある。
ここで放り出して逃げればよかったのだ。
だが恐れながらも私は、これを突き止めたい、という衝動が勝ってしまった。
さらに七、八、九月とめくると、声はもはやこもらず、しかもめくるたびに紙面が、わずかにぶるぶると振動する。
だが、私を決定的に凍りつかせたことが、ほかにあった。
今まで、ずっと泣き声だと思っていたのだが、間近ではっきり聞こえてくると――。
それが実は、「笑い声」であると気づいたのである。
つまり、「うう、うう」と悲しげにすすり泣く、か弱いおえつではなく――
「うふふふ、んふふふ」という、相手を上から見下すような、悪意に引きつったあざけりだったのである。まるで泣きまねで私をだまして近寄らせ、まんまと罠にかけたことを、ほくそ笑んでいるかのようだ。
恐怖に足がすくみ、心臓がばくばくした。
だが、もうここでやめるわけにはいかない。
十、十一月とめくると、最後の紙面は、あざけりにつれて、ぶるっ、ぶるぶるっ、と不気味に震えた。だがそれ以外は、誰かが向こうに隠れているというのに、紙面にはなんの膨らみもなく、壁にそってつるりとまっすぐに下がったままだ。壁との間は数ミリもないのに、である。
それでも明らかに誰かいる。そこに誰かがいて、悪意丸出しの笑いを、こっちへ向かって放ち続けている。
ついに最後の一枚、十二月のすそをつかんだ。
いったん躊躇したが、「ええい、ままよ!」と一気にめくった。
目が飛び出そうに見開いた。
紙の白くて広い裏面いっぱいに、ぺらぺらに薄い女がいて、逆さまに張り付いたまま、長い黒髪をだらりとたらし、恨めしい上目づかいで私を見上げ、耳まで裂けるほどにかっとひらいた口で、ゲラゲラとけたたましく笑っているのである!!
絶叫して玄関に走り、かろうじてサンダルだけ突っかけて外に飛び出した。気味の悪い蒼い月明かりの中、大学近くのマンションにいる友人のところに駆け込み、その日は泊めてもらった。
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二度と帰りたくなかったが、友人が付いてきてくれたので、翌日の昼過ぎになってアパートに戻った。
部屋は窓のカーテンのかすかな日こぼれ以外は、なにも変わっておらず、恐る恐る調べたカレンダーには何もなかった。どこにも人のいた痕跡はなく、隣からもなんの音もしないのでひと安心したが、もうこんなところにはいられないので、直ちに引っ越すことにした。
大家に女のことは話さなかったが、突然の家庭の事情だと言うと、あまりに早急な立ち退きにもかかわらず承諾してくれた。
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