狼筋

尾八原ジュージ

狼筋

 疲労のためにぼやけた意識の下で、サキは赤ん坊の産声を聞いた。どうやら我が子は無事にこの世に出たらしいと安堵したが、後になってそれは産婆の悲鳴だったと知った。

 彼女の子は泣かなかった。自分で羊水を吐き出したあと、灰色の目を開いて、一声ももらさず辺りをぎろりと睨んだ。それから被っていた胎盤を振り落とし、その場でみしみしと、すでに牙の生えた口で咀嚼し始めた。


 子は背にみっしりと銀色の毛が生えていた。口先はとがり、一尺ほどのふっさりとした尻尾があった。それだのに人間の女から産まれ、人間に見えなくもない姿をしていたから、なお始末が悪かった。

「庄屋さんの嫁が狼の子を産んだそうな」

 伏したはずの事実は野火のように村中を駆けた。

 サキにとっても青天の霹靂だった。自分は当たり前の人間の子を産むはずだったのに。そうしたらこの家の嫁として、もう少しましな立ち位置を得られたかもしれなかったのに。だが、現実はまるで正反対だった。

 単なる失望というより、ほんの何日か前の自分とはまるで別の世界に放り出されたような気分だった。サキは泣くでも喚くでもなく、ぼんやりと布団の上で、赤ん坊を抱いて過ごした。望んでいた姿とは違うけれど、やはり我が子は可愛いと思った。

 子はサキの腕の中で、あるいは彼女の古い浴衣を布団代わりによく眠った。相変わらず泣き声ひとつあげず、乳がほしいと自ら小さな腕を伸ばして、サキの頬を小さな掌でぴたぴたと叩いた。


 くだんの産婆が縊れて死んだという。狼の子が産まれたとき、どうして密かに絞めなかったと責められたらしい。誰がそこまで追い詰めたか知らないけれど、それにしたってなぜ産婆が責められねばならなかったのだろう。ようやくはっきりしてきた頭で、サキはそう思った。

 彼女の枕元には姑が日参した。見舞いではない。尋問にくるのだ。

「あんた、狼筋おおかみすじの娘だったんだろう。そうでなきゃ狼と寝たんだろうね」

 そう問われてもサキにはわからない。狼筋という言葉自体聞いたことがなかった。それにサキがこれまで臥所を共にしたのは夫ひとりで、狼と不貞をはたらいた覚えはついぞない。そしてその夫はどこへいったか、出産以降いちども姿を現さないのだった。

 サキはしかたがないので、何度も真正直に「わからない。覚えがない」と答えた。そのたび、姑は青ざめた顔でひどく怒った。自分のことは何と言われてもよかったが、死んだ父母のことを罵られるとサキは布団の中で拳を握った。爪が掌を破って血が滲んだ。

 あるとき、ふいに罵倒が止んだ。伏していた顔を上げてみると、寝ていたはずの子が目をかっと見開き、早くも座った首をもたげて、姑を睨んでいた。

 ばけものめ。

 嗄れた声で、姑がつぶやいた。


 きっと美しい子どもが産まれるだろう。その一点において、サキは産前よりひそかな自信を持っていた。前々から、自分の容色にはたのむところがあった。

 元々器量望みで入った家である。この家の惣領が、美しく且つ両親を亡くして後ろ盾のない娘に目を留めて、ある日屋敷に連れ込んだ。遊びのつもりだったのだろうけど、子ができた。できた以上責任をとれと強く言ったのは、今年の初めに亡くなった舅だった。

 あの舅が生きていれば、もう少しよい待遇を受けられたろうか。そんなことを考えながら、サキと子は離れに移された。土蔵を流用した急ごしらえのもので、離れと呼びつつ、ひとつの出入り口と小さな窓しかない、まるで座敷牢のようなところだった。

「狼の雄がどこで見ているかわからないから、下手に追い出すこともできやしない」

 姑は苦々しくそう言った。何度も否定したのにも関わらず、サキが狼と姦通したと思い込んでいるらしい。夫は相変わらず姿を現さない。我が子の顔すら見に来なかった。

 離れにはろくな灯りもなく、狭い部屋に一応畳だけは敷いてあり、あとは片隅に便所があるだけ、というようなものだった。ひとつしかない出入口の鍵は、常に外からかけられている。昼でも薄暗いその中で、サキは子とふたりで過ごした。

 生後三月もたたないうちに、子は四つん這いで歩くようになった。子の手足が畳を擦る音を聞くと、サキは心が和んだ。子は病気ひとつせずよく乳を飲んだが、相変わらずまるで泣かなかった。

 小さな窓からは時折月が見えた。狼の声はよく聞こえた。村の周りの森の中に、今も相当数が暮らしているのだ。

 狼たちは満月の夜に、殊更よく遠吠えをした。


 母屋にあたらしい女がやってきたらしい。下女ではない、夫が手をつけた女である。

 その女が小さな窓越しに話しかけてきたとき、サキはぎょっとして子を抱き寄せた。女は芸人の口上のように、滑らかによく話した。

「ねぇちょっと聞いてよ。あんた、サキさんでしょう。あたしはシズっていうの。ねぇ、あんた狼筋なんだって? 本当?」

 女の口調にはこの辺りとは違う抑揚があった。ずいぶん遠くまで噂が広まってしまったものだと思いながら、サキは「狼筋ってなんなの」と逆に尋ねた。

「知らないの? 狼の血が入った家系のことをそう言うのよ。あたしの在所にもいたわ。ねぇ、あんたの子ども、もう尻尾も牙もあるんですって? 珍しいわよ。きっと先祖返りね」

 その口ぶりがあんまり嬉しそうなので、サキは「あなた、狼が好きなの?」とまた尋ねた。シズはころころと笑った。

「そうよ。ああ、この家に来てよかった。狼の遠吠えがよく聞こえるもの」

 それからシズはふいに真面目な声色になって、「ねぇ、その子も遠吠えするようになったら気をつけなさいよ。あんたがただの人間なら、喰われちまうかもしれないよ」と続けた。


 今までどこに囲われていたのか知らないが、どうやらシズの腹には夫の子供がいるらしい。

 それで、シズはいよいよ実質的な本妻の座に収まった様子である。おまけにこれまで下女がやっていた、土蔵に飯を持ってくる役目までも、半ば強引に受け継いだらしい。どういうつもりかわからないが、少なくとも狼に関心があることは本当なのだろう。サキはそう考えた。

 ある朝、飯を載せた盆を差し出しながら、シズは出し抜けにこう言った。

「ねぇサキさん、あんた、本当に狼と寝たおぼえはないの?」

 随分不躾なことを訊くと思いながらも、サキはうなずいた。

「だったらやっぱり、あんたか旦那さまが狼筋なのよ」シズの声が弾む。「サキさんに身に覚えがないなら、やっぱりこの家が狼筋なんじゃないかしらねぇ。旦那さまってば体は大きいし、歯もほかのひとより尖ってるもの」

 ああ取り入っといてよかったと、前妻の前だというのにシズは臆面もなく笑う。夫はいつからこの女を囲っていたのだろう――とはいえ、サキに彼女に対する嫌悪はほとんどない。子を可愛がれば可愛がるほど、夫への愛着はどんどん消え失せた。

「シズさんは、なんでそんなに嬉しそうなの」

「あら、言ったでしょう? あたし、狼が好きなのよ。この家も、前の奥方が狼の子を産んだっていうから入り込んだのよ。ひょっとしたらあたしも狼の子を産めるんじゃないかってさぁ」

「そうかしら。ここ、昔からの庄屋さんなのに」

「庄屋さんだからってわからないじゃないの」

 サキは夫のことを思い出そうとした。そんなに狼に似ていただろうか? しばらく会わないうちに、夫に関する記憶がどんどん薄れていく。そこへ、シズがまた話しかけてきた。

「ねぇ、この子はどうかしらね。この子も狼の子だと思う?」

 サキは答えに窮した。シズは膨らんだ腹を撫でながら、サキの背中越しに子に笑いかけた。子はすでに二本の足で立ち、大きな灰色の目でふたりの女を見つめていた。

「いい子だねぇ」

 シズが呟いた。「ねぇサキさん知ってる? 狼筋は死なないんですって。だからあの子もきっと死なないわよ」


 やがて子は、遠吠えをするようになった。

 小窓から月が覗く夜、森で狼たちの鳴く声に釣られるように、子は喉をのけぞらせ、暗い部屋の中、窓に向かって吠えた。それがサキの知る我が子の、たったひとつの声だった。遠吠えはまだ小さくて細く、しかし長く伸びた。どこか深い森に誘うような、全身の血がざわめくような声だった。

 遠吠えするようになったら食われるかもしれない。サキはいつだったかのシズの言葉を思い出した。それでもいいかもしれないという気がした。この子ならば、母がいなくてもちゃんと生きていけるに違いない。

 ところが、子はサキに噛みつくことすらしなかった。まだ産まれて半年も経たないのに、もう三つの子ほども大きくなって、対丈の着物の裾から長い尻尾の先を垂らして歩いた。体毛は銀色の針のように強く、光が当たると波打ちながら光った。

「きれいだね。こっちへおいで」

 サキが呼ぶと、子は彼女の膝に乗り、顔に鼻先を擦りつけてきた。


 シズは飽きずに飯を運んだ。離れに来て子を眺め、サキと話をする。

「なぜそんなに狼を好きになったの」

 サキはそう問うたことがある。シズは喜々として答えた。

「そうねぇ。何しろきれいだし、それに前にも言ったでしょう? 狼筋は死なないからよ。あのね、狼筋の人は死ぬ時に、仲間に自分を食わせるんだって。そうすると仲間の中で生きていくことができるんですってよ」

 好きというだけあって、街中にいた頃に色々調べたのだという。それでも実物を見るのは初めてだと言って、シズは目を細めた。その視線の先で、子が丸くなって眠っていた。

 また別のある日、シズが言った。

「もうじき産まれると思うのよ」

 すでに腹ははち切れそうなほど丸く膨れていた。

「名前がなかなか決まらないってお寺さんを呼んだりね、大騒ぎよ」

 サキはそのとき初めて、我が子に名前をつけていなかったことに気づいた。だが人の子ならいざ知らず、狼ならば要らないだろう。何にせよ彼らは二人きりだから、名前などなくともよかった。

「あたし、ちょっと怖いのよ」

 ぽつりとシズが呟いた。「この子が当たり前の人間のようだったらどうしよう。ちゃんと可愛がれるかしら」

 驚いたことに、普通とまるで反対なことを怖れているらしい。サキにはそのようなことで悩むシズが、急にひどく弱々しいものに思えた。

「大丈夫、きっと可愛いでしょうよ」

 サキがそう言うと、シズは「そうねぇ」と呟き、唇の端で笑った。

 それからシズはぱったりと来なくなった。交代はなく、丸二日、飯の供給が絶えた。サキはこういう時が来るかもしれないと思っていたので、かねてから米粒を干して溜めていた。それを少しずつ食べて凌いだが、子が乳を飲むので腹が減って仕方なかった。

 三日目、シズではなく、年をとった女が離れにやってきた。彼女は「疫病神」と吐き捨てながら、腐りかけた飯をサキに向って投げつけた。

 姑だった。サキはその顔をすっかり忘れていたのだ。シズも、その腹の子も、お産のときに死んだのだと、サキはこのとき知った。


 飯はまた絶えた。いよいよ日干しにして殺さねばならないと決めたのかもしれない、とサキは考えたが、だからと言ってどうしようもなかった。子と丸くなって寝ているより他にない。飢えも乾きも次第に激しくなった。

 とうとう耐えきれなくなって飲んだ古い水のせいで、サキはひどく体調を崩した。腹痛と高熱に苛まれながら、子が遠吠えするのを聞いた。多くの狼がそれに答えた。彼らが助けに来てくれないものだろうかなどと考えているうち、眼の前がどんどん暗くなった。

 サキが土蔵からひとり連れ出されたときには、もう歩くことすらままならなくなっていた。

「あれがあんまり吼えるから仕方ない」

 誰かがそう話すのを、サキは朦朧とした頭で聞いた。遠吠えに命を救われたのだとわかった。意識が暗闇の中に沈んだ。


 夢にシズが出てきた。白く光る花畑の中で、ふっくらとした人間の赤ん坊を抱いていた。ちっとも狼のようではなかったが、シズはこちらに赤ん坊を見せ、可愛いでしょうと言って笑った。

 子も出てきた。サキの周りを何度か走り回ったあと、耳元で何事か囁いたが、なにを言われたのかよくわからなかった。子が四つん這いで駆け抜けると、白い花弁が辺りに散った。

「ねぇサキさん、やっぱり狼筋なのは旦那さまじゃなくって、あんたの方よ」

 シズがそう言ったとたん、目が覚めた。


 もう夜になっていた。辺りを眺めて、サキは自分が村内の診療所へ運ばれていたのだと知った。

 診療所は騒がしく、血の臭いで満ちていた。怪我人が次々運び込まれているという。サキの胸は異様に騒いだ。こっそりと寝床を出て立ち歩くうち、土間に死体が寝かされているのを見つけた。血と汗と硝煙と、嗅ぎ覚えのある獣の匂いがした。

 衝立の向こうから、「随分弱らせておいたのに、やっぱり一人やられたよ」という声が聞こえた。「刀自さんがあんまり急かすから」

 サキは診療所を飛び出した。藍色に変わりつつある空に、まん丸い月がぽかんと浮かんでいた。それを灯火にして、サキはよたよたと歩いた。庄屋の屋敷へ、離れへと気ばかりが焦った。

 離れの扉は半開きになっていた。暗がりの奥に、銀色の毛皮を汚して子が倒れていた。慌てて足を出すと、足が血溜まりを踏んだ。サキはそれに構わず駆け寄り、子を抱いて膝の上に乗せた。もう息はなかった。

 サキは呆然と空を見た。小さな窓の向こうに満月が浮かんでいた。

 そのとき森の方から、狼の遠吠えが聞こえてきた。

 全身の血が、今夜はひどく沸き立った。サキは思わず喉を反らし、子がやっていたように吠えた。森からそれに応える声がした。サキはもう一度吠えた。

 森からの声はだんだんと増えた。


 その夜サキの姑は、口の周りを血塗れにしたサキが、土蔵の中からのっそりと出てくるのを見た。それが今生の最後に目にしたものになった。サキが手を伸ばして姑の顔をひと掻きすると、豆腐を匙で掬ったように顔が抉れた。

 サキは歯を剥き出してにこにこ笑った。さっき食べた我が子が、自分の体の中で同じように笑っているのを感じた。子は今や死んではいなかった。確かに生きて、喜んでいた。

 こういうことか。狼筋は死なないというのは。

 サキは地べたに倒れた姑の体を飛び越え、目についた人間に片っ端から飛び掛かった。その中に長いこと会っていない夫がいたかどうか定かではない。良人がどんな顔をしていたか、彼女はもう覚えていない。姑も、舅も、シズの顔も、自分の両親のことすら霞んで遠くなっていった。

 そのかわり、遠い昔、暗い森を縦横無尽に駆け巡り、思うままに獲物を噛んで血を呑んだ記憶が、まるで自分がそうしていたかのように鮮明に蘇った。銀色の毛並みに月光を受けて長く吼える子の後ろ姿が、次の瞬間には彼女自身になった。体内で子が騒いでいる。人の言葉ではないけれど、喜んでいることはわかる。つられて体中の血が沸き立つ。

 いつの間にか銀色の毛に覆われた手を地べたにつき、サキは四つん這いで駆け始めた。つむじ風が吹き、血と砂埃が舞い上がった。家と人間の欠片を好き放題に踏み荒らしながら、狼筋は広い庭を駆けまわった。それから、もっと広い世界を目指して、門の外へと飛び出して行った。


 やがて満月が中天に達した頃、サキは暗い森に駆け込んで姿を消した。

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