第10話
日が過ぎて冬が近づいてくるごとに、あるいは神社の建設が進むごとに、札の効力もなくなり、静子様は私の姿を見ることが二日に一回程度になった。静子様は私のことを気にしつつも、静かに一人で生活をされている。
食事は静子様が自ら作られている。物にもあまり触れられなくなってきたのだ。私のことが見られる日にはたくさん話をした。そして私のことが見えない日は、仁と寿を連れて、県外の神社を回るようにしていた。何人かの神様は私の前に姿を現わして下さるようになって、お優しい言葉もかけて頂いたが、逆に意地悪なことを言う神様もいらした。たいそう傷はつくけれど、いちいち気にしていたらこれからやってはいけないだろう。
神社巡りをしたあとは静子様の帰宅を待って、見えないとわかっていてもずっと呼びかけていた。内心では寂しさを抱えながら。お社を頂ければ、もう静子様もこの町の人々も完全に私のことが見えなくなる。私はただ、人々の心のうちを聞き、見守っているだけの存在になる。
十一月二十日
お社は千幸(ちさち)神社と命名された。同時に静子様のご婚約が決まった。静子様の手術痕も目立たなくなり、髪も生えてきている。もう調子はすっかり元に戻っている。
この日は幸いにも私のことが見える日だった。静子様は銀次さんと食事をすませて帰ってくると、真っ先にダイヤモンドのついたプラチナのエンゲージリングをお見せ下さった。
日々、顔色はよくなっていき笑顔も増え、表情も豊かになっている。
恐らくぽっかりと空いた心が、埋まりつつあるのだ。
静子様の体を温めるためにお茶を淹れる。
蒸し暑い日に椙森さんから頂いた封筒を取り出す。残りは七十万ちょっと。
静子様の正面に座り、差し出す。
「ちょっと待って。これは千福の」
「静子様は神としてどう使うかと言われました。十万ほどは美穂さんや咲さんを送り届けるため、でも数万は返して頂きました。あとは夏の終わりの旅行で使ったものです。本来なら私の我儘などにこのお金は使うべきものではございません。ですが、最後の我儘にお使い下さい」
「最後の・・・・・・我儘?」
「このお金を結婚式におあて下さい」
「気が早いわ。婚約はしたけれど結婚式のことまではまだ・・・・・・」
静子様は恥ずかしそうに頬を染める。私は心を落ち着けて言った。
「私はこの世界で人間の時間の流れを学びました。しかしながら私はもう神の時間を生きなければなりません。そして神の時間からすれば、恐らく人間の時間はあっという間に過ぎ去るのでしょう。静子様と思い出作りをしたあの夏の終わりの強行軍から今日までのように」
きっと、結婚式を挙げるのもあっという間だ。私には、神の時間の流れと人間の時間の流れの違いが薄々わかりつつあった。神社ができていくに従って、自然とそうした神の世界の知識も身につけられるようになった。これは神様の世界での法則なのかもしれない。
いつの間にか、神としての知識が私の中に入り込んでくるのだ。私は恐らく静子様を見送り、子々孫々まで見守っていくことになるのかもしれない。今までだったら考えられないくらい、とても長い時間を過ごすことになる。そうして、心身がそれに慣れていくのだろう。
人の世界にいて、人の世界から離れていくのだ。まるで天にでも昇っていくかの如く。だからもう、お別れが嫌とは言わず、覚悟を持つようにもなっていた。
「だけど・・・・・・」
「不幸は巡りました。もう過去形に致しましょう。そして幸福もまた、巡り巡るものです。椙森さんが当てた幸運が静子様にも伝わり、私にも伝わりました。お金には私の通力も既に注ぎ込んであります。きっと素敵な挙式ができましょう。生涯幸せになられませ」
どうかどうか、静子様がいつまでもどこまでも幸せになりますように。
静子様は封筒を眺め、考え込んでいらっしゃる。
「わかった・・・・・・これはちゃんと挙式のために使うわ。ありがとう」
「はい。惜しみなくお使いください」
言うと静子様は美しい微笑みを浮かべた。
「あの夏の日から、随分神様らしくなってきたような気がする」
「そんなことはありません――」
心は変わっていない。ただ、知識がどんどん私の中に流れ込んでくるから、振る舞いも自然とそうなってしまうのだ。赤ちゃんがひとりでに立って歩くように、自然に神になっていく。そんな気がしている。
「ううん。もう立派な神様よ」
「そんなことはございません」
「あら、二度目の否定?」
頷く。神様らしい立派な神様か、と言われれば全然違うのだ。
「私はまだ、完全な神には――なりきれておりません。覚悟はできつつありますが、静子様をお慕いし、甘えたいと思っているところも正直あるのです。でも、それがもう許されなくなりつつあるから、私の感情もまた本来なら素直に喜ぶべきところを、未だ引きずっているのです」
泣くことはなかったが、心はあの夏の日から重たいままだ。
静子様は立ち上がると、優しく私を抱きしめた。もう抱きしめられることはないと思っていたから驚き、そしてしばらく静子様に身を預けた。静子様の心臓の鼓動が聞こえてくる。
静子様が生まれて下さってよかった。静子様が生きていてくれて本当によかった。静子様のご両親にお礼の言葉を述べたいくらいだ。
「ねえ、割り箸の社から生まれて、今ではこんなに大きくなった。私、千福に出会えたときはとても嬉しかった。神様に初めて出会えて、本当に嬉しかった。ずっと傍にいてくれて本当にありがとう。それに、神様に――千福に姿形を与えてくれたどこかの神様にありがとうって言いたい」
ああ。今、私は静子様と同じ気持ちでいる。
「誕生してから春夏秋冬、いつでも一緒にいたわね。素直に明るく成長して、教えたことはすぐに覚えていつでも私のことを心配してくれていた。そんな明るい千福のもとに様々な人が集まってきた。最初は腐敗していたこの町を、明るく照らしてくれた。千福がいたから私は生きてこられたの。千福、大好きよ。私は千福にとても救われてきたの」
「私も静子様の存在に救われておりました。大好きです」
もう、静子様はお一人じゃなくなる。いや、これまでも私がいたからお一人ではなかったのかもしれないけれど、これからは人間の家族ができる。静子様はもう寂しくない。
「ご結婚されたらこの家はどうするのですか」
静子様は私をゆっくりと離し、言った。
「多分、銀次さんがここに住むことになると思う」
ここもきっと笑い声で溢れた家に変わる。
「ちょっと気が早いけど美穂ちゃんも家族になるのよ」
そうか。美穂さんも静子様の家族になって下さるのだ。
「それはすごくいいことですね」
「あら、わかっている? 千福の家族にもなるということよ」
「え?」
「たとえ見えなくなっても、私と千福は家族。もし結婚が上手くいけば、末廣のご家族、みんなと家族になるの」
「末廣さんと家族・・・・・・私も?」
「未来永劫、ずーっと家族」
家族。静子様と私は家族だったのだ、と今更気づいた。そして私にも、他の家族ができる。そう思うと嬉しい。そしてそれは、末廣と小網の一族を幸せの呪いにかけるということだ。私が一人前になれば、もう嫌なほうの呪いは誰にもかからない。
「なら。なら、これから家族のために一生懸命働きます」
「千福神様、どうぞよろしくお願いします」
頭を下げられてしまった。
瞬く間に半年が過ぎて、五月になった。姿が完全に見えなくなるまで、静子様に札を使いながら脳と体のメンテナンスを続け、睡眠を司る脳の神経を治癒した。
そうして静子様は睡眠薬を手放すことができたのだ。
神社も立派に建てられた。白い鳥居に、白い外壁の社殿。私はそこを依代として生活するようになっているし、仁と寿も狛犬の銅像を依代として境内の中を見守っている。しかし巫女さんが集まらず、おみくじやお守りの製造も間に合っていないので、完全には調っていない。
お参りに来て下さるかたもまだまだ数える程度しかいないけれど、トクさんは本当に毎日いらっしゃる。ヤエさん親子は夏頃には来るとの報告が稲荷の使いの者から届いている。
他にも邪悪さの一切ない妖怪はお参りに来る。
静子様の神前式が花松神社で執り行われる。そんな爽やかな初夏の風が吹く中で、私は大山咋命様より天様を通じて式に招待された。
天様も白様も、もう私や仁、寿にはなにも言わずに今では嫌味のない丁寧な敬語を使う。
彼らも正式に私のことを神と見なし、仁と寿のことも神使と認めて下さっているのだろう。
神前式はできれば私のところで行って欲しかったけれど、流石にまだ準備が終わっていないため私も神主さんもOKを出せなかったのだ。それに式を行うには少し狭い。
大山咋命様のお隣に特別に許可を頂き座らせて頂くことになった。綺麗な座布団が用意されており、背後には鏡と勾玉が置かれている。
私たちは御簾越しに、神前式を見届けることにした。人々が既に集まっており、神社は賑やかだ。銀次さんは親戚一族が、静子様にはトクさんを始め、町で特別よくしてくださっていたかたがたが参列している。
太鼓や笛の音が鳴り響いた。
雅楽が奏でられる中で参進の儀が始まる。静子様は白無垢に包まれ巫女さんが赤い傘をさす中を、ゆっくりと歩いてこちらへ向かってくる。お美しい。
「ここで神前式など、何十年ぶりか・・・・・・」
大山咋命様は晴れ晴れとした表情で、ここへ集まる人々を見つめている。神主さんが祓い詞を述べ、大幣を振る。しばらくして、神主による祝詞が始まった。
「さて、どのような利益をもたらそうか・・・・・・。新郎には仕事がいいのだろうがあまり忙しくても夫婦は円満にならぬからな。同じ土地にある幸福神の力も借りなければなるまい?」
穏やかに笑い私のほうを見る。私は祝詞を聞きながら、神主の詞から力が注ぎ込まれるのを感じた。何度も何度も神職の祝詞を聞いていると、神の力も増すのだとか。
「はい。私はもうこの神前式の前より静子様より加護をお願いされております。まずは静子様、銀次様の心の安寧、そして喜び事が第一かと思います」
「というと?」
子供はどうなるかわからない。私には子を授けられる力がない。人間は――神の世界もそうだけれど、男女が結ばれたらやはり子供が欲しくなるものなのだろうか。だがそれが幸せだとも限らない。
「二人が健康で末永く、落ち着いた環境で仲睦まじく暮らしていけるように整えます」
浩さんの家庭を円満に納めたくらいの力はかつて無自覚にあった。なら今の私にはあらゆる災厄をはねのけて、時には喧嘩してもそれを元の鞘に収めるくらいのことは簡単にできる。
儀式が次々に行われていく。
「これがなかなかじれったいものでな。時々早く終わらぬかと思うこともある。そんなに恭しくやることもないのだ」
大山咋命様はそう言いながらも、どこか嬉しそうにしている。
「まあ、人々が神のために行っていることです。ゆっくり見届けましょう」
「千福、お前も何百年、何千年と聞いているうちに、じれったくなり飽きてくるぞ」
「そういうものでございますか」
指輪交換をしたあとで、玉串奉奠が始まる。静子様はゆっくり玉串を捧げる。
私は意図的に祝福の念を込めてそよ風を吹かせた。静子様ははっとしたような表情になる。
『あとでお参りに行こうと思ったけれど、千福、そこにいるの?』
静子様の心の声が聞こえた。
私はここにおります。こうして大山咋命様と一緒にあなたの神前式を見ております。
内心でそう返す。
私はこの町とこの町の人々と、静子様の新しいご家族とずっと共にあります。姿が見られなくてもずっとずっとお傍におります。力も以前より増して色々なことができるようになりました。だから安心してください。もう誰一人、不幸には致しません。
心からお幸せになって下さいませ。
儀式に則って私も粛々とした気持ちで必死に伝える。
静子様はなにかを感じ取ったのか、はたまた私の声が聞こえたのか、真っ赤に塗られた唇に見慣れた微笑みを浮かべられた。
退場が始まる。
「ここからはどうすれば宜しいでしょうか」
なんとなく訊ねてみた。ずっと見守るといっても四六時中見ていられるのも困るだろう。
「まあ、披露宴というものがあるだろうし、どこかで食事でもするのだろう。ここから先は人間達の好きにさせるとよい。逐一監視するのも今の言葉でいえばストーカーのようなものだ」
「そうでございますね・・・・・・」
去られる後ろ姿を見てやはり寂しく思う。
もう、ここから先は静子様とは異なる道を歩んでいくことになるのだ。
「お?」
大山咋命様が言ったのと同時に、私の神社に誰かいらした気配を感じ取った。
鈴の音がこちらにまで響き届く。その音は、大山咋命様にも聞こえたようだ。
「誰か来たのではないか」
「そのようです」
「行ってやるとよい。そうだな。よく話を聞き使いの者にメモでもとらせておけ。これから忙しくなるぞ」
「はい。ご助言ありがとうございます」
「たまには遊びに行ってやろう。まだまだ、おぬしは不安そうだからな」
なにかと気をかけて下さるので深くお辞儀をし、感謝の言葉を述べて千幸神社へ一瞬で行く。本格的な神様になると、縁のついた土地へは一瞬で行けるようになる。そのような力も、神社が建ち、鏡が置かれたと同時に備わっていた。
そして着るものも、本当はなんでもいいらしいが男性の神様は見栄えがいいからと平安装束風の衣装で大体統一しているらしい。女性の神様は動きやすいように、奈良時代に着られていたという礼服風の衣装のかたが多いと聞く。あくまで「風」だからそれなりに見えればどのように着ても構わないそうだ。私も今は静子様から頂いた着物を着ているけれど、そのうち見繕わなければならない。
神の世界に市場があるそうなので今度、弁財天様をお誘いして一緒に見に行ってみよう。
参拝者側だったのが、今は社の中で御簾越しに参拝者を見ている。いらしたのは翔君だった。身長も伸びて、表情も雰囲気も初めて会ったときとは異なり、随分明るくなっている。
さて、なにをお話して下さるのだろう。久しぶりにお会いできてとても嬉しい。
楽しみにしながら目を閉じ、静かに心の声に耳を傾けた。
『お元気ですか。おばあちゃんが色々話してくれて、神社ができたって聞いて来てみました。あのね、神様――』
「了」
あのね、神様 明(めい) @uminosora
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