悪いひとたち

 その厄介な出来事は、多分、その数ヶ月あとだったかもしれない。もっと前だったかも知れない。時系列は、よく憶えていない。

 冨田が乱した「澱」は二週間ほどで沈まった。ダメージを与えられなかったかも知れないけど、冨田にきちんと報復をした事、無関係と言えば無関係な他人に八つ当たりが出来た事、恐らくだけどそれらの事が幾分こころの乱れを和らげたのかも知れない。

 それでも、私は大学をひと月程サボった。朝から酒を飲み、タバコを吸い、小説を読んでは自堕落に過ごした。

 その姿はまるでサン=テグジュペリの『星の王子さま』に出てくる「酔っぱらいの星」に住む男に似ていたのかも知れない。王子さまの質問に、屁理屈で答えては酒を飲む、「呑み助」という男と。

 得られないと思っていた金が入ってきたのも大きかっただろう。冨田に傷つけられて得た金なのだから、その金で私は嫌なことを忘れる為の酒を飲む権利がある。そう、口実付けた。


「どうして朝からお酒を飲むの?」

 王子さまはいうのだろう。

「嫌な事を忘れたい、からかな」

 私は答える。

「お酒を飲むと忘れられるの?」

「いや、忘れられないね」

「だったらなんでお酒を飲むの?」

 しつけえ奴だ、どおでもいいだろ。

「次のひと口で忘れられるかも知れないじゃないか」

 私は答えた。王子さまは顎に手を当てて首を傾げながらいう。

「ふーん、よく分かんないや。大人って、ヘンなの」

 私は王子さまに答えたかも知れない。

 「ヘン」にさせられたんだよ、その大人たちに。クソヤロー。


 一か月のサボタージュは私のこころに焦りをもたらした。サークルの先輩は「そんなの全然大丈夫」と言ってくれたが、焦りは消えなかった。その理由は、その先輩が留年していたからではない。大学生でいられる権利を本当の父親ではない「おとうさん」に依存していたからだ。単位を落とす訳にはいかなかった。

 朝が苦手な私は、朝一の講義を「代返」という抜け穴を利用していた。同じ学部で知り合った友人に、講義に参加していないにも関わらず、その講義に存在していたかのようにして貰う。ただ、それは確実では無かった。そいつの気が乗らなければ、自然、欠席となった。今、自分は朝を苦手とか言っていられる身分ではない。通勤やら通学で混雑する、人と人が身体触れ合う朝の地下鉄に乗って通学する他なかった。

 その出来事は、そんな朝の混雑する地下鉄の車両の中で起きた。結論をいえば、私は痴漢を捕まえた。そしてその痴漢を意図的に逃した。被害者の了承も得ずに。

 私の通学する地下鉄の路線は。通称「痴漢路線」と呼ばれていた。通常、地下鉄の駅から次の駅までとかかる時間は二分程、小刻みに刻んでいた。けれども、私の利用する路線は何故かある一区画だけ、駅と駅までの間が十五分程掛かる区間があった。それが故、「痴漢路線」と呼ばれていた。人は痴漢行為を決意し、その目的を果たすには二分では足りないのかもしれない。躊躇や条件もあるのだろう。けれど、十五分という時間は、ただその一区画をして「痴漢路線」と呼ばせる程の充分さはあったのかも知れない。卑怯で、卑劣な彼らにとって。

 その行為は私の目の前で行われた。彼女は多分高校生で、彼もおそらく高校生だ。同じ学校だったかまでは分からない。

 人と人が押し合う混雑した朝の車両のなかで、私を前に二人は横向きに立っていた。先程から、私の右側からは不自然な身体の動きが伝わっていた。混雑の揺れの中に、ひっっそりと何かを紛れ込ますような、穏やかで異質な動き。まるで冨田が私を触った時のような、卑劣で優しい身体の動き。

 左側の彼女は俯いていていた。屈辱に耐えていたのかも知れない。口を少しだけ固く結んでいた。その表情からだけでは痴漢の確信を持てなかった。ただ、紅かった。耳だけが異様なほどに紅かった。誰かに助けを求める、ハザードランプの様に。

 右手を吊り革から放す。自分の腕をゆっくりと彼女の尻に近づける。蛇が捕食するように素早く彼の腕を掴んだ。彼は腕を硬直させた。

「痴漢……していたね」

 身体を少し屈めて、彼の耳もとでいう。囁くように。

 いえ、と彼は答えて腕を振り解こうとするので、掴む力を強めた。

「名前は?」

「……」

「答えた方が身の為だと思うよ。少なくとも俺を怒らせずにすむ」

「……リュウノスケです……」

 偽名だろうな、とは思った。

「リュウくんさ、親が最初にくれたプレゼント、知ってる?」

 返事は無い。私は叩かれて当然のクズをどうしたら言葉だけで傷つけられるのか、そのことばかり考えていた。鈴木さんのように、倉田のように。

「名前、だよ、名前。最初のプレゼントはね、君の名前。君の親はね、君の名前に何かしら意味を込めたのかもしれない。画数を気にしたかも知れない。いい人生を送ってくれるように、しあわせになれるように。願いを込めて。きみの名前は祝福に満ちている。願いに、祈りに、満ちている。分かるね?」

 返事はない。返事をしようか、といい、掴む力を一層強めた。

「ある日、鉄道職員から恐ろしい連絡が来るんだ。君の親御さんにね。『リュウノスケ君が痴漢をしました』って。被害者も被害者の親族も大変お怒りだって。そりゃそうだ。君が痴漢行為をした相手にだって親がいる。しあわせになって欲しいと祈り、願い、祝福したはずのわが娘、その娘が性犯罪に巻き込まれてしまったんだ、君がやった性犯罪。分かるね?」

 はい、と今度は小さく返事をした。

「君の親御さんは受け入れないはずだよ? そんな事実。受け入れられない。普通の大人はね、痴漢だとか性犯罪だとか、そんな恥ずかしい言葉を自分の人生から遠ざけておきたい。恥ずかしいから。でも、非情な鉄道職員は続けるんだ。目撃者もいる、目撃者は証言してもいいって言ってるって。祝福を、あげたのに。何故こんなことに? わが子の名前が恥ずべきと忌み嫌っていた痴漢という言葉と繋がってしまう。親御さんは涙を流すかな? どう思う? 絶望するかな? 失望するかな? 興味を失ったような、汚いものでも見るような、そんな目で、君を見るかな? もう、同じではいられないはずだ。君を痴漢と気づかないまま暮らしていた日々、君を痴漢と知ってしまったこれからの日々。同じ訳がない。辛くて、恥ずかしい日々。自分が罪を犯した訳でも無いのに。もう同じ気持ちで呼べない。祝福に満ちていたはずの、『リューノスケ』という名前を」

 彼の顔が紅くなった。言葉は届いている。でも、まだ足りないと何故か思った。

「同級生はどう思うだろうね。ある日突然学校に来なくなった君を。停学処分くらいは普通あるだろうから。犯罪なんだから、停学にする。少なくとも一週間は。学校の本音は痴漢するような奴は来なくていいと思っていても、そうは行かない。退学まではないとは俺も思うよ。いっそ退学になった方がマシなのにね。生殺し。

 欠席した君の机をクラスメイト達はどんな気持ちで見るだろうね。一日二日なら風邪かな? と思う程度だよ。でもね、だいたい四日目くらいからクラスがざわつき始めるんだ。何かがおかしい、と。先生は何も触れない。風邪ともコロナとも言わない。彼らも嘘はつきたくないんだ、痴漢の為に。何かあったのかなと心配してくれる子も中にはいるかもしれない。痴漢して停学になっているだけだというのにね」

 車内がカーブで揺れた。左手に持っていたカバンを足元に降ろし、吊り革につかまった。このカーブが来ると次の駅まであと半分くらいの合図だ。

「そして、五日目くらいに事の真相が明るみになる。だってそうだろ、事の真相は学校に伝わってるんだから。必ず漏れる。そういうものだ。クラスメートは最初はヒソヒソ話さ。けれどもその声は徐々に大きくなっていく。そりゃそうだ。君はそこに居なくて、皆知ってるんだから。君が痴漢だということを。声を潜める必要がない。問題は君だ。そんなクラスに君は復帰をしなければならない。停学が明けたら、痴漢をした男として。そこにイジメが生まれるかどうかは分からない。みんな、いい歳だしね。腫れ物には、触らない、かも知れない。ただ、友達は居ないよ? 友達だった奴が居るだけで。その中で過ごすんだ。卒業まで。友達だった奴らと。その地獄の中で。君、何年生?」

 二年、と彼は答えた。二年です、じゃないのかな? といい、彼の腕を掴む力を更に上げた。もう数段階、いける様な気がした。

「修学旅行も行けないね、行ってもいいけど。一人旅と同じだ。一人旅の方がまだマシだね。視線がないから。同級生が痴漢を見る視線。女子は不必要なほどに君と距離を取るだろう。触られ無いように。触る訳ないのに。君が触るのは匿名性の中だけだ。堂々と触ったりしない。卑怯だから。廊下ですれ違うだけでも、大袈裟に避けられるだろう。迷惑そうな顔しながら。何故性犯罪者と共に過ごさなければならないのか、そう、抗議するかのように。

 受験はどうだろう? そんな廃墟のような青春の中で、ひとり孤独に君は……」

「ごめんなさい! ごめんなさい! もう……これ以上は……ごめんなさい……ほんとに、もう……」

 彼は涙を流していた。まだ、序の口なのに。序の口なのに泣いていた。私は困惑をした。まだ続けたかった。用意していた、本当の地獄の台本を、叩かれて当然な彼に、披露したかった。

「許してください、もう、本当に……」

 許しを請う相手が違うだろう、と思った。けれど同時に何故、彼が彼女ではなく私に許しを求めたのかを理解してしまった。その理解は私を苦しめた。彼が私に許しを請う理由、それは、私が彼の未来を握っているから。彼に確実に訪れるであろう「残酷で哀れな未来」、私が力を入れて掴んでいるもの、それは彼の「残酷で哀れな未来」そのものだった。

 しくじった、そう思った。ただ、傷つけてやりたいだけだったのに。八つ当たりみたいに。自分は「性の事情」のことで、永く、理不尽に傷つけられた。だから、権利がある、欲望を抑えられないクソヤローどもに報復する権利が。そう単純に思っていた。考えてもいなかった。手の中にある罪、その「刑」の執行のことなど。

「許して……許してください……お願いですから……許して……助け……」

 厄介な事になった。黙って彼女と一緒に鉄道職員に突き出せば良かった。向き合うべきでは無い事に向き合ってしまった。例えば豚肉を食べる時、この豚も生きていたんだよな、とは普通思わない。けれども、当たり前だけどその豚は生きており、誰かがなんらかの方法で殺して、その豚の死体を切り刻み商品にする。そんな事掘り起こしたとて、気まずいだけでいいことなどひとつもない。

 豚は幼い頃から世話をしてくれる飼育員に感謝していたのかも知れない。その感謝は屠殺という形である日突然裏切られる。

 そうか、今理解した、己れはただの肉として育てられ、頃合いが来たから殺される、そういう事なんだな? 豚は思う。でもせめて、君との友情は嘘でなかった筈だ、と信じたい。それで、何だか報われるような気がするんだ。最期の別れは涙の一つでもうかべてくれないか。それで、一生が報われた気がする。お願いだ、フリでいい。報われた命として、生きた証が欲しいんだ。飼育員は思った。今日はいやにブヒブヒ言ってる一頭がいたな、と。まあ、いい、俺たちの仕事は頃合いの豚を選んで屠殺場に送るだけだ。そうやって報われない命が豚肉として商品となっていく。

 そんなドラマをいちいち空想していたら豚肉など食えたものでない。

 でも、私はやってしまった。調子に乗り、今後起こりうることをなるべく具体的に創作した。その方が傷つくと思ったから。けれども、それは確かに創作であっても、リアルに起こりうる、というか十中八九起こることを細部に渡って清書したに過ぎない。助けてと懇願する彼を、私が創作した、現実という地獄に、叩き落とす覚悟もなしに、関わってしまった。痴漢は痴漢、豚肉は豚肉、記号で良かった。飼育員だって、豚の想いを知ったら涙を浮かべるかも知れない。屠殺を躊躇うのかも知れない。

 このまま、彼を突き出したら私はどうなるのだろう。一人の男子の青春、いや生涯を台無しにする。痴漢した彼が悪い。それはそうだ。でもだからといって、犯した罪に対してその罰は余りにも重くは無いだろうか。私が人生を台無しにされた様に、私が彼の人生を台無しにする。地獄に、叩き落とす。罪の意識を負うだろうか。自分が彼の腕を掴んでいるはずなのに彼から腕を掴まれているような錯覚を覚えた。お願い、手を離さないで、僕を、助けて。地獄の谷に落とさないで……。

 想像しなければ、気にしなかったのに。

「逃げろ……」

「えっ?」

 私は腕を離した。

「なりふり構わず隣の車両にでも……行け。二度とするな」

 彼は言われた通り、すみません、通ります、通ります、といい離れていった。私は、何かを失った。


「えと、あの……大丈夫、かな?」

「はい、あの……ありがとう、ございます」

 私はようやく彼女に話しかけた。恥ずかしいのか彼に触られていた時と同じ格好で硬直している。俯いて、口を結んで。彼女は彼と私のやりとりを聞いていただろうか。

「ごめん、痴漢、逃しちゃって……」

「いえ、その……助けて頂いただけでも……誰も……」

 誰も、の後には周囲の無関心に対する非難の想いが透けて見えた。

  

「君さあ……」


 言った切り黙った。人為的に間をつくった。人は過度な間に耐えられない。様子を伺いにこちらを向くだろう。こちらを向くように、仕向けた。こちらを向くように、顔を上げるように待った。こちらを向け。顔を上げろ。俯いたままではいけない。私のように。


「え? あの……」


 こちらを向いた。そうだそれでいい。顔を、上げろ。俯くな。


「かわいいじゃん」


 そういい、笑って見せた。笑っていられるような気分じゃなかったけれど。


「次からは自分の方からも助けを求めてみるのもいいかもね。誰も……助けてくれない、かも知れない。助けてくれるかも知れない。きっと勇気がいることだと思うけど、練習だ、『痴漢です! 助けてください!』きちんと声に出して練習をする。練習の積み重ねは勇気を与えてくれる。助けを求められる自分と求められない自分、気の持ちようも変わると思うんだ。強くなれるなら、強くなる。練習だ。今日からやってみよう。できるね?」

 彼女の表情が緩んだように見えた。

「は、はい。やってみます。出来ると思います! 絶対に!」

「でも、ここでやるなよ。練習。俺が捕まっちまう」

 私達は、笑い合った。


           *

     

 どうしてお酒を飲むの? 王子さまはいった。傷を、付けたいからかな、私は答える。何に傷を付けるの? 自分自身さ……、私はいう。えっ……? 王子さまは言葉を失う。なんで……なんでそんな、そんな事をするの? 私は答える。分からない……。多分、だけど、「正当性」を失ったからかな? 


 自分は世界から理不尽に痛めつけられた、その不満をいってもいい「正当性」。私は罪の意識を負いたく無いが為に世界を歪めてしまった。彼女の報復する権利を勝手に奪い、別の被害者が出るかもしれない状況を勝手に作った。社会正義の為でも道徳的観念からでもなく、すべては自分の保身の為。危機に迫られると、私は簡単に保身に走る、その事実に失望をした。卑怯で卑劣な偽善者。彼らは卑怯で卑劣であるかも知れないけれど、偽善者ではない。


 自分を罰したいんだね? 王子さまはいう。

 ああ、そうだ、きっと私は自分を罰したいんだ、恥ずかしいから。「ヘン」、かな?


 この頃から私は自傷的な気持ちで酒を飲む傾向が増えた。朝から独りで飲む。夜のバイトには支障ないように抑えた。タバコを吸い始めた。太宰治を読む頻度が増えた。『人間失格』の主人公「大庭葉蔵」の生きる姿に自分自身を重ねた。何度も何度も、重ねた。もっと駄目になってしまいたかった。

 駄目になってしまいたい自分と、手遅れになる前にギリギリで自分自身を修正する自分のなかで、ずっと思考がぐるぐるとしていた。

 そもそも、私には根本的に分からないことがずっとあった。何故、人は性に狂うのか。性は人を傷つける。なのに何故? 道徳を破壊して、法律を破ってまでして、何故? 私は女性と交際したことも無ければ、性行為をする機会もなかった。それがどんなものかも知らずに、ぼんやりと非難していた。興味はあるのに。機会がないから否定していた。

 けれど、その機会はじきに訪れた。アルバイト先のお店のお客「かおりさん」が機会をくれた。かおりさんは二十代後半くらいの女性で、『ストロベリー・フィールズ』の常連さんだった。彼女は独りで酩酊するほど飲む事が多かった。私からよくボトルを買ってくれて、それは私の営業成績にとって非常に大きかった。掠れた声をして、甘えてきた。笑うと見える八重歯が可愛いらしかった。

「ユーくん、こっちこっち! ボトル入れてあげるんだからぁ、一番最初にかおりのとこに来なきゃダメでしょぉ?」

「分かってますよ。空いたグラスがあったから、片付けてただけです。でも、喋ってないです。誰とも。一番最初に卓に来れなくても、一番最初に話したいのは、かおりさんだったから。あんま、無理してボトル入れなくていいすよ? まだ、残ってんじゃねえっすか……」

 そういい笑顔を向ける。店長が聞いたら卒倒しそうな事をいいながら。

 『ストロベリー・フィールズ』では、ライブ演奏のステージとステージの合間の時間を「サービスタイム」と呼んで、演奏中、遠慮していた、グラス下げ、アイス交換、追加注文などをしに、スタッフが忙しく廻る。ホールには客卓が二十卓くらい、平日はホールスタッフ四、五名、一見さんや、常連さん、テーブルで雑談しながら接客をした。このサービスタイムは、ライブ中に溜まった雑務をこなす意味合いが強かったけれど、それがひと段落すると、サービスプッシュ、つまり、営業して売り上げを上げてこい、という時間が設けてられた。それは営業成績として、時給とは別のインセンティブが付き有難かった。

「かおりねぇ、マッカラン25年、入れちゃう。今すぐもって来てぇ。ユーくんと乾杯するんだからぁ」

「マッカラン25年ですね? かしこまりました。ただ今お持ち致しますので、少々お待ちください」

 ボトルメニューを彼女から受け取りホールからバーカウンターに戻る。カウンターの中に居る店長は、開口一番、何売った? といった。何売れた? ではなく。細かな所でプレッシャーを掛けてくる。

「マッカラン25年、ボトルでお願いします」

「よっしゃ! でかした、ユースケ! エグすぎる程に! おまえ今日は『かおり卓』だけでいいからな! マッカラン、マッカランちゃんわーと、はいマッカラン、ネームプレート、あ、待って、新しいアイスペールと、ミネのセット新しいグラス二つ、カバさんお願い! ってユースケ、おまえ何でボトル入れてくれんのに、卓上の古いの下げて来ないわけ? そーゆーとこだぞ! ま、今日はいいや、カバさん、悪い、ユースケの『かおり卓』仕上げて来てあげて、マッカランはユースケが持っていくから。いいか? 勧められたら、飲む。ボトルの中身を減らす。頑張って、来い。いいな。しかし、ニーゴーマックかぁ、でかいのきたねー。しっかり『接客』してあげて!」

 はい、と私よりも先にカバさんが動く。カバさんは一番の古株で、ホールスタッフでは唯一の女性だった。三十歳手前だと聞いた事がある。普段は、バーテンダーとして、バーカウンターの中で仕事をしていた。アイスペールや、グラス、ボトルの準備やら諸々、カバさんがカクテルを作っているところをほとんど見なかったけれど、たまにカクテルのオーダーが入ると彼女は嬉しそうにシェーカーを振っていた。


「お待たせ致しました。マッカラン25年です。お開けしますか?」

「待ってましたー! けど、今日も立って接客なのお? ユーくん、ここ! 座って!」

「法律の関係かなんか知らねーすけど、うちは立ってサービスをさせて頂くのが……」

「店長ぉ!」

 かおりさんはバーカウンターに居る店長に椅子を指差すジェスチャーをした。店長は反射的に媚びた笑顔をつくり、即座にオッケーサインを向けた。

「オッケーだって。はい、ここ座って。じゃ、かおりが注いであげるね、ユーくんはストレート?」

「いえ、水割りで。一対一くらいの濃さだとありがたいす」

「わたしはストレートがいいかな。さて……あーなにぃ? いい香りぃ。わたしねボトルを開けて最初のこの瞬間が一番好きなのぉ。さ、ユーくんも嗅いでみ? いい香りよぉ。わたしじゃなくてマッカランちゃんがね?」

 かおりさんに「嗅いでみ?」といわれた。人生において、臭いを勧められる度に、「ラッシュ」の事を思い出すのならば、私は確かに冨田に傷モノにされた。

「ああ、いい香りっすね。もうここまで香ってくる。二十五年、かおりさんに喜びを届けるために、待ってたんすねぇ。つーか、カオリカオリってややこしい……」

「いい。今の。いい。すごく。待ってたってやつ」

 そういい、かおりさんは自分のストレートグラスにマッカランを注ぎ、私にハーフストレートを作ってくれた。チェイサーは私が用意した。ストレートグラス二つ、ハーフグラス二つ、オールドファッションド二つ、タンブラー二つ。全てのシチュエーションに対処できるようグラスが揃えられていた。かばさんの配慮はいつも完璧で、ディティールが大事よ、言葉では無く背中でそっと仕事を教えてくれた。

 かんぱーい、と機嫌よく彼女は香りを嗅ぎ一口飲み、舌で転がしながら名残惜しそうに飲み込んだ。私もかおりさんに倣った。花のような香りが表情を幾度となく変えながら喉に流し込まれていった。

「正直、あんま良い酒飲んだ事ないから、よく分かんないすけど、このマッカラン25年は、美味いっていうか、勿論美味いんですけど、何というか、特別な味がしますね。おめでとう、って先言っときますね。記念日、なんでしょ? 今日が。マッカランは確かに今日という日を特別にしてくれてますよ」

「え? 私、ユーくんに誕生日教えてないよね? え? やだ、凄っごーい! なんで分かったのぉ?」

「何となくですよ。え、っていうかこれ飲み込んでからもまた違った香りが鼻を抜けるんですね。いいお酒だぁ、好きなカオリ」

「え? もぉ、好きなってどっちぃ? てゆうか、ユーくんさ、ホストでも全然やってけるわ。マジで。いい店紹介したいけど、他の女に見つかるのは嫌かなぁ。ユーくんを」

 かおりさんは二口目を愉しむ。私も彼女に倣う。私もそれに倣う。飲む速さが彼女よりも早すぎることがないよう、遅すぎることが無いようペースを合わせた。そこに意味などないのかも知れないけれど、何となくそうした方がいいような気がした。

「ねえ、ユーくん。サービスタイムも終わりそうだから単刀直入にいうね。真面目に聞いてね? 今日、仕事終わるの何時?」

「えっ? 今日はシフト、ラストじゃ無いすから11時すね、何処か飲みに行きたいんすか? いいすよ、俺、別にこの後何があるってわけでも……」

「寝て。わたしと」

 かおりさんは今まで見せたことの無い真剣な眼差しでいった。

「店が終わったら。ホテルで。わたしと、して。お小遣い、あげるから」


          *


 結局、11時を待たずして、私は仕事を上がった。やはり、スタッフが制服のまま客席に座り、ただひとりを接客するのはいかがなものかと、カバさんが店長に進言したらしい。絵面が良くないしガバナンスの観点からしても、毅然として置くべきだ、と。ただ、それをそのままお客様に伝えると、気を悪くされかねないので、ユースケくんをもう上がらせた方がいい、もちろん、店の都合を押し付けるのだから、時給はしっかりと付けてあげること、そんなやり取りがあったらしい。仕事が出来過ぎてどちらが店長か分からない。

 かおりさんに、仕事を上がらせてもらったことを伝え、着替えるから店の入り口左の付近で待っていて欲しい旨を伝えた。私はスタッフルームに足を運んだ。

 彼女が女性として自分の好みかどうかは私にはよく分からなかった。そもそも、私には女性の好みに対する認識が曖昧だった。性欲そのものが曖昧だったのかも知れない。はっきりとさせなければいけない。自分の性欲を。普通の男性として生きるのであれば。はっきりとさせなければいけない。

「お待たせしました」

 店の前で待っていたかおりさんにそう声を描けた。秋を感じさせる涼しい夜風が彼女のソバージュがかった長い髪を揺らすと、仄かにリンスの香りがした。

「ごめんね、ユーくん。なんか、はしたないっていうか強引っていうか。その分きっちりとおこずかい……」

「とりあえず、歩きましょうか」

 そういい、彼女の肩に手を置き、歩き始めた。当てもプランも無いのに。

「どうする? なんか軽く食べてからにする?」

「賄い、喰ったからいいす。それより、まずお小遣いなんですけど、そういうの無しにしましょうよ。売春してるみたいで、ちょっと嫌かな。それと、もうひとつ、俺、女性とした事ないっすから。セックス。ちょっと色々教えて欲しいなっていうか……」

「えー?! 嘘ぉ……。嘘でしょぉ?」

 かおりさんは心底驚いているふうだった。

「ホントすよ。だから、どうやったらいいか、セックスってそんなに良いものなのか知りたいな、って思ってたとこす。その相手がかおりさんならいいなぁ、とも」

 私はひとつだけ嘘をついた。

「えー? ホントぉ? ユーくんって女慣れしてるし、まさか、童貞くんだなんてぇ。ジュンとしちゃう……って待って待って、三十路になっておばさん化してるわ。今のはノーカンね、ノーカン! キュンとしちゃう、うん、こっちね、こっち」

 

 私たちはホテルに入り性行為をした。



 



 




 

 

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しあわせの鳥 ロム猫 @poorpoo

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