男のくせに

「バラぁ……」


 私はそう口にしていたのかも知れない。

 

 返事は、聞こえない。


 榊原を呼ぶ声を音として認識したようにも思えたし、そうでないような気もした。いずれにせよ、現実の世界に榊原は居ないということか、自分がまだ眠りの世界にいるかどちらかということなのだろう。孤独が、きつい。

 朦朧とした意識で小刻みに眠ったり目を覚したりを繰り返す内に、いま自分自身がどちらの世界にいるのか曖昧になっていた。その中で私は何故か子供の頃の眠りを思い出していた。多分、そうしたかったのだと思う。枕にうつ伏せて涎を垂らし、炬燵の温かさを感じながら、夢とうつつを出入りする。母親の優しい声がした。この頃の母親は優しかった。少なくとも私にはそう感じられた。倉田との事が発覚するまでは。

 倉田は完封なきまでに私の人生を狂わせた。私は他人の目を見て話すことが出来なくなった。同性の同級生を苦手に感じるようになった。こころには後ろめたさが住み着いた。倉田との関係は二年ほど続いた。私は駄目になった。生きる意欲というか、エネルギーのようなものが枯渇して元に戻らなかった。

 私は大人になった今でも何故倉田があのような事を繰り返したのか理解ができない。ペドフィリアなのか、同性愛者なのか、バイセクシャルなのかサディストなのか、あるいはその全てなのか。仮にそうであっても倉田の欲望は別のところにあったように思う。倉田という存在の芯のところにある部分。躊躇を見せない悪。他を寄せ付けないただひたすらに純粋な悪。今にして思えば倉田は私を虐待し無意味に傷めつける事でその悪を磨いていたのではないかと思う。快楽はつまりおまけで、悪を育て磨きあげたいという彼の原始的な欲求が、全てに優先されていたのではないか、と思う。悪をより暗く、光などに負けない程黒く、邪悪に育てあげる為に。でないと説明が付かないように思った。あんな非道いことを……。

 偶に、ニュースで残酷であったり凄惨であったり、そんな事件に出くわした時、我々はいつも犯人に対して思う。何故、そのような事が出来るのか。どんな思考回路をしたらそのように振る舞えるのか。倉田もその類の人間だったのだと思う。そして「その類の人間」はヤクザという彼の職業と親和性が高かったのかも知れない。より悪い者がヤクザの世界では生き残る事ができるのだろう。より、悪を磨いたものだけが上にのしあがれる。我々のよく分からない世界。

 そうは言っても私は生きる他なかった。死ぬという選択肢は一度試したが駄目だった。生きるしかなかった。何とかして世界と折り合いを付けて。普通の男として。

 私は倉田との性交で曖昧になった自分の性別を明確にする必要があった。そうでないと、他人から私の「後ろめたさ」の正体を嗅ぎつけられるのではないかと不安に思っていた。男らしい男。成長するにつれ粗野な言葉使いを好むようになった。男らしさとは? とりあえずスポーツに秀でるよう身体を鍛えた。中二の時、友人からロックバンドをやらないか、と誘われた。ロックバンド? 男らしいじゃないか。二つ返事だった。パートは勿論、ドラムを選んだ。一番男らしく見えたという、ただそれだけのことで。

 私のこの主観的な「男らしさのコレクション」は成長と共に増えていった。増えると共に自信は確かなものになっていった。健全な男子として振る舞う。それは、私にとって確かに人一倍努力を要するものだったけれど、そのリターンは少なくはなかった。演じていた。普通を、男子を、青春を。その演技を青春の中に没入させることによって、倉田の支配が脆弱になるのを感じた。友人と馬鹿を言い合い、悪ふざけをし、時には仲直りを前提としたような、陳腐な喧嘩もしてみせた。

 そんな、私の芝居じみた青春を見て、異性も私に興味を示してくれた。男として。

 彼女たちは私を、男として外見に優れていると評価し、影で「推し」とかいう、あやふやな好意を見せ、時には交際して欲しい気持ちを素直にぶつけて来た。

 上手くいっていた。異性に対しても同性に対しても。倉田との事は澱としてこころの底に沈めた。けれども、諸刃の剣。偶にそんな私をかき乱す存在が現れた。

 最初は神谷だった。

 中三の時、親友と呼べる存在がいた。その男が神谷だった。中二から同じクラスで席順が近い事もあってか、直ぐに仲良くなった。そして何故だか分からないけど何かと馬が合った。

 事件は中学最後の学園祭で起きた。その事件は事件と呼べるようなものではないのかも知れない。大したことない誤解なのかも知れない。未だによく分からない。彼は最後の学園祭を二人で見て回らないか、と提案してきた。別に何の不満もないから承諾した。私達の学校の学園祭は、喫茶店なり、お化け屋敷なりの催し物を一年、二年が担当して、受験勉強で学園祭の準備に時間を割けない三年生はただ見て廻る、という決まりだった。

「さ、行こうぜ」

 彼はそういうと私と手を繋いだ。え? となった。一瞬で混乱をした。

 手を繋ぐ? 男同士で? 意味が分からない。どういう事だろう?

 気持ちが悪かった。同時に大袈裟に捉えて手を振り解くのは彼を傷つけるのかもしれないとも考えた。良くある事だよな。そんな訳無い。私は中学に入学してからいままで一度として、男同士が手を繋いで歩く、そんなマヌケな光景を見た事が無い。

「わりぃ、ちょっと腹痛くなって、便所行ってくるわ」

 さり気なく手を振りほどきトイレに向かう。便意など微塵も感じていなかったのに。当時の私としても別に男嫌いの潔癖というわけでもなかった。写真撮影で肩を組むこともあるし、極上の喜びを共有した時には空気を読んで抱き合ったりもした。普通に遊べば、普通に楽しかったし、普通にそういった体験は必要だった。それに何らかの理由で同性と体が触れ合う事は致し方のないことだし、寧ろその事に対し「普通」に振るまえなければ、私の「後ろめたさ」を感づかれはしないかと、そちらの方を心配した。

 けれども、神谷の「手をつなぐ」という行為はそれらの行為とは質が違った。いや、そうではないのかもしれない。今でもわからない。ただ、ぎりぎりだった。ぎりぎり、アウトだった。

「ちょっと、腹痛収まんなくてさ、わりぃ、早退するわ」

「えー、なんだよ。大丈夫かよ?」

「ああ、大丈夫」私は答えたと思う。こころの中で、「俺は」大丈夫だなんだけどな、と付け加えて。

 担任に腹痛により早退したい旨を申し出、帰宅し、自分の部屋に寝転がった。神谷の汗で湿ったゴツゴツとした手の感触を思い出すと気持ちが悪かった。何故、神谷はあのような事をしたのだろう? 分からなかった。気持ちが悪かった。ただひとつ、明確に分かる事がある。それはもう神谷を友人として見ることが出来ない、ということだ。

 翌日から、彼のことを避けるようになった。話し掛けられれば、それには答えた。最低限の言葉で。私はやがて訪れるであろう、彼の「俺、お前になんか悪いことした? したなら言ってくれよ、謝るから」という言葉に対する原稿まで用意していた。腑に落ちるような、煙にまくような、適当な原稿を。やがて、その原稿は使用された。当時、自分が彼に対してどのような表情を向けていたか分からない。ただ、おそらくはだけど、私は、倉田との事が発覚してからの母親が私を見るあの目をしていたのだろう。興味を失った様な、汚いものを見る様な、冷たい目。

 卒業まで半年を待たずして、私達はお互いに親友を一人失った。彼の罪と呼べるかどうかも分からない微妙な行為に対し、その量刑は重く納得のいくものではなかったかも知れない。今でもあの時の自分の判断が正しかったのかどうかは分からない。でも、そうするしかなかった。

 ただ、中学を出て高校に入り、大学へと進むと、似たようなことは度々起こった。

 彼らによって強制的にこころの澱を掻き乱されることに、不本意ながら付き合うしかなかった。それはいつも唐突で、あまりに意外な角度からやって来た。

 例えば高一の時、道を歩いていると自転車が私を追い越した。別に何の変哲もない出来事だった。暫く歩いていると、先程の自転車が私の歩く道を塞ぐようにして止まっていた。自転車の運転手は振り向くようにして私を見ていた。歳の頃、三十くらいだろうか。あまりいい気はしなかった。私の進路を塞がれたのだから。彼の自転車に追いつき避けるように追い越している最中、彼に尻と肛門を触られた。尻と、「肛門」だ。

 あの動きの中で正確に肛門を触る技術は最早神業に近かった。

「な。な、な、な……」

 「な」しか出なかった。尻を押さえて激しく狼狽した。恐らく尻を触られただけだったらここまで狼狽えなかっただろう。彼はニヤニヤしていた。彼の神業が、次は股間をという動きを見せた時私は来た道を走って逃げた。なあぁっ! といいながら。「な」しか出なかった。追っては、来なかった。

 例えば高二の時、用を足そうと公園のトイレに入った。何の変哲もない、凡庸な日常の一幕だった。男子トイレは小便用が二つ、大便用が一つ、先客が一人、普通の光景だった。私は先客の隣りの便器で小便をした。先客は用を足し終わり、多分だけど手を洗い出て行った様に思う。分からない。普通、他人の排泄行為の始終を気にしたりしない。

 私も用を済ませ手を洗い、出口に向かうと先程の中年の男が出口を塞いでいた。出られない様に、通せんぼしていた。邪魔だった。

「すいません、ちょっと通りますので……」

「なあ、にいちゃん」

 男はニヤついた顔で私を見る。

「俺と、遊ばへん?」

 遊びまへん! と男を突き飛ばし後ろを振り向きもせず走って逃げた。意味が分からない。「遊ばへん?」といわれて誰が遊ぶというのか。しかも、公衆便所で。成功体験でもあるのだろうか。

 予測も準備も対策も出来なかった。彼らは私の乱されたこころのおりが、静かに底に沈んだ頃合いを見計らったかのように、別の彼らが現れては無神経に私のこころを濁していった。混雑した電車で、道を歩いていたら、友達だと思っていた奴が、深夜のコンビニで……。ある時、これは神谷が私の事を呪っているからこんな事が起こるのだと真剣に考えた。突然わけもわからないまま、理不尽にも友人関係を断たれた彼のやるせない怒り。その怒りが呪いとなって私に憑いているのだと。呪いは云うのだろう。


——俺、お前になんか悪いことした?——


 大学一年の時、「神谷の呪い」は醜悪な怪物となって私の前に現れた。卑劣で醜悪な怪物。

 その怪物は警備員をしていた。名前を冨田といった。

 彼は建設現場の入り口の警備員室で一人、常駐をし、搬入車両の誘導や現場ゲート前を通る歩行者の誘導、工事車両のタイヤが汚した道路の土を、ホースを手に水で清掃してたりと建設現場の警備と雑務をしていた。

 私が面接を受けた警備会社の求人は彼の警備作業補佐のアルバイトで、最低でも週に三日、何なら週六でも構わないとのことだ。独り暮らしを始めたばかりの私は金の使い方の配分がよく分かっておらず、家からの仕送りと夜のアルバイトの給料は二週間もすると無くなっていた。とにかく金がなかった。つべこべいわずに働くしかない。

 それでも様子見として、週三にしてもらった。初めて彼を見た時、正直あまり良い印象はなかった。小太りの中年、清潔感の足りない醜男ぶおとこ。この私が彼に対して良い印象を持てるはずがない。

 けれども、見た目に反して彼は私に良くしてくれた。現場のルールや仕事内容を丁寧に教えてくれたし、失敗しても決して叱ったりはしなかった。

「お弁当、次回から用意してこなくていいよ。僕が買ってきてあげるから。コンビニ弁当で良ければ、だけど。どんなのがいいかい?」

 ある日、従業員駐車場に停めてある冨田の車内で一緒に昼食を食べている時に、彼はそう提案をしてきた。彼の車の中で昼食を摂るのが警備員のルールだった。

「え? でも悪いすよ」

「いいの、いいの、四十独身男なんかはね、たいしてお金の使い道がないんだから、大丈夫。前のバイトの子にもね、同じことしてあげてたから。お金、無いんだろ? 節約、節約」

 正直、何か気持ち悪いと思った。金が無いと決めつけられたことも、それに対して施しを受けることも。けれども、彼の今までの親切さを考えると私の狭量に過ぎないかとも思いなおした。なにより、その申し出は実際には有難い。

「え、じゃあお言葉に甘えて……何でもいいす。あ、でも肉系だと有難いかな。ありがとうございます」

 「肉系か。唐揚げ弁当とか生姜焼き弁当とか、ハンバーグ弁当とか、そんな感じでいい?」

 少し、え? っとなった。提案された弁当の内容が前回、前々回、そしてその前と順番ともども私が食した弁当と一致していたから。考えすぎか。そんなこと一々気にしていたら生きていけない、折り合いを付けるのだ。

「そんな感じでお願いします」

「よし、任せといて。次回は……明日だっけ?」

 次の日になると、本当に弁当を買ってきてくれた。ペットボトルのお茶までつけて。次の回もまた次の回も、その又次もと、毎回彼は弁当を買ってきてくれた。買ってきてもらうことで何かを要求されることはなかったし、有り難がれよ、といった態度の変化がある訳でもなかった。有り難かった。有難いという気持ちが募る度に彼に対する信頼も強くなった。昼食を食べながら、私は冨田に自分の話をするまでになっていた。文学が好きなこと。とりわけ夏目漱石が好きなこと。好きが高じて『草枕』を原稿用紙に書き写したこと。いつか、梶井基次郎の『檸檬』の最後のシーンを再現したい野望があること……。

「行為を辿ることで心に届くような、そんな気がしてるんすよね」

「へー。ユースケ君って何か偶に詩人みたいなことをいうよね」

「そうすかね」

「そうだよ」

 呑気なものだった。彼の親切はただの餌付けだったというのに。疑り深い猫だって、毎日エサをあげていれば、脚のひとつにでもスリスリ身体を寄せて来るだろう。相手が腹の中に何を抱えているかも知らずに。

 いつものように冨田の車の中で飯を食べ終ると、これ、ちょっと面白いから嗅いでみ? と冨田に言われた。手にしているのは親指大の茶色いガラスの小瓶。正直、余り気乗りはしなかった。それが極上のいい香りであれ、絶望的に臭いものであれ、他人の勧めで何かを嗅ぐという行為そのものが何となく嫌だった。けれども、冨田は「嗅いでみ?」といった。「嗅いでみる?」ではなくて。断る余地がないような気がした。どうせ笑っちゃうぐらい臭い何かだろ、それで悪戯した気になりたいんだろ? しょうがねぇ、付き合ってやるか。頭の中でリアクションを二パターンほど準備しながら、小さな金属の蓋を開けて匂いを嗅いでみる。

 衝撃が走った。心臓は突然、その鼓動を強めた。自分の身体に何が起きたのか、全く理解が出来ない。ただ、動悸が激し過ぎて思考が上手くいかない。身体は動かせなかった。上手く言えないけど動悸が激し過ぎて、動かせなかった。大丈夫かい? 冨田はそういいシートを倒す。あ、あ、っと答える。この時声も出せない事に気づいた。動悸が激し過ぎて、出せなかった。

 身体の自由を奪われ、声も出せず、暗い車中のシートに横たわる、圧倒的に無防備な私がいた。その無防備は私が望んでそうなったものではなかった。「こうなる」とわかっていて、「そう」された訳では無い。祈るしかなかった。冨田の善性を。冨田の道徳を。冨田の性癖を。

「綺麗な顔してるね……」

 冨田はそういうと顔を私の顔に近づけていった。息が、臭い。私の股間を触り始める。撫でるように優しく。意味が分からない。私の股間を触って、一体、冨田に何の得があるというのか。気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い。

「ふわぁ、ってして気持ちいいだろ? これ『ラッシュ』っていうんだ。アレがね、気持ち良くなるんだって。リラックスして、僕に任せて」

 何を任せるというのだ? くだらない。気持ち悪い。

「ユースケ君さえ良ければね、僕のも気持ち良くして欲しいんだ。勿論、お小遣いはあげるよ。に……三万だ。前の子は一万五千だったけど、ユースケ君なら、三万あげるよ。凄いよ。倍だよ?」

 くだらない! くだらない! くだらない! どいつもこいつも! 普通に、普通に生きていたいだけなのに! その「普通」に届く為に人知れず沢山努力しているのに! 何故、邪魔をする? 何故邪魔ばかりをするんだ! 

 激しい怒りも全く無力だった。倉田に逆らえなかった自分を思い出す。そうならないように身体を鍛えた自分の努力を思い出す。その努力は薬物によって簡単に無効化された。こんなくだらない人間によって。殴れば消し飛んでしまうような、くだらない存在によって。

「感じてるのかい? 何だか大きくなっているんじゃない? 分かってたんだ。いつかこうなるってことを。気持ち良いだろ? 怖がることは無いよ? 僕に任せて。ふふっ。かわいいね、ユースケ君は」

 そういってズボンのジッパーを降ろす。

 殺そうと思った。私をレイプしたなら本気で殺そうと思った。今は好きにするが良い。逆らえのないだから。冥土の土産として、この私の身体を好きに愉しむがいい。白いロープ。今度は上手に使ってみせる。テメエみたいなクズと刺し違いに、くだらなっかた世界とさよならしてやる。そう思っていた。

 その効果が数十秒なのか数分だったのかは分からない。あの激しかった動悸が少しずつ弱まってきた。弱まると同時に人間の自由と尊厳を取り戻せた気がした。私は「あーーーー!」と叫んだと思う。叫んだことで、私はようやく通常の私を取り戻せた。

 身体の自由を取り戻した私は冨田を殴っていた。馬乗りになり、一発二発三発と、殴っていた。獣のような声を上げて、正常な人間であることを確かめた。何度も、何度も。

 悔しかった。ただ、ひたすらに悔しかった。六発目の拳を冨田に喰らわせた時、同時に私の目から流れた涙が彼の顔の口元の辺りに落ちた。私は疲れていたと思う。ハアハアと息をあげ、冨田の様子を伺ってみた。

 冨田は嗤っていた。私の零した涙を舌で掬い取って。

「でも君、固くしてたじゃないか? 僕に触られて、だらしなくアレを大きくさせて。気持ち、良かったんだろ?」

 凄まじい恐怖を感じた。倉田とはまた別の恐怖。私は確かに暴力で冨田を支配したはずだった。拳を固め、無抵抗な彼を何度も何度も殴り付けて。

 この男は嗤っていた。私は彼を支配など出来ていなかった。いや、出来ていたのかもしれない。ただ、彼はそれさえも愉しんでいた。目的の失敗も、それに結果する私の暴力も、その支配も。絶望の雄たけびも。きっと愉しんでいた。

「落ち着いて聞いてね。ユースケ君、僕はね……」

 私の身体を押しのけ起き上がろうとする怪物に恐怖した。絶望的なほどに。咆哮のような、叫び声を出したと思う。

 私は制服の上着を脱いで彼にたたきつけ、慌てて車を飛び出した。逃げていた。馬鹿みたいな声をあげて。仕事に戻るつもりは無かった。


 何回か無断欠勤をして、私は仕事をクビになった。会社からクビにする旨と給料を精算したから取りにくる旨、それから制服のズボンを返して欲しい旨、事務的な連絡があった。給料なんか要らないからもう関わりたくないと思ったけれど、貸したものを返せといわれたら従うしかない。

 翌日、アポを取り事務所に入った。一番手前の事務員さんが私を一瞥して、いらっしゃいませ、という。三十半ばくらいだろうか、神経質そうな笑みを湛える。彼女はきっと十回笑みを浮かべたら十回とも全く同じ笑みを浮かべるのだろう。そして、きっとそんな自分に誇りを持ってさえいそうだ。わたしはいつでもどこでも同じ品質の笑みを浮かべて差し上げますわ、と。

 彼女に神尾です、と名前を告げると瞬時に笑みを引っ込めた。ああ、無断欠勤の、と言葉を続けて。

「領収書にサイン、これ給料、ズボンは持ってきた?」

 紙袋に畳んで入れたズボンを渡す。彼女は紙袋を受け取りズボンの匂いを嗅ぐ。あまり、不用意に匂いを嗅ぐといつか痛い目見ますよ、と教えてあげたかった。

「まさかとは思うけど、これ、洗ってあるわよね?」

 彼女はいう。テメエ今匂い嗅いだんだから分かってんだろ、と思う。

 いいえ、と答えると、大袈裟なため息を吐き、「やれやれ」といったジェスチャーをした。それは村上春樹でもしない程の、わざとらしい「やれやれ」だった。

「常識が無いのね。まあ、いいわ。うちはね、無断欠勤するような質の悪いのが来ないようによそより給料高めに出してるの。ただし、無断欠勤一度でクビ。どんな理由があろうともね。連絡くらいはできるものね。常識さえあれば」

 嫌味のひとつや二つくらい言われるだろうと思っていた。実際言われてみるとやはり気分は良くなかった。胸のネームプレートが「鈴木」とされているこの女性は、正義感からではなく、勿論、会社への忠誠心からでもなく、叩かれて当然のクズを、まだ手放したくない、といった感じでお説教を続けた。

「神尾くんって、まだ学生さん? 学生さんは気楽でいいよね。責任が無いものね。無責任でいられて。ちょっと嫌なことがあれば、辞めちゃえばいいやって。でも、そんな無責任な子にもね、お給料は払わなければいけないの。迷惑したのはこっちなんだけどね、ほら、法律がいま、うるさいから」

 ごめんなさいと、いっておこうか、鈴木、テメエ、説教が気持ち良いだけだろう、と言おうか答えに窮した。

「はーあ、もう帰っていいわ。でもね、ひとつだけ言っておく。冨田さんはね、あなたのこと庇ってたわ。あんないい子は居ない。仕事も真面目で一生懸命だって。クビにしないでやってくれ、だって。あなたねぇ、肝に銘じなさい。ひとの善意をね……」

「だったらあなたがレイプされたらいいんじゃないですか?」

 逆らわないつもりでいた。悪いことをしたのは確かなのだから。けれども「冨田」の名前が出されたことで、タガが外れた。

「そんな事言うなら、鈴木さんがレイプされたら良かったんだ。ぼくの代わりに。冨田の薄暗い車の中で、不用意にもラッシュを嗅がされて、身体の自由を奪われて、冨田の臭い息を嗅ぎながら、鈴木さんの敏感な部分を触られて、気持ち悪いのに、『気持ちいいんだろ? 鈴木さん。だって、アソコが濡れてるよ』とか気持ち悪いこと言われて、鈴木さんがレイプされれば良かったんだ。ぼくの代わりに」

 泣いてしまいたかった。男のくせに。

 鈴木さんは、え? だの、レイ? だの、えええ? だの訳の分からない事をいって混乱していた。自身の人生において関わりが無かった言葉、そして今後も関わることはないであろうと思っていたその言葉を、無責任と見下していた歳下の学生から叩きつけられたのだ。歳上の彼女に教えてあげたい。混乱はいつも唐突で、あまりに意外な角度からやってくるものなんですよ、と。事務所内がざわつき始める。

「ちょ、ちょ、ちょ、神尾くん……だっけな。ちょっ、一旦落ち着こうか。なんだろな、ちょっと詳しく……」

 慌てて一人の中年男が私に駆け寄ってくる。今にも私を掴みそうな勢いで。そういう話は事務所でするんじゃなくて別室でやるもんなんだよ、そんな態度に感じた。

「テメエらおっさんはもう無理なんだよ! クソヤロー! 特におまえ、少しでも俺に触れてみろ!」

 多勢に無勢。正直怖かった。白いロープを思い出す。

「殺ろすぞ」

 怯える猫のように威嚇してみせた。言い切ったあと事務所は鎮まり返った。人生において経験もしたこともないこの事態を、どう処理したらいいか分からないこの状況を、彼らは解決方法を頭の中で検索しているようだった。ノットファウンド。カチカチカチとクリック音。知ったことか。くたばっちまえ。クソヤロー。

 失礼します、と告げ、私はその場を去った。

                   

 

 



 





 

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