くだらない世界

 家に帰ると榊原が奥の六畳間で横になりながら漫画を読んでいた。築何十年だか分からないボロボロの木造一戸建ての貸し家。右手に小さな台所、奥に六畳間その手前に三畳間。なんの仕切りもない。辛うじて便所だけは仕切られている。家賃は五万円。折半で二万五千円。風呂はないが、便所と住所があるだけ有り難かった。

「あ、ユースケさん。お久しぶりす」

「うす」

「また女のとこすか?」

「まあな」

「ほんと、好きっすねー」

「まあな」

 互いのプライバシーを守れないこの空間に於いて、無愛想な態度は「襖」の代わりだ。放って置いてくれよと、ぴしゃりと見えない「襖」を閉ざす。昨日の酒を身体に残し、する必要を感じない会話を交わす余裕を持てない私は彼につれない態度を示し、三畳間の部屋に寝転がった。畳の上に敷き放しの布団。枕元には手製のラックに下着類やらタオル、シャツ、古びた頑丈そうな白いロープ、それから何度も読み潰した数十冊の文庫本。もし仮に引越すのならば、ダンボール箱三つでも事足りそうだ。

 背泳ぎの様な格好で手を伸ばし適当に一冊本を手に取るとそれは芥川龍之介の『河童』だった。何となく『河童』を読む気分では無かったけれども、だからといって棚に戻して別の何かを探すのは違う気がした。仮にそうするのであれば最初からきちんと読みたい物を捜せばいいのだ。落伍者というのは社会からどんなに落ちぶれても、自分の細かなルーティンやルールに拘るところが多分ある。きっと些細な事でも何かひとつ己れの中に、秩序めいたものを持っていなければ、落伍の不安に耐えられ無いのだろう。私は幾度目かの『河童』の文章を目で追いながら、頭の中では別の事を考えていた。

「いつも思うんすけど、面白いんすか? それ?」

 榊原が六畳間から顔を覗かせる。「襖」は無造作にも開けられた。

「面白いって『河童』がか?」

「いや、カッパがどうとかじゃなくてさ、何かユースケさん、いつも難しそうな小っさい本読んでるじゃないっすか。字しか無いやつ」

「別に面白いとかじゃなくてな、何か正解というか、ヒントみたいなものを見つけられたらちょっといいかな、ってくらいの感じなのかな。金もかかんないし」

「正解ってなんのすか?」

「何のって、人生のさ」

「へー、そうなんすねー。さすがすねー」

 榊原は、自分で始めた会話の顛末を興味無さげな態度で終わらせた。一体何なのだろう。

「ところで、ユースケさん。ヤニ、持ってません? 持ってたらちょこっと分けてもらたらなーなんて」

 本題はそっちか。胸ポケットから山崎からくすねた赤ラークを取り出し残っていた十本の半分、五本を榊原に渡した。

「いいんすか? 半分も」

「良いも悪いも無えよ。酒とタバコは共産主義。それが俺の信条でね」

「へっへー、ありやとやんす。でも、何すか? そのキョーサン主義ってやつ?」

 私は榊原にも伝わるよう、共産主義について考えてみた。

「例えばさ、俺とお前が女ひっかけに行くだろ?」

「ええ、行きますよね。しょっちゅう」

「そんでさ、お前が飛び切りのいい女をゲットしたとするじゃん? それはもう、本当に、見ただけで勃起しちまような、そんないい女さ。そんで俺は不作でさ、ちょっと残念な地雷系な感じのしか捕まんなかったとするじゃん? 腕にリスカの跡があってさ、それを何だか知らねえけど誇らしげにしてるような奴」

「……えええ……ええ……つか、ユースケさん……どんだけ不作なんすか、それ……」

「俺たちはさ、それぞれ、ここでセックスをする。二回戦は交換こする。文句は言わない。それが共産主義」

「……なんだかよく分かんねすけど、それがキョーサン主義なら、俺はちょっと……ごめんすわ……。タバコ、ゴチっす……」

 榊原は自分の「部屋」に戻り、シュボッっと彼のジッポーの音を響かせる。程なくして甘い煙の匂いが立ち込めた。

「お互い給料前は辛いすねー、くー! しんみるー!」

 小さな溜め息を吐き、私は『河童』を諦めた。どのみち大して頭に入っていない。

「辛えな。なあ、バラってさ、今日シフト、オープン?」

「ユースケさんといっしょすよ」

「なら、もし、俺、寝てたら起こしてくんない?」

「ええっすよー、かー、マジで生き返るぅ!」

 私は目覚まし時計の確保に少し安堵を覚えた。

 バイトで知り合ってまだ日も浅いが、私は裏表のないこの榊原という男の事を気に入っていた。彼は私が一人暮らしをしていると聞くと、実家からバイトに通うのが面倒だから同居させてくれと私に頼みこんできた。

「オレ、こっちの六畳がいいっすわ。譲ってくれますね? 歳上なんだから」

 彼が初めて部屋を見た時、謎の理論で私から六畳間を奪っていった事を今でもよく覚えている。

「ユースケさんってさー、大学辞めたんすよねー、しかも四年で。でも何でなんでなんすか? あとちょっとなのに」

 榊原は世間話を始めた。話たい時は相手の都合も考えずに話す。しかも、たいして興味があるわけでもないのに、退屈という空間を何でもいいから埋めてしまえ、という体で会話を始める。気の良いやつなのだけれど、そこが欠点といえば欠点なのかもしれない。

「まあな、それ、いろんな人によく言われるわ。単純な話、金が無くなった。学費が払えなきゃ辞めるしかないっしょ」

「親、払ってくれないんすか?」

「まあ、うちは片親の家庭でさ、もともと大学行く余裕なんてハナから無かったんだわ。バラみたいにさ、高校出たら働くって感じの流れだったんだよ。けど丁度、おふくろがその時付き合って、ていうかうちに出入りしていた『おとうさん』がさ、けっこうな金持ちだったらしくてさ、俺の大学の費用くらい出してやるわってことになったんだよ。スゲーよな、自分の家庭もあんのに」

「へー、ラッキーすねー」

「でも、俺が四年に上がる頃、喧嘩して別れた。おふくろもさあ、あとちょっと我慢してくれればいいのになあ」

「……運無いすねー。てゆーか、なんか、運良いのか悪いのか分かんないような話っすよねー、それ」

 榊原にそういわれて少しこころがざわついた。

「まあな、俺は昔から『運』だけは悪いんだよ、絶望的なほどにな。ま、三流大学の文学部の卒業証書をさ、なんか奨学金やらそんな制度を利用してまで欲しいと思えなかったから辞めてやったよ。ロックだろ? けどな、卒論は出したんだぜ? けじめとして。太宰治の『人間失格』をテーマにな。なんか、俺に、似合ってるような気がしてさ。教授には褒められたよ。大学辞めるのが本当に惜しいって。人生の唯一の自慢さ。研究生として何とか大学に……」

 スマホが鳴る。堀さんからだった。心当たりがあった。今度のライブの話なのだろう。出たくなかったが出ない訳にはいかない。榊原に、ちょっと悪いな、と詫び、電話に出る。

「おはよぅ、ございまーす、ユースケちゃん。今日はいい天気ですねー。ところで朝から悪いんだけどさー……チケット、完売した?」

「いえ、後一枚……」

「たーのーむーよーーっ! お前だけだぞ? 完売してないの! 何度も言うようだけど、完売が大事なの! 分かる? 前売りソールドアウト! チケット代自腹切ればいいやとかそういう話じゃねーの! そ・お・る・ど・あ・う・と! そおるどあうと」

 堀さんは「おもてなし」の様に「ソールドアウト」を繰り返した。

「ワンマン張るんだから前売り完売くらいしてみせろ、ってマネージャーさん言ってたじゃん、あの人俺らのこと推してくれてんだぜ? 顔に泥は塗れないよな? どおしても無理なら早めに言って。ちょっと俺も苦しいけど。恥かかす訳には行かないじゃん? でも、やっぱ、チケットの事で甘えは良くないよな、ってのが俺の考え。自分でさ、限界まで頑張ってみて。あ、因みに竜介はもう何があっても絶対無理だって。うちはスリーピースだからその分チケットノルマキツいんだよ。頼むからな! じゃっ!」

 堀さんは一方的にいいたいことをいい、通話を切った。

 はー、と溜め息を吐く。あー、もう、と声にし、頭を掻きむしり虎の子の赤ラーク一本に火をつけた。

「また、ライブのチケットか何かすか? 大変すねー」

 榊原が金色の短髪をぬっと六畳間から覗かせてこちらを見る。ハーフかクォーターか。本人は否定するけれど、西洋の血が混じっているように見えて、綺麗な顔立ちだな、といつも思う。

「ああ、あと一枚がなぁ、なかなか売れないんだよぉ。タダで配ればいいって話でもないしな。ちゃんとさ、ハコまで足運んでくんないといけないわけ。タダで配って当日ガラガラでしたじゃしゃれになんねぇ。自腹切ってさ、金払ったやつだけが来るんだよ、ライブにな。あと、友達かな。あーでも俺って友達少ないんだよなぁ、って、そういやさ、バラってさ……」

「オレはその日はデートですぅ。言ったじゃないすか。オレ、飛びっきりのいい女とやれるかもしんねって……」

 榊原は意地の悪そうな表情を作り言葉を続けた。

「もう楽しみで楽しみで、今も半勃ちなくらいっすわ。見てみます? このオレの……」

 いや、いい、と、私は断った。

「でもよお、せめて、せめてさあ、ちょろっと、デートコースにライブ鑑賞を入れてくれるくらいいいじゃねーかよぉ……ホントに、ホントにちょろっとだけでいいいんだぜ? ちょろっとだけ、さきっちょセーフみたいなかんじでさ、ちょろっとだけ見たふりしてさあ、そんですぐに帰っていったっていいんだぜ? 頼むよお。お願いだからさあ……。助けると思って! ちょろっと! ちょろっとだけ! ちょろっとばーらーちゃん?」

「……ユースケさん……アンタ……プライドってもんがさぁ無いんかよ……」

 薄情者、と彼を罵り、熱っ、となった。虎の子の赤ラークは根本まで燃えつき、フィルターを焦がした。「貧乏吸い」をすると大抵こうなる。

 ちえ、榊原に聞こえるように声に出す。あと一人。しかし、もう眠い。強烈な睡魔に襲われた。俺、もう寝るから、と榊原に伝える。「俺、もう寝るから話しかけるなよ」と伝えなかったことを、軽く後悔をする。睡眠導入剤に『河童』は必要なさそうだ。目を閉じて、すぅっと何処かに落ちていく感覚を覚える。突然、スマホからのメッセージの着信音に驚く。腹を立て、一体誰からとスマホを開くと、ジーンズからだった。あれほど、用もないのにメッセージを寄越すなのと言っておいたのに。彼女を信用した自分の愚かさを悔いた。人間を簡単に信用するべきではない。一晩のゆきずりの女になど連絡先を教えた私が愚かだったのだ。それでも、一応、要件を確認してみる。


「クッ、クククッ、アッハハハハハー! クゥー、アハハハハハハ! めっちゃウケる! あー腹いてえ。アッハッハッハッハー!」

「どおしたんすか? ユースケさん、チケット売れな過ぎて頭おかしく……」

「いやあよ、昨日『やり飲み』したんだわ。ボンボンの後輩の高級マンションでさ、四人でさ、そしたら俺の選んだ女、処女だったから辞めたんだわ、途中でさ」

「ユースケさん変な拘りありますもんねー」

「まあ、こっちも初めて会った奴の飲み会にノコノコ付いてくるような女だから流石に処女はねえだろって油断してたんだわ。まあ、それはいいとして、朝起きて見たらさ、後輩ら二人の姿が無くてさ、ああ、別室でよろしくやったんだろうなって思ったら、何かちょっとムカついてさ。こっちは途中でショボンとなってんのによ」

「そんなん言うならやりゃあいいじゃないすか。好き嫌いは良くねーすよ? オレなんか、相手が処女だろうがジョジョだろうが性別が女ならオラオラオラオラって最後まで美味しく……」

「そんでよ、そいつらまだ寝てっからって、ちょいとした嫌がらせをしてやったんだわ。その処女と協力してさ、朝起きて見つけたら絶対『もーーーーっ!』ってなるよな、なんていってさ、気色の悪いオブジェをさ」

 私はそこまで話すと榊原にスマホを渡した。画面は「『モー』ゲット!」というメッセージと共に動画が添えられある。

「ブッ、ワハハハハハハハー! 何これシュールすぎしょ。チョーウケんだけど! こいつも、なんかゴールした時みたいな格好で『もー』してません? サッカーの日本代表の試合のやつ」

 榊原の例えに再び笑いが堪えられなくなった。確かに似ている。サムライジャパンの誰かがゴールを決め、喜びのあまり拳を握りしめ天を仰ぐ。丁度山崎の「もーーーーっ!」の声の調子も、中継をするTV局のアナウンサーの「ゴーーーールっ!」の調子そのものだった。

 暫く二人で笑い合いながら、ふと、で、そいつは誘ったんすか? と榊原がいった。

「そいつなんでしょ? 盗撮動画送ったの。そのユースケさんがやり損ねた女。チケット売ったんすか? そいつに」

 あっ、といった後、でもなぁ、と言葉がこぼれた。

「付き纏うなって言っちゃったんだよなぁ。かっこつけてさ。今更どのツラぶら下げて……」

「いいじゃないっすかー、そんなチンケなプライドと残り一枚のチケット売ってスッキリさっぱりと、どっちが大事なんすか? つか、付き纏うなも何も、交換してんじゃないすか、連絡先、珍しく」

 確かに榊原の言う通りだ。「幻の鳥」の姿を思い出す。

「まあな。楽しかったからな。オブジェ作り。セックスするよりもずっとさ」

「だったら、連絡しなさいよ、意地張らんと。せっかくこんな楽しい盗作動画、送ってくれてんだし、お礼も兼ねてさー」

 榊原にそういわれて、それもそうか、と思いなおした。

 ジーンズにお礼のメッセージを簡潔に送り、これから寝るから絶対にメッセージを送らないで欲しい旨を伝えた。チケットの話は改めてしようと考えた。それよりも、ただ眠りたかった。榊原に彼女に礼は言ったと伝えた。ただ、眠いから、チケットの話はまた別の機会にする旨を伝えた。そして、俺、もう寝るから話し掛けるなよ、と伝えた。朝から昼に向かう活きのいい日の光が、眠りの邪魔をする気がした。瞼さえ閉じてしまえばこちらのものだとも思った。いずれにせよ、さっさとこの気怠い世界から逃げ出してしまいたい、そう思った。

 三畳間の私の部屋に寝転んで瞼を閉じる。ああ、逃げ、とひと言だけ残して、私は恐らくは暗いのであろう眠りの世界に転がるように落ちていった。

 

                   *

 小学校低学年か中学年か、裸の少年がいた。その少年はどこか中性的で、美しく見えた。夕日が射すほの暗いリビング。見覚えのあるソファーの上には黒い影が股を開いて座っている。その影は震えが止まらない程、残酷で、邪悪だった。

「おい、分かってるよな?」

 はい、と幼いころの私が答える。

「ショーコや他の大人にこのことをしゃべりやがったら、おまえ、殺すからな」

「はい……分かっています……」

 影は何かの儀式でも始めるかのように、行為のまえには必ず同じことを宣言した。

「ただ、普通に殺すんじゃないぞ? お前の目ん玉くり抜いてな、お前の手のひら押さえつけてな、指の爪を……ただ、順番にめくっていくんじゃないぞ? それだと耐えられちゃうからな。バラバラにめくって行くんだ。右手親指、左手薬指、一度めくった右手親指をフェイクに触ってな、左手中指と……まあ順番なんかどおでもいいか。見えてないから怖いだろ? それから、鉄パイプを赤く焼いてな、それをお前のケツの穴に……」

「分かってますから!」

 影の言葉を遮るとパンっと顔を叩かれた。叩かれた事で何故だか分からないが影は倉田に変わった。鬼と桜の入れ墨を背負い、圧倒的な暴力性を身に纏った、何人目かよく分からない私の新しい「おとうさん」。

「おまえさあ……『人の話を途中で遮ってはいけません』って教わらなかった? 呆れたねえ……前の大人たちはおまえに何にも教えてくれなかったんだな。ショーコとやることだけやっといて、無責任だねえ……俺は違うよ? 他の大人と違って、色んな事を教えてやるからな。まあ、あっちはまだ小さいからちょっと早いかな?……俺のはでかいからなあ、あーはっはっはっ!」

 私としても遮りたくて遮ったわけではなかった。ただ遮ったとしても遮らなかったとしてもこれから訪れる未来は変わらないことを知っていた。それならばひょっとしたら訪れるかもしれない哀れで恐ろしい自分の未来を知りたくはなかった。ただそれだけのことだった。ただそれだけのことなのに、倉田は暴力を振るうことに少しも躊躇を見せなかった。この男なら本当に私の尻の穴に赤く焼けた鉄の棒をさして私を殺すのかもしれない。倉田は圧倒的で暴力的な恐怖で、幼い頃の私を支配していた。

「さあ、始めるぞ……咥えろ」

 倉田は赤黒く醜悪なモノを私の唇に押し付けた。それは何だか鯖の塩焼きのように生臭さかった。

「お願いがあります!」

 私がそういうと、倉田はすぐさま赤黒く醜悪な生臭いモノで私の頬を叩いた。先程とは違う、鈍い痛みが私の頬を走る。

「ユースケ、おまえさあ、全然だわ……全然分かってないわ……はあ、これは教育が大変だねえ……おとうさんってのも楽じゃないわ。俺はな、ユースケ、『咥えろ』って言ったんだよ? 『咥えろ』っていわれたらな、黙って咥えればいいんだ。しょおもないわ、ホントにお前は。しょーももないよ。まあ、いいや。今回だけは特別だ。その『お願い』とやらを聞いてみようじゃないか。まっ、そのお願いが叶うかどうかは内容次第だけどな。いいぞ。言って見な?」

 幼い私は恐怖のあまり、えづいて、泣きそうになっていた。

「お願いがあります……おしっこを……おしっこをするのだけはやめていただけませんか?」

「あん? おしっこだぁ?」

 倉田は心底何の事か分からない調子でいった。

「いつも最後に少しだけおしっこをするじゃないですか! あれを……あれだけはやめてくれませんか? おしっこを口に出されると……何だか、何だかよく分からないけど……凄く……何だか馬鹿にされた気がするというか……情けない気持ちになって……悔しくなるんです。もう本当に、悔しい気持ちで一杯になるんです。お願いです、お願いですから口の中におしっこをするのだけはやめてくれませんか? お願いですから……」

 堪えきれずに泣き出してしまった私を見て、倉田は楽しそうに笑い出した。

「あーはっはっはっはっ! そうか! おしっこか! くーっ、おしっこねえ……ユースケ、おまえは本当にかわいい奴だなあ……」

 そういうと倉田は幼い私の髪を掴み、自分の唇を私の唇に重ね、ぬるりとしてタバコ臭い舌を口の中に入れてきた。意味が分からない。ただ不快な事を一つ増やしただけで、余計な事などいわなければ良かったと思った。

「ユースケ、約束してやるよ。おしっこはしない。約束だ。おしっこだけはしないよ? 約束するわ。俺はおしっこはしない、約束だ」

 倉田は再び楽しそうに笑い私に「約束」の言葉を繰り返した。正直、この男の口から「約束」という響きを聞けたことに幼いながらも驚いた。あの「おしっこ」さえなければ、屈辱の半分は回避できる、その事実は私を喜ばせた。喜びなど一つも無いこの「行為」の中に喜びを見出す矛盾を、幼い私では理解がでなかった。

「じゃっ、始めるぞ、いい加減。さあ、咥えろ……ああ……いい……いいぞ? ああ……いい感じだ……そうだ、れろれろれろってな、ああ、いい感じだ、ユースケ……おまえ、大分上手くなったじゃん、まあ、おまえの母親にはまだ敵わないけどな……ジュポジュポって音を立ててさ、本当に美味しそうに咥えてくれんだぜ? ショーコはよ。あんなにさ、どすけべな女見た事ないわ……ああ、気持ちいい、そう、偶にレロレロレロってよ、ああ、やべえ、いきそうだぁ……。っておい、ユースケ、てめえ、昨日みたいにいく寸前に歯立てやがったらぶんなぐるからな! 今よ、ちょっと当たったぞ? 歯が。『ほー』ってすんだよ、口をな? 分かんなかったら思い出せ、ふくろうの鳴き声をよ。フクロウは何て鳴く? 『ほー』

だろうが、あ、いい……そう、『ほー』とな、『レロレロレロが』……ってやべっ! ああああ、いい、いきそうだ! いく! うっ!」

 倉田は約束を破って再び私の口の中に「おしっこ」をした。私の口の中はいつものように屈辱で満たされた。イカのような臭いがした。涙が頬を伝わるのが分かった。もう二度と、二度と倉田を知らないあの頃には戻れない事を悟った。カーテンの隙間から、夕日が差し込む。夕日が血のような色をして、ソファを染めていた。台所の水道が、ポチョンと雫の音を鳴らした。倉田の邪悪な笑い声が、リビングに響いてた。


                   *


「……スケさん、ユースケさん! もうぼちぼち起きなきゃ、ほら、ユースケさん、ユースケさんってば、って、え? 何これ? ユースケさん、ユースケさん、アンタ、なんか、両生類みたいに濡れてるよ? 大丈夫かよ。つかユースケさん、アンタ熱あんじゃね? 三十八度未満すよ? 出勤出来るのは。ユースケさん! ユースケさんてば!!」

 榊原の声が聞こえる。「こっちの世界」に戻ってきたようだ。寒い。ただひたすらに寒い。

「サーモチェッカーで熱測りますよ? 写メしてオレから店長に送っときますわ、死んでるつって。つか、四十度? アンタ、マジで大丈夫かよ!」

「……バラぁ……、寒いよぉ……」

 寝汗をかいたのだろう。身体中が濡れてる感じがする。

「着替えて横になったほうがいいっすよ? 突然、風邪すか?」

「……バラぁ……、震えが、震えが止まらないよぉ」

 寒さと恐怖から、私は歯をカタカタと鳴らして震えていた。

「大丈夫すか? マジで。俺もうバイト行かないといけないし。誰か呼びます?」

「女……」

 私は少し錯乱していたのかも知れない。

「セックスが……したい……」

「……ユースケさん、アンタ呆れた人だな。誰かアテあるんですか? てゆうか盗撮女呼んだらどうすか? ホントは気に入ってんでしょ? 番号交換して。ちゃんと処女奪ってあげて、チケット売って、一石二鳥、誰も傷付かない。スマホでその女のところかけておいて下さい。あとは俺がうまくやっておきますから……」

 いわれた通りにして、榊原にスマホを渡す。どうでも、どうでもいいじゃないか。本棚に目を移して最初に目に入った本を読もうと思った。読めない事は分かっていた。ただ、眠るのが怖かった。少しでも抗っていたかった。白い私のロープの先にある自作の本棚。最初に目にしたのは『人間失格』。ああ、そういうことか。ずっと、失格だったじゃないか。

 榊原が何かをいっている。もう、言葉を理解することができなかった。

 自分は駄目だとおもった。眠いという欲望に逆らえなかった。ずっと、倉田に逆らえなかったように。意識が消えていく。

 燃やしてしまえばいい。寒いのだから。

 消してしまえばいい。要らないのだから。

 無茶苦茶にしてしまえばいい。そうされたのだから。

 人間、失格。……白いロープ……ああ、なんだ、そんなことだったのか……。最後の力を振り絞って眠りに抗う。

 逃げ出してしまえばいい……私を台無しにした、こんな、くだらない世界なんて……。

 世界は黒くなった。


 



 

 



 

 

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