幻の鳥

 ホーホホ、ホッホー、という声がして、目が覚めた。声はホーホホホホー、ホーホホホホーとしつこく繰り返す。

 子供の頃、この鳴き声をいつも不思議に思っていた。ホーホホ、と聞こえると家を飛び出し、その声の主の姿を探した。けれども探しても探しても一向にその姿を見つけることが出来なかった。大人たちは声に無頓着だった。私はいつしかこの鳴き声は私にしか聞こえないものだと考えるようになった。姿を見せない幻の鳥。高校生ぐらいになって、あれは朝の鳩が鳴くものだ、と人から教わり酷くがっかりとしたことを覚えている。この世界には幻の鳥などといったものは存在せず、大人たちはあれを鳩と知っていたから無頓着でいられて、自分にしか聞こえないという事実はさらさら無く、自分は特別でも何でもないことに失望をした。

 リビングのベランダから朝の光が、ローテーブルの上に散らかったビールの空き缶やら灰皿の吸い殻やらスナック菓子の残骸やらの陰影を鮮明にしていた。朝の光は何もかもを鮮明にして現実を暴く。朝は嫌いだ、と思う。いつも夜の喧騒を台無しにして見たくもない現実を我々に晒し出す。

 リビングに山崎とワンピの姿は無く、隣りにはタオルケットに包まれたジーンズがスースーと寝息を立てていた。彼らは寝室に行ったのだろう。スナック菓子らの袋の隙間に山崎の赤ラークを見つけて、一本取り出し火を点ける。煙を一回吸い込んだだけで直ぐに気持ち悪くなり、タバコを灰皿にねじ込んだ。

 ああ、飲み過ぎたな、と思う。そして、つまらないな、と思う。上手くいかない事もたまにはあるさ、と人はいうのかも知れない。それは、まあ、そうなのだろうなとは思う。じゃあ、その事実を以ってして、なら仕方ないよね、とはならない。事実がどうであれ、思う通りにいかなければやはり不快だ。不貞寝をして、鳩の鳴き声に起こされてみれば、世界にただ独り、朝という身も蓋もない現実の中にいる。タバコは吸えないでいる。つまらない。

 缶チューハイの残りを私のグラスに集めて満たす。口を付けるとぬるく、飲み込めば炭酸の刺激を失ったアルコール入りの水は吐き気を催すほど不味く不快だった。

 山崎に電話をする。

「え、あ、おあようざいやす」

「帰るわ。鍵、どうしておけばいい?」

「そのままにしておいてくらさい」

 眠そうな声で答える。

「大丈夫か? 不用心じゃないのか?」

「え、大丈夫しょ。オートロックだし」

「ワンピとやれたのか?」

「ええ、かげさまで。ありやとざいやす」

「良かったな。どうだった?」

「え? そりゃ、良かったっすよ。ありやとやいやす」

 山崎の声からは早く電話を終わらせたい気持ちと苛立ちががひしひしと伝わってきた。

「ワンピは処女だったか?」

「え? 違いやすけど」

「柔らかかったか?」

「え? 知らないですけど。もういいでしょ? また今度、話しますよ。今は寝かせて下さいよ」

 私はただ独り、朝の中に放り出された恨みを簡単に手放したくは無かった。仲間が欲しかった。

「なあ、聞こえるだろ? ホーホホ、ホホーって。知ってたか? あれ朝の鳩の鳴き声なんだって。やつら、クルックー、クルックー鳴いているだけじゃなく、ちゃんと色々使い分けて……」

「知らないですよ! キショいって! 朝から! もう切りますよ! ホント、勘弁して下さいよ! マジで!」

「なあ、ジーンズってさ、実はさ……」

 ツー、ツー、という音がした。通話を切られたようだ。

 また、朝の中に、独り。溜め息を吐く。タバコを吸おうと思い、吸えないことを思い出し諦めた。

 ジーンズを見ると相変わらずスースーと寝息を立てて勝手に気持ち良さそうに眠っている。呑気なものだ。溜め息混じりに、帰ったとて、と、独り言をいってみる。

「おい」

 ジーンズに声を掛けるが。返事はない。また、溜め息を吐く。つまらない。

 タオルケットをめくり、ジーンズの形の良い胸を眺めた。柔らかい記憶が思い起こされる。なんとなしに乳房を触ったり揉んでみたりしながら、ああ、今日はバイトか、行きたくねえな、そんな事を考えていた。

 指が乳首の辺りに触れた時、あっ、という声が聞こえて手を止めた。なんだ? ジーンズか? 起きているのか?

「おい。おまえ起きてるのか?」

 私がそう聞くと暫くして、起きてないです、と返事があった。

「起きてるじゃねえか、このやろう。寝たふりをしやがって」

 そういい、ジーンズの乳首を激しく触る。

「ああっ、ああっ、やめて……やめてください……変な気持ちになっちゃいますよ? それでもいいんですか?」

 そういわれて、手を止めた。昨日の夜のことを思い出す。ジーンズは私が手を止めた隙にタオルケットを頭ごと被り直した。

「おまえさあ……初めてなら初めてです、ってそういう流れになる前に言ってくんねえかなぁ。俺はよぉ、処女とはやんない主義なんだわ。挿入しました、ああ痛いです、じゃあよお、まるでおめえ、詐欺だわ」

 タオルケットの奥から小さく、ごめんなさい、と声が聞こえてきた。

「そんな主義だなんて知らなかったから……でも何で処女じゃ駄目なんですか?」

「そりゃ、おめえ、色々面倒くせえからだろ。こっちは気持ち良くしてやろうと思ってんのに痛いだなんだ騒がれてよ。それに初めての人、だなんて勝手に記憶に残られるのも気色悪いしな。俺はよお、まあ、あれだ。例えば俺が死んだらよお、そっと忘れて欲しいんだわ。色んな人の記憶からよ」

「でも、わたし、もう処女じゃないですよ? 昨日ユースケさんが入れてくれたから」

「おまえ……朝から生々しいな……でも俺はイッてないんだからよお、ノーカンだわ、ノーカン。さあ、いいから起きろ! 退屈なんだ! 起きろ、起きろってこの……」

 バッとタオルケットをめくると驚いたように目を見開いた彼女の顔が目に入る。思わず吹き出してしまった。遅れてジーンズも笑う。朝はいつもつまらないから、人は朝になると笑いのツボを増やすように出来ているのかも知れない。何が面白いのかよく分からないまま、暫くお互いに笑いあった。


 体調が少し良くなり、タバコに火をつけて煙を肺に入れる。旨くはないが気持ち悪くもならない。体調が良くなった、というよりはアルコール入りのぬるい水が、感覚を麻痺させたのかも知れない。

「しかしよお、なんだ、おめえ、風俗に来て嬢に説教する親父じゃねえけどよ、最近の若い奴は貞操観念ってのがおかしいんじゃねえのか? 初めてのエッチってのはよ、おまえ、普通、好きなひとと交際した末にってもんだろ。おめえ、ゆきずりの相手とだなぁ、まあ、俺が古風なんかねえ、そう簡単にだなぁ……」

「わたし、ユースケさんのことずっと前から知ってましたよ」

「そうそう、ずっと前から知ってた人とだなあ、こうやってって、ん? 何だ? 知ってた?」

「はい。知ってました。一年の頃からずっと」

「どっかで会ってたか?」

「いえ。初めてユースケさんを見たのはユースケさんのサークルの定期演奏会ライブでした。正直、あまり興味はなかったんですけど友達の彼氏がサークルの部員でチケット余ってるからって仕方なく……」

「仕方なくってのはまた随分な言い様だなあ」

「いえいえ……その……ごめんなさい。でも、初めてユースケさんの演奏を見た時、正直、度肝を抜かれました。なんていうか……ユースケさんってめちゃめちゃ激しくドラム叩くじゃないですか? まるで親のカタキみたいにドラムを叩きつけて」

「ああ、まあな」

「でも、あんなに激しく叩いているのに、何だろな……表情が……死んでるんですよ。気怠るさを装っている風でもなく。スカしてるわけでもなく。何ていうか、もっと心の奥の奥のほうで、悪く言えば、何かを諦めているっていうか、なんか、上手く言えないけど、死んでるんです。生きてる人の気配がしないんです」

 私はタバコを灰皿にねじ込み、アルコール入りのぬるい水を飲んで、隣りに座るジーンズの方を向いた。

「そんなに顔、死んでるかなあ。つーか、そこかよ。度肝を抜かれたって」

「だっておかしいじゃないですか。ふつう、どんな人でも何かしら顔に出ますよ。一生懸命叩いてますよ、とか、フフン、こんなの俺には楽勝なんだからね、とか、色々演技をしながら自分の存在をアピールするんです。でも、ユースケさんは全く違うんです。他の誰よりも誰よりも激しく、切ない程に激しく叩いているのに、なんだろな、興味がないとも違う、何ていうかな、むしろどこか淋しそうな顔してる叩いてるんです。死んでるんですよ、顔が」

「あんま、ひとの顔を勝手に殺すんじゃねえやい」

「ご、ごめんなさい……。でも、そんなユースケさんのドラムを見てると、何だろな、不安な気持ちになるんですよ。この人は一体なんなんだろうって。何で顔が死んでるのに誰よりも、他の誰よりも激しく、切ない程に激しく、ドラムが叫んでいるんだろうって。俺を見ろ、俺を感じろ、そんな魂の叫びが聞こえてくるのに、その叫びにいざなわれて、いざユースケさんを見てみると、顔が死んでるんですよ? もう、頭がバグっちゃって……」

「何だろな。さっきから黙って聞いてりゃ、おまえディスってんのかな? この俺のことをよ!」

 いい終わるや否や、ジーンズの胸を揉みしだき、激しくクリックを繰り返した。

「あああっ、やめて、やめてください! 変になる、変になるからぁ!」

 彼女は胸を腕で隠して私を睨み付け、軽く溜息を交じえながら話を続けた。

「ハア、ハア。ディスってるわけなんかないじゃないですか! ハア。それからというもの、気になってずっと、スト、追い続けてたんですよ? ライブがあれば必ず見に行ったし、ユースケさんの講義に合わせて用事も無いのにキャンパスにいったり、偶然ユースケさんを見かけたときは、なんていうか、一日しあわせな気持ちになったり」

「おまえ、いま『スト』って言わなかったか? なんか不穏な気持ちになるんだけど」

「いや、言ってませんよ? 言ってません。 言ってませんから。絶対に!」

 アルコール入りのぬるい水を飲みながら、こいつ変な女だな、と思う。ライブを見に来るのはいいとして、私の講義に合わせてキャンパスに来るって、半ばストーカーではないか。そもそも、どこでどうやって私のカリキュラムの情報を手に入れたというのか。厄介な女に手を付けてしまったことを軽く後悔する。

「でも、ここんとこ、ユースケさん全然見かけなくて、ひとから聞いた話、大学辞められたって知ってすごく落ち込んでて。でも久しぶりにユースケさんがライブに出るって話を聞いた時、もう、ホント嬉しくて。いまは『リトルガッツ』というバンドを『クラブZ』というところで演奏されてて、『ストロベリーフィールズ』ってライブバーで働かれてるんですよね? わたし、どっちも行きます! 絶対に!」

「来るな」

「えっ?」

「そういうとこなんだよ。面倒くせえのは。処女と関わると、だいたいこうゆう展開になるんだわ。だから嫌なんだよ。いいか? おまえにひとつ言っておくが、どんなに俺に付き纏っても俺がおまえと付き合うことは絶対にねえからな? つーか、俺は今まで誰とも付き合ったことがねえんだわ。そして今後もそのつもりはねえ。無駄な事に時間と労力を使いなさんな。おあいにくさま、だな。わかったか?」

「も、もちろんです! わたしなんかがユースケさんの彼女になろうだなんて、そんな、大それた事なんて一ミリも考えてないです。むしろ、わたしはユースケさんに処女を奪って頂けただけで、そりゃもう、大満足です。バチが当たります。初めての人として大切な一生の思い出に……」

「だからぁ! いや、もう忘れてくれよ。それに昨日だって先っちょをちょっこっと入れただけじゃねえか。先っちょセーフだろ。あんなものはな、ノーカンだわ、ノ・オ・カ・ン!」

 タバコを咥えて火を点け、さて、といいながら残りのアル水を飲み干して立ち上がる。赤ラークを箱ごとポケットに入れて山崎の散らかった部屋を見まわした。

「もう、ぼつぼつ帰るけどよ、ちょっとやんねえといけない事があってな。おい、おまえ。手伝え」

 そういい、ローテーブルのゴミを傍に追いやり、中央にスペースを作る。

「手伝えって何を手伝うんですか?」

「お仕置きだよ。山崎のやろう、またキショいだとか吐かしやがってな。無礼だと思わねえか? こういっちゃあ何だけどよ、俺ぁ、先輩だぜ? 先輩」

「はい、無礼だと思います! 絶対に!」

「そんでよ、名案を思いついたんだわ。起きて見たら絶対『もーーーーっ!』てなるやつ。おまえさ、『檸檬』って知ってっか? 梶井基次郎の小説」

「ええ、中学か高校の授業で習いましたから、って、まさか、ユースケさん……」

「そう、そのまさかよ。『檸檬』のラストシーンのオブジェをな、ここに再現してやんだよ。『もーーーーっ!』てなると思わねえか?」

「はい、なると思います! 絶対に!」

「そういうことだ。さあ、分かったらお前は雑誌やら漫画やらを集めてこーい! おまえも共犯だかんな」

 共犯、とひと言呟いて、アイアイサー! と嬉しそうに彼女は部屋を物色しては私のところに本を運んでくる。私は崩れてしまわないように、なるべく高く、と慎重に積み始めた。雑誌などは素材がツルツルしてて、思っていたよりずっと難しい。

「なあ、ホーホホ、ホホーって鳴き声聞こえんだろ?」

 一冊一冊、出来具合を確かめるように用心深く積みながら、私は彼女に話し掛けた。

「とりあえず、これで全部です。ハアハア。ホーホホ、ホホーって鳴き声聞こえます。ハアハア。あれは、朝の鳩の鳴き声で、奴らクルックー、クルックーだけじゃなくて色々使い分けてるんですよね。知ってました! ハアハア」

「…………。まあ、いいや。ご苦労さん。こっちに来て座って見てな」

 タバコの灰が長くなったので、一度灰皿に落とした。

「そんでよ、ガキの頃この声を聞くといの一番に外へ飛び出してその姿を探し廻ったんだわ。垣根や電線の上や、ドブの中や、草むらや。探しても探してもずっと見つかんねえからよ、俺はこの声の主を『幻の鳥』って名付けて、なんの根拠も無いのによ、この声は俺だけにしか聞こえ無いんだと思ってたんだ。大人たちはさ、声に全然無頓着だったしな」

「かわいいです! ユースケ少年!」

「大人になってさ、ありゃ朝の鳩の鳴き声だって知ってさ、すげぇ、ショックだったわ。『幻の鳥』が居ないこともショックだけどよ、なんてゆうかな、ひとつ知識が増えることで人生ってどんどん詰まらなくなって行くんだって分かってな。だってそうだろ? 一生懸命に勉強してさ、情報かき集めてさ、科学や客観的事実やらそういった、なんか、揺るぎないもので自分という器を満たしていく。どんどん、どんどん、つまらねえ事実で満たされていってさ、想像や空想や『幻の鳥』や、そんな面白そうなものの入る場所を奪っちまう。そんでさ、そんなわくわくするものがもう全然入んなくなっちまった奴がさ、賢いねー、とか流石ですわ、とかなるんだろ? くだらねえよな。つまらない世界を作る為に皆、一生懸命、くそくだらねえ知識を集めるのに時間を使ってさ、一度知ってしまったらもう、知らなかったあの頃には戻れねえのによ」

 本の山は七割がた積み上がったが、ここからが正念場だった。ひとつ積み上げれば崩れそうになる。一冊一冊、正解の場所を探す作業を繰り返す。

「この先、科学が発展してよ、いろんな謎がひとつひとつ解決してよ、何も分からないことはありません、ただひとつ残されたこの謎を除いてはってなったときよ、人類はさ、最後の謎解きにかかると思うか? あえて分からないものをさ、残しておくと思うか? どっちなんだろうなって考えると偶に不安になるんだ」

 積み損じた一冊がバサっと音を立てて、ローテーブルのゴミの上に落ちた。

「わたしは残しておくと思います。タケノコの里を本当は全部食べたいのに、あえて少しだけ残しておくと、その残しておいたタケノコの里を思い出す時間が幸せに感じるからです」

「タケノコ……、うん、いや、まぁ、でもそうだよな。そういうことだと思うわ。それでも、俺はよ、そんなに人間を信用してないんだわ。奴らはきっと、その最後の謎解きに掛かっちまうと思うんだわ。もう、何も分からないことが無いってことがさ、どんだけつまらなくて、どんだけ絶望的かって、奴ら頭がいいのにそれを分かっていながら止められないんだよ。知りたいって欲望をな。人間はさ、欲望だけは抑えられないんだよ。科学だっていつもそうじゃね? これは実現させたらやべえって分かってんのにしつこく研究を続けたりしてよ……ってな……、うん、よし、完成っと。これでどうだ?」

 ローテーブルの上に五、六十センチ程の本の山が積み上がった。雑誌やら漫画やら文庫本がバランス良く配置され、頂上には漫画『ワンピース』の第一巻が置かれてある。

「……、ちょっと引くくらい、良いですね……」

「まあな。これでレモンがあれば完璧なんだけどな」

「わたし、冷蔵庫見てきます!」

「ああ、頼むわ」

 灰が落ちそうになり、タバコを灰皿にねじ込んだ。自分の作品を改めて見る。不気味だ。意図のよく分からない人間の行為ほど不気味なものはない。

「レモンないですぅ」

 それはそうだろうな、と思った。男の一人暮らしに、ただ酸っぱいというしか存在理由がないレモンは流石に無いだろうなと、最初から期待をしていなかった。

「卵ありまーす。横にすればちょっと形似てませんか?」

「卵かぁ……悪くねえな。よし、そいつを持って来い!」

 アイアイサー! と嬉しそうに卵を持ってくる。レモンを探しに行ったり、代替案を提案してみたりと、案外楽しんでいるようだ。卵を受け取り、『ワンピース』の上に置く。


「これ……絶対にべちゃっとなる奴ですよね」

 ジーンズがいう。

「ああ、これ、絶対べちゃっとなるやつだな」

 私が答える。

 卵は『ワンピース』の上で、こちらが不安になる程ゆらゆらと揺れていた。

「流石にこれは無しだな。いくら山崎でも、べちゃってなってたら多分ブチ切れるだろ。まあ、この地点で、うん、ちょっと、あれだ、ブチ切れそうではあるけどな」

「ちょっと待ってください!」

 ジーンズが凄い勢いでティシュを丸め始めた。

「これをこうしてこう並べてその上に……これで……良くないですか?」

 『ワンピース』の上に丸めたティッシュを円形に並べ、その上に卵を乗せる。『檸檬』のラストのイメージというよりは、それは何かの「巣」のように思えた。

「ほら、ほら! 居たじゃないですか!」

 唐突にジーンズが嬉しそうに私の肩を叩く。

「ああ? 何がだよ」

「幻の鳥ですよ! これは幻の鳥の巣なんですよ! きっと、いや、絶対に!」

 ジーンズにそういわれ、私は改めてまじまじとこの「巣」を眺めてみた。

 ずっと忘れていた「幻の鳥」の姿が目に浮かんだ。バナナの様に曲った黄色い嘴。直立に立ち白く大きな翼を大袈裟なほどバサバサと音を立てて羽ばたく。人を馬鹿にしたような目をしてこちらを見てひと言「ホーホホ」と鳴く。見ているうちに「幻の鳥」は透けていき半透明になって、そして完全に透明になって「ホーホホ」と捨て台詞を吐いて、青く、美しい空に消えていく。まだ、何も知らないでいられた幼い頃の淡い記憶。

「ユースケさん! ユースケさん! 大丈夫ですか?」

「ああ? 何がだ?」

「だって、涙……、昨日もこんなこと有りましたよ? どうしたんですか? 何か……」

「ああ、これか。実は花粉症でな。たまにこんなことがあるんだわ。意図せず涙が出ちまうって事が……」

「花粉症って、今は秋ですよ? そんな……」

「バーカ、秋花粉てのがあってよ、これだから健常者は……、ってまあいいか。帰るわ。おまえさあ、変なやつだったけど、ちょっと楽しかったぜ。サンキューな。じゃあな」

 待って下さい、と私の上着の端を掴み引き止める。

「こうかん、してください!」

 両手で私の上着の端を掴み頭を垂れて見せる。必死さが確かに伝わってくる。

「ごうかん? 何で俺がお前をレイプしなくちゃいけねえんだ? めんどくせえ」

「こおかんですよ! こ・お・か・ん! 親父ギャグで逃げないでください! 交換ですよ? LIN…」

「断る。めんどくせえ。メッセージ送られても返せねーし。送られることが自体がそもそもストレスだし。だから俺はやんねー」

「わたし、一生懸命、雑誌運びましたよ? 重くて辛かったけど「幻の鳥」の巣作りの手伝い頑張りましたよ? このあと山崎さんに怒られるかも知れないんですよ? それなのに、それなのに、何のご褒美も無いんですか? メッセージは(あんまり)送りません。返信だって(本当は返して欲しいけど)全然要りません! だから、お願い、お願いですからぁ……」

「なんか、小声で不穏な言葉が聞こえた気がしたけど……しゃあねえな、『幻の鳥』に免じて交換しちゃるわ、ほれ、スマホ出せ」 

 ニシシ、ニシシシ、ニシシシシ、と、彼女は気色の悪い笑い声を出しながらスマートフォンを操作する。私もこころの何処かで、こいつならまあいいか、と思い始めていた。

「じゃあ、行くな。あんま、意味の無えメッセージとか送ってくんじゃないぞ? 俺、そういうのが一番嫌いだから」

「わ、分かっております。わたしはユースケさんと繋がれただけで、もう、そりゃ。大満足です。バチが当たります。もう、これだけで一生の思い出として……」

「だからぁ! まあ、いいか。じゃあな。ってそうそう、忘れてた、一個だけ引っかかてた事があるんだわ」

 靴を片方だけ履いてから、わたしは気になっていた事をひとつ思い出した。

「教えてくんねえかな。おまえさ、こんだけユースケさんユースケさんって言ってるけどよお、場合によっちゃあ山崎の方になった可能性もあったわけじゃん? そんときゃどうして……」

「ああ、それなら大丈夫です!」

 ジーンズはニカっと笑い、腰に腕を当てて誇らしげな態度で続けた。

「わたし信じてましたから。わたし昔っから、『運』だけは、めちゃめちゃ良いんです!」

 「運が良い」という思いもよらなかった言葉が少しずつ頭にその意味を浸透させ、ゆっくりと溶ける様に理解し、激しく脳が揺さぶられた。。

「ああ、そうかい。そりゃ良かったな。あばよ」

 私はジーンズを見もせずにスタスタと帰りの歩みを進めた。一瞬の沈黙の後「えっ? えーーっ?」とジーンズの声。仕切に何かをいっていたようだが、玄関扉を出たら何も聞こえなくなった。

 エレベーターの「下」のボタンを押す。2、3、4と声に出して数えた。思い出したくもないものを、思い出さないように。6階にエレベーターが到着したのと同時にメッセージの着信音。ジーンズからだ。開いてみると——わたし、何か失礼なこと言っちゃいました? ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!——の文字。文末には土下座して謝る人の絵文字。くだらない。

 小綺麗なエレベーターに運ばれ、住みたいほどの小綺麗なエントランスに、ぺっ、と唾を吐いた。自分の吐いた唾を一瞥してそこを通り過ぎた。全く音を立てない高級自動ドアがその扉をゆっくりと広げ、私を恭しく外の世界に追い出した。くだらない、私本来の世界に厄介払いでもするかのように、塩でも撒くかのように。

 一歩二歩三歩と歩みを始めたそのあと立ち止まり、思い出したかのように空を見上げた。空は、ただひたすらに青く、美しかった。ああ、どうでも、どうでも、いいじゃないか。

「くっだらねえとー、つっぶやいてー」

 そう呟きながら、私はくだらない朝の光を睨んだ。街はくそ忙しそうな音を響かせていた。アスファルトの上の陽だまりの中、飼い猫だろうか、くだらないシャム猫が身体を丸め、私を見下すように見ていた。そいつは、初めからおまえになど興味は無いといったふうに視線を外し、くだらないほどに大きなあくびをした。わたしはそいつにも唾を吐き付けた。届く様な距離でも無いのにそいつは逃げ出した。馬鹿な奴だ。臆病者め。くだらない。

 くだらない私は再び空を見上げた。空だけは私の味方な気がした。誰かに聞いて欲しいかの様に大袈裟な音のする溜め息を吐いた。そして私は、私のくだらない家に向かうためにくそくだらない世界のなかを、見えない何かを蹴散すように、ツカツカと歩き始めた。





 

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