しあわせの鳥

ロム猫

柔らかい眠り

 「ユースケさん、どっちの娘いきます?」

 後ろを付いて歩く二人に聞こえないよう山崎は声を潜めて伺いを立ててきた。私はコンビニで買った荷物を肩に担ぎ、もう片方の手はズボンのポケットに入れ、太宰治の『人間失格』について考えながら歩いていた。あの物語に登場してくる女たち、付き合うのなら誰がいいのかと。つまり、ただ単にセックスをするのではなくて、交際するのなら一体誰がいいのかと。交際した先が幸福か破滅かで選択も変わるだろう。ならば己れは幸福を求めて人生を過ごしているのか、破滅を求めて人生を過ごしているのか、根本的なところで躓いて、ずっと思考がグルグルとしていた。山崎にどっちがいいかと聞かれた時、どちらと生涯を共にするのかを問われてるようで少し答えに窮した。

「ああ、俺はジーンズの方だな」

「マジすか? じゃあ俺ワンピースの方行きますよ? てか、ワンピのほう、めっちゃ可愛くねっすか?」

「今日はな、幸福に触れていたいんだ。だから断然、ジーンズだ」

「幸福? なんすか、それ。ユースケさんてたまにキショいこといいますよね」

 山崎はポケットからタバコを取り出し唇に咥え火を点ける。赤ラークの甘く香ばしい煙の匂いがした。彼は煙を肺に入れ、ゆっくりと夜空に向かって吐き出していた。フー、という音が矢鱈と大袈裟に聞こえる。私はタバコの煙をぼんやりと眺めていた。煙の消えて行く先の月が美しかった。秋の夜空の、満月のような月。きっと名のある月なのだろうけれど私にはその名が分からなかった。

「細身だけどな、妙にむっちりしていやがる。胸もデカ過ぎず小さ過ぎずだ。ああいう女はな、柔らかいんだよ」

「柔らかいって性格がすか?」

「性格がっていうより、肉体がな。何だろう、触る場所触る場所が手に馴染むっていうか。きっとセックスもいいんだろうがその先のな、なんていうかな、その、柔らかい眠りにありつけるというか、そんな予感がするんだ」

「先輩、やっぱキショいすよ」

 軽口を叩く後輩にタバコをねだり、火を点けゆっくりと肺に煙を入れた。頭がくらくらとする。二日振りのタバコ。コンビニで買ったビールやらスナック菓子やらも彼の奢りだった。


 大学の音楽サークルの後輩、山崎に頼まれて彼のバンドの助っ人ドラムとして学園祭のライブに参加をした。その打ち上げと称して、彼はライブの客の中からめぼしい娘を見つけて部屋飲みに誘った。女の子たちに酒を飲ませてそれぞれ行為に及ぶ。山崎とは偶にそんな遊びをした。

 山崎は容姿も演奏技術も凡庸な男だったが金は持っていた。金持ちの親から充分な額の仕送りを貰い、学生にしては広い、小綺麗なマンションに一人暮らしをしていた。ロックからはほど遠いがこういう時には便利な男だった。

 鼻唄を歌いながらタバコをふかして上機嫌に歩いている。セックスができる、その可能性に高揚しているようだ。一人暮らしの男の部屋で酒を飲むことを女が了承する。性交渉の七割はこれで解決した事を経験上分かっているのかも知れない。私は彼の部屋に近づくにつれ、「破滅」について何かが分かりそうな気がしたが、タバコでクラクラした頭ではそこに辿り着く事が難しかった。

 山崎のオートロック付きのマンションに着くと女たちは驚いていた。学生には似つかわしく無い高級さを感じさせる佇まいだったからだ。私も最初見たときは驚いた。「金持ちなのか?」と尋ねると「いやあ、そうでもないっすよ」とまるで自分の手柄を卑下するかのように謙遜してみせた彼の表情をよく覚えている。

 ドアの右側にある赤外線だか何だかを読み取る装置に鍵を近づけるとピピっと音がしてオートロックの自動ドアが開く。エントランスは広く空間が取られていて、床も壁も大理石が貼られている。その大理石の床の上には売ればいい金になりそうなソファとローテーブル。壁にはよく分からないが高そうな絵画がかけられていた。プライバシーは要らないからここに住みたい程だ。奥のエレベーターは扉を開けて我々を待っている。乗り込んで扉を閉じるボタンを押せば行き先の六階のボタンを押さずとも自動的に我々を六階まで運んでくれる。至れり尽せりだ。女たちも事あるごとに凄いだ何だと騒いでいた。

「お金持ちなんですか?」とワンピが尋ねる。

「いやあ、そうでもないよ。普通だよ、普通」と山崎。

「えー、でも私こんな高級マンション初めて見ました」ジーンズも加わる。

「ねー! エレベーター、扉開けて待っててくれたよ、ヨーコ。私もこんなマンション初めて! まるでホテルみたい!」

「まあ、これからその『ホテルみたい』に『ラブ』がつくことになるんだけどな」私が口をはさむ。

「ちょ、ちょ、ユースケさん! よしましょうよ、そういうのは……」

 山崎は必至に誤魔化していたが、女たちは何かとキャッキャといっては騒ぎ、まんざらでもないように私には見えた。


「えー、それでは皆さん、お疲れ様でしたということで。カンパーイ!」

 部屋に着き買ってきたものを小洒落たローテーブルにならべると、山崎が音頭をとり、打ち上げを始めた。缶ビールと缶チューハイのプルトップを開けるプシュっという音が部屋に響いた。私はまだ『人間失格』に拘泥していた。例えば今日会ったばかりのこの女たちに「一緒に入水自殺をしよう」といったら何と答えるのだろうか。仮に「ええ、そうしましょう」と答えられたら私にその覚悟はあるのか。そんな事を想っていた。

「じゃあ自己紹介といきますか。まず、俺は山崎亮太、ギターボーカル担当です。経済学部三年でーす。好きなアーティストはビートルズ、ストーンズ、クラプトン、最近はクラッシュなんかもハマってます。血液型はA型ですが、あまり几帳面でも真面目でもありません。よろしくお願いしまーす。って事で、はい、君は?」

「望月さとみです。心理学部二年です。私もビートルズは好きで、大抵の曲は聴いています。少しだけピアノが弾けます」

 ワンピが答える。山崎がいの一番に聞きたかったことだろう。

「因みに血液型は?」

「A型です。でも私は血液型占いにあまり詳しくないっていうか……信じてなくて……」

 山崎の面子が軽く潰れた気がした。わざわざ「几帳面じゃないA型」というのだから、それはいい換えれば「A型は几帳面である」という、血液型占いのステレオタイプな命題を前提として話題にしているのだ。

「オナケツだな。良かったじゃねえか、輸血出来る人間が打ち上げにいて。これで安心だ」

「オナケツ?」ワンピが怪訝な表情を見せる。

「『同じ血液型』を変な略し方しないでください! 聞いたことないすよ、『オナケツ』って!」

 山崎が水を得た魚のように突っ込む。女達が笑った。

「深田ようこです。同じく心理学部二年です。さとみと同じゼミに入ってます。ロックとかあんまり聞いた事はなかったけど、今日のライブはすごくカッコいいと思いました。楽器は弾けないけど私も何かやってみたいと思いました。あっ、一応、O型です」

ジーンズがいう。

「で、こっちが助っ人ドラム。神尾悠介さん、えっと、ユースケさんは文学部の……四年……」

「大学、辞めてなければな」

「……ということです。皆、ユースケさん、イケメンだけどエロいから気をつけるようにね。あとたまにキショいこというけど気にしないように」

「よろしく。一緒に入水自殺をしよう」

「だから、キショいですって」

 女たちは笑っていたが、私はあながち冗談というわけでもなかった。自殺願望が強くある、ということではなかったが、無性に何かを台無しにしてやりたくなることは、確かにあった。その「何か」は自分の人生だったり、健康であったり、他人そのものであったり、よく分かっているようで曖昧だった。自暴自棄、というほど明確なエネルギーのようなものはなく、かといって、私は私の人生を緩やかに棄損し続けているこの私の「気質」が何に起因しているのか深く考えることを本能的に拒んでいた。


「ユウスケさんは、今は何をされてるんですか?」

 ワンピがいう。

「ん、俺か? 俺は、そうだなあ、フリーマン、かな」

「フリーマン?」

 ワンピが怪訝そうな表情で聞き返す。

「フリーターをサラリーマンみたいに言わないで下さい!」

 すかさず山崎が突っ込みを入れる。女たちが笑う。

「冗談。『リトルガッツ』というバンドで月一くらいで叩いている。ハコはクラブZが多いかな。また見に来てくれよ。あとは、まあ、バイトだ。『ストロベリーフィールズ』ってライブバーがあるんだけどよ、そこでウェーターやってるわ」

「『ストロベリーフィールズ』ってビートルズのカバーバンドが生演奏してる飲み屋さんですよね! わたし、友達と一回行ったことあります! えー、ユースケさんあそこでバイトしてたんですか? 凄ーい! ってゆーか、あそこのスタッフさんてみんなイケメンですよね? やっぱあえてそういう人を選んでいるんですか?」

 ワンピが話を弾ませる。ちらりと山崎を見ると不機嫌そうな顔をしているのが見て取れる。分かっているから焦るんじゃない。

「ああ、面接はみてくれが第一だってのはあとから店長に聞いたわ。バンドじゃなくスタッフ目当てに来るばあさんもいるからな。まあ、俺なんかは見た目が良いだけでけっこうなクズだから。金もねえし。将来性もねえ。家柄も悪い。碌なもんじゃねえ。そんで、こっちのジーンズを履いた子は、えーと、名前なんだっけ……」

「ようこです。さっき言ったばっかですよ!」

「ユースケさんの軽いクズっぷりが早速出ました!」

 山崎の言葉でまた笑いが起きる。ここら辺りの会話の機微を私たちは心得ていた。私が少し常識側からずれたような事を云い、山崎がそのずれを常識側に修正をする。その掛け合いはいつも女たちにはウケが良かった。


「ジーンズはさ、おまえ、酒はイケるクチか?」

「ジーンズってわたしの事ですか?」

 名前で呼ばれなかった事を不愉快に思っているというよりは純粋な疑問を尋ね返している、といった風だった。

「ああ、ジーンズ履いてんのはおまえだけなんだから、きっとおまえの事なのだろうな」

「うーん、進んで飲む方じゃないですけど、お酒には強いみたいです。さとみに言わせれば『ザル』だって……ユースケさんはお強いんですか?」

「弱くはねぇ。が、限界はあるから俺はザルでは無いな。少し大きめのボールといったところか。しかし、ザルとは恐れいったな。噂でその存在は知っていたが、実物を見るのは初めてだ。いいねえ。さっ、飲みねぇ飲みねぇ、ギロチンギロチンシュルシュルシュっつってな」

 彼女のグラスを空にさせアルコール度数が強めのチューハイを注ぐ。適当な褒め言葉を並べてはグラスを空けさす。ジーンズの白い肌は少しずつピンク色に染まり、染まっていくピンク色の濃さと比例して彼女は饒舌になっていった。

 彼女の取り留めもない話に適当に相槌を打ちながら、私は「柔らかい眠り」について考えていた。まだ小さな頃、つまり恐怖や欺瞞や憎悪や絶望や、そういったものを知らないで居られた小学校一年や二年くらいのまだ幼かった頃、炬燵に入り、二つ折りにした座布団を枕にうつ伏せて眠っていた。足先は温かく炬燵布団は柔らかかった。座布団によだれを垂らしながら夢とうつつを出入りする。母親が何かを言っていた。その声は優しかった。テレビからは人びとの笑う声が聞こえてくる。何の不安もない、安らぎだけがそこにある、何とも言えない柔らかな眠り。幸福だった。

 そしてその「柔らかい眠り」をもたらしてくれるであろう、彼女の柔らかそうな身体を眺めた。白いニットに丸く縁取られた乳房。むっちりとした、やや大きめの尻。あと一時間もしたら私は存分に彼女を触っているのだろう。髪を触り、耳たぶを触り、頬を触り、胸を触り、腹を触り、腿を触り、陰部を触り、彼女のありとあらゆる柔らかさを、確めるように、返してもらうかのように、触るのだろう。そして性交の果てに疲れて訪れる柔らかい眠り。彼女の胸を触りながらうつ伏せて、よだれを垂らしながら夢とうつつを行き来する。

「どうしたんですか?」

 不意にジーンズが尋ねてくる。

「えっ? 何が?」

「え? だって涙……」

 私は泣いていたようだった。

「え? あ、ああ、まあ、気にするな。ちょっとタバコの煙が目に染みてな。そんな事より、さ、飲みねえ飲みねえ、ギロチンギロチンシュルシュルシュってか」

「さっきから何ですか? そのギロチンギロチンって掛け声……」

 ジーンズはフフフと笑いながらグラスを空ける。チラリと山崎の方を見るとなんだかんだいっても意気投合をし、盛り上がっているように見えた。ワンピはイケメンに一晩おもちゃにされるよりは、金持ちのボンボンの彼女という枠に収まるといった方が得だと思ったのかも知れない。

 サポートはもう要らねえよな、と山崎に目配せをする。

 大丈夫です、という目配せが返ってくる。

 ジーンズを見るとさすがに大分酔っているようだった。何が楽しいのか分からないが、ただひたすらにニコニコしてこちらを見ている。

 私は自分のグラスを空にし、チューハイをなみなみ注ぐ。

 ギロチンギロチンシュルシュルシュ。何かのおまじないの様に頭の中で何度も何度も繰り返しながら、自分のグラスをひと息に飲み干した。


 




 

 

 







 


 

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