神様、アンタと相撲がしたいッ
一齣 其日
神様、アンタと相撲がしたいッ
「俺の名は昇十郎、日はまた昇るの昇十郎ッ! 神様、アンタと相撲をとりにきたッッ!」
驚天動地、かの名乗りは山二つ越えた村にまで響き渡ったというらしい。
片田舎のちっぽけな社、その境内に男が一人仁王立ち。
筋骨は隆々としており、巨躯といっても差し支えのない大きい体をしている。
これでもかと張った厚い胸に自信に満ちた笑みは、まさに堂々の二文字が相応しい男だった。
その男──昇十郎は喉奥が見えるほどに口を大きくかっ開くや、苔むしつつある社なんぞ吹き飛ばさんほどの声がまたしても。
「ここいらで、もう何ヶ月も雨が降らずに困っているという者達の声を聞いたァ! 皆、作物が育たなくなると涙を今日も流している……なればと俺はアンタに頼み込みにきたわけだ! どうやら、捧げ物を受け取ってはいるそうだが、アンタは一向に応えないそうじゃあないか……なればここは一つ、どれだけ我らが本気であるか、正々堂々相撲という形で確かめてもらいたいと思って参った所存ッ! いざ、姿を見せられよッッ!」
どんと大きく胸を叩くや、参られよと差し出したは大きな掌。
しかして、社は扉を閉ざし沈黙を貫いている。
男の声が止むと、震え慄いていた草木も嘘のように止んで、ただ吹かれる風に身を任せるのみ。
静寂。
男の声があまりにも迫力のある代物だったせいか、余計に虚しさを感じてならない静寂だった。
どうやら、神とやらが男の声に応える様子はないらしい。
そもそも、神という存在が本当にこの社にいるかどうかもわかりやしなかった。
確かに、この土地に住む民はこの社を土地の守り神として慕っていた。
厳しい飢饉を耐え凌ぎながら祈りを捧げたことで神様が食糧をお恵みになった、などという御伽話も伝わっている。
さればこそ、毎年豊作を願って捧げ物は欠かしてこなかったし、収穫の時期はこの社で盛大な宴を催していた。
神がいればこそ、繁栄があったと言わんばかりの崇めようだった。
しかし、今は訳が違った。
日照りが続き田畑の水どころか、川すら干上がりかけている。
だというのに、いくら手を合わせ頭をついても、一向に神が応える気配は無かった。
変わらぬ現状に、村の若い衆の中には神の存在を疑う者が出てくる始末だ。
事実、神の姿を見た者はどこにもおらぬ。所詮ただの御伽話と斬って捨てることも容易い。
よしんばいたとしても、捧げ物を繰り返しても未だうんともすんとも応えない。こうなると、我らを見捨ててしまったかと思う者が多くなるのも仕方のない話だった。
『だとしても、だ! 雨が降らねば年貢として払う米が取れぬ。それどころか皆が飢え死んじまうじゃあないかッ! 俺は放っておけん、放っておけるかッ! 一度見てしまったんだ、見て見ぬ振りなど男の風上にもおけんのだよッ!』
そう言うや否や、昇十郎は突っ走った。
村人が止める間もなく、土煙を上げて直走った。
この村の高台にある社まで休み一つ無しに駆け上がるや、鳥居を抜けて仁王立ちよ。
そして、今この時に至るのだ。
その勇ましさは目に見張るものがあるが、彼の男気に応える神は未だ現れる雰囲気すらなかった。
虚しいだけの時間が刻々と過ぎていく。
ワシワシと鳴く蝉の声と、時折り吹く風に揺られる緑の音だけがこだましていた。
季節は夏真っ盛り、暑さに倒れる民は珍しくないどころか、数年に一度の凄まじい熱に次第に数を増やしている。
天高く昇った日は、昇十郎も例外なしに焼いていく。
日照りは、鍛え上げた肉から煙が出んほど凄まじい。だが、男は眉ひとつとて動かさない。
次第に汗も噴き出し、足を伝った雫がそのうち水溜まりの様相を見せ始めてきたが、それでも男は微動だにしなかった。
昇十郎は、待つ。
ひたすら待つ。
社の扉が開け放たれ、いるかもわからぬ神とやらが姿を見せるまで、決して動くつもりなどないらしい。
腕を組み、胸を張り、社をまっすぐに見据えて待つ。
かの御姿に相見えるまで、昇十郎は梃子でも動きそうになかった。
日が暮れ宵闇が空を覆っても、依然男は変わり無し。
境内を跋扈する獣どもも不思議そうな顔をして様子を伺っているが、昇十郎は目もくれない。
これが──三日三晩。
この三日間、やはりというべきか社の扉はうんともすんともいわなかった。
境内は静寂が変わらず漂っており、神とやらが現れる兆しすら見えやしない。
だというのになんなのであろう、この昇十郎の自信に満ちた笑みは。
日が昇り、月が顔を出しを繰り返すこと三度、遂に昇十郎は片時も動かなかった。
飯も食わず、水も飲まず、ひたすらその時を待っていた。
眠りもだってしちゃあいない。開かれた眼は常に真っ直ぐ、社を見据えて離さない。
猛暑に身を晒しているだけあって、肌は黒々とした色に焼けつつある。
足元の汗だまりは大きくなるどころか、溜まる前に蒸発をもう何度も繰り返していた。
常人なら、音を上げていてもおかしくない。いいや、音を上げるのが当然だ。
神でなくとも現れるかわからぬ者を待ち続ける、それは相当根気のいる話だ。
三日三晩待ち続けただけでも上等、諦めに負けて去ったとしても誰も咎めることはあるまい。
そして、四度目の朝陽が昇る。
昇り行く日を背にして──昇十郎は依然変わりなし。
組んだ腕は未だ解かない。
社に背を向けることもない。
堂々とした佇まいに、綻びはどこにも見えやしなかった。
四日目を迎えて、男はなお望むところと言わんばかりに、待ち続ける覚悟でいるらしかった。
「ハッ、随分とまあ馬ァ鹿な男が現れたもんだと思っていたが、ここまでとはなァッ!」
声。
突如、どこからともなく声が境内に響き渡る。
社から──では、ない。
空だ。
闇が朝日に追われて行こうとしている遥か空から、その声は落ちてきた。
思わず見上げる虚空の彼方。
────刹那、衝撃。
『奴』は、なんの脈絡もなく”降って”きた。
あまりの衝撃に境内の石畳は割れ、土埃が吹き荒れる。
それを、降ってきた奴は手を一振りするだけであっという間に払ってみせた。
朝日に照らされた黄金色の髪が眩く輝く。
悠然と立つ姿はどこか厳かで、場を圧倒する空気を放っていた。
琥珀に迸る眼光が、正面を向く。
奴の視線と相対するだけで、身体をあっという間に塵にせんばかりの熱波を浴びせられたような錯覚を覚えてならなかった。
────神
奴の纏う雰囲気、発する圧、どれもが人のものではなかった。
凡そ今生において目の当たりにすることないであろう光景は、慄くどころか腰を抜かしたってしょうがないだろう。
しかしどうだ、昇十郎はごくりと喉を鳴らすくらいで、怯えのおの字も露わにしちゃあいない。
仁王立ちはそのまま、向けられた眼光に真っ直ぐ視線を返している。
どころか見ろよ、高鳴る胸に思わず口が吊り上がりきっているじゃあないか。
「ほぉ……俺を前にしてひれ伏しもしねえのは気に食わねえが、怖気づかねえその態度は嫌いじゃあねえな」
奴が、口を開く。
「三日三晩、よおく粘ったもんじゃあねえか。ご苦労さんなこったなぁ、昇十郎とやら」
「は──ッ、こりゃあ驚いたぜ。まさか褒めてもらえるとはな。それに、てっきりそこの社から現れるもんだと思ってたからなあ、驚いてションベンちびりそうになっちまったじゃあないかい、神様よ」
「こんなちっぽけな社から出てきたってつまらないだろ。神ってのはいつでもド派手だ。ド派手に度肝を抜いてこそ、神なのさッ」
「そりゃあ、そうだなッ! 納得しかねえッ!」
昇十郎がそう高笑うと、神と名乗るこの男もつられて威勢よく笑ってみせる。
だははッ
だはははッ
だははははッッ
社がざわつく。
緑が揺らぐ。
肝の小さい獣どもなら穴に影にと隠れるほどの高笑い。
「──でもなあ、嫌いだね。頼み事願い事ってえのはな」
一変する空気。
冷たいものが疾り抜ける。
背は粟立つことを抑えられない。
一瞬、身じろぎもできない重圧感に体が屈しそうにもなった。
さしもの昇十郎も得体の知れない感覚に、初陣に出た時と似たような腑の震えを覚えていた。
されど、昇十郎は臆さない。
「神様ともあろうアンタが、頼み事も願い事も嫌いだってえか?」
奴が発する言葉に、噛みつきだってしてみせる。
今更引き退るなどという選択肢を、男は持ち合わせなどしなかった。
「ああ、嫌いさ。神ってのは誰の指図も受けねえし、誰の言う事も聞く必要はねえ。俺は俺の気まぐれで生きる。救うも救わねえも俺のみぞ知る、ってェヤツだ」
「はあ……そりゃあ、勝手じゃあねえのかい? ここの奴らはアンタを崇めているんだぜ。捧げ物だってしている。神様だったらそれに応えるのが筋なんじゃあねえのかよ」
「それこそ人の勝手さ。捧げ物や祭りをすれば簡単に靡いてくれる、自分たちの思う通りにしてくれる──そう考えているのが、気に食わねえ。俺は誰の指図も、誰の差金も受けねえ。当然、貴様の頼みもな」
「俺と相撲をとっちゃあくれねえってのかい」
昇十郎の言葉を聞いて奴は「ハッ」と冷たく嘲笑う。
「馬ァ鹿がよォ! そもそも、俺と同じ土俵に立っているとでも思っていンのかァ、貴様はよォッ!」
瞬間、昇十郎の鼻先に迫る、形を持った熱波。
咄嗟に固める腕。
それ諸共に、昇十郎の体が爆ぜた。
────脚
紛れもなく、ただの蹴り。
しかし、その衝撃は砲弾を直接己が身で受け止めたが如き凄まじさで、昇十郎の足を境内から離して吹っ飛ばす。
一間、二間、三間。
そして大きな体は、勢いよく鳥居に叩きつけられた。
がッ、と血反吐を吐き散らかし、膝が笑って頽れていく。
「身に染みたか、思い知ったかッ。これが俺と貴様の格の違い、という奴だなァ昇十郎」
ごきり、ごきりと首を鳴らし、鳥居を背にずるずると落ちていく昇十郎を見下すように、神様とやらが近づいていく。
「そもそも、すこぶる馬鹿だよなあ貴様は。いるかもわかんねえ神が現れるまで愚直に待ちやがって。いい加減邪魔だと俺が現れなかったら、いつまでも待つつもりだったのか? そうだとしたら、馬鹿どころかとんだ愚かモンじゃあねえかい」
尻をついた昇十郎の顔を奴は容赦無く足で踏みつける。
ぐしぐしと非力さを丹念に味合わせるような踏みつけ様だった。
「いい加減去ねよ、昇十郎よ。貴様が何をどうしようと何も変わりやしねえェんだよ。俺がそう簡単に相撲なんぞ取るわけでもなし、なァにが相撲だ。相撲なんぞで雨なんて降るわきゃあねェだろうがよ」
そのまま昇十郎を足蹴にすると、奴は一瞥もせずに背を向ける。
やはり、身の程知らずか。
この程度でうんともすんとも言わなくなるのであれば、奴にとっては視界に入れる価値すらないらしい。
既に足取りは、昇十郎を置いてどこかに行こうとしてしまっていた。
「……男ってのがそう簡単に背を向けちまうのは、格好悪くねェのかい」
ぴた、と止まる足。
むく、と起き上がる大きな体。
「俺が旅してきたとこの一つにな……神様と相撲をとってやっとこさ雨を降らせた……なんて話があんだ」
口から吐いた血を拭い、笑う膝には根気を入れるように叩いてしゃんとさせてみせる。
拳を鳴らし、腕を組んで、仁王立ちはまた再び。
「ここはそこ以上に神様を慕っている。そんなここだからこそ、俺は神様ってェやつと本気で相撲を取ろうと思った。きっと現れてくれると、そう信じてずうっと待った。信じて動けば、何事も叶うってな」
奴が振り返る。
格の違い──それを文字通り体に叩きつけられてなお立つ一人の男を、まじまじと見やる。
知らぬ土地のお伽話を持ち出してくる馬鹿さ加減には笑っちまうが、馬鹿は馬鹿でもどうやら筋金入りらしい。
走り出したらきっと迷うことなんぞ無いのだろう、どこまでも真っ直ぐで爛々とした眼差しをしていた。
「馬鹿でも愚かでも構うものかよ……。
ここまで来て、たかが蹴り一つで引き退るほど、俺はやわな男じゃあねえッ。
そんな格好悪い事はできやしねェッ!
俺はなッ──神様、アンタと相撲がしたいッ!
相撲をして雨を降らすまで、俺は絶ッッ対にここから去らねェッ!
絶ッッ対にアンタに背を向けやしねえッ!
それが、日はまた昇るの昇十郎だッッ!」
旭日昇天、男の背負った朝日が一層燦然と光を放つ。
あまりの眩しさに目が眩む。
凄みだ。凄みがあった。
神と名乗る奴でさえ無意識に息をついてしまいそうになるほど、粋を見せる益荒雄がそこにいた。
「────ハッ」
奴が、向き直る。
「格好悪い、か。そんなこと俺にはどうでもいいんだがな──だが、このまま貴様の見栄切りに背を向けたとあっちゃあ、逃げたと思われてもしょうがねえな」
一本結びに纏めた黄金の髪を翻し、昇十郎の眼差しをまじまじと見やる。
どうにもならないことに拘って、いつまでも彷徨く虫を払うくらいの気持ちで現れてみたが、とんだ儲け物だったらしい。
気迫気概に満ち満ちた体躯は、少なくとも退屈はしないだろう。
不敵な笑みを奴は浮かべた。
「感謝するがいい、昇十郎。かかってこいよ──俺は貴様を相手にしてやりたくなったぞ。貴様が二度と大きな口を叩けぬよう、この俺がどれだけ高みにいるか教えてやろうじゃあないか」
奴が言うや否や、昇十郎の顔に目に見えるほどの喜色が溢れ出た。
良くも悪くも、己が感情に素直な男である。
「ありがてえ、ありがてえぜ神様よ! そうとなったら早速だ。早速相撲を取ろうじゃあないかッ!」
パンと掌を叩いた音は、なんとも胸がすく気持ちよさ。
そして早速とばかりに、天を突かんばかりに脚を高く掲げた。
────四股だ。
ピンと立って肉が締まった脚は、ぶれることのない力強さをこれでもかと見せつける。
そこから勢いよく振り下ろされた踏み込みは、大地をも戦慄かせた。
境内に響いた重さは、鼓膜どころか心の臓にまで直接叩きつけるようだった。
四股というものは、邪気を払うために行われる儀式である。今この昇十郎ほどのものであれば、どんな邪気も慌てふためいて逃げ出しただろう。
深く腰を落とし、手を地につけ、全身の肉に気を込めて男は構える。
肉体に篭る闘気の密度が、徐々に高まっていくのを感じてならなかった。
「……そういやあよ、神様。アンタの名をまだ聞いちゃあいなかったな」
思い出したように、昇十郎が口を開く。
「どうせだったら、教えてくれやしねえかよ。折角こうしてぶつかり合うんだ、名くらい聞いておかなきゃあもったいねえだろ」
「……どこまでも遠慮を知らねえ奴だな、昇十郎」
奴は呆れたように溜息をつくが、しかし、名乗らないというわけではないようで。
「天羅──俺は天羅だ。貴様が日はまた昇るというなら、俺は常に天に在り、てえところだろうな」
「天羅……へえ、神様らしくていい名前じゃあねえか。そんじゃあ天羅様よ、そろそろ始めようじゃあねえか」
闘気がさらに高まったか、昇十郎の体周りが陽炎の如くゆらめき始める。
昇十郎が発する熱を天羅も肌身に感じつつあるが、だからなんだというのだろう。
意趣返しと言わんばかりに、奴もまた仁王立ち。
天羅もまた、昇十郎に負けず劣らずの肉の分厚さ。いいや、下手をしたら昇十郎以上のものかもしれない。
奴の出立ちは、大きく聳え立って動じない山々を想起させる代物だった。
「さァこいよ──昇十郎」
顎を上げて見下げる姿には、たっぷりの余裕があった。
構わない。
好きなだけ余裕なんてさせておけ。
昇十郎は息を深く吐くと、眼差しを改めて正面を見据える。
捉えるは、今目前に在る己が対手ただ一つ。
「行くさッ、天羅様よォ!」
地が鳴る。
昇十郎の体が境内をまっすぐに駆ける。
猪突猛進、堂々と立つ天羅に向かって闘気はただただ一直線。
ぶちかまし、だ。
正面に固めた腕をそのまま、天羅に向かってぶつけ打つ。
────その寸前だった、昇十郎の鼻先が弾けたのは。
張り手。
天羅の張り手が、昇十郎のぶちかましよりも早く顔を叩いたのだ。
不意の一撃に、足が一瞬止まる。
その昇十郎の腕を天羅の手が取って、片腕でぶん投げる。
大きな体が、軽々と宙を舞った。
投げ飛ばされるのは初めてだった。
体勢が崩れていたとはいえ、昇十郎の体の大きさではそもそも持ち上げることも難しい。
それを軽くやってのける天羅に、脱帽。
同時に、胸が熱さと昂りとが増していくのをひしひしと感じていた。
故に、昇十郎は倒れない。
まだ、相撲は始まったばかり。雨を降らせるほど、神様を満足だってさせちゃあいない。
体勢を空中で整えながら両足でしっかりと地面を掴む。
膝に土一つつけずに、男は立ってのけてみせる。
顔は常に正面。
目は、天羅の姿から一時も離さない。
「ッ、シャアアァァアァッ!」
咆哮。
一息も置かず地を蹴って間合いを詰め、昇十郎の張り手が唸る。
が、天羅の眼はすこぶるいいらしい。
当たる、昇十郎にそう思わせる寸前まで引きつけてから、紙一重で躱してみせた。
手応えの無さに目を丸くする昇十郎の顔を見て、天羅は嫌味ったらしく笑ってみせる。
「どうだ、昇十郎ォ。これが俺と貴様の差ってヤツだなァ」
嘲りと共に、昇十郎の脛にけたぐりが奔る。
痛みに顔を顰めた昇十郎の頬を、今度はまた張り手が叩く。
昇十郎の口から、べっとりとした血が噴いた。
とはいえ、昇十郎の膝はまだ折れてなどいない。
瞳に灯った闘志だって折れるどころか、猛々しく盛る。
返す刀で、張り手再び。
それを躱されても、また張り手。
腕を弾かれ軌道を変えられても、天羅を狙って張り手は唸る。
威勢はあった。気迫も十分だった。
なのに、天羅はいとも容易く昇十郎の一打を受け流す。
皮一枚、まだ掠めない。猿の如き身の軽さで昇十郎を翻弄する。
昇十郎がもう一手──それを狙う前に、懐に入った天羅の肘が顎を刈った。
キレのある一閃に、脳髄が揺らされ頭蓋に思い切り叩きつけられる。
視界がぐにゃりと歪み、天羅の笑みが二重三重にも見えた。
瞬間、脚に痺れるような衝撃。
不意のけたぐりに、今度はわずかに膝が落ちた。
土はまだつかないが、反撃はままならない。
いいや、天羅が一切合切を許さない。
繰り出される張り手の嵐が、次々と昇十郎を叩きつける。
鼻を、頬を、眉間を叩かれる。
顔中のあらゆる皮が波を打つ。
ついで昇十郎を穿つは、背中のバネを思い切りに使った両手撃ちよ。
肉も骨も貫き通して直接肺を叩くような一撃に、溜め込んでいた空気全てを吐かされる。
呼吸ができない。
か、は──と蚊の鳴くような無様な声が口から漏れる。
されど、視線は俯かせない。
辛うじて瞳は天羅を捉え続ける。
その天羅が、腕を構えた。
弓の弦がビンと張るように、肉がギチギチと鳴っていた。
「ハッ──」
空笑いが溢れるくらいに、背筋に冷たいものが奔る。
咄嗟に腕を固める昇十郎。
だが、なけなしの抵抗は天羅の前において無意味に等しい代物だった。
「いい加減知れ、俺と貴様の格の違いがどれほどかッてのをよォッ!」
活火激発、至近距離から放たれた突きは昇十郎の腕もろとも顔を叩き潰して爆ぜ飛ばす。
凄絶の一撃に、激しく仰け反る大きな体。
足が境内から離されそうになる。
また、鳥居まで吹っ飛ばされて叩きつけられるのか。
それとも、今度はついにこのまま背中から土をつけられてしまうのか。
────否。
「否、否、否ァッ!」
みち、と漲った足がしかと大地を踏み締める。
ぶつけられた衝撃に引きずられつつあった体を、気合と気迫で堪え切る。
仰け反った体を押し戻し、昇十郎は何度だって前を向く。
「お、れは……日はまた昇るの、昇ッ十郎……ッ! こんなとこではまだ、沈まんさァッ! まだ、何も成しちゃあいないんだからなあッ!」
劣勢も劣勢。昇十郎が立つのは崖っぷちの窮地そのもの。
しかし、男から快活さはまだ失われちゃいなかった。
むしろ、眩く燃ゆる朝日のように、男の闘志は爛々とした輝きを増しつつあった。
「──あぁ、そうかい」
天羅は、吐き捨てる。
大きな口はもう聞き飽きていた。
威勢しか取り柄のない男など、天羅にとってガワだけの小物でしかなかった。
事実、奴の張り手は勢いのわりに、一向に天羅を捉える気配はなかった。
口先だけの男など、もう──
「沈まない、貴様がそう言うのなら俺が沈ませてやろうじゃないかよ、昇十郎よォッ!」
地鳴り。
地を蹴って間合いを詰めた天羅は、既に昇十郎の顎の真下にいた。
刹那に、突き上げるは掌底よ。
顎骨を砕き、意識をあの世までかち上げんばかりの容赦のなさがそこにはあった。
顎先に、天羅の一撃が迫り行く。
その時だった、昇十郎の姿が消えたのは。
まるでそう来る、と読んでいたかのような動きに、一瞬の戸惑い。
されど、あくまで一瞬だ。
天羅の視線はすぐに昇十郎を追っていた。
───右。
高々と腕を突き上げた天羅の右側に、昇十郎は回り込んでいた。
天羅が向き直り、左の張り手を見舞おうとするも、遅い。
昇十郎の大きな体が有無も言わさず突っ込みかかる。
丸太のような両腕が、ガラ空きになった天羅の胴に伸びる。
無骨で大きな掌が天羅の帯をがっしりと握りしめた。
「組んだところ、でッ」
遅れじと天羅もまた組み返す。
昇十郎の腕の上から手を回し、ぎっちりと帯を掴んだ。
組合だ。
こうなれば、もう技もへったくれもなかった。
ここに至ったならば、あとは投げるか投げられるかの力相撲。
ただひたすらに、力を引き出した者が勝利を得る。
肉と肉とが、回りながらもつれあう。
互いが互いを投げんと、四肢という四肢を一杯に力ませる。
みちみちと音が鳴り、徐々に上がっていく肉の密度。
青筋の血管が浮き出つつある。
筋繊維の一つ一つが剥き出しになりそうなほどに皮が張り詰めていた。
天羅が、歯を食いしばらせる。
食いしばらせたことに、数秒して驚きが走った。
さっきは軽々と投げ飛ばせたはずの昇十郎が、びくともしない。
足を地から離さんと持ち上げようとしても、根が張ったように動かない。
右に左にと体を振ってみせても無理やりに押し込められ、間違えばこっちが振り投げられそうな気さえした。
己に絡んだ肉は、どうやら見た目以上の代物らしかった。
「ぬ……ぅんッッ!」
昇十郎が、唸る。
と、同時に天羅の体が引っ張り上げられ、あわや踵が浮かび上がりそうになった。
「──ホ、ウッ」
腰を落としこれをなんとか堪え切ってみせるが、”堪える”などという必死さに駆られた己に思わず笑みが溢れてしまった。
気位が違う。
格が違う。
己と男の間にある歴然の差というものも見せつけてもやった。
だというのに、この男は諦めの一つも溢しやしない。
どころか、挫けもせずに果敢に組み付いて、神を名乗る天羅に汗を一筋流させやがった。
天羅が凌いだのが分かると、昇十郎は今度、下手に掴んでいる帯から一気に投げんと畳み掛けた。
これがまた、力強い。
ぎち、と肉が引き絞られる音が鼓膜に響くや、途端に天羅の片足を引っ張り上げてみせるじゃないか。
その気になれば、大木を根っこから引き抜けるんじゃあないかとさえ思わせる昇十郎の腕っぷしに、天羅はいつの間にか目を輝かせていた。
見誤っていたようだった。
ヤツの口も図体も、見かけ倒しなんかじゃあない。
男の威勢が、気迫が、本物であると思い知らされる。
天羅も、ただじゃあ転ばない。
投げられそうになる体をそのまま利用して、逆に昇十郎を上手から投げんと試みかける。
わずかに昇十郎の足が上がる。
が、昇十郎は躊躇わない。
依然、下手に取った帯を決して離さず、天羅の体を崩さんとさらに力を振り絞る。
互いが互いに力んだ体を踏ん張らせ、肉を震わせぶつけ合う。
組み付いたまま、二人の足がまた境内を掴んだ。
流石の攻防に肩で息をする二人だが、帯を握る手は一寸も力を抜いちゃいない。
抜くなんざ、しようとも思わなかった。
ちょっとでも力を緩めた方が土をつけられる、互いにそいつを理解していた。
一瞬の油断も許されないこの状況の中で、愉悦の二文字に浸っている己を天羅は否定することができなかった。
天羅にとって、初めて出会う男だったのかもしれない。
己と伯仲の勝負を繰り広げ、どこまでも食い下がろうなどとする男など、神を名乗ってから──その以前ですらも見たことがなかった。
元より、相撲一つで雨を降らそうなんて馬鹿げた話を言い出す男自体が初めてだったが。
故にこそ──
「……解せん男だな、昇十郎」
昇十郎の耳元に投げかけられた、疑問。
「解せんたあ、何がだい?」
「貴様は相当の猛者だ。きっと、どこぞの戦場で名も上げたことがあるだろう、違うか?」
「……神様ってのは、手合わせするだけでそこまでわかっちまうのかい。凄いな」
「貴様の体や闘いざまを見れば、自ずと分かるわ。たあぁけ」
天羅を凌ぐほどの組合の強さ、何よりその鍛え上げられ隆々とした筋骨はそこらの農民百姓にはないものだった。常日頃から培われたものでないと、話にもならない。
武士崩れ──牢人の流れ者あたりか。
「そんな男がなぜ……うん、なぜ、俺の縄張りにそこまで首を突っ込む? 余所者だろう、貴様は。そも、貴様のような男がここにいること自体が解せん。名のある大名の家臣でもやっておけば、相当の所領や金がもらえていようになァ、昇十郎」
未だ、この世では戦の火種は燻り続けている。そうでなくとも、大名らにとって武芸達者な者を召し抱えるということは、家の格上げにもつながった。
昇十郎が武者働きだったり持ち前の腕っぷしだったりで名を上げる機会はいくらでもあった。
──が、
「ま、アンタの言う通りなんだろうけどさ……俺は興味がねえのさ、ンなもんによ」
天羅は訝しげな視線を送らずにはいられなかった。
所領欲しさに戦さ場を駆け回るのが武士の本分である。それを興味がないなどと言い切るこの男が、余計に理解し難かった。
「わかんねえって顔してんなあ。案外、神様ってのも素直なもンなんだな」
「ふざけるなよ、昇十郎」
「ふざけちゃあいねえよ。俺ははじめっからふざけちゃあいねえ、いつだって腹括って俺は格好つけてるぜ」
そして、笑む。
大きな口を一杯に、男は笑む。
「なんせ俺はな、格好よく──格好よく粋に生きていきてェからな」
────昔、大戦さがあった。
天下を二分する大戦さだ。
昇十郎は、そこにいた。
ある大名の配下として、真っ先に先陣を取らんと槍を持って戦さ場を駆けた。
我一番、槍一番と先駆けた。
あまりに、先駆け過ぎた。
戦さが始まって間もなく、突出した部隊を狙った銃弾砲弾の嵐に巻き込まれ、意識を失った。
気がついてみれば、戦さは終わっていた。
すでに主人の姿は戦場に無かった。
男は、敗軍の一兵卒となっていた。
何もできず終いだった。
先陣を駆け手柄を上げるどころか主人を守ることも叶わないまま、戦さを終えてしまっていた。
絶望は、ひとしおだった。
己の不甲斐なさ、みっともなさに泣き晴らした。
誰も顧みず、先走り過ぎた己が愚かさが、生き恥そのもののように思えて仕方なかった。
これ以上恥を重ねるくらいなら──男は懐にあった刀を抜くと喉笛に切先を向けていた。
そこに轟き渡った、鬨の声。
終わったはずの戦さ場で猛者たちの声が響き渡った。
見れば同軍の部隊の一つ、それが心臓を叩かんばかりの鬨の声を上げて、戦さ場を駆けている。
撤退──にしては凄まじい覇気のある姿だった。
いや、撤退にしてもおかしかった。
彼らの向かう先にあったのは、敵軍だったのだ。
敵軍に向かって、彼らは撤退しようとしていたのだ。
意味がわからなかった。
無茶無謀にも程があった。
しかし、その姿は男にとってあまりにも格好よく見えた。
あの男たちは、死にに行く姿ではなかった。
主人を守り、仲間を守り、次々と倒れていく男たち。
胸中はさまざまだろうが、昇十郎には確かな姿が一つ、見えていた。
決して、彼らはただ死にに向かっていたのではない。
彼らは、己の為すべきことを果たさんと生きていた。
例え死んだとしても、魂が燃え尽きるその寸前まで己が定めた為すべきことを果たさんと、最後まで生きていた。
それが、格好良かった。
あんな格好いい生き様を描いていただろうか。
あんなに格好よく己は生きてみせたのだろうか。
昇十郎の手は、今にも喉笛を突かんとしていた刀を捨てていた。
それが、男の答えであった────
「──放っておけねえ、放っておけねえのよ俺は。戦さ場を離れて目ぇ広くして見ればしんどい奴らがいろんなとこに、そこらじゅうにいた」
ぶちぶちと音が鳴る。
昇十郎のぶっとい四肢が、泣き裂かれんほどに漲っていく。
「ここもそうだッ。雨が降らなくて困っている奴ら……顔を沈ませてる奴らがたんッッといる」
大地をしかと踏み締めていた足が前に一歩、踏み出さずにいられない。
誰と知らずとも男には関係なかった。
暗い顔を浮かべ涙が流れ落ちていくのを目にした時、男の心はとっくのとうに決まりきっていた。
「そうさ、見て見ぬふりなんざできるかよッ! んなの、格好悪いことに他ならねえだろうがッッ!」
その時だった、天羅の抱く肉が膨らんだような錯覚を覚えたのは。
瞬間、引っ張り上げられる天羅の体。
いいや、引っ張り上げられるどころではない。
釣り上げられる。
鯨を一本釣りにせんばかり、そう言っても過言ではないほどの力強さで天羅の体が釣り上げられる。
境内を足で掴むことも叶わない。
舌を巻かずにはいられなかった。
「全く……デカい口が似合う男だなあッ、昇十郎……ッ!」
「神様にそう言われるのは、悪かねえなぁッ!」
「だがな──こっちにも、神としての矜持と意地があんだよ……そう簡単に投げられて、たまっかよッ!」
昇十郎の顎に奔る、強烈な衝撃。
投げられる寸前に、天羅の膝が昇十郎の顎を蹴り上げたのだ。
不意の一撃だった。
それでも、投げ切る。
力の抜けてしまった投げであっても、喰らわせるだけ喰らわせる。
が、天羅の前であっては、気が抜けた投げなど大したものではなかった。
地に叩きつけられる前に体勢を整えるや、昇十郎の腹を蹴り付けると同時に間合いを取ってみせた。
膝の一撃は相当なものだったらしい。
脳髄がまた頭蓋に叩きつけられたか、ぐらりと巨体を揺らがせた昇十郎だったが、倒れるまでには至らない。
ぼた、ぼたと境内に血が滴り落ちていく。
「流石……流石だぜ、天羅様よ」
「遅えんだよ、分かるのが」
「いいやはじめっからわかってはいたさ、アンタがすげえヤツだってことはよ」
ゴキ、ゴキと首の骨を鳴らすと、口から滴った紅い雫を拳で拭う。
その間、天羅から視線を一切外さなかった。
「だからってな、退く理由にはならねえんだな、これが。むしろアレだな、ここで格好をつけなきゃあ格好よくねえだろ」
「誰が見ているわけでもねえってのにか」
「見ていようがいるまいが関係ねえッ。ここでアンタと相撲をとって雨を降らせる──そうした俺の姿は格好いい、そう思ったからここにいんだ」
たわけた物言いに、天羅はまた呆れてため息をつきかけたが、昇十郎の顔を見るとゴクリと飲み込んでしまっていた。
たわけ、などという一言で片付けるには、どうして腹の据わった貌をしていた。
「と、いうわけだ──とことん付き合ってもらおうかい、天羅様よ。アンタも一緒に格好よくなってみようぜ、なァァッ!」
男が吼える。
足を真っ直ぐにまた掲げた。
四股を、再び。
一度目よりもなお強く、さらに力強く足を踏み抜け。
大地を踏み轟かすは覚悟の鼓動。
この四股で、天羅の魂そのものに響き打て。
前を見据え、曇りも淀みもない快活な笑みで、天羅ととことん対峙する。
どこまでも真っ直ぐだった。
真っ直ぐが過ぎて、愚直と言わざるを得ない眼差しだった。
たかが相撲一つで、本気で雨を降らせようとでもいうのか。
ずうっと冗談でも言っているもんかと思っていた。
奴がいう相撲で雨乞いなんぞ、絵空事な御伽噺に他ならない。
天の上のことをどうにかしようだなんて、地に足ついている者では如何ともしがたいだろうに。
だが、体をどつき合せ、男の言葉を真正面から受けて、思い知らされた。
この昇十郎という男は本気なのだと。
冗談なんか全く言ってなどいない。
大きな口から放たれた言葉は、総じて真だった。
真のことしか、男は言っちゃあいなかった。
「貴様、昇十郎よ──」
口が開く。
だが、喉にでかかった言葉を口にする気にはなれなかった。
瞳に灯る闘志は、どんな現実を目の前にしてもひっくるめて焚べてしまいそうな程の純度があった。
未だ諦めというものを知らない──否、諦めというものを捨てたと言わんばかりの昇十郎の笑みと瞳とに、飲み込んだ言葉はきっと無粋だったろう。
最早、奴に問うものなど何もない。
奴に似合いの言葉というのは、きっとこういうものをいうに違いなかった。
「──俺を付き合わせると言ったんだ、それ相応の代物が貴様になければねじ伏せられるだけだぜッ、昇十郎ォォッ!」
高く、掲げる足。
真っ直ぐ、天を突くように堂々としていた。
──四股。
初めは踏むつもりなんざ毛頭なかった四股を、昇十郎よろしく格好つけて決めてみせる。
ここで男の気概に応えないなど、神ではない。
否、”一匹の雄”ですらない。
振り下ろされた足は、境内の石畳を割らん勢いだった。
地をも踏み抜き、根を叩かれて木々が鳴く。
たまらず飛び上がった鳥どもの羽ばたきが境内を埋め尽くした。
邪気だって、裸足で逃げ出して行ったに違いない。
昇十郎と同じく地に拳をついて構えると、男の眼差しにぶつけるように天羅は目線を合わせた。
昇十郎は、ばちりと火花が強く散ったのを感じてならなかった。
胸が震える。
歓喜に、血の巡りが疾くなる。
「アンタも腹括ってくれるんだなあ、格好いいぜェ天羅様よう!」
「調子に乗ってくれるなよ、こっからはもう五体満足で帰れる保証もねえんだからな」
「上等ッ! ここで体張らずにいつ張るってんだ、って話だしなッッ!」
じり、とさらに強く地を踏み締める。
胸一杯に吸った息を吐き出し、四肢にありったけの力を漲らせる。
視線をぶつけ合わせ火花を幾度も散らせる二人に、言葉などという野暮なものはもういらない。
相撲といえば、この掛け声一つしかあるまいて。
「はッけ!」
「よいッ!」
「「 のこッッたあッッッ! 」」
山みたいに大きな体が、後先も見ずにぶつかり合った。
額と額とがかち合い、鉄を思い切りに叩いたが如き音が鳴り響く。
かと思えば、今度は互いの頬が弾け飛んだ。
張り手だ。
昇十郎の張り手が、天羅の張り手が、間をおかずに目前の頬を叩く。
一度二度では終わらない。
叩く。
叩く。
叩け。
叩けッ。
叩けッッ。
昇十郎は勿論、天羅ですら真っ向に張り手を受けては己が張り手を叩き返す。
力一杯、目一杯の応酬だった。
男前に決めた顔が腫れ上がろうが、口の中が血の味で一杯になろうがどうだってよかった。
頬が爆ぜるたびにもっと目に物を見せてやろうと、体の底から熱が迸っていった。
遂には張り手だけじゃ収まらない。けたぐりをかまし、肘も突き打っていく。
肉を穿ち骨まで劈く痛みに腰が砕けそうにもなるが、まだ雨は降っちゃいない。
咆哮。
雄叫び。
震わせた肉が、息も吐かせぬ激突を繰り返す。
四肢と四肢とが絡み合い、また上手に下手に組合の力相撲。
互いの体を引っ張り合い、地に根を張ったように踏み締める足を引き抜き合う。
天羅の踵が上がったと思えば、昇十郎の体が振り投げられそうになる。
その昇十郎が意趣返しと言わんばかりの膝をかますと、天羅は天羅で頭突きをすかさずに見舞ってみせる。
肉と肉が離れる。
されど、すぐさまぶつかり合っては、汗と血ととを弾き散らす。
一進一退、一歩だって譲ることなんてしやしなかった。
いいや、貰ったものは箔をつけてぶつけ返す。
この程度か、だなんて決して言わせやしない。
体の底から湧いた熱を、男達は一滴残らずぶつけ続ける。
無尽蔵に湧き続ける熱を、吐き出すようにぶつけ続けていた。
それでも、日はまだ天高くに居座っていた。
いつしか二人は満身創痍、身体中に痣という痣を背負い肩で息を吐くようになっていた。
肉は幾多の雫を流して泣いていた。
全身全霊を真正面から身体中で受けてきたのだ、平気なところなどあったものじゃあない。
気を抜けば、指先にまで奔る痛みに膝が崩れそうだった。
「いいやッ、まだまだまだまだァッ!」
────喝ッ
そう己が頬を張っ叩く、昇十郎がそこにいた。
相も変わらず諦めることをしない男は、三度目の四股を踏む。
満身創痍甚だしいというのに、男は衰えるどころか頂点知らずな気迫気概を放っていた。
ああ、チクショウ、こいつという男はどこまでも───
天羅も、改めて四股を踏む。
踏まずには、いられなかった。
地鳴りを引き起こした四股は、昇十郎に負けず劣らずの覇気を放つ。
心臓を叩かれるどころじゃない。直接拳でぶん殴られるような、凄まじい覇気だった。
昇十郎が歯を剥き出しに、剛気に笑む。
天羅が唇を吊り上げて、不敵に笑む。
「天羅ァアアアァアッ!」
「昇ッ十郎ォオォオッ!」
弩弓、劈く。
正面堂々地を蹴って、男二人は猛り駆けた。
構えたは張り手、ぶちかますは笑みをもって迫り来る目前の戦友一人。
ここに至れば、あとはただひたすらに一所懸命だった。
己の中にあるありったけのものを、絞り尽くせるだけ絞り尽くせ。
悔いなんて残してくれるな、己の中に盛った業火で肉も骨をも燃やし尽くせ。
どこまでも不撓不屈を貫いた戦友に、己が覚悟で目に物を見せてやれ。
万里一空の張り手は、天高くにまで届かんばかりに猛々しく高鳴った。
────雷鳴が、唸った。
二人のあまりのしぶとさに思わず根を上げてしまったか、二度も三度も唸り鳴いていた。
ついで、どこからともなくやってきた分厚い雲が空を覆い尽くしていく。
ぽつ、ぽつと雫が垂れるまでに、そう時間はかからなかった。
やがては桶をひっくり返したが如き土砂降りの雨が、その土地に降り注いできた。
数ヶ月ぶりに降る恵みに、村中から歓喜の声が聞こえてくる。
老いも若いも関係なく降ってきた雨を浴びては、感謝に手を合わせていた。
「へへッ……やり切ったなあ」
「全くだ。貴様の諦めの悪さには舌を巻くしかないな、昇十郎」
「そりゃ、諦めの悪さは自信があるもんでね」
「言ってくれるな、貴様め」
境内に大の字になった男達は、降り注ぐ雨を浴びて笑っていた。
結局、相撲の決着はつかなんだ。
どっちが先に背中をついたのかもわからない。
いっそ勝敗がつくまでとも思わないでもなかったが、この雨を浴びているとそんな気もさらさら無くなっていく。
不思議と気持ちも良かった。
降り注ぐ雨のおかげなのか、それとも──
「ありがとうよ、天羅様」
ふと、感謝を呟いた昇十郎に、天羅は振り向く。
ニッカリと、相変わらずの笑みを天羅に向けた昇十郎がそこにいた。
「急に気持ち悪いな、昇十郎」
「そりゃあねえぜ。俺はただ、俺の想いに応えてくれたアンタに、感謝してえと思っただけなんだぜ。なんだかんだ勝手を言ってたけど、やっぱその辺は神様なんだなあ、天羅様よ」
「……ふん」
どうにも、癪だった。
礼なんて言われるのは、筋違いだった。
別に、この雨は天羅が降らせたものじゃあない。
そもそも、天羅に天候をどうこうできる力なんてありゃしない。あったらとっくに雨なんて降らせていた。村の民がどうこう頼み込んでくる前に、どうにかしてしまって敬え崇めろとでもしてやりたかった。
そうだ、神なんてただ名乗っているだけだった。
元は力が有り余って仕方のなかった一匹の妖猿にすぎやしない。
行くところ駆けるところに己を脅かす敵はおらず、好き勝手気ままに生きてきた。
それが、たまたま神もいなくなって朽ちゆく社を見つけたのをいいことに、そこに住み着き始めただけだった。
ついでに折角だからと、田畑を荒らす煩わしい獣を退治したり、自分の社の足元でひもじくしている奴らなんか見ちゃあいられないと食いものを恵んでいたりしていたら、本当に神様だと崇められるようになっていたのだ。ここらで己に敵う輩などおらぬのだから実質神でも問題ないだろう、などという理屈で存分に神の名を名乗っていたのは奴らしい話だが。
ただ事実、妖と言われるだけあって人並以上の力は持ち合わせている。欲しいものは力づくで得てきたし、自分が望む通りに勝手をしてきた。
神様を名乗り気取っていくうちに、いつのまにか本気で神にでもなったかのような気分になっていた。
この世でままならないものなど、もう何一つないとさえ思っていた。
だが、この日照りが傲りを挫いた。
どんなに望もうが欲しようが、空の上のことは如何ともしがたかった。
どうしたら雨が降るのかいくら頭を捻っても浮かんできやしなかったし、いくら拳を振るえどお天道様をどうにかすることもできなかった。
地に足をつける者が、どうして天の上のことをどうにかできるのだろうか。
空のことは、すべて空の上の気まぐれでしかない。
天のことは天に任せるしかあるまい、どうせ己は地上の神だ──などと胡座をかいた。
ままならさに不貞腐れて、らしくもない胡座をかいてしまった。
そんな己が、どうして雨なんて呼べたのだろう。
もし、この雨が本当に呼ばれて来たものだとすれば、答えなんて一つしかなかった。
「礼なんていらん。これは貴様が呼んだ雨だ、昇十郎」
昇十郎という男は、決して屈しやしなかった。
実力差を見せつけられ、幾度も地に膝をつきそうになりながらも、最後の最後まで体に土を付けなかった。
神に匹敵する力も何も持たないくせに、最後までなんとかしてしようと足掻き続けてみせた。
如何ともし難い天の上のことを相手に食い下がり続けた男の姿は、不貞腐れた胡座さえも立たせてしまった。
そして遂に、男は雨を呼んだ。
如何ともし難い事実を覆してみせたのだ、この昇十郎という男は。
きっと、天羅があるがままの事実を口にしたところで、奴は朝日以上に眩しさを放つ眼で、だからなんだと言ってみせただろう。
男の諦めの悪さが、意地の強さが、この恵みを呼んだのだ。
──自負がある、矜持があるだとか言い切りながら、この俺は恵みを呼ぶほど足掻こうとしていたか──
言葉にするまでも無かった。
天羅にあるのは、ただ歯痒さだけだった。
歯痒くて歯痒くて、しょうがなかった。
「もう、用は済んだろうが。とっとと去ねよ、昇十郎」
ふい、と昇十郎から顔を背ける。
男の快活が過ぎる笑みを、もう見ていてはいられなかった。
「……いらん、なんて言われても、俺はやっぱアンタに礼を言いてえな」
ぽつ、と呟くように昇十郎は言った。
「俺が呼んだ──なんてアンタは言うけどな、たとえ本当にそうだとしてもな、アンタもいなきゃ呼べなかったんだぜ? アンタがこうして俺と腹括って相撲をとってくれたから、この雨は降ってくれたんだと思うんだよ。相撲ってのは一人じゃあできねえだろ。アンタがいてくれたから相撲ができた。アンタがいたから、この雨を呼ぶことはできたんだ」
天羅は、依然顔を背けたままだった。どんな表情を浮かべているかは、昇十郎からは窺い知れない。
それでも、良かった。
「アンタが何をどう言おうと、俺は言うぜ──ありがとう、ってな」
大の字にしていた体を、昇十郎は起き上がらせる。
体中にまだ奔る痛みはあるだろうに、この雨を浴びていればそんなものなんのそのだ、だなんて風に振る舞っているようだった。
それがまた、昇十郎らしかった。
立ち上がった男の背中は、初め見た時よりも一回りも二回りも大きくなっているように見えてならなかった。
「認めてやるよ、昇十郎」
その言葉に昇十郎が、振り返る。
天羅もまた体を起こし、昇十郎に向けて顔を上げていた。
「貴様、格好良かったぜ。この天羅様が認めてやる────だから、またやってこい。次は決着をつけてやろう。俺が貴様以上に格好いいということを、見せつけてやろうじゃあないか」
不敵な笑みだった。
格好の決まった、奴らしい不敵な笑みがそこに浮かんでいた。
「──へっ」
ぎゅっ、と拳を握ると、昇十郎はそれを天羅に向かって突き出した。
幾多の修羅場を超えてきたのだろう、酷く無骨ながらも頼もしさ有り余る拳だった。
「ああ、約束だぜ天羅様。この昇十郎、その約束きっと果たしてやる。神様との約束は決して違えねえよ」
「言ったな、昇十郎。違えたらどこまでも追いかけて、その首を獲ってやるぜ?」
「違うかよ。約束を違えるなんて格好悪いこと、俺は絶対にしねえッ」
そう啖呵を切った男の眼差しは、相変わらずな曇りも淀みも一切なかった。
ただ真っ直ぐ、愚直なほど真っ直ぐに天羅を瞳に映していた。
「──そこまで言うのなら信じてやろう、昇十郎」
「ああ、大船に乗ったつもりで信じてくれていいぜ、天羅様よ」
「どこまでも大口を叩く奴だな、貴様は」
「格好良く生きるなら、口だって大きくなるさ。それがこの俺、日はまた昇るの昇十郎だからなッ」
「全く──」
悪態を吐く口とは裏腹に、突き出された拳に天羅も拳を突き返す。
たかが人間相手に、と思ったがこれがどうして気分の悪いものではなかった。
日はいつだってまた昇る。
故に雨よ、恵みの雨よ、今は存分に降り注げ。
雨粒が数多に弾けるこの音こそくれてやるに相応しい、益荒雄らへの喝采だった。
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