ex. 祈りの地

 スタラの大木が日の光に向けまっすぐに枝葉を揺らす。


 音のない風が抜けると、どこか遠くで大木の葉が風の音を立てた。



 不純なものなど何一つない、真っ直ぐ光が届く場所。


 祈りの地ライネの広場にひとり佇む神子は、小さく息をついた。


 目を細め、先ほどまでいた客人の姿を思い返しながら、大木の杖を手放す。そのかたちが溶け消える様を、彼女はただただ見るともなく見た。いつになく、静かに。


「大変だったわね」


 そんな彼女の頭上から、穏やかな声が降ってきた。


 彼女が振り返ると同時に、動物のシルエットが木の葉に紛れて現れた。ウサギのように長い耳を持つが、姿や顔は狐に似ている。しかし狐というにはずいぶん小柄で、毛の色も白い。


 その影は木の枝を飛び回る。俊敏な早さで樹を這うように走り回り、やがて彼女の肩に降り立った。衝撃はない。重さもない。この獣は精霊だからだ。


「タビア。来てくれたのですね。手伝ってくれてありがとう」


 親愛の情を込めた声で鳴くと、タビアは長い尻尾を揺らした。


 ライネの地の精霊――エルフの国の守り神でもあり、彼らの信仰の対象でもある。強い魔力を有するが、意思の疎通ができるのは神子である彼女だけだ。


「ヴィダはどうしましたか?」

「あの子はあの子でやることがあるのよ。もっとも、今来たらたっぷり嫌味を言われるだけだし、会わなくて正解だわ」


 対の顔を思い出し、やれやれと呆れた様子でタビアはこぼした。


 風に舞い、スタラの大木から木の葉が一枚零れる。星形の若葉は、先までニールのいた場所へ落ちた。


「今回のあなたはずいぶんと熱心だったわね?」


 彼女は目を伏せる。


「……彼を死に追いやってしまったのは、私の責任だからです」


 今ここにヴィダがいたとすれば、皮肉交じりに胸を刺すような言葉を投げかけられた事だろう。もう一柱の精霊は口は悪いが、その言葉の全ては真理を捉えている。


 ヴィダは言うはずだ、贖罪ができてよかったな――と、こちらを嘲るように。


「あなたが? まさか」


 対照的に、タビアは神子に寄り添うように頬ずりした。


「考えすぎよ」


 励ましながらもタビアは彼女の顔を窺う。神子は表情を変えなかった。


「聞いてくれますか。昔の話を」


 スタラの葉が風に乗り、森の奥へと消えてゆく。

 その葉の陰に、あの日の記憶を重ね合わせた。



 次代の神子として生を授かった彼女には、大きな問題があった。


 彼女は極端に体が弱かったのだ。


 生まれた時から高熱を出すことが多く、寝てばかりの生活。成長とともに多少丈夫にはなったが、何の配慮もなく生きていけるようにはならなかった。


 それは、神子としての修行にも支障を来す。


 それでも彼女は、自分ができるよう一生懸命勉学に取り組んだ。


 ――自分は神子になるのだから。リイヴが羽を落としてくれた。

 絵画で何度も目にしたあの綺麗な場所で、いろいろな精霊の声を聞いて……、周りの大人の人、ヴィダ様、タビア様と一緒に、世界の幸せを祈るために。


 頑張らなきゃ。使命だから。乗り越えなきゃ。遅れてる。急がなきゃ――。


 ある日、その責任感と重圧で無理をした彼女は再び倒れてしまった。昔のような高熱にうかされ、長い休みを強いられることになってしまった。


 周囲の大人たちはにわかに不安を覚え始める。


 神子としての教育が順調に進まない。また倒れられてしまった。このまま目覚めないのではないか。神子という存在がいなくなってしまうのではないか――周囲が不安に惑う中、一人のエルフが声を上げた。


 代わりの人材を探すべきだ。前例もあるのだから、と。


 その言葉により、彼女の知らない場所で話が進んでいく。


 当時、神官だったエルフ達はなにもしなかった。声を上げた彼らにすべてを任せ、簡単な書簡のやり取りのみに留めた。


 あの日。彼女の容態が安定し、無事に神子の役目を全うできると分かった途端、現場の大人はリタを捨て、魔法を巧みに利用し、その事実を隠蔽した。


 あんなことが起こってしまった事実は誰も知らない。当事者であるリタとニール、その二人を拾ったアラキナを除いては。



 無論、彼女も知らなかった。


 しかし、ここにいるヴィダが――エルフの信仰する精霊が、その事実を彼女に伝えたのである。粗雑な口調で、時にこちらを煽るように。


 あの時の衝撃は、今でもはっきりと思い出せる。


 似た境遇のエルフを苦しめ、更には一人のエルフを死に向かわせてしまった大本の原因は、自分にあるのではないか。


 自分の体が弱くなければと悔やんだ。すぐにでも助けたかった。けれど、ライネの神子は一生この土地を離れられない。

 それに、なんの理由もないエルフはこの場所に足を踏み入れることも不可能だ。個人に魔法を使うなどもってのほか。周りが許さない。彼女はもう、そういう立場になってしまった。


 できることの多い立場にいる自分が、なにもできない事実をひどく悔やんだ。まして、自分が追い詰めたようなものなのに。


 だから、二年前のあの日――。


 死の間際にいたニールがこの地に現れた時、彼女の心を占めていたのは責任感だった。


 なんとしても成功させなければならない。自分一人ではできない難しい魔法だけれど、ここでなら、タビアとヴィダが力を貸してくれれば、絶対に成功できる。そんな強い意志を胸に、彼女はこの地を覆う強大な魔方陣を描いた。ニールが創った魔法のように、彼を絶対に守るという想いを載せて。



「そう……私たちの信仰もずいぶん落ちぶれたものね」


 彼女の話に黙って耳を傾けたタビアは、やれやれと首を振った。


 彼女はそれに答えない。俯き、唇を固く結んでいる。それはエルフの神子としての顔ではなかった。


「大丈夫。あなたは悪くないわ」


 タビアは耳元で彼女の名を呼んだ。

 大丈夫、と繰り返して。


 目頭が熱く、喉の奥にこみ上げるような痛みを覚える。

 それを意識的に押さえ込み、彼女はタビアの背を撫でた。飛び出しかけた素の自分を抑え込むよう、静かに頭を振る。


「できることはしたつもりです。全て」

「そうね。あの魔法は、きっとあの子の役に立つ」


 夏の日差しが音もなく降り注ぐ。


 生き生きと枝葉を伸ばすスタラの大木は、生命の力を受け止めるよう確かにそこにあった。


 祈りの地ライネの夏が過ぎてゆく。

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祈りの夢現 西薗蛍 @vxv217

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