もう戻れない
彼女の気持ちに気付いていましたか?
自分の心に問いかけてみる。
「いいえ、全く気付いていませんでした」
そんな答えがすぐに浮かぶ。
知り合ったのはいつだったっけ?
たしか高校に入ってすぐ。大したきっかけじゃなかったと思う。
彼女とは同級生。クラスは違うけど選択授業で席が隣同士になって、授業の前後に喋るうちに気が付いたら仲良くなっていた。
どちらかというと、私が一方的に好かれていたような気がする。学校の廊下ですれ違ったときに笑って手を振ってくれたり、私が合唱コンクールで入賞したときには、私を思い切り抱きしめて自分のことのように喜んだりしてくれた。二年生で一緒のクラスになってからは、もっと一緒にいる時間が増えた。お昼休みは私の席で一緒にお弁当を食べていたし、部活が終わったあとは毎日飽きもせず一緒に帰っていた。
学校でも帰り道でも、並んで歩くときは手をつないでいた。なんなら腕を組んでいたこともある。クラスメイトには「気持ち悪いくらい仲良いよね」とからかわれる。そんな言葉を聞いて、なぜか彼女は嬉しそうに笑う。
そう、ただ仲が良いだけの友達。
私はずっとそう思い込んでいた。
少なくとも、修学旅行のあの夜までは。
彼女と同じクラスで迎えるはじめての修学旅行。最初に思い出すのは、自由活動で巡った観光名所とか、川下りのアクティビティとか、みんなで食べた老舗の和食屋さんでのお昼ごはんとか、そんなありきたりな景色じゃない。
とにかくずっと近くにいた、彼女のこと。彼女の横顔、はしゃぐ声、私の腕に伝わる体温。そんな感覚がずっと脳裏にこびりついている。
バスの中では六時間ほどずっと隣に座っていて、とにかく喋って、こっそりおやつを食べたり、一緒に動画を見たりして過ごした。ホテルは違う部屋割りだったけど、そんなのお構いなしにみんな部屋を移動していたので、彼女は私たちの部屋に遊びに来て、一緒にトランプで遊んでいるうちにそのまま消灯を迎えた。
「お邪魔しまーす」
彼女は小声でそう言って、さも当然のように私の布団をめくり中に入ってくる。
「ここで寝るつもり?」
「それもありかも」
「狭いから無理」
「ひど」
そう言いながらも私は優しいので、二人で入れるように体の位置を少しずらして場所を作ってあげる。彼女の体温は私よりも高くて、微かに汗の匂いがした。
「なんで汗かいてんの?」
「暑いじゃん」
「暑いなら出な」
「やだ」
彼女はそう言って、まるで抱き枕のように私の身体を抱き抱えた。そんなことをされたら私まで汗をかきそうになり、耐えきれずに彼女を引きはがす。結局、布団の中で二人してあおむけになる体制で落ち着いた。
電気を消して真っ暗になった部屋の中、しばらくは何人かのグループで盛り上がっていた話し声が、先生の巡回で一度しんと静まり返る。それから、小声でこそこそと話していた声が、また一人、また一人と、少しずつ減っていく。
私は寝返りを打って、隣に寝転がる彼女のほうを見た。彼女も私のほうを向いていて、向き合う形になる。真っ暗な中で目が慣れてきても、彼女の表情はよくわからない。
「寝た?」
小声で声をかける。
「寝てない」
返事が返ってくる。
ふと思い立って、声をかける。
「ねえ、教えてよ」
「ん、何を?」
「好きな人」
さっきまで何度か他の子にも聞かれていたけれども、彼女はずっとはぐらかし続けていた。だけど今、私相手だけなら教えてくれるかもしれない。そんなに知りたいわけじゃないし、ただの話題、というか好奇心だけど。
私の質問を聞いた彼女が、にっと口角を上げたのがかろうじて見えた。
「……あなたが好き」
「えぇっ!」
小さな声の告白に対して思わず大きな声を上げてしまい、私は慌てて口を抑えた。そんな様子を見た彼女はお腹を抱えて、声を出さずに笑った。
「驚きすぎ」
「冗談?」
「まさか」
彼女が私のほうに体を寄せてきて、私の手に指を絡めた。急に距離が縮まって、暗闇の中で突然彼女の存在感を感じるようになって、鼓動が高鳴っていく。にこにこと恥ずかしそうに笑って、私を見上げる表情が目の前に見える。私たちと世界は布団で遮られていて、私と彼女の間を遮るものは何も無い。視線のやり場に困って目を泳がせる私を見て、彼女はまた笑う。
学校でもたまに、これくらい近くで彼女の顔を見たことは何度かある。
それでも、なぜか、その夜に見た彼女の表情は特別に見えた。別に大して長くもない睫毛とか、それなのにぱっちりと丸くて大きな瞳とか、真っ暗でも微かに見える頬の自然な赤みとか、布団のせいで熱くなった空気とか、肌に張り付く髪とか、そんな彼女とこの世界を形作るひとつひとつの感覚が、私の思考を焼きつかせた。
「本当に好き、なの?」
小さな声で私が聞くと、彼女は照れくさそうに頷く。
「見る? 証拠」
「証拠って」
ふいに彼女の鼻先が私の鼻に触れ、次の瞬間、唇が重なっていた。
ほんの一瞬、瞬く間の出来事。それでも、たしかに彼女の柔らかい口づけの感触が、私の肌に残り続ける。当然、私には拒否する隙もなく、彼女のキスを受けてしばらく思考が停止する。
今まで誰かとキスなんてしたことない。
いや、あったかも? 友達とふざけてキスしたりとか。
でも、今のキスはそんな悪ふざけじゃない。友達同士の軽いノリでもなくて、もっと、何か意味があるような。じわりと唇に残り続ける彼女の感触が、そう感じさせる。
彼女はにこりと笑った。
「ほら、ね」
彼女がささやいた。
不意に指先で唇を触られて、鼓動が高鳴る。
今起きた出来事にようやく理解が追いついてくる。
そして、状況を理解すればするほど、私の心は混乱を極めて、心臓がどくんどくんと大きく脈を打つ。
どうしよう。
どうすればいい?
「ねえ」
思考停止している私に、彼女はいたずらっぽく視線を投げて、一方的に喋り続けた。
「気付いてなかったの? これだけアピールしてきたのに」
「え、あ」
今まで、記憶の中で「友達」としか認識していなかった彼女の行為が、全部そういう意味を持つ行為として書き換えられてしまう。
前までの感覚には戻れない。彼女の声色も、手をつなぐスキンシップも、ハグも、全部が彼女の好意に塗り替えられてしまう。
だから、今は彼女の指が私の指に絡むだけで、顔が熱くなって、心臓がうるさいくらいに動いて、背中に汗をかいてしまっていた。
「な、なんで、なんで私?」
ようやく回り始めた思考回路の中から、一番の疑問をぶつける。
「えー、可愛いし、何事にも一生懸命だし、素直だし、ピュアだし、可愛いし、あと良い匂いするし」
「う、もういい、もういいって」
すらすらと恥ずかしげもなく彼女の口から出てくる称賛の言葉に再び思考が追いつかなくなり、私は慌てて彼女の発言を止めた。代わりに、彼女はじれったそうに私に問いかけた。
「ねえ、返事は?」
彼女はぐいぐいと私に体を寄せて、じっと私を見つめる。
返事、の意味を一瞬理解できず、私の頭がまた思考停止する。
返事とは、彼女の告白に対する返事のこと。それはつまり、私が彼女の恋人になるかどうか決めろということ。
それは、今この時間だけで決めるべき軽い質問じゃないはずなのに、目の前の彼女は今この場で、私にYESかNOかの返事を求めている。そういうことらしい。
「だめ?」
私のパジャマの裾をきゅっと掴んで、彼女が不安げに上目遣いで私を見る。
暑い。彼女が吐いた熱っぽい吐息が首にかかる。眠たいのか、熱気にやられたのか、ますます思考が回らなくなる。
いいんじゃない。
どうせもう、さっきまでの私たちには戻れないのだから。
心の声がそうささやく。
「あ……えっと、いいよ」
私が言うと、彼女は目を大きく見開く。
「ほんとに?」
「ほんとに」
「やったっ」
彼女は小さな声でも大きな喜びを見せて、私にぎゅっと抱きついてきた。彼女の熱っぽい首元も汗でじっとりと湿っていて、必然的に彼女の体温がぴったりと触れた私の首元にも伝わる。まるで水の中にいるような気持ちがして、息が苦しくなってきた。
「ねえ、ちょっと布団から出よ」
「やだ」
彼女はそう言って、また不意打ちで私にキスをした。
「ちょ、っと……んっ……!」
さっきの口づけとは違って、今まで感じたことのない、ぬるりとした感覚が口の中に入ってきた。すぐに、彼女が私の中に舌を差し入れているのだと気づく。生まれて初めてのディープキスにどう対応すればいいかわからず、私は硬直する。彼女は何度か私の舌先を舐めた後、さすがに恥ずかしかったのか顔を離して笑った。
「なんでも受け入れるじゃん」
「いや、勝手にされただけだし」
「口開けたなら合意でしょ、っていうかもっと嫌がってよ、恥ずかしい」
彼女はそう言いながら、大きなあくびをして私の胸元に顔を埋めた。
「もうしばらく、このまま」
「マイペースすぎでしょ」
「いいじゃん、そういうとこも好きでしょ」
眠たそうな声で彼女が言う。私ももはや返事をする気力が無く、何も言わずに彼女の頭を撫でてみる。
「……まあ、好き、かも」
自分に言い聞かせるようにそう言うと、彼女はもう一度私に優しくキスをして、耳元で囁いた。
「好きにしてみせるから、私のこと」
その甘い言葉に、背中がぞくりと震えて、頬がかっと熱くなり汗がじわりとにじむ。あまりの熱にのぼせてしまいそうで、私はこっそり布団の端を上げて新鮮な空気を招き入れた。冷たい外の空気にさらされて、汗が少しずつ引いていく。気付いたら彼女は気持ち良さそうにすやすやと寝息を立てていた。
私は彼女を起こさないように気を付けて布団から顔を出し、真っ暗になって静まり返った部屋の天井を見つめる。
恋人が隣で眠っている。さっき恋人になった人。今までの思い出に映る、友達の私たちにはもう戻れない。明日からきっと私たちは、昨日までの私たちとは違う人生を歩んでいく。
それは良いことなのか、悪いことなのか。
今の私には、正直わからない。彼女だって、きっとわかってないと思う。わかってないけど、私にその好意を伝えた。それは紛れもない事実。
でも、彼女にとってこの告白は、勢いとかその場のノリとかじゃなくて、たぶん、ずっと、ずっと私の隣で、秘め続けていた気持ちなんだと思う。
そう考えると、私の返事は軽率だったのかもしれない。
でも、彼女のことは、好き、だと思う。ただ、私の好きは、きっと彼女のそれほど大きくはないと思う。でも、この気持ちは、手放してしまうにはあまりにも愛おしすぎる。
――好きにしてみせるから
今までに聞いたことがない雰囲気の彼女の声色が、頭の中でこだまする。
そうやって考えたあれこれが、川のように頭の中をさらさらと流れていくうちに、気付いたら私は意識を失っていた。
もう一度、自分に問いかけてみる。
彼女の気持ちに気付いていましたか?
いいえ。
本当は、気付かないフリをしていました。
だって、もしその気持ちが本当だとしたら、私たちは今までの私たちではいられなくなってしまうから。
百合小説短編集 ななゆき @7snowrin
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