こんな私を笑ってくれ

 笑えよ。

 私が転びそうなときに支えてくれる人なんて、誰もいなかった。

 転ぶたびに指を指されて笑われながら生きてきた。

 起き上がるときに手を差し伸べてくれる人なんて、誰もいなかった。

 彼女だって、絶対そうだ。

 別に友達になんてなろうとしていない。何も特別な関係じゃない。私を笑う人間の一人にすぎない。私みたいな人間が面白くて、暇つぶしに使っているだけ。仲良くなりたいわけじゃない。一緒にいたいわけでもない。

 ただ面白いだけ。だから、いつも私を見て笑っているんだ。

 それなら、もっと笑えよ。


 馬鹿みたいに強い雨が降っていた。開け放たれた窓から流れ込む、春の終わりを惜しむように生暖かい空気が、湿り気をおびて肌にまとわりついた。

 不意に家のインターホンが鳴る。階段を早足で降りて玄関のドアを開けると、家の中に飛び込む雨の音が一段と強まった。

 玄関先には、大きな黄色い傘をさして、セーラー服を着た彼女がにこにこと満面の笑みで立っていた。

「海行こ!」

 そして、雨音に負けない声で言った。

「今から? 正気?」

 私はまだ制服を着替えてすらいない。というか、そもそもさっき家に着いて、自分の部屋に鞄を置いてきたばかりだ。いくら彼女の家が私の家に近いとはいえ、こんなに早くやってくるとは、彼女は鞄を置いた瞬間に家を出たに違いない。

 そして、そこまでして、この雨の中を海まで行くと言っている。

 正気の沙汰じゃない。

 だけど、彼女は私の返事を無視してぐいと私の手を引いた。私は慌てて玄関から傘と家の鍵をひったくり、かろうじて戸締まりをしてから彼女に続いた。


 私たちの家から海は近い。十分も歩けば砂浜が見えてくる。だから、私たちにとって海は特別なものじゃない。生まれてからこの年まで、身近に海と砂浜がある生活をしてきたから。だから海に行くということは、せいぜい近所の公園に遊びに行く程度の意味しか持たない。

 楽しそうな彼女があまりにも早足で歩くので、私たちは家を出てものの数分で砂浜の入口に辿り着いた。

 どんよりと暗い雲模様の下、海は何かに煽られるように荒れている。わざわざ天気の悪い日に海なんて来ないから、こんなに波が立っている様子は初めて見た。

 彼女はおもむろに傘を畳み、靴を脱いで靴下を脱ぎ始める。ぼたぼたと彼女の身体を叩く雨粒がセーラー服に吸い込まれて、彼女の肌と黒いキャミソールを写していた。

「ほら、早く!」

 雨に濡れた砂浜の中へばしゃばしゃと走り出した彼女が、嬉しそうに手を振る。

 何よ。何なのよ。

 ワケもわからず大雨の中連れ出されて、こんな汚れそうな砂浜を、制服で歩き回るなんて。どうかしてる。

 そのまま踵を返してもよかった。

 それでも、海に向かって走る彼女の背中が、なぜか怖かった。

 雨はさっきよりも強くなっていた。

 世界を縦に裂く大粒の雨の中で、彼女の姿が薄らいで消えていくように思えた。

 友達なんかじゃない。ただのクラスメイト。

 それなのに、なんで。

 なんで、私の中に、こんな嫌な予感が渦巻くのか。

 なんで、私は、彼女が消えてしまうことを怖がっているのか。

 なんで、どうして。

 雨に濡れたせいか、それとも恐怖のせいか、身体がぶるりと震える。

 気がついたら、私もその場に靴を脱ぎ捨てて、靴下も脱いで、砂浜の上へと足を踏み出していた。

 指と指の間から粘土のようになった砂が押し出されてくる。ずっと体重をかけているとそのまま足が飲み込まれてしまいそうで、私は駆け足気味で彼女の元へと向かっていく。降り注ぐ雨が作るごうごうというノイズの向こう側、おぼろげに見える彼女は私の気配に気づいて振り返った。着衣水泳をしたような恰好で、ぺったりと頭の形に張り付いた彼女の髪の毛の先端から、いくつもの水滴が連なって注ぎ落ちている。

 彼女はそんなものは全く気にも留めずに、私に向かって大きく手を振り、何か言葉を発した。

 だけど、私にわかるのは彼女の唇が動いていたことだけで、その声は雨音に混ざって消え、私の耳まで届かない。

「なんて言ったの!」

 私は走りながら思い切り叫ぶ。気づいたら傘を捨てて、全力疾走していた。顔に雨粒が当たって痛む。すぐに体中に制服が張り付き、水を吸って重たくなったスカートが太ももに絡まった。

 彼女が、また何かを叫ぶ。

「――き――っ!」

 辛うじて声は聞こえるが、何を言っているのかわからない。

 毎日毎日、耳が痛くなるくらい聞いていた声なのに。夜、寝るときになったら脳裏にこだまするくらい、聞き慣れた声なのに。今だけ魔法にかかったように聞き取れない。

 なんで。どうして。

 雨が強くなり、海が雨粒に叩かれる音が、滝のような音になって鼓膜を叩く。

 もっと大きな声で、伝わるように話してよ!

 私の叫び声も、まるで初めからそこに無かったかのように、雨の中に吸い込まれて消えてしまった。

 夢中で足を動かす。少しでも彼女に近づくために。巻き上げられた茶色い砂が宙に舞う。

 あと十歩。黒い海と鼠色の空が作る曖昧な水平線を背に、彼女が私を見る。彼女との距離が縮まっていく。

 あと五歩、四歩。

 残り三歩の時点で、私は大雨を吸い込んで柔らかくなっていた砂に足を掬われた。バランスを崩した瞬間、白いセーラー服が泥塗れになって、お母さんにこっぴどく叱られる未来を想像した。

 その未来は現実にはならなかった。

 すぐに目の前から両腕をぐいと引っ張られて、私は二、三歩足を踏み出して、なんとか姿勢を保った。

 顔を上げると、目の前には、躓きかけた私を両手で支えながら見下ろす彼女がいた。

 豪雨の音にかき消されながら、あはは、と彼女の笑う声が聞こえる。

「何がおかしいの」

「なんてー?」

 雨はさらに強くなっていて、もはや耳元で叫ばないと私たちはまともに会話できないほどだった。雨粒が海面を叩く音に消えた私の声を聞こうと、彼女が叫びながら耳を私に向ける。私は負けないくらい、彼女の耳元で思い切り叫んだ。

「何がそんなにおかしいの!」

 そうすると、彼女はお腹を抱えて笑った。

 今度は彼女が後ろに倒れそうになって、私は手を伸ばす。雨水をたっぷりと吸い込んだ彼女のセーラー服の袖が、肌に張り付いてシワを作る。

「えっ」

 今度は私の腕が掴まれて、彼女に引かれるまま、私たちの身体は砂浜の上に投げ出された。黒い砂が制服の繊維に入り込み、ざらざらと音を立て、背中が無数の雨粒に叩かれる。

「ちょっと! 何して」

 私の抗議の声を遮って、彼女は体を起こして私にキスをした。

 濡れた唇の冷たさに反して、頬がかっと熱を持つ。

 その瞬間、雨脚がふっと弱まった。

 唇を離した彼女は、今までに見たことがない笑みを浮かべていた。さっきまで重ねていた赤い唇を、私の耳元に寄せてくる。

「好きだよ」

 何も遮るものが無いくらいの近さ、耳元で彼女のかすれた声が聞こえた。

 背中に回された彼女の腕に押されて、私は彼女に覆いかぶさるように上から抱きしめた。私たちの身体がぴたりと重なり、どろどろに濡れた制服が、髪の毛が、肌が、私たちをひとつにしようとする。彼女がいつも使っている香水と、汗と、潮の香りが混ざって私の鼻を突く。

 必然的に彼女の耳元が私の目と鼻の先にあって、私はその耳へ無意識につぶやいた。

「溶けてしまいそう」

 私の言葉を聞いて、彼女はまた笑った。

 私もつられて笑った。

 雨がさらに弱まる。

 私たちの笑い声の遠くに、波が砂浜をさらう音が微かに聞こえた。

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