滅亡へと向かう船

 横から誰かに指先で腕をつつかれて目を覚ます。

 青い照明で暗く照らされて、飛行機のように並ぶ客席。私の座席は左の窓際からひとつ隣で、窓際の座席には私の恋人が座っている。丸く切り取られた窓は飛行機のそれよりずっと小さく、その向こうはとても暗い。夜のような暗さじゃない。黒い。黒く塗りつぶされている。

「見て」

 私を起こした当本人である彼女が言う。

 夢見心地だった耳に、後ろのシートから子供がはしゃぐ声と、アナウンスが聞こえてきた。

『左手に見えておりますのが、国際プロジェクトにより建設が進められております、惑星間移住者向けの火星コロニーです』

 そのアナウンスを聞いて、ようやく私は目を覚ました。

 これは飛行機じゃない。旅客宇宙船。

 私は彼女と一緒に宇宙旅行に来ている。名目は、二十歳の誕生日記念旅行。違う大学に進学してなかなか会う機会が無かった私たちが、長期休暇にようやく当選した、人数限定の火星遊覧宇宙旅行。その目的地に到着するまでに、どうやら寝てしまっていたようだ。

 隣に座る彼女の体越しに、窓の向こうを覗き込んだ。遠目に見ただけだと黒いだけ宇宙空間、その下の方を覗き込むと火星の茶色い地表が見えた。だけど、ぱっと見ただけではどれがコロニーなのかわからない。さらに目を凝らしてよく見ると、白くて丸い塔のような建造物がぽつぽつと建っていることに気付く。

「あれのこと?」

 窓ガラスに指先をくっつけて私が聞くと、彼女は頷いた。

「大部分は地下にあるんだって」

「へえ」

 人工重力装置が生み出す1.1Gの引力に体が押さえつけられる感覚と、窓から見える火星の地表の傾きが寝起きの脳にじわりとダメージを与え、若干の吐き気を覚える。

「酔い止めちょうだい」

「ん」

 彼女は小さな白鳥色のポーチからピルケースを取り出した。彼女の手から受け取った白い錠剤二粒を口に放り込んで、与圧で少し膨らんだペットボトルの水を胃の中に流し込む。

「明里はさ」

 気分が少しだけ落ち着いて、窓の外をじっと見つめる彼女に声をかける。

「住みたい? あそこに」

 私のほうをちらりと一瞥してから、彼女は静かに首を振った。

「鈴奈は?」

 目線は窓の外に向けたまま、同じ質問を返してくる。

 私は明里と一緒にいたい。

 そんな本音はなぜか喉元に引っかかって、私は代わりの言葉を探してしまった。

「……私は地球が良い」

 私が言うのとほぼ同時に、明里は私の肩を手でぱしんと叩いて笑った。

「嘘、こだわりなんて無いクセに」

「ごめん」

 なんで謝るの、と彼女はまた笑って、窓の外に目を向けた。


 地球はもう持たない。私たちは、子供のころから何度もそう言われて育ってきた。

 今の日本人の平均寿命が(仮にいくつもの人命維持装置とたくさんのチューブで繋がれてもいいのであれば)百十四歳。一方で、人類にとって地球が住めない環境に変化してしまうまで、およそ六十年、もしくはもっと早いとも言われている。

 私たち、いや、私たちのお父さんやお母さん、あるいはもっと前に生まれていた人たちが、地球に深刻なダメージを与えてしまった。「持続可能な社会」という言葉が謳われた時代もあったと学校で習った。けれども、今はもう、誰も地球に残ることを考えていない。地球を守ることなんて考えていない。

 いかにして、ゆるやかに死んでいく地球から離れるか。それが、現代の人類共通の課題だった。

 正直、難しいことは私にはわからない。地球にとって本当の問題が何なのか、なぜ今なお戦争が起きるのか、今から何か打つ手が無いのか。それを考えるのに、私たちはあまりにも若すぎた。

 ただ、ひとつだけわかっていることがある。

 彼女だけは、私と違うことを考えているということ。

「私は、地球で死にたい」

 明里がぽつりと言う。

 何回も聞いた言葉。たぶん、高校で知り合って、付き合う前から言っていたと思う。

 私たちは物心がついた時から、地球で暮らすことを「あきらめさせられて」いた。地球がいかにして今の状況に陥り、今後どのような結末を辿るのか、学校で耳にタコができるほど聞かされてきた。そうすると、大半の子供が地球を捨てるという未来を選択するのは想像に容易い。研究者になって大型宇宙ステーションに定住すること、あるいは職に困らない知識やスキルを身につけ、火星や月に移住すること。誰もがそうやって地球を「あきらめる」ことを前提とした夢を持っていた。

 だけど、彼女は違った。

 高校時代の進路調査で、将来の夢を書く欄をいつも空白にしていたことを、今でも覚えている。

 彼女の望みは、ただ地球が寿命を迎えるのと同時に、自身も寿命を迎えること。

 地球には、巨大地下シェルターの構築や、環境悪化を食い止めるための研究に取り組む数少ない人たちもいる。でも、彼女はそこまで頭が良くないし、そのために勉強をしたいようでもなかった。

 ただ、それまで、今までの人がそうしてきたのと同じように、生きていき、地球と一緒に死ぬこと。

 それだけだった。

「私のわがままに、鈴奈を巻き込むつもりはないよ」

「……わかってる」

 私にだって、別に夢なんて無かった。

 なりたいものもない。行きたい場所もない。ただ、明里の隣に居られれば、それで良かった。

 でも、彼女がそれを望んでいないことを、私は知っていた。

 何度も説明したはずなのに、ついに私の思いは彼女に届かなかった。と言うより、私が寿命を全うせずに死ぬことを、彼女が強く拒んでいた。隣に居たい。明里と一緒に居たい。そんな私の我儘よりも、私に死んでほしくないという明里の我儘のほうが何十倍も強かった。

 結局、私たちは答えを得られないまま、二人でゆるやかに滅亡へと向かっていた。

「火星に住みなよ」

 窓の向こうを見つめたままの彼女の表情は見えない。

 私はどう答えればいいかわからず黙り込む。

 しばらくの沈黙。子供のはしゃぐ声。

――あそこに住むの?

――そうよ、パパとお姉ちゃんも一緒にね。

 朗らかな声で母親が言う。

「ごめん」

 明里はそう言って私の手を握った。

「なんで謝るの」

 ぎゅっと手を握り返す。

 私たちは、ゆるやかに滅亡へと向かっている。

 その終着点でも、私たちはこうして手を握っていられるのだろうか。

 次の瞬間、機体が静かに傾いて、窓の外の景色がゆっくりと回転していく。丸い火星の地平線の向こうから、白く丸い太陽が顔を覗かせる。

 人工重力に逆らって、彼女のチョコレート色の髪の毛がふわりと宙に舞う。

 その髪の毛の隙間から差し込む太陽の光に、私は目を細めた。

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