第3話

「そっか」

 空っぽの箱をじっと見つめる。その横顔をじっと見つめるわたし。安堵の奥に垣間見えた、少しばかりの物寂しさ。それでもはにかんで「良かった」と言って見せる彼。

「フフッ」

 わたしは可笑しくて、つい笑ってしまった。

 だって彼はまだ、気づいていないから。

「あちゃ……。どうやらボクは、嫌われちゃったみたい」

「そうかもね、フフ」

 わたしの笑みに、恥ずかしそうに頭を掻く彼。

「ウソ。そうじゃないよ、きっと」

「え?」

「ほら見て、あそこ」

 そう言ってわたしは、ベンチの下、ちょうど支柱となる脚の近くを指差した。

 暗色のコンクリート。付近には、誰かが食べ散らかしたであろうスナックの破片がちらほらと。その中の一つが、雨風の無い空間にもかかわらず、セコセコと微動を繰り返している。

「あっ」

「ね、いるでしょ?」

 まるで、ご馳走に大はしゃぎする幼子おさなごのように。そこには先程の蟻が生き生きとした様子で体を動かし、食事にありついていた。

 再び、彼と目が合う。後はそっとしておいてあげよう。そう以心伝心をしたわたしたちは、お互い無言の中、深く頷き合った。


「そろそろ行こっか」

「うん、そうだね」

 からの虫籠を首から下げると、「今度はボクが」と言って、わたしの傘を手に取る彼。ごく自然な動作。それからは他愛のある会話を続けながら、わたしたちはゆっくりと帰路を歩き続けた。


 この日に起きた出来事。

 その全てがわたしには新しくて、不思議で。

 だけれどとても、温かくて……。


 彼の優しさに。

 これからも、触れ続けてたい。


 その時初めて。

 わたしは、自分が欲張りな人間なのだと自覚した。



 ◆



「ねえねえお母さん、これ見て」

「うん? どうしたの?」

「今日ね、国語の授業でを勉強したんだ。それでね、みんなでオリジナルのことわざを作って見ましょうって先生が言ってね」

「そうなんだ。何だか面白そうね」

「うん、楽しかった!」

「それで、優輝は何を作ったの?」

「ジャッジャジャーン!」


 ある日の夕食どき。ランドセルを開いた息子が、中から取り出した画用紙を目いっぱい掲げる。真っ白な紙の上に描かれた、黒の太いマジック。そこには聞き覚えは無いが、何故か見覚えのあるような、そんな二つの単語の組み合わせがあどけない文字で羅列していた。


 ‟アリに虫かご”


「見て見て。どうかな? お母さん」

「あら、いいんじゃない? よく思いついたわね」

「これってあれでしょ? ‟馬の耳に念仏”とか、‟猫に小判”とかと同じ意味よね?」

「それもあるよ。でもホントは、別の意味もあるんだ」

「別の意味?」

「うん」


「困っていたら、手を差し伸べる」

「でも決して、強制はしない」


「この前、雨の日にね。工事中の道路の脇で、あたふたしているアリさんを見つけて。しかも傍には公園も緑も何にも無くて。それで思いついたんだ」


 私は黙ってしまった。幼い息子にまんまと説き伏せられてしまったかのように、言葉が出てこなかった。

 それはエゴではなく、寛容でいて。先日懐古したあの日のように、温かくて……。

 優しさのカタチは様々。まだ九歳だと言うのに、これほどまでの慈愛を持ち合わせているなんて。

「優輝は優しいね」

「ホント、素敵なことわざ」

 嬉しくなった私は、息子をギュッと抱きしめた。




 ガチャ――。

 夜分遅くに開いた、玄関の扉。

「おかえり、あなた」

「ああ、ただいま。ごめん遅くなって」

「ううん、お仕事お疲れ様。夕飯食べるでしょ?」

「うん。ありがと」

 時計の針は、既に午後十時を回っていた。


「あれ? ママ、まだ食べてなかったの?」

「うん。今日は一緒に食べたいなって思って」

「そっか。なら余計に悪かったね」

「いいのよ。さあ、食べましょ」

 久しぶりの、夫との二人きりの夕食。自然と、同棲していた学生時代の頃を思い出す。

「優輝はもう寝ちゃった?」

「うん。九時過ぎにはもうぐっすり」

「そっか」

「ここの所ずっと、優輝に父親らしいこと、してやれてないな」

「大丈夫よ」

「え?」

「だって、あなたの子だもの」

「なにそれ、どういう意味?」

「フフッ」

「あの子はちゃんと、あなたの素敵な部分を受け継いでるから」

 私は含み笑いを見せ、それ以上は語らなかった。


「よくわからないけど……。でも来週からは仕事落ち着くと思うからさ。今度の日曜、みんなでどこか出かけようか」

 そう言って夫は、スマホで天気予報をチェックし始めた。

「ああ……。でも、天気が良くないな。曇りのち雨だって。午後から天気が崩れるみたい。遊園地とかどうかなって思ったんだけど」

「じゃあさ、公園にでも行かない?」

「ちょっとママ、今俺の話聞いてた? 天気悪いんだって」

 スマホの天気画面をかざして見せる夫。けれど私はその時、いたずら心が止められず、つい言ってしまった。


 あの、雨の日。

 あの時の、「彼とわたし」

 それを今度は、夫となった「あなたと息子」の構図で見たくなったのだ。


「外食はするとして……あとは」

「遊園地はやめて、無難な映画とかにしようか」

「…………」

「ねえママ、聞いてる?」

(……フフッ)


 もう少しだけ。この空想の中に留まっていたくて。私は席を立ち、無言でキッチンへと向かった。


「あれ?」

「ちょっと」

「ママ?」


 そんな私のことを。夫はずっと、キョトンとした表情で見つめ続けていた。




 終

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蟻に虫籠 七雨ゆう葉 @YuhaNaname

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