第2話

「ねえねえ」

「ん? なーに」

 わたしの声に反応し、振り返る少年。徐々に強まる雨脚あまあし。その一滴ひとしずくが、濡れそぼる彼の髪から額へと伝い、長いまつ毛の先でキラリと飛散した。

「それ。ありさん入れても、意味ないと思うよ。だって蟻さん、カラダ小さいから。簡単にカゴから出られちゃうよ」

「そうだね」

 即答で返って来た、彼からの同調。淀んだ灰色の空とは裏腹、曇り一つ無いその四文字に、わたしは驚きを隠せなかった。ここでは「そっか」「しまった」「確かに」といった返答が、少年味しょうねんみ全開の所作と共に返ってくるものだと、そう予想していたから。

 なのに彼はその時。ニッコリと笑顔を見せ、そして、流れるように答えて見せた。

「意味はあるよ」

「えっ?」

「これは、雨宿りをさせてるんだ」

「雨宿り?」

「うん」

「もし嫌に思うのなら、この屋根の隙間から好きに出て行けばいい。選ぶのはこの子の自由」


「ここにいても、いたくなくても」

「それはこの子が、自由に決めていいんだから」


 彼の言葉を。笑顔を。わたしは今でも鮮明に覚えている。この広い世界で、これほど微細な生き物に対し、注がれた慈愛。衝撃だった。一辺倒に主観を押しつけるのではなく、自由も担保してあげるという行き届いた発想。初めての感覚だった。


「キミ、何年生?」

「三年生だよ」

「中学?」

「違うよ。そんなわけないじゃん」

「フフッ、だよね」

 思わず笑みを零してしまうわたし。あまりに達観していて、疑いたくもなる。すると意外にも彼は、わたしに合わせたように頬を綻ばせた。

 あどけない瞳。柔和な頬。艶のある唇。思考とは真逆の、年相応の溌溂はつらつとした輝かしさ。

 同じ九歳が間近で見せたギャップに。わたしの心音はその瞬間、弾ける雨粒と共に高らかとアンサンブルした。


「これで安心、ね」

 だから同じセリフを、今度はわたしの方から。「えっ?」と驚いた様子の彼。勝ち誇ったように距離を詰め、わたしはさらに傘を近づけた。築き上げた虫籠と傘によるダブルの布陣に、満面へと変わる彼。

「ねえ」

「うん?」

「帰ろ」

「うん」

 温度を持ち始めたこのキモチを、悟られたくなくて。最小限にとどめた誘いの言葉。けれど彼は、快く応じてくれた。


「もう、風邪ひいちゃうよ」

「これくらい大丈夫だよ」

「強がっちゃって。お母さん、きっと心配してるよ」

 わたしと彼と、そして彼。三者で進む道中。その間に彼の毛束の数がより太く、少なくなっているのがわかった。

「あっ、あそこ」

 ちょうどその時だった。偶然通りかかった屋根付きのバス停を見つけたわたしは、慌ててその場へと傘を誘導させる。

「はいこれ。とにかく拭いて」

 そう言ってわたしは、ポケットから白いハンカチを差し出す。生地はナイロンだったか、ポリエステルだったか。どうしてタオル地を選ばなかったのかと、朝の支度に軽く後悔を覚えた。

「ありがとう」

「ううん、やっぱり風邪引くといけないから」

 女性からの親切を無下にはできない。そう判断したのか、渋々ハンカチを受け取った彼。顔から首、そして腕に付着した水気を拭いながら、彼はわたしに向け「優しいね」と付け加えた。

「優しいのは、キミだよ」

 すかさずの反論。だって、自らを省みずに、ここまでして見せるんだから。

「そんなことないよ」

「ううん、ある」

「そうかな」

「うん。だってほら」

 ささやかな言葉のラリーの中、わたしは例の虫籠を指差した。


「「あっ」」


 バス停のベンチの上に置かれた虫籠。その箱庭を見つめる二人の声が、計らずもシンクロする。


 気づけばいつの間にか。

 籠の中にいたはずの蟻は、既にいなくなっていた。


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