蟻に虫籠

七雨ゆう葉

第1話

 右手には日傘、左手には買い物袋を手に。一人、昼下がりの住宅街を歩く。頬をつたう汗。首筋へと浸透する不快感。ああ、今すぐハンカチで拭いたいのに。塞がった両手。はあ……暑い。もう一本、腕が欲しいくらい。

 溜息へと昇華させたそんな狼狽心は、容赦ない蝉の悲鳴にかき消され、照り付ける太陽に跡形も無く焼き尽くされていった。


 泳ぎ疲れた魚のように、ゆらゆらと辿たどる帰路の途中。

「わ! 冷たっ!」

 通りがかった近所の公園で、戯れる男児たちの声にふと足が止まる。

「ハハッ。ちょ、やめろって!」

 霞んだ炎天下の空気に、舞い上がる微細な水の粒子。濡れた髪に、肌の透けたTシャツがはためく。

 息子と同い年くらいだろうか。公園の一角にある水飲み場で、三人の子どもたちが、彼らなりの暑気払いに興じていた。

 微笑ましい夏のワンシーン。散らかった水場の前には、可愛らしい虹が映し出されている。

 けれど私は、その七色の先。ベンチの上に置かれた何てことない小さな虫籠むしかごに、自然と目を奪われていた。

「なつかしい……」

 懐古に浸り、無意識に漏れた声。

 私はその時。九歳当時の、「ある日の記憶」を思い返していた。




「風邪ひいちゃうよ」

「うん。でも大丈夫」


 思い出される過去の会話。

 その日は雨が降っていた。

 彼と初めて出会った、あの日。

 それは、今からもう二十年以上も前に遡る。


「ポツ、ポツ、ポツ……」

 当時、習い事のそろばん教室を終えた、ある初夏の帰り道。わたしの退室に合わせたように振り出した雨。けれど今朝の天気予報を参考に傘は携帯していたため、特段問題は無かった。

 住宅地、住宅地、歩道橋、住宅地と、同系色の道をパズルゲームの如く歩き続ける。変わり映えしない景観と、何処までも続くアスファルトの匂い。だがその濃度は途中から、ある場所を起点に湿った草木と土の匂いへと上書きされていった。


「ポツポツポツポツ……」

 街路樹に囲まれた、とある公園。既に人気ひとけなど無く、砂上を弾く水の音だけが大手を振ってはしゃいでいる。

 そんな殺風景な敷地のど真ん中で。傘もささず、ポツリと。一人の少年がしゃがみ込み、鍵っ子のように佇んでいるのが見えた。

 背丈はわたしより、少しだけ低い。同い年くらい? 小学何年生だろう。もしかして、迷子なのかな。

 心配になり駆け寄って行くと、彼は何故か、首からからの虫籠をぶら下げていた。こんな天気の日に……どうして。

「ねえ。何してるの?」

「うん、ちょっと」

「風邪ひいちゃうよ」

「うん」

「でも大丈夫」

 そう言って、未だ立ち上がろうとしない彼。何を、強がって……。わたしは持っていた傘を分け与え、彼の頭上に咲かせて見せた。

 今思えば――。あれが異性との、初めての相合傘だったのかもしれない。


「よし、これで安心」

 その一言はわたしではなく、彼から放たれた。不思議な少年。何が安心なのだろう。だからわたしはもう一度、歩幅をり寄せ繰り返す。

「何、してるの?」

 雨音に重ね降らせた、当然の問いかけ。すると彼は、そっと二本の指の腹で一匹の小さなありを手に取り、そのまま虫籠の中へ入れて見せた。

 外観としては通常の仕様。だがそのかごの屋根は穴の荒い網目状になっており、隙間だらけだった。「フン、馬鹿な奴め」と、蟻にとっては鼻で笑ってしまうほどに軽薄。こんな籠城、にとっては痛くも痒くもない。

 

 なのに、彼は満足そうにしながら。ただ静かに。風変わりなその虫籠を、じっと見つめ続けていた。

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