怖い話『生霊』

寝る犬

生霊(いきりょう)

 今日、25年間生きてきて初めて、警察に職質を受けました。

 その話をしようと思います。


 事の始まりは一週間ほど前。

 最近ダイエットになりそうだと思って始めたブラジリアン柔術の稽古が終わり、くたくたになって帰った日のことです。

 一人暮らしの部屋でシャワーを浴び、ビールを飲んで、エアコンをガンガンにかけて大の字になって眠っていました。


 ふと、夜中に目が覚めると、体が動かない。

 これが世にいう『金縛り』かと、その瞬間はあまり怖さとかはありませんでした。

 でも視線だけは動くのであたりを見回すと、ベッドの上、大きく広げた足の間にかかっているタオルケットが人の形に盛り上がっています。

 それはゆらゆらと動いたかと思うと、私のお腹のお上にのしかかりました。

 Tシャツとパンツのみです。とっさに「レイプされる!」と思うと、一気に恐怖が襲ってきました。

 タオルケットが持ち上がり、そこから青白い左手が伸びてきます。

 予想とは違い、その手はどう見ても女性の手で、私の胸の上を素通りすると、ぎゅっと首を絞めました。


「……お前なんか、死んでしまえばいい」


 そんなか細い声が聞こえます。

 目の前がチカチカして「あ、このままではオチる」と思いました。

 そこでやっと金縛りが解けます。

 なんとか首を絞める相手の親指に手をかけ、肘をまわして、てこの原理で気道を確保。

 タオルケットに向かって左手を振ると、意外なことに「ガツン」と手ごたえがありました。

 まだ私の首を絞めようとしている腕を抱え込み、左足を振り上げて三角締めに極めます。

 左足首を右ひざの裏にフックし、思いっきり背中をそらせて締め上げると、「ぐっ」という短い言葉を残し、突然その女は消えました。


 息も荒く立ち上がり、電気をつけるといつもの部屋。

 周囲には誰もいません。

 やっぱり幽霊だったのかと鏡を見ると、自分の首に絞められた跡が赤くアザになっていました。


 翌日以降、その幽霊は私の前に直接姿を現すことはなくなりました。


 でも、部屋には毎日現れているようです。

 飾っていた花瓶が倒れて割れていたり、窓ガラスに赤黒い手形がたくさん残っていたり、鏡に『死』と書かれていたり……。

 試しにパソコンの電源を入れっぱなしにして部屋の中の様子を録画してみたところ、突然部屋の中央に浮かび上がった女性が嫌がらせをして、また消えるという映像が撮れていました。

 顔も何となく見えたのですが、まったく知らない顔です。


 一週間ほど経ち、さすがに精神的に参った私が、ジムのトレーナーに誘われたお酒の席で愚痴のようにこの話をしたのが今日のことです。

 最初は面白がって聞いていたトレーナーも、スマホにダウンロードしたくだんの動画を見ると顔色を変えました。

 結局「引っ越した方がいいんじゃないか」という程度のことを言われ、店の前でお別れしたのですが、駅に向かって歩き始めた私は、電信柱の影から私を睨みつける女の姿を見つけたのです。


 ただ、映像で見たのと違っていたのは、左腕をギブスで固め、吊っていたこと。

 それから、いつもの白いワンピースではなく、パーカーにサロペットというラフな服装だったことです。


「ちょっと! あんたさ!」


 酒が入っていたこともあり、いつもより大きな声が出てしまいました。

 女は「ひっ」と叫ぶと、一目散に逃げて行きます。

 ここ数日の部屋の惨状を思い出した私は、むかむかと腹が立ち「待てコラ!」と大声を出しながら追いかけました。

 すぐに追いつき、駅前で女を捕まえた私が問い詰めていると、騒ぎを聞きつけた警察が現れて、任意同行、職務質問という流れになった次第です。


 私の言い分は警察の方にも「まさか」と笑われたのですが、証拠の動画もあります。

 逆に女の方の言い分は、よくある話でした。


 彼氏であるブラジリアン柔術のトレーナーに、私が色目を使ったこと。

 最近彼氏が冷たいこと。

 私のせいだと思い、呪ったこと。

 生霊を飛ばしたのだが、凶暴な私に殺されかけたこと。


 などなど。

 私自身はトレーナーと何度か飲みに行ったくらいでそんな気もなく、こんな怖い彼女に付きまとわれるくらいならすぐにでもジムを変えるということを話して、女にも納得してもらいました。

 後で聞いた話ですが、あの女は実はトレーナーの彼女でもなんでもなく、ストーカーのようなものだったようです。


 人間、どこでどんな風に恨まれるか分かったものではありません。

 気をつけようもないことなので、最悪の場合に備えて、体は鍛えておくに越したことはないと思いますよ。


――了

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