ムッシュ・アンリのバイオリン

 今回は、皆さんにムッシュ・アンリを紹介いたしましょう。ムッシュ・アンリはこの町の音楽家で、彼は、少し、というか、かなりの完璧主義的で、無口な方です。これは、私が彼にバイオリンを届けに行ったときの話です。


 仕分けする段階で、郵便物の中にバイオリンケースがあったので、私はすぐにそれがムッシュ・アンリ宛だと気付きました。そして、私はバイオリンが繊細な物だと知っていたので、自転車には乗らずに、彼の家まで歩いていくことにしました。


 私は家に着きますと、家の扉の横に吊り下がったベルを鳴らしました。カラン、カラン。「すみません。郵便です」私は少し声を張り上げて言いました。すると、しばらくして「はい」と声が返ってきて、ドアが少しだけ開きました。


 「ボンジュール、ムッシュ・アンリ。あなたへのお届け物です」私はそう言ってバイオリンケースをその隙間から渡しました。ムッシュ・アンリはするすると器用に受け取ると、「ああ、ありがとうございます」と静かに言いました。それで私は「バイオリン、いつか聴かせてください」と言って、彼の家をあとにすることにしました。


 すると、閉まりかけたドアが開いて、「聴きますか?」と返ってきたのです。「いいんですか?」私がそう聞きますと、「入ってください」と彼は言い、ドアを開いてくれました。


 家の中は、何もかもキッチリと清潔に保たれていて、壁には時計が三つかかっていました。「よく整理されていますね」と私が言いますと、彼は口数は少なく「ええ、まあ」と答えました。そして、彼はバイオリンケースを静かにテーブルの上に置くと、丁寧に位置を微調整をしました。私には意味があるのか、よくわかりませんでしたが、じっとその様子を見ていました。


 ムッシュ・アンリは何も言わず、ケースを開けると、バイオリンを取り出しました。そして、ムッシュ・アンリはバイオリンを顎に挟みますと、サッと弓を構えて、目を閉じました。


 それから、ムッシュ・アンリは演奏を始めました。その音色の美しさと言ったら。ああ、皆さんに聞いてもらいたいものです。文字では伝えることができないことが、残念でなりません。


 ただ、これは不思議な話なのですが、ムッシュ・アンリは演奏中一言も発しなかったのにもかかわらず、彼の感情がありありと伝わってきたのです。表情は真剣なままなのに、喜びや、悲しみや、怒りや、切なさや、儚さなど、そういったありとあらゆる感情というものがストレートに伝わってきたのです。


 私は彼の音楽に聴き入ってしまい、気付くと1時間ほど経っていました。私は、そんなに長い時間経っているとは思いもよりませんでした。時間を忘れてしまうという表現がありますが、まさしくその状態で、そこにあったのは、ただムッシュ・アンリの音楽だけだったのです。


 彼が演奏を終えると、ゆっくりと瞑っていた目を開き、そして「お時間は大丈夫ですか?」と私に聞きました。それで、ようやく私は時間を思い出したものです。「ああ、もう行かなくては」私がそう言うと、「そうですか、わざわざすみません」と言いながら、私を玄関まで送ってくれました。そして、「それでは」とただそれだけ言うと、私たちは別れました。


 彼との会話はそのくらいしかありませんでした。しかし、その日もいくつか配達があったのですが、私の頭には彼の美しい旋律が流れていました。

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郵便配達員ジャック・ベルモンドとちょっと変わった住人たち 箱陸利 @WR1T3R

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