笑飢、鮫と龍

イッツァ ジャパニーズ侘び寂び

笑飢、鮫と龍

 ピッ、ピッ、ピッ。等間隔で電子音が鳴る研究室は、異様な熱気に包まれていた。脇にタブレットを抱えた白衣姿の男たちが、興奮気味に顔を見合わせる。

 彼らの輪の中心には、黒い卵があった。男たちの身長を優に超す、大きな卵である。「黒く巨大な卵」というだけでもなかなか奇妙だが、卵が収められた孵化装置からは夥しい数のコードが伸び、卵の奇妙さを更に際立たせていた。卵は不敵に笑うように、鈍く黒光りしている。

白衣姿の一人が額の汗をぬぐうと、肘が横の男のこめかみにぶつかった。しかし二人は視線も言葉も交わさず、食い入るように卵を見つめる。卵が揺動を始めてから七時間、とっくに日は落ちていたが、男たちは電気さえ点けずにその時を待っていた。

「あ」

 突然、孵化装置のガラス窓に顔を付けた男が声を上げた。

卵の頂点がひび割れたのだ。興奮は容易く緊張へと変わった。

 卵は左右に揺れ、みるみるとひびが入る。ピ、ピ、ピ、と電子音の間隔が短くなった。せわしない音が、全員の鼓動を逸らせる。小さく砕けた殻が、宙に飛び散った。一同は卵へ首を伸ばし、息を呑んだ。

 不意に静寂が訪れた。電子音が止まったのだ。しゅー、と音を立て、孵化装置の蓋が開く。

 そして「それ」は、ゆっくりと目を開いた。静かな、産声も上げない、とても静かな誕生だった。不遜にも胡坐の体勢で産まれた「それ」は、ぎょろりと部屋を一瞥した。男たちは身じろいだ。

不安、恐怖、驚き、安堵、重層的な感情を覗かせる人間をよそに、「それ」は二本の足で真っ直ぐに立ち上がった。体からぱらぱらと黒い殻が落ちる。よろけもしない、堂々とした立ち姿だった。男たちは驚きで口をぱっくり開け、「それ」を見上げた。そしてある者はカメラを構え、ある者は手早くタブレットを操作するなど、各々の仕事に取り掛かった。一様に笑みを浮かべて。

だから甲高い轟音が聞こえた時には、もう手遅れだった。浮かれきっていた彼らには、ガラスを蹴破り、孵化装置から降りた「それ」を止める術が無かった。

「それ」は彼らの間を無遠慮かつ悠然と歩き、壁に向かった。白衣の男たちは、既に身長二メートル近い「それ」に恐怖し、ただ目で追うだけだった。

「それ」が壁に触れた時、やっと一人が「止めろ」と叫んだ。近くにいた者が皆の視線を受け、顔を歪めながらも「それ」を羽交い絞めにした。しかし制止は少しの意味もなさず、「それ」が振りほどいただけで、男は床に叩きつけられた。男は短い呻き声を絞り出し、そのまま動かなくなった。口から吐かれた血が、白衣を赤く染めた。

 部屋が悲鳴で満たされた。全員が我先にと反対の壁へ逃げ寄った。もう誰も「止めろ」とは言わなかった。

 一方、「それ」は何かを確かめるように、鋼鉄の壁を何度か撫でた。そして壁から八歩下がり、助走をつけて壁を殴りつけた。

落雷のような凄まじい音がし、突風が部屋へ吹き込んだ。床や机に散らばった紙が一斉に舞い上がり、夜空へ吸い込まれるように、外へ飛び出した。

空いたのだ。鋼鉄の壁が。ただの拳一つで。「それ」は満月を背に、壁にべったりと寄りかかる男たち振り返った。「ひっ」と誰かが皆の怯えを代弁した。しかし「それ」は直ぐに向き直ると羽をはためかせ、夜空へ落ちていった。「早く電話しろ」と言う声を、後ろで聞きながら。

外へ出てすぐに、「それ」の目指す場所は決まった。足元に広がる木々とは異なる、光の集まる場所。街である。遠くから見える街の煌びやかさに、「それ」は生まれて初めて興奮と期待を抱いた。目的地の真上までくると、「それ」は高層ビルの屋上に降り、街を見下ろした。光で彩られた往来を、人間が行きかう姿が見えた。あまりの人間の多さに目を丸くしながら視線を動かすと、今度は電光掲示板に映る、自分より何倍も大きな人間に仰天した。また車や電車など、街の全てに興味を惹かれた。思わず「おー」と感嘆した。体に留めておくことが難しいくらい、「それ」は興奮していた。

だが街へ降り立って初めて抱いたのは、困惑だった。さっきまで楽しそうにしていた者たちが自分の姿を見た途端、血相を変えて逃げ出したからだ。「それ」は不思議に思い、人々に近づこうと足を踏み出した。すると人々も、同じ歩幅で後退した。つかず離れずの距離で、人々は「それ」を観察していた。自然と「それ」を中心とした、大きな円ができていた。

「それ」は心細さを抱いた。

 しかし一人だけ、自分を恐れない者を見つけた。その者は「それ」に見つめられても、全く視線を逸らさなかった。少し救われた気がして一歩踏み出すと、相手も歩み寄ってくれた。嬉しくなって歩調が早まる。その者の肌が青色で、酷く黒目がちで、鼻は潰れ、顎が鋭利に尖っており、他の人間とは明らかに異質なことなど、どうでも良くなっていた。

 ごん、と額を強打した。「それ」は勢いよく仰け反ったが、なんとか踏ん張った。そして額を押さえながら前を向くと、相手も額に手を置いてこちらを向いていた。「それ」はなんだか気恥ずかしくなり、照れ笑いをした。相手も全く同じタイミングで、笑みを見せた。

その瞬間、「それ」は不審さを覚えた。相手は顔を強張らせる。「それ」は疑念を確かめるように、両手を上げた。すると相手も同じように両手を上げたのを見て、確信した。あれは自分だと。「それ」の胸に大きな喪失感がこみ上げた。また他の人間は自分の異様な姿に恐怖しているのだと、幼いながらに理解した。本来いるはずの親もいない「それ」は、徹底的に孤独だった。寄る辺の無い気持ちになり、「それ」は無我夢中で走りだした。人々は「それ」を避け、道を作った。この時誰かがぶつかってくれていれば、多少はましな気持ちになったのかもしれない。しかしそのようなことはなく、「それ」は誰もいない道をひたすらに進んだ。

 息が切れるまで走ると身を隠すように、雑居ビルの間にある小路に入った。堆く積みあがったゴミ袋の隣に腰を下ろすと、肩に冷たいものが落ちた。間もなくして、雨が土砂降りになった。生まれて初めて目にする雨だったが、「それ」は少しの反応も示さずに項垂れていた。足元で水はけの悪いアスファルトが、水溜まりを作った。

「すんません」

 ざー、と降りしきる雨の奥で微かに声が聞こえた。

「すんません。あれ、電波悪いんかな」

「電波とか無いわ」

そんなやり取りが聞こえ上を見ると、ビニール傘をさした二人の若い男がいた。二人とも揃いの黄色いスーツを着ている。

「おお、聞こえとったわ」

片方の男が笑顔になった。しかしもう片方は顔を顰め、「こいつヤバいわ。やめとこうや」と笑顔の男に耳打ちした。だが笑顔の方は取り合わず、「この後暇やったら、お笑いのライブ来てください」と言った。当然「それ」には言葉が分からない為、呆然としていると、「お金はいらんので」と強引にチケットを握らせた。

「よっしゃ、チケットはけたわ」

「自費で買うのをはけたとは言わん」

「ええやないかい、そんなんは」

軽妙に言い合うと、去り際にチケットをくれた男が「これもやるわ」と傘を置いて行った。

 近くの劇場へ駆け足で向かう二人を見送りながら、でかでかと文字が書かれたチケットを大事に握りしめた。男の言葉もチケットの文字も理解できなかったが、初めて言葉をかけてもらえたことが「それ」の胸を熱くした。「それ」は立ち上がると、見様見真似で傘をさし、劇場へ歩を進めた。



「誰からチケットを買われました?」

 入り口で受付に聞かれたが、「それ」は黙って立ち尽くした。「あの、コスプレのお兄さん?」受付の顔に当惑が浮かんだ。

「じゃ、じゃあ、チケット貰っちゃいますね」

埒が明かないと思った受付は、「それ」の手からチケットを取ろうとした。しかし「それ」は腕を上げ、受付の手をかわした。「どうすりゃいいの」受付はため息交じりに嘆いた。

「駄目やで、チケットは渡さな」

入り口の奥からチケットをくれた男が現れた。「この人俺の客や」男は「それ」の手からチケットを取り、受付に渡した。「何で今度は逆らわないの」受付はぶつくさ言った。

「行くで」

 男に背中を押され、「それ」は劇場へ入った。瞬間、むせ返るような熱気が顔にぶち当たり、思わず目を細めた。細長くなった視線の先には、真っ黒な小さい部屋に、ぎゅうぎゅうに敷き詰められた人だかりがあった。その誰もが期待を浮かべて、橙色のスポットライトに照らされたステージへ意識を向けていた。各々会話やスマホなど、思い思いの過ごし方をしているが、散歩を待つ犬のように、忙しなさを隠せていない。街の人間たちとは明らかに違う熱量を、「それ」は感じ取った。

「すごいやろ」

 男はざわめきに負けないように、声色を大きくした。「俺は今からあそこですんのやで」男はステージを指さした。言葉は理解できなかったが、「それ」はこくりと頷いた。

「そやろ」

 男が満足げに笑うと、「はよ戻ってこいや」とステージ袖から声がした。男はほーい、と返すと、「わし、国島(くにじま)。覚えといてな」と言い残し戻って行った。

 間もなくして、軽快な音楽が流れ始めた。袖から出て来た司会者に、観客が割れんばかりの拍手を送った。司会者は意気揚々と話しだす。

オープニングトークが終わると、今度はテクノ音楽が流れた。司会者と入れ替わりで女性コンビが登場した。二人は「どうもー」と元気に挨拶し、センターマイクの前に立った。

二人のスローペースで独特の漫才は、観客を引き込み、あっという間に終わった。そして次に現れたコンビも、またその次のコンビも、あの手この手で観客を大いに笑わせた。

「それ」の手から傘が落ちた。目の前で繰り広げられる笑いの応酬に、圧倒されたのだ。この小さな箱は、自分が向けられたものと、真逆の感情で満ちていた。

呆気に取られたままライブは進み、巨漢のトリオが挨拶を終えると、激しいロックが響いた。一躍大きな拍手が鳴る。「ジャマイカケルベロスぅーーーーー!」耳をつんざく黄色い歓声が上がり、その喝采に押し出されるように、国島達が勢いよくステージに現れた。蛍光色のスーツが黒いステージに良く映えている。

国島は自信ありげにゆったりと拍手が収まるのを待つと、一転してマイクをロックスターのように鷲掴み、超高速の早口漫才を始めた。相方も国島のテンポに食らいつき、的確にツッコミを当てはめていく。超一流の卓球選手によるラリーのような、息もつかせぬ掛け合いに、観客は手を叩いて笑った。漫才が進むにつれて尻上がりに増える笑いは、波のように劇場をかき回し、やがて大渦となって観客を二人の世界に引きずり込んだ。「それ」も自然と体が前のめりになり、国島の一挙手一投足を目に焼き付けるように追っていた。トップギアで進む彼らの漫才は、言語理解を超越する程に、制御不能な量の笑いを生み出したのだ。

ふと二人が眩しく見え、「それ」は掌をかざした。皆を笑わせる橙に照らされた彼らが、途方もなく大きな存在に思えたのだ。

なんなのだ、この感情は。

頬を触ると、口角が上がっていた。

 もっとこの感情を知らなければ。

「それ」は本能的にそう思った。さっきから全身が熱くて、今にも発火しそうだった。居ても立っても居られなくなり、「それ」は国島の漫才が終わるのも待たずに、劇場を飛び出した。


    〇


「ありがとうございました」

 客の顔が見えないように、腰が元の形に戻らないくらい、深々とお辞儀をした。ぱらぱらと聞こえるまばらな拍手が、今日のウケを物語っている。耳も塞げばよかったかな。少しだけ後悔するけど、やったら変か。

底抜けに明るい出囃子が鳴り、私は逃げるように袖へ帰った。すれ違う次のコンビが大きな拍手に迎えられ、元気よく挨拶をした。出囃子の時点で私のネタより、拍手が多いのには流石にヘコんだ。もっと客は気を遣うべきだ。

 針を刺せば破裂しそうなくらい芸人が詰め込まれた楽屋に戻ると、端っこを陣取りスマホを点けた。二〇〇回。その数字についため息が漏れた。昨日上げた動画も世間様のお気に召さなかったらしい。一年前から上げ始めたメイク動画は、一時期二万再生を越えることもあったのに、最近は右肩下がりに人気を落としていた。

私はスマホを裏向きに置き、机に突っ伏した。ネタ合わせや雑談で騒がしい楽屋で、私一人だけが浮いていた。いや、多分自分に意識が向いているだけで、実際は気にもされていないと思う。なんかこの感じ、高校の休み時間に似ている。まあ、私なんて一人だったらこんなもんだ。

 ライブが終わるとさっさと荷物を片付け、いの一番に楽屋を出た。打ち上げに誘われたら面倒なので、見つからないよう姿勢を低くして出口へ向かう。

 でも出口前の掲示板を見て、自然と足が止まった。気付くと視線は新世紀のポスターに釘付けだった。ポスターの中では、大ブレイク中のコンビがきらきら光る涙をこぼしている。

 新世紀、正式名称『新世紀漫才頂上決戦』は毎年年末に行われる、漫才師の頂点を決める大会だ。優勝すれば一夜にしてスターダムを駆けあがれるこの大会は、漫才師のみならず、殆どの若手芸人の目標だ。ポスターには赤字で八月末締め切りと書いていた。この日付が近づく度、黒い塊のような不快感が胸に込みあがってくる。見ないふり、見ないふり。私は音を立てて唾を飲み下し、ドアノブに手をかけた。

劇場の外は中野駅から流れて来た群衆で賑わっていた。五月も半ばだけあって、ワイシャツの袖を捲ったサラリーマンがあちこちで見られる。彼らは足取り軽やかに、飲み屋街へ吸い込まれていった。たまに思うけど、明日も平日なのに飲みに行くサラリーマンは、明日もちゃんと仕事へ行くのだろうか。行ってるんなら、素直に感心する。

スーツ姿の雑踏にもまれながら駅前商店街へ出ると、着信が鳴った。スマホを見ると、マネージャーの桑原(くわはら)ほの香(か)からだった。「もしもし、ほの香―?」

「赤(あか)稲(いね)、あんたまたすぐに帰ったでしょ」

間の抜けた声を律する、低い声が聞こえた。どうやら穏やかじゃないらしい。「えっと、なんかまずかった?」恐る恐る返した。

「お客さんのアンケート、貰ってないよね。主催者さんが困ってるから取りに戻って」

いやいや、戻るなんてとんでもない。今戻れば飲み会に強制連行されてしまう。なにより今日のアンケートなんて見たくもない。

「ごめん、もう電車」

「嘘つけ。あんたの家、中野じゃん」

「今日は予定があんの」

苦し紛れに声を張ると、ほの香は大きなため息をついた。

「じゃあ二時間後、事務所に来て。主催者さんが届けてくれるそうだから。丁度伝えたいこともあるし」

「う、分かった」

とんだ世話焼きの主催者がいたもんだ、と思いながら渋々了承した。電話を切ると、「めんどくさー」と勝手に声が漏れた。横を歩くおばさんから不審そうに見られたので、何も言ってませんよ、って感じで咳払いをし、早足で中野ブロードウェイへ逃げ込んだ。



 時間ぴったりに事務所の会議室に入ると、パンツスーツを着たほの香が腕組をして座っていた。後ろで髪を縛った姿には、かなりの威圧感がある。

「おまたせー」

私はペコペコしながら、ほの香の向かいの席についた。机に積まれた紙が目に入る。

「あんたどうしてアンケート貰わないかなー」

呆れた口調のほの香に「だってみんな厳しいんだもん」と返した。

「そういう意見もネタに繋がるでしょ」

彼女がアンケートをこっちに押し出すので、仕方なく手に取った。

『面白かった』

『新しいスタイルでは無いが、安定した面白さがあった』

『次も楽しみにしてます!』

なかなか高評価だった。「でもお世辞でしょー?」と内心満更でもなく言いつつ、次々目を通していくと、

『退屈だった。ネタの中身が無いのだから、つまらないという言葉さえもったいないくらい、虚無の時間だった。赤稲あかね自身がこのネタに満足しているのか、甚だ疑問である。唯一褒められる点はコスメショップの店員という設定だ。最近この手のネタをする女芸人が減ったからやってやろう、という考えが見え隠れしており、その空き巣根性はあっぱれと言う他ない』

「なにこれ」

紙を持つ手がぷるぷる震えた。え?と向かいから身を乗り出したほの香が顔を曇らせ、「あいつじゃない?これ」と言った。「あいつか」私は苦々しく爪を噛んだ。

 あいつ、とは東京のお笑いライブに現れる名物客のことだ。二メートルを越える大柄でフードを目深にかぶり、マスクとサングラスを常備したあいつは、いつも劇場の後ろ端で笑い声も上げずにライブを観察している。ライブを笑い声で妨害する客より少しマシ程度の、いやーな客だ。

「そういえば今日のライブにもいた、気がする」

「気がする?」

「ネタ中頭真っ白だったから」

「あいつに気付かないってよっぽどだね」

 ほの香は小さく笑うと、「ま、あいつは特殊って言うか、みんなにこんな感じだから」励ますように声のトーンを上げた。うん、と頷いたけど、正直あいつの意見は芯を食っていて、無視はできなかった。鼻から大きく息を吐くと、どんよりした空気が広がった。

「えっと、不幸ついでにもう一つ」

 ほの香が私の顔を窺いながら言った。不幸ついでって何だよと思いつつ「ん?」と返す。

「東都(とうと)八丁目(はっちょうめ)横丁(よこちょう)が単独ライブに出てほしいって」

「東都八丁目横丁?詩(し)帆(ほ)が?」

怪訝な顔になった。と思う。「何で今更」呟くと、ほの香は分かんない、と首を振った。

「でもさ今の東都の人気を考えたらチャンスにはなるよ」

そんなのは分かる。分かるけど、それだけでは割り切れない部分もいっぱいある。二年前の詩帆との会話が、脳内で再生された。

しばらく逡巡したあと、

「出るよ」

と立ち上がって言った。何で私を呼んだのか、詩帆に確認してやりたかった。「じゃあ伝えとくね」ほの香はくっきり書かれた眉根を下げ、柔和な表情になった。私は「頼んだ」と手を振ると、会議室を出た。



 事務所から駅までの道中、散々な目に合った、ガムは踏むし、低いビルの窓から頭に水が降ってくるし、歌舞伎町を経由したのに誰にもナンパされなかった。それもこれも全部あいつのせいだ。あいつがアンケートに酷いことを書くから、私の運気が下がり災いを呼び寄せているんだ。今度あいつを見たら、文句の一つや二つや三つや四つ言ってやろう。



 新宿駅のJR西口改札は、通勤ラッシュが終わってもなお人でごった返していた。駅に用が無い人は、改札前を待ち合わせ場所にしないでほしいものだ、と自分以外には思う。私はどけどけどけ、と言わんばかりに人混みを掻き分け、ICカードをかざした。しかし残額不足で道を阻まれてしまい、調子に乗ってすみません、と混雑に頭を下げながらチャージ機へ向かった。財布を開くと、百円玉が三枚入っていた。でもこれは晩御飯代だ。しゃーない、歩いて帰ろう、と出口へ歩き始めた時だった。

 出る杭と表現できるほど、群衆から飛びぬけて大きな男を視界に捉えた。鼻の辺りまでフードを被った男は、改札の方へ進んでいた。あいつだ。私は咄嗟に切符を買い、あいつの背後をぴったり尾けた。がつんと文句を言わなきゃ、気が済まない。

でもあいつは改札すれすれを横切るだけで、中に入らず、そのまま出口へと向かった。

「いや、入らんのかい!」

思わずツッコんだ。群衆が何事かと私を見る。あいつもゆっくりと私を振り返った。

「なんか用?」

彼のサングラスが白く光った。用?そんなの決まっている。言え、言ってやれ私!

「晩御飯奢ってよ。あんたのせいで切符買っちゃったじゃん」

「何で?」

マスク越しでも、あいつの口がぽかんと開いたのが分かった。



 中野駅南口を出た私たちは、近くのファミレスに入った。店員はあいつの巨躯に顔色一つ変えず、テーブル席へ私たちを案内した。あいつが特に何も言わなかったので、私はソファ席に座ってやった。「ここ、行きつけ」とあいつは向かいに座る。「だから店員が驚かなかったんだ」と私は適当に返事をしながら、メニューを開いた。

「ねえ、黒毛和牛厚切りサーロインステーキ頼んでいい?」

「お前の厚かましさに驚いてるよ」

あいつはメニューに目を落としたまま、首を横に振った。けち、と口を尖らせたけど、よく考えたら奢ってくれる人にけちって、かなり矛盾している。それにしても本当に奢ってくれると思ってもいなかった。意外といい奴じゃん、とあいつを見直した。

「今日のネタも終わってたな」

前言撤回、今世紀最大のクズ野郎だ。あいつは平然とした顔で、メニューをパラパラ捲っている。

「も、って何よ。も、って」

「言葉の通りだよ。お前ピン向いてないよ。漫才やってた時の方がよっぽど良かったわ」

「なによ、それ」

「否定はしないんだな」

そう言うとあいつはメニューを閉じ、呼び出しボタンを押した。

 私は膝の上で拳を握った。何も言い返せなかった。一人でお笑いを続けるのには、とっくに限界を感じていた。でもだからって、そこまではっきり言わなくていいじゃん。失礼じゃん。素人のくせに。私はあいつの真っ黒なサングラスを睨みつけた。ファミレスに似つかわしくない、重苦しい空気が漂った。   

正直かなりムカついていた。ムカついたから、

「黒毛和牛厚切りサーロインステーキライス大盛り。もちろん、ドリンクバー付きで!」

店員が来るや否や、そう言ってやった。「おい」とあいつは私と店員の顔を交互に見て慌てふためいたけど、「お客様は?」と聞かれ、「あ、えっと、ミートソーススパゲティで」と安いメニューを注文した。

「おい、赤稲あかね!お前何勝手に頼んでんだよ」

店員が立ち去ると、あいつは私の目の前に人差し指を突き立てた。

「女の子を傷つけるあんたが悪いんでしょ」

「傷つけてねーよ。また漫才やった方がいいってアドバイスだろ」

「アドバイス下手か!てかピン芸人に漫才やれって、友達がいない子に通信交換してこいって言うのと同じだからね」

「それはごめんだけど」

 謝られたところで、喉が渇いているのに気付き、ドリンクバーに向かった。思えば久しぶりに声を荒げた気がする。白葡萄のジュースを持って席に戻ると、「俺の水は?」と聞かれた。「そんなの自分で取りに行くでしょ普通」と返すと、「お前さあ」と情けない声を出して、水を取りに行った。

 コップ一杯に水と氷を注いで来たあいつは、「ステーキとライスは半分貰うからな」と言った。全部じゃないんだ、と思う。案外いい奴なのかもしれない。

「そういや、あんた名前は?」

「気になるのか?」

「いや、一方的に名前を知られてるのが不公平に感じただけ」

「お前よく芸人になろうと思ったな」

あいつは一呼吸置き、「シャーク」と言った。「え」私は首を傾げる。

「だからシャークだ。俺はシャークと名乗っている」

「そ、そうなんだ」

どうやら本名は言いたくないらしい。深追いはせず、そっとしておくことにした。

 次の話題を探していると、タイミング良く料理が運ばれてきた。ジューというステーキの鉄板の音が、食欲をそそる。「うまそうだねえ」シャークは恨めしそうにステーキを見ていた。スパゲティも美味しそうじゃん、とよく分からない社交辞令で返した。

「いただきます」

 私たちはほぼ同時に言い、料理に手を付けた。肉はナイフで簡単に切れ、口に入れると唇の間から溢れそうなほど、肉汁が染み出した。ステーキを食べるのなんて、いつ振りだろう。シャークにあげるのが、惜しくなり始めた。

 ふと、シャークのマスクの下はどうなっているのだろうと思った。思えば彼がマスクを取ったところを見たことが無い。私はステーキを口一杯に頬張りながら、彼の方へ目を向けた。

 瞬間、驚愕で息を呑んだ。私の目の前では、青色の肌をした怪物が、緑色の唇にミートソースを付け、スパゲティをすすっていた。え、なに、これ。

そして悲劇的な事に、私は息を呑むのと同時に、咀嚼せずに肉を丸ごと飲み込んでしまった。途端に呼吸が苦しくなった。視界がどんどん暗くなる。シャークは驚いた様子で、食べかけの麺を急いですすった。麺が活きのいい魚のように、跳ねながら口へ吸い込まれるところが、やけにスローで見えた。

スパゲティすするなよ。薄れゆく意識の中で、最後にそう思った。



 ざらりとした痛みを後頭部に感じた。目を開けると、灰色の天井が広がっていた。耳には固く冷たい感触がする。床を触ると、砂っぽいコンクリートがあった。奇妙なことに、床には懐中電灯がいくつも置いてある。壁は取り壊し中のように、武骨な柱が剥き出しだ。

どこ。

気だるい体を起こすと、「起きたか」と真後ろで声がした。声の方を見ると、真っ青の肌と緑の唇、穴だけの鼻を持つ生き物が立っていた。悲鳴を上げようとしたが、起きたばかりで掠れた細い声しか出なかった。膝が陸に上がった魚のように、激しく震えている。

「そう怖がんな。命の恩人だぞ俺は」

命の恩人?そうだ。私は肉を喉に詰まらせて気を失ったんだ。でも生きてるってことは、確かに彼に助けられたのかも。「えっと、ありがとう」私がびくびくしながら頭を下げると、シャークは気にすんな、と顔の前で青い手を振った。仕草は人間としか思えない。

「まあ、気になることは色々あるだろうが安心しろ。ここは中野だ」

そんなことよりあんたが気になる。心の中でツッコんだ。

「んでここは廃ビルで、俺の住処だ」

「空き巣じゃん!」

今度は声に出した。

「アンケートで私を空き巣呼ばわりしたてくせに、あんたの方が空き巣じゃん」

「お前は笑いの空き巣。俺は普通の空き巣」

「何それ?てかあんた何者?」

ツッコミの勢いで聞いてやった。シャークは腕組をし、分からんと首を傾けた。

「多分人間じゃない。産まれた時からこの姿だ」

彼がサングラスを外すと、犬のように黒目がちな瞳が見えた。

「時々誰かに追われるし、普通じゃないことは確かだ」

宇宙人なのだろうか。てか私もそんな奴と居たらやばいんじゃ。次々に感情が浮かび上がってくる中で、私は一つの疑問を投げた。

「良かったの。私に顔見せて」

「別に隠してないが」

意外な返答だった。「じゃあ、何でマスクとサングラスしてるの」

「そりゃ顔を見られたら、騒ぎになって面倒だからに決まってるだろ。芸能人的なあれ」

それは隠していると何が違うのだろうか。腑に落ちない思いで、「ずっとそれじゃ窮屈そうだね」と言いながら、もったいないな、と思った。アスリートのような巨漢に加え、ボケもツッコミもできて、お笑いが好き。人間ならどう考えても芸人になるべき逸材だ。

 ていうか。

私は彼の顔をまじまじ見て、光明が見えた気がした。

「あんた顔のパーツ的に、化粧で人間に似せられそう」

「そうか?」彼は訝しげに言った。「多分」私はバッグからメイク道具を取り出した。

「任せてみ。私メイク動画あげるくらいには得意だから」

「ああ、あのつまらんやつか」

怒りより、お笑いオタクすぎだろという呆れが勝った。



「おお、これは」

 シャークは手鏡を見て、赤い唇をわなわな震わせた。

「人間だーーーーーーー!」

シャークは万歳をして、私の手を握った。

「赤稲、お前すげーよ」

私は得意げに笑って見せた。何度も礼を言う彼は、どっからどう見ても異常にガタイが良いだけの日本人男性に仕上がっていた。彼はカラーコンタクトが入った目を輝かせ、かつらを振り乱し、色々な角度から自分を見た。ファンデーションを塗りたくった肌が、てかてか光っている。

 私は飛び跳ねて喜ぶ彼を真っ直ぐ見て、ねえ、と切り出した。

「コンビ組んでよ」

 声がビルに反響した。シャークはぴたり動きを止めて、私を見返す。

「私と一緒に新世紀で優勝しようよ」

思いを告げた。シャークは目を丸くした。そして思案するように腕を組み、小さく笑った。

「芸人か。確かにこの見た目になったんだ。目指すのも悪くない」 

「でしょ」

「新世紀で優勝。したいな」

「でしょでしょ」

「うん、俺は漫才がやりたい」

「でしょでしょでしょ」

「だがお前とコンビは組まない」

「え」

急に床が抜けたような気分になる。「なんで」

「それが分からん時点で話はおしまいだ」

シャークは突き放すように言うと、階段に向かって歩き始めた。

「俺は相方を探しに行く。お前も体調が落ち着いたら帰れ」

「待って、私はあんたを人間にしてあげたんだよ」

「飯を奢ってる時点で、貸し借り無しだろ」

「気絶したから食べてないもん」

「図々しい奴め」

 シャークは立ち止まりこちらを向いた。

「じゃあ、一つ言っといてやる。普段のお前と舞台のお前は別人だ」

それだけ言い残し、シャークは姿を消した。


    〇


 東都八丁目横丁の単独ライブは、下北沢にある収容人数五百人の会場で行われる。

客入り前にステージから観客席を見渡すと、広さに足がすくんだ。整然と並べられた座席は、誰も座っていないのに妙な圧迫感を与えてくる。こんな広い所でスベったら、目も当てられないぞ。シーンと白けた会場を想像し、鳥肌が立った。

 今日のネタをぶつぶつ復唱しながら楽屋へ戻る途中、せかせか歩くほの香と出くわした。

「赤稲、来てたんだ」

「うん。ほの香は忙しそうね」

それもそのはず、ほの香は東都のマネージャーも兼ねていた。所属芸人が多いうちの事務所は、一人が何組も掛け持ちしている。

「詩帆とはもう話した?」

「まだ」

仲良くするんだよ、と言ってほの香は行ってしまった。それは無理な話だ。

 楽屋は数人のスタッフがいるだけで、がらんとしていた。詩帆がいなくて、とりあえず一安心だ。

普段の楽屋と同じように、端っこの椅子に座ると、ふいに扉が開いた。私以外が立ち上がって挨拶をしたその人は、詩帆の相方、加瀬(かせ)柊人(しゅうと)だった。

加瀬は私を見つけると、爽やかな笑顔で会釈した。私はぺこりと頭を下げる。

「今日はありがとうございます」

 加瀬は私の傍に来て丁寧に言った。ふわりと長い前髪が揺れる。「いえ」と目を逸らした。

「また、ライブ後の打ち上げでゆっくり話しましょう」

「あ、はい」

彼は頷くと、他のスタッフの所へ行った。珍しく打ち上げの誘いに乗ってしまった。凛々しい笑顔が眩しくて、断り切れなかった。



 しばらくすると作家やスタッフが増え始め、楽屋は随分賑やかになった。イヤホンをしてネタ練習に集中していると、作家の一人に肩を叩かれた。作家は「これ読んどいて」と私に台本を渡す。ライブに台本?と不思議に思いながら開くと、不可解な文字があった。


黒子役―赤稲あかね


黒子役?うまく理解ができなかった。私は何かのコントをするために呼ばれたのだろうか。頭は悪い想像を無視し、良い方へと考えていた。

がちゃり、と扉の開く音がした。何か予感めいたものを感じて、音の方を見た。

「久しぶり」

舞鶴(まいづる)詩(し)帆(ほ)がいた。うるさい楽屋で、彼女の声だけはクリアに聞こえた。

「ひ、久しぶり」

咄嗟のことで、舌が回らなかった。スウェットにワイドパンツを合わせ、大きなヘッドホンを付けた彼女は芸人ではなく、ラッパーのように見えた。前と服の趣味が変わったようだ。

 詩帆は私の隣に座って言った。

「いつ振り?」

「二年振り」

そんなのも覚えてないのか。私たちが最後に話したのは、コンビを解散した二年前の春だ。

解散を切り出したのは詩帆からだった。理由はシンプル。「私たちじゃ新世紀で優勝できないから」だった。幼馴染で大学を卒業後、一緒に養成所に入った詩帆からの言葉に私は大きく動揺した。まだ芸歴も三年目だったので、ドッキリではないかとも思った。でも、彼女の表情は真剣そのものだった。当時もマネージャーだったほの香は止めたけど、こうなったらもう無理だと思い、私は解散を受け入れた。それが最後に話した時だ。

私は彼女に台本を突きつけた。

「詩帆、黒子ってどういうこと」

「あれ、ほの香に言ってなかったっけ」

詩帆はヘッドホンを取らずに言った。

「あかねには黒子役、つまりライブのお手伝いをしてもらおうと思って呼んだんだよ」

「お手伝い」

悪い予想は当たった。

「もう始まるから、急いで着てね」

彼女は私に真っ黒の衣装を手渡し、「あとは作家さんと打ち合わせして」と立ち上がった。

「舞って、私はネタしないの?」

詩帆の腕を掴んだ。「ネタ?」彼女は首を傾げた。

「あかね最近ネタしてたん?」

それを聞いて、ふっと手から力が抜けた。詩帆は忙しそうに、遠くへ去って行った。

 強い無力感が広がった。黒子の衣装をぎゅっと握りしめた。

 私がネタをしているのを知らない?嘘つけ。

私を見下すために呼んだの?許せない。

ふつふつと怒りが湧きあがる。私は衣装を思い切り床に叩きつけようと振りかぶった。

でも、振り下ろす前に手が止まった。元相方の雑用、そんな屈辱的な仕事でも、ここで放棄することは芸人としての敗北宣言な気がした。私は唇を噛み、自分の弱さを呪った。

くそ。くそ。ばかにするな。意思とは裏腹に、私はトイレへ行き全身を黒に包んだ。



 ライブ中、芸人の光と影をまざまざと見せつけられた。

眩い舞台で大勢からの笑いを全身で受ける詩帆。

それを暗がりから見る私。

晴れやかにボケる詩帆。

曇った表情の私。

舞台袖にいるとこのまま暗闇に溶け、自分が消えてなくなりそうな気がした。スタッフたちの元相方を憐れむような視線には、消えてしまいたいとさえ思った。

たまにコーナーの準備をする為に舞台に上がっても、詩帆は私に目もくれなかった。本当に誰でもできるような仕事の傍らで観客の笑い声を聞く度、身が焼け焦げそうなほどの屈辱に襲われた。

絶対に許さない。晴れやかな顔でエンディングトークをする詩帆を睨みつけ、誓った。



「ごめん、詩帆がこんなこと考えてるって知らなかったの」

 ライブが終わり、ほの香は真っ先に私へ頭を下げた。「いいよ別に」とだけ言って、私は荷物をまとめた。

「逆に呼んでくれてありがとう」

「え」

ほの香は目を丸くした。私はリュックを背負い楽屋を出ようとすると、

「今日は助かりました」

加瀬に話しかけられた。「今日の打ち上げのことですが」と言いかけたので、「行きません」と固く否定した。打ち上げなんかより、何億倍もしたいことがあった。それに今の私に酒が入れば、何をしでかすか分かったもんじゃない。加瀬はそうですか、と眉を寄せて笑った。その気障な態度が鼻につく。

 私は楽屋を出て、前のめりに廊下を突き進んだ。絶対に許さない。詩帆も。何もかも。私を馬鹿にした全員を見返してやる。黒く揺らめいていた怒りの炎は、めらめらと燃え盛るエネルギーへ変わっていた。

 ふいに廊下の壁に寄り掛かる人影を見つけた。詩帆だ。相変わらずヘッドホンを着けた詩帆は、私の顔を見ると勝ち誇ったように口角を上げた。無視しても、睨んで返してもよかった。でも私は、ニッと思い切り歯を剥いて笑ってやった。全力の威嚇だった。

 そのまま詩帆の横を通り過ぎ、ため込んだ怒りを解放するように、出口を開け放った。

今に見ていろ。劇場を振り返り、もう一度誓った。



自宅に帰り、リュックも下ろさずノートを開いた。今書きたいネタが、今じゃなきゃ書けないネタがあった。化粧動画やショップ店員のネタ、今までやってきた全てのお笑いをかなぐり捨てて書きたいネタだ。今の心の熱量を、全部形にしなければ気が済まなかった。

走るペンが止まらなかった。ネタはものすごいスピードで練りあがっていく。こんなことは初めてだった。

五分も経たずにネタを書き終えた。自分の気持ちを乱暴に書き連ねただけの、荒っぽいネタだ。しかもたった一回しかできないネタだ。でも今までのネタの中で、一番会心の出来だった。

ふと、「普段のお前と舞台のお前は別人だ」とシャークから言われたのを思い出した。今ならその意味が分かった気がする。このネタはありのままの私が、心からやりたいと思えるネタだ。

今なら、いける。そう確信し、私は鍵だけ持って家を飛び出した。



 カップルやサラリーマンなど、泥酔模様の雑踏を掻き分け、目的地まで一直線にひた走る。夜の中野を切り裂り、前へ前へと突き進む。あの廃ビルまでの道は完璧に覚えていた。

ビルに着き。階段を駆け上った。懐中電灯に照らされた、灰色の殺風景な部屋に乗り込む。

「よっ」

 カップ焼きそばを食べていたシャークが、少し驚いた様子を見せた。メイクはすっかり落ち、青色の肌に戻っている。床に置かれたラジオは、芸人の深夜ラジオを垂れ流していた。

「なんだ、血相変えて」

「相方は見つかった?」

「まだだ」

「良かった」

 私は彼の目の前に立ち、真っ直ぐ見つめた。彼が座っているおかげで、やっと目線が合った。「どうした」とシャークは困惑する。

「今からネタやるから、そこで見てて」

「は?」

「そしたらコンビを組もう」

「はあ?」

シャークが口を大きく開けた。そして「だから組まないっつったろ」と付け加えた時だった。

突如、下の方でいくつもの足音が鳴った。ビルに地響きが走る。足音は階段を上がり、みるみるこちらに近付いて来た。

姿を見せた足音の主たちは、機動隊のような恰好をしていた。彼らは私たちをぐるりと取り囲み、銃とバリケードを構えた。

「油断しちゃだめよ」

 こつこつ、と足音を立て、機動隊の奥からスーツを着た細身の男が現れた。オールバックに髪を整えた男は、私を舐め回すように見ている。

「あの女も化け物の仲間よ。しっかり殺しなさい」

はい、と機動隊員は野太い声を出した。

「おいおい、まじかよ」

シャークは周りを見ると、「俺が食い止めるから、逃げろ」と足元に焼きそばを置いて立ち上がった。私に背を向け、機動隊と対峙する。でも私は彼の顔を掴み、こちらに向け直して叫んだ。

「うるさい!早くネタ見てよ」

「いや、何言ってんだお前」

「あんたはここで私とコンビを組むの」

「なんなんだよコイツ」

シャークは頭を抱えた。

「早く逃げろよ、死ぬんだぞ」

「死んでもいいよ」

「あ?」

「今の私は最高に滾ってるの。この情動を捨て去って逃げるくらいなら死んだほうがまし!逃げてあんたとコンビを組めないなら死んだ方がまし!新世紀で優勝できないなら死んだ方がまし!」

 目一杯思いを吐き出した。目の前にあるシャークの顔は、呆気に取られた様子だった。彼は何度か強く瞬きし、「離せ」と私の手を振り払う。

「お前、まじでイカれてるよ」

彼はもう一度機動隊員に顔を向けて言った。そして「ふっ」と小さい笑い声を漏らした。

「いいぜ。ネタ見てやるよ。思う存分やれや」

彼は楽しそうな横顔を私に見せた。

「うん」

 私は大きく頷いた。

シャークは姿勢を低くし、スーツの男に向かって走り出す。

「お前は俺が守ってやる。ビビってネタ飛ばすんじゃねーぞ」

「そっちこそ死なないでよ」

 私は胸を反らして大きく息を吸い、準備を整えた。

「撃つのよ!」

 ドドドドドドドド、と赤い光が舞い散り、四方で銃声が鳴った。開始の合図だ。

「ばかやろーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」

 まず咆哮した。銃声をも凌駕する声量に、機動隊員たちをばたばたなぎ倒していたシャークが一瞬こちらを向いた。私はスマホを頭上に掲げた。

「今からなぁ、このスマホを破壊してやる。ネタやスケジュールに連絡先、思い出までもが詰まったスマホをだあ!私はここで過去と決別する!スーツの奴も、機動隊員も、よく目に焼き付けておけ。シャークから肉体がぶっ壊されんうちになぁ!

最初はデータの消去だ!設定から一撃で消すぞ、消してやるぞぉ!うぐっ、ぎぅっ。はぐっ。指が震える…!くそったれ、くそったれめえ!ぬあっ。ぬあーーーーーーーーー!」

端末のデータを消去、というボタンを押した。画面に浮かんだ「消去完了」という文字は、銃声が鳴り響くここでは、あまりにも簡素だった。

「ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ。やったぞ…。見ろぉ、これを!消したぞっ!塵一つ残さずデータを消したぞぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!

だがまだだ。このスマホを破壊してやる。それで完全に決別だ!やるぞ……やってやるぞ、ううっ、ぐあああああああああああああーーーーーーーーーーーーっ!

さらばだぁ!この瞬間までの赤稲あかねぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」

私は勢いに任せ、スマホをコンクリートに叩きつけた。画面に大きなひびが入り、そのまま光が消えた。はあはあ、と肩で大きく息をした。五年以上使ったスマホとの別れだった。これで詩帆との写真や連絡先などの繋がりは一切消え失せた。バババババ、と乱発される銃声は門出を祝う祝砲のように聞こえた。

ひゅん。耳元で風を切る音がした。耳が急に熱くなった。コンクリートがぽたぽた赤く染まる。耳を触ると、出血していた。弾丸が耳をかすめたらしい。「赤稲!」とシャークの心配する声がした。でも私は全く痛みを感じていなかった。それどころか何だかおかしくなって、あはははははは、と笑い声をあげた。そして私に照準を合わせる機動隊員を見て言った。

「どこを狙ってる?ウスノロ…」

「赤稲?」

 シャークは口をあんぐり開けた。ただ、そんな表情でも次々敵を仕留める手際は流石だった。スーツの男はシャークではなく私を見て、じりりと後退した。

「なんだかさあ、今すごいんだ。さっきまでの私とは何もかもが違う。もう赤稲あかねは死んだって感じ。すごい全能感。今ならどこまでも天を登っていけそう。まるで龍のように。そうね。私はドラゴン。赤稲あかね改め、赤稲あかね・ドラゴン」

 私は両手を大きく広げた。それと同時に、シャークが機動隊最後の一人を仕留めた。足元には無数の男たちが横たわっていた。

ネタをやり切った達成感と疲労感がどっと押し寄せて来た。私は膝に手を置き、大きく深呼吸した。あまりにもストレスの大きいネタだった。

 シャークは息を整えながら、歩み寄って来た。

「さっきのがネタか?」

「そうよ」

「アドリブだろ?」

「ちゃんとネタ帳に書いてます」

「あんな一回きりのネタを?大真面目に?」

「うん」

「やっぱお前おかしいよ」

シャークは信じられない、という感じで後頭部をぐしゃぐしゃ掻いた。その後「でも」と歯を見せて笑い、私に手を差し伸べた。

「お前みたいなやつとなら、てっぺんまで登れる気がする」

「龍みたいにね」

私はシャークの青い手を強く握り返した。

「そういうわけだ」

 シャークはスーツ姿の男を見た。男は尻餅をつき、無様に出口へ向かっている。当然逃げられるはずもなく、シャークは男の前で屈み、額がぶつかりそうなくらい顔を寄せた。

「俺は芸人になる。すぐに戸籍を用意しろ。お前らが何者か知らねーができんだろ、そんぐらい」

「わ、分かったわ」

男は泣きそうな顔で言った。

「あと、俺の存在をばらすなよ。もしばらしたら、お前らの身内を一人一人消すからな」

「はい」

男は掠れそうな声で返事をし、そのまま泡を吹いて気絶した。

「大丈夫この人?」

「こんくらい痛みつけといた方がいいだろ」

 それもそうかと思った。まあ、別に心配してないけど。

彼は脅しの後とは思えない、すっきりした表情で立ち上がった。

「飯でも行くか」

「シャークの奢りでね」

私は機動隊員を軽快に飛び越え、出口に向かった。


    〇


「待て待て待て、一旦整理させて」

 ほの香は会議室の安いパイプ椅子に深く腰掛け、ペンでこめかみをぐりぐり押した。

「まず、新しいコンビを組むと。んでその相方が例のあい…彼と。で、二人は既に同棲していると。そして何故か赤稲は改名すると。もっかい何に改名するか聞いていい?」

「赤稲あかね・ドラゴン」

「意味が分からん。で、あなたはシャークって名前なんでしょ」

「はい!戸籍はあります!」

「何そのアピール」

ほの香はぐったりした声でツッコんだ。

「でも俺も実は改名しようと思ってて」

「確かにシャークって物騒だもんね」

「鮫に悪と書いて、鮫(シャ)悪(ーク)。どうでしょう?」

「もうなんでもいいよ」

ほの香は机に顔を沈めた。

「赤稲さあ、連絡も取れなくなってたし、なんかあったの」

「色々ね」

「色々かー」

 私は立ち上がり、「じゃあライブの予定入れといて」と言った。うい、彼女は返事をし、

「そう言えばコンビ名は?」と聞いた。私たちは声を揃えて返した。

「鮫と龍」

「海と空を制してるじゃん」

ほの香は最高の反応をくれた。あとは漫才で陸を制するだけだ。

 でもその為には一つ、あまりにも致命的な壁があった。



「ネタができん!」

シャーク改め鮫悪はシャーペンを放り投げ、大の字になって寝ころんだ。二メートルの彼が寝ると、ワンルームのアパートが余計に狭く見えた。「そうね」と私は頭を抱えてネタ帳を見た。二人で出し合った案は、人前で披露するなんてもっての他な愚にもつかないものばかりだった。まあ冷静に考えればそりゃそうだ。私は売れない芸人で鮫悪は素人。簡単に面白いネタが書けるわけない。

「意外と鮫悪の正体をバラシて、それを利用したネタの方が作りやすいかもね」

「それは絶対駄目だ」

 鮫悪はきっぱり言った。「やっぱそれは危ないか。事務所から追い出されるかもだし」

「それもあるけど、もっと別の理由が大きい」

「何?」

「一度俺の姿をネタにしたら、今後そのネタしか作れなくなる。諸刃の剣ってわけだ」

「確かに」

 私は納得して頷いた。一度売れはしたものの、すぐに姿を消した、体型やハゲをネタにした漫才師が何組も頭に浮かんだ。

「てか、私がツッコミでいいのかな。前はボケやってたんだけど」

「しょーがないだろ。ツッコミは常識人の立場なんだから。異常に巨体な俺より、お前の方が適任だよ。お客さんも共感しやすい」

「それはそうだけどさあ」

私はペンを鼻と上唇の間に挟んで言った。こんな感じで漫才のネタどころか方向性も、しっかり定まっていない。

 部屋が暗くなったことに気付き時計を見ると、午後五時前だった。バイトに行く時間だ。私は支度を整えた。

「行ってらっしゃい」

 鮫悪はノートに目を落としたまま言った。その姿を見て思った。

こいつヒモでは?

ネタ作りの為に居候させているけど、現状まともなネタを生産せず、偉そうに口出しだけするこいつは完全に穀潰しだ。このまま彼を養うのは、コンビの関係性的に良くない気がした。

「あんたも働こっか」

「へ?」

「働かざる者食うべからずでしょ。私のバイト先で働きなさい」

「え、嫌だよ。俺今までトレカの転売で生計立ててたから、働いたことねーもん」

「どクズじゃん。じゃあ尚更行こう。バイトでも一緒の方がお互いを知れて、ネタ作りに活かせるし」

 私は彼の襟首を掴んで、玄関に向かった。やめろぉ!と近所迷惑な声で、彼は叫んだ。



 私のバイト先は家から徒歩五分の距離にある、新中野のコンビニだ。大通りに面していて来客は多いけど、コンビニは一度仕事を覚えてしまえば、鮫悪でも働けると思う。

私は項垂れる彼を、店長に紹介した。

「大きいねぇ」

 店長は枯れ枝のように細い指で眼鏡をかけ直し、物珍しそうに鮫悪を見上げた。普段から心配になるくらい細い店長は、鮫悪と並ぶとより貧層に見えた。

「二人はどういう関係なの?」

「コンビですよ」

「あれ、赤稲さん確か詩帆とかいう子と組んでなかった?」

う、と私は思わぬパンチを食らい言葉に詰まった。「店長それ地雷」と鮫悪が横から茶々を入れた。「と、とにかく、力はありますよ」私は注目を強引に鮫悪へ戻した、店長はうーんと思案するように唸った。いつも人手不足と嘆いているのに、何を迷っているのか。

「うん、ちょっと不安だけど、採用しようかな」

「ありがとうございます」

私は礼を言った。「不安ってどういうことだ」と鮫悪が耳打ちしてきた。「あんたの名前でしょ」と返す。「サイズは合わないと思うけど、今日はこれで我慢して」と店長は傍の段ボールから制服を取り出し、鮫悪に渡した。

 更衣室から出て来た、鮫悪を見て思わず噴き出した。だって彼の制服がバトル漫画のキャラクターみたいにパツパツ過ぎたから。笑い転げる私に「早く行くぞ」と鮫悪は不機嫌そうな顔で言って、表へ出て行った。とても接客業をしていい態度ではなかった。

 今日はラッキーなことに人が少なかったから、スムーズに仕事を教えられた。鮫悪は案外飲み込みが早く、二時間くらい教えただけで、半人前くらいには仕事ができるようになった。

「二十二番で」

「マイルドストライクですねー」

 客に言われ、スムーズに煙草を取り出した。四分の三人前くらいはあるかもしれない。

今日教えられることは教えたので、私たちはバックヤードに入り、ネタ作りをした。客が少ないからできることだ。また幸運は重なるもので、珍しく二人とも面白いアイデアがぽんぽん出た。特に私は次第にゾーンへ入っていき、視界にノートしか映らないくらい、ネタ作りに集中できた。気付けばネタが一本完成し、私と鮫悪は手を取り合って踊った。やっぱり同じバイトにして正解だった。

「こらっ」

 急に鼓膜が破れるような大声が聞こえた。見ると郵便ポストのように顔を真っ赤にした店長が目の前にいた。いや、唐辛子と例えた方が適切か。

「早く仕事に戻れ!」

店長は表を指さした。首を伸ばして見ると、レジから飲料売り場まで、長蛇の列が伸びていた。しまった。ネタ作りに集中し過ぎていた。

「申し訳ございません」

私は鮫悪の手を引き、急いでレジに戻った。店長はすみませんと何度も客に頭を下げながら、「だから問題児赤稲の紹介は嫌だったんだ」と声を震わせた。

「不安要素はお前だったんだな」

「うるさい」

バーコードを読み取りながら返した。


    〇


 新世紀で優勝するために最も必要なものはなんだろうか。面白いネタ?もちろんそうだ。人気?敗者復活では重要だ。でも私は、踏んだ舞台の数だと思っている。何度もステージに立ち、鋼の舞台根性を付けた者が真の漫才師というものだ。

 事務所もそれを分かっているから、都内に三つも劇場を作っている。その劇場には上からファースト、セカンド、サードとランクがあり、まずはファーストのメンバーになることが優勝への第一歩だ。ちなみに東都八丁目横丁はファーストにいる。

この制度の面白く難しいところは、毎月月末に行われる入れ替わり戦だ。その月を通して、客から最も「面白い」と票を集めた芸人が、一つ上のランクの芸人を指名し、ガチンコで勝負をするのだ。ここで上の芸人を破れば、晴れて昇級となり、逆に負けた芸人は降級となる。

雨上がりの湿気で満ちた午後、私と鮫悪はセカンド劇場の前に立っていた。本来結成したてのコンビは一番下のサード劇場から始めるのだけど、私がピン時代セカンドにいたことを理由に、ほの香がセカンドにねじ込んでくれたらしい。感謝しかない。

 戦いは紫陽花が咲きほこった、六月頭の今日から始まる。特に鮫悪にとってはこれが初舞台だ。景気づけにドカンと笑いを取りたい。私たちは見合って決意を固め、劇場へ進んだ。



 楽屋に入ると、既に大勢の芸人が集まっていた。彼らは遅めに登場した新顔に、一斉に顔を向けた。芸人に見られるのは、客とはまた違った緊張感がある。私は舐められまいと、胸を張った。ふと鮫悪を見ると、何やらそわそわしていた。頬を伝う汗を見ると、化粧が落ちないか心配になる。機動隊員を赤子扱いする彼も、流石に委縮したらしい。

 私は一人友人を見つけ、近づいた。

「おっす実咲」

「あかねちゃん」

同期の小田(おだ)実咲は相好を崩した。綺麗に切り揃えられた前髪が揺れる。相変わらず可愛い子だ。「初めまして、小田美咲です」彼女は立ち上がって、鮫悪に挨拶した。「存じ上げております。僕は鮫に悪いと書いてシャークです」鮫悪は丁寧に名乗った。

「可愛いでしょ、この子」

鮫悪の脇腹をつついて言った。「ああ、近くで見ると舞台よりも可愛いな」と鮫悪は彼女の顔をまじまじ見た。やめてよ、と実咲は白い頬を赤らめた。これだけで可愛いからずるい。

「来てそうそうセクハラかいな」

 後ろで強めの関西弁が聞こえた。振り向くと黄色いスーツを着た男が、ポケットに手を入れて立っていた。途端に気持ちが風船のように浮き立つ。

「国島さん」

「よっ、赤稲。いや、今はドラゴンか」

国島さんはからかうように言った。やめてくださいよ、と先輩の肩を強めに叩く。

「相変わらず遠慮のない奴やなあ」

こういうことをしても陽気に返してくれるのが、先輩のカリスマたる所以だ。

国島さんのコンビ、ジャマイカケルベロスは「セカンドの帝王」と呼ばれている。理由はシンプル。毎月入れ替わり戦で、ファーストで一番人気の芸人を指名し、無惨に負けて帰ってくるからだ。ファーストの一番人気ともなれば、ちょくちょくテレビで見る芸人なので、当然人気投票で勝てるわけが無い。毎月その無謀な戦いを続けた結果が、「セカンドの帝王」という異名に表れている。ただ逆に言えば、毎月昇級戦に出られるジャマイカケルベロスの実力は本物だ。特にボケ担当の国島さんは、一部からカリスマ扱いされている。

「先輩、先月も負けたんですね。もっと人気無い芸人指名すればいいのに」

「一番強い奴に勝つのが、楽しいんやろ」

 ははは、と国島さんは豪快に笑った。そして鮫悪に目を移し、スカイツリーを真下から見るように、額の前で手をかざした。

「あんたが鮫やな。でかいなあ」

「あ、えっと、どうも。鮫に悪いと書いてシャークです」

 カラコンの入った目を泳がせ、ぎこちなく言った。どうも変だ。国島さんも異変を感じたようで、「どうかしたん?」と鮫悪の顔を覗いた。「いえ」と鮫悪は顔を逸らす。やっぱり変だ。国島さんは「ほんまか」と心配そうな顔を見せたけど、相方の井川(いがわ)さんに呼ばれ、「ほな」と戻って行った。

「ちょっと話がある」

国島さんが離れると、鮫悪は声を潜めて言い私を楽屋外へ連れ出した。

「やばい、俺の正体がバレるかもしれない」

 藪から棒に言った。え、と私の驚く声が静かな廊下に反響する。しー、と彼は指を立てた。

 それから彼は事情を説明した。私はその話を聞き、色めき立った。

「じゃあ、二年前あてもなく街を彷徨っている所を国島さんに救われたってこと?それ、運命じゃん。国島さんに言いに行こ」

 楽屋に戻ろうとすると、腕を捕まれた。

「やめとけお前、正体がバレたらお笑いできなくなるぞ」

彼は青ざめた顔で言った、元々青いけど。

「大丈夫だよ。国島さんは言いふらす人じゃないって」

「そうかもしれないけど、絶対ダメだ」

 鮫悪は今までに無い強い口調で言った。「むー」と私は頬を膨らませた。鮫悪は「絶対だぞ」と念を押した。ここまで止められると流石に言えない、が可愛い仕草にはツッコんでほしかった。



 私と詩帆は芸人になりたての頃、慣れない男社会に委縮し、どこのライブに行っても小鹿のようにぶるぶる震えていた。そんな私たちを面白がり、初めて声をかけてくれたのが国島さんだった。それ以来彼は積極的に飲みの席に誘ってくれ、私たちは徐々に芸人の世界に溶け込むことができた。私と詩帆にとっても国島さんは恩人だった。

そんな過去の淡い思い出が脳をぐるぐる駆け巡り、私は意識を取り戻した。やば、緊張マックスで、走馬灯見えた。てか人間て緊張で死ねるんだ。

 私は首を振って邪念を吹き飛ばし、舞台を見た。今は出順が一個前のコンビのネタ中だった。彼らが拍手笑いを取る度、ぐっと緊張感が増した。前のコンビがウケればウケるほど、次のコンビにはプレッシャーがのしかかる。私は大きく深呼吸をし、気持ちを落ち着かせた。今日のお客さんは重くない。私たちなら大丈夫。鮫悪を見ると、動揺していたさっきに比べれば、かなりリラックスしていた。初舞台でこれなら安心だ。

「赤稲、入れ替わり戦に出たら誰を指名する?」

「東都八丁目横丁」

間髪入れずに答えた。詩帆の忌々しい顔が頭に浮かぶ。

「いいね、新世紀前に東都八丁目横丁をぶっ潰してやるか」

「鮫悪、あんたは恩人の国島さんを喰えるの?」

「当たり前だ。俺は鮫だぞ」

「ぶちかましてやろう」

「ああ」

 出囃子が鳴った。さあ、「鮫と龍伝説」の幕開けだ。

私たちは光り輝く舞台へ、足を踏み入れた。


    〇


 目の前に大量に積まれたスナック菓子や炭酸飲料のバーコードを、手際よくスキャンし、丁寧に袋詰めしていく。その袋を微笑しながら、髪は染めているがあどけなさが抜けない、男子高校生らしき集団に手渡した。ありがとうございました、と陽気な退店音と共に彼らを見送る。これで昼のピーク時にできた行列は片付いた。

「赤稲さん、珍しく良い仕事ぶりだね」

 店に客がいなくなると、品出しをしていた店長がわざわざ褒めてくれた。「ありがとう」ございます」お客さんにするのと同じくらい、しっかりお辞儀した。「いつもその調子で頼むよー」と店長は上機嫌で品出しに戻った。

「落ち込んでる時の方が仕事できるってどうなってんだ」

 横のレジに立っていた鮫悪が話しかけて来た。声に全く覇気が無い。

「落ち込んでないし。あんたの方こそいつまで引きずってんの」

「この俺が?まさか」

 芸人とは思えない、震えるか細い声で言った。

 初舞台から五日経っても、私たちはあの惨劇を忘れることができなかった。三分間のネタ中、ただの一回も笑い声が聞こえなかった、あの地獄を。他の芸人では大笑いしていたゲラのおじさんも、私たちの時だけ、口を真一文字に結んでいた。ネタ中、おじさんと一回目が合ったけど、漆を塗りたくったような真っ黒な瞳で私たちを見つめていて、思わず目を逸らしてしまった。正直ネタに自信はあった。そのネタで全く手応えが無かったのだから、初めは威勢良く飛び出したのに、最後には消え入りそうな声で礼を言っていた。当然客からの獲得票数は全二十組中、ぶっちぎりの最下位だった。ああ、今思い出しただけで泣きそう。次のライブは明日なのに、こんな調子じゃまたスベることは明白だ。

 はあ、と二人で同時にため息をついた。最近ずっとこんな調子だ。

「何が悪かったんだろうな」

 鮫悪が言った。もうこの話は何回目か分からない。結論は出ていないけど。

「運じゃね」

 私は半ば投げやりに答え、後ろの棚からコーヒーカップを取り、マシンに向かった。カフェラテを注ぎ、レジに戻る。「それどうした」鮫悪が無感情に言った。私は抑揚なく返す。

「注いできた」

「客もいないのに?」

「私が飲むやつ」

「お前が飲むやつね」

しばしの沈黙が流れた。そして私がカップを口に近づけたその時だ。

「お前が飲むやつ?」

 鮫悪はいきなり声に生気を取り戻した。私は肩をびくん、と震わせた。

「何、急に大声出して。びっくりするでしょ」

「いや何で常識人みたいに喋れるんだよ。お前みたいな迷惑店員SNSで見たことあるわ」

「あ、やば」

「無意識だったの?悪意無き悪行だ」

「いや、やばいってのは店長がいる時にやっちゃったって意味で」

「純粋なる悪党!バレなけりゃ何やってもいいの精神。こういう奴が政治家をやっています。と、とにかくまだ間に合うから、金を払え」

「え、鮫悪が払ってくれるの?」

「いつ払うなんて言いました?え、俺二秒くらい寝てた?」

「損して得を取れよ」

「無能コンピュータ付きブルドーザー。コンピュータ付きブルドーザーと呼ばれた田中角栄と同じことを言っているけど、その実はただの無能である」

「おお」

 鮫悪のツッコミに私は舌を巻き、拍手を送った。さっき品出し中にサボっていた時、本売り場でなんとなく読んだ田中角栄の名言によく対応できたもんだ。

ふう、と彼は一息ついて言った。

「俺、何で漫才がウケないか分かったわ」

「何で?」

「ボケとツッコミが逆だ。お前はあまりにも異常過ぎる。俺の二メートル二十センチの体を凌駕するほどにな。変だとは分かっていたけど、想像以上だったよ」

「私が異常?なわけ」

私はカフェラテの匂いを嗅いで言った。「そういうとこだ!」鮫悪は叫んだ。

「匂いもだめなの?」

私はきょとんとして返した。

 ふいに、くすくす、と笑い声が聞こえた。見ると、スーツ姿の若い女性が口元を押さえて笑っていた。私たちは言い合いをやめ、彼女を見た。すると彼女は「面白いですね」と私に目配せした。

 おもしろい。

彼女の言葉を聞いて、心にお湯のような温もりがじんわり広がった。私と鮫悪は顔を見合わせた。鮫悪は瞳を潤ませ、口をぱくぱくさせていた。何泣いてんのよ、と言おうとしたけど、私も目頭が熱くなった。

「確かに逆の方がいいかも」

「だろ」

 鮫悪は晴れ晴れとした表情になった。コンビとしての、大きな一歩を踏み出した気がした。

「何やってんだ君たちは!」

急にガラスを破りそうなほどの怒鳴り声がし、心臓が縮み上がった。声の方には、煙が出そうなくらいカンカンに怒った、店長がいた。

「何故レジに立っていてお客様に気付かない!」

そう言われて初めて、女性の奥に長い行列ができていることに気付いた。いつの間に!

「すみません!すみません!」

 私たちは頭を下げ、大急ぎで仕事に取り掛かった。

女性にはサービスでカフェラテをあげた。


    〇


 闘志は闘志でも静かなる闘志。今私たちに漲っているのはそれだった。仕上がっている、という状態に近いのかもしれない。いつでもネタをやれる、ほどよい余裕と緊張感があった。   

楽屋では何人かの芸人から、「なんか楽しそうだな」と言われた。どいつもこいつも、にやにや不快な笑みを浮かべている。獲得票数ダントツ最下位の私たちが勝負を捨てたと、嘲笑うようだった。でも、国島さんだけは違った。

「今日からが本番みたいやな」

彼は好奇心と敵意が込められた視線を、私たちに向けた。私は頷いて返した。鮫悪も伏し目がちに、しっかり国島さんを見返す。

これは龍と鮫からの宣戦布告だった。獲得票数一位のジャマイカケルベロスに牙を剥いたのだ。もう中途半端なネタはできない。崖っぷちに歯だけで食らいついているくらいの劣勢だが、必ず跳ね返して見せる。

 異変を感じたのはライブが始まってからだった。出番を終えた芸人が一様に苦苦しい顔をして帰ってくるのだ。まるで前回のネタを終えた私たちみたいに。そして皆口を揃えて「客が重い」と言った。自分がウケないのを客のせいにするのはご法度だけど、確かにライブが始まってから、一度も笑いが聞こえないのは変だった。

 あっという間に出番が次になった。準備を整えて、袖から舞台の実咲を見る。彼女は初めこそ明るい声でネタをしていたけど、観客の白け具合に顔が青ざめていった。彼女が挽回しようと、声を張れば張るほど、空回り感が増していく。沼に沈み込むような悪循環にはまっていた。一人で戦わないといけないピン芸人は、こういう時特に辛い。気の毒になり目を背けたくなったけど、しっかり見続けた。実咲には悪いけど、ああなりたくなかったら、彼女の失敗から活かせるものを探すべきだと思った。

 波の無いままネタが終わり、彼女はふらふらと袖に戻って来た。すれ違う時、声はかけなかった。でも、彼女の分まで笑いを取ってやろうと誓った。

 鮫と龍の明るい出囃子が鳴った。私たちは大股で舞台に向かった。

 マイク前に立つと、予想だにしない光景に、思わず息を呑んだ。同時に何故皆が異様にウケていないのか理解した。

観客席にはガタイの良い真っ黒なスーツを着た男たちが、ずらりと並んでいた。そして最前列の真ん中の席には、この前の機動隊員を率いていた細身の男が座っている。男は私と目が合うと、微笑んで手を振った。

 こいつら、私たちの邪魔をしに来たのか?私は動揺を隠せず、鮫悪を見た。しかし彼は、

「鮫と龍です。よろしくお願いします」

一切の揺らぎも見せず、漫才を始めた。頭を下げる彼に引っ張られて、私も頭を下げた。

「やるぞ」

彼はマイクに入らない声で言った。そうだ。やるしかないんだ。新世紀の王者はきっとこんなところで退かない。

「ねえ、あるあるしりとりしない?」

「あるあるしりとり?知らねーな」

「私が考えた新感覚のしりとりなんだけど、やろうよ」

「じゃあ知るわけねーな。やってもいいけどルールを教えろよ」

「例えば、りんごって言った時、普通のしりとりだったらそのまま次に進むけど、あるあるしりとりの場合、りんご、絵画のモデルにされがち、って感じであるあるを言わないといけないの」

「あー。次の人は、ゴリラ、動物の中で最も悪口に使われがち、とか返せばいいのか」

「そう。で、もう一つルールがあって、デタラメなあるあるが通らないよう、自分以外の参加者の過半数の共感が得られないと次に進めないの」

「適当なあるあるはダメってことね。おっけー、理解。やろうや」

「じゃあ、先攻は鮫悪にあげる」

「お、ありがとう。じゃ、しりとり」

「・・・」

「ん?しりとり」

「・・・」

「あ、もしかして、しりとりのあるあるも要る?」

「うん」

「そうか?じゃあ、しりとり、遊園地でのプレイ人口が異常」

「ない」

「えっと、決着までにかかる時間の長さに対して、勝利の感動が薄過ぎる」

「ない」

「えー、しりとり、りんご、ゴリラ、ラッパ、パンツ、積み木、きつね、ねこ、コアラ、からが本当の始まり」

「ない」

「るで攻める奴がいるけど、そこまでして勝ちたい?と思う!」

「ない」

「そこまでして勝ちたい?」

 鮫悪が声を荒げた。

「途中で気付いたけどこのゲーム、二人だと後攻有利過ぎだろ!」

 ぷはっと黒服の一人が噴き出した。今日初めての笑いだった。いける。

「お前ズルだぞ」

「いや作戦だから」

「作戦て何?じゃあ、あるあるに共感したかは教えてくれ」

「共感はしたよ」

「してるじゃん!勝つために嘘ついてんじゃん!」

「うるさいなあ、じゃあ次は私がやるよ」

「俺が悪かったの?まあいいや。俺の気持ちを思い知らせてやる」

「理科室、机が黒い」

「ないでーす」

「月、きれい」

「ないなー。ん?」

「絆、深い」

「おい待て」

「ナイフ、鋭い」

「待てって!」

「服、縮む」

「こいつ一人だけでしりとりやってる!」

 客席が笑いでざわめき始めた。こうなったらこっちのものだ。

「あとシンプルにあるあるが弱すぎる!意地悪抜きにして、普通にないわ」

「夫婦、仲良し。風船、割れる。富岳、三十六計」

「おい、んが付いたのに続けてるぞ!怖っ!あと仲良くない夫婦はいるし、富岳、三十六計。はあるあるでもない!ていうかさ」

 鮫悪が一拍間を置いた。

「俺がツッコミ?この見た目が異常な俺より、お前の方が異常なん?ねえ、お客さんたちならこの意味分かりますよね」

 劇場が揺れた。

私は驚いていた。今の観客に向けた鮫悪の台詞は、突然のアドリブだった。正体がバレることを恐れる鮫悪が、こんな危ない橋を渡るとは思っていなかった。

「車、危ない。マッチ、危ない。知恵、危ない」

「使う人次第!全部使う人次第だろ!もう止まれ、お前」

「そういえば一つ言い忘れてたんだけどさ」

「やっとやめたか。で、なんだ?」

「さっき、しりとり、りんご、ゴリラ、ラッパ、パンツ、積み木、きつね、ねこ、コアラ、からが本当の始まりって言ってたけど、ラッコまでは確定じゃない?」

「いや、どうでもいいわ。どうも、ありがとうございました」

 頭を下げた。割れんばかりの拍手が劇場に響いた。

 やった。私は膝の上でぐっと拳を握った。顔をあげると、頭上には笑顔ながらも放心状態のように口を開けた鮫悪がいた。私たちはお互いに顔を合わせ、強くハイタッチした。肩が外れそうなほど、強い力だったけど、全然怒る気にはならなかった。

客席最前列では、口角をあげたあの細身の男が、親指を立てていた。嬉しいけど、なんか不気味だ。そして男は立ち上がり、黒服たちを残して一人で出口へ向かった。「待て」と鮫悪が追おうとしたけど、それを制止した。場を乱す行動を取り、後の人たちに迷惑をかけるのはフェアじゃないと思った。鮫悪もそれを理解したようで大人しくなった。

 ふいに激しい出囃子が鳴った。アメリカのロックバンドの曲だ。かき鳴らされるエレキギターのように、ジャマイカケルベロスが荒々しくステージに出てきた。二人並ぶと、やっぱり迫力がある。私たちは急いで袖へ向かった。すれ違う時、「おもろかったな」と国島さんは声を低めて言った。笑いとはかけ離れた、真剣な表情で。



 こぢんまりとした居酒屋は、大勢の芸人で許容量を超えた賑わいを見せていた。机には皿の置き場が無くなり、じゃんけんで負けた芸人の掌が新たな皿置き場として使われている。

「いやー、負けたわ」

 国島さんは私の肩に手を回し言った。酒臭い息が鼻にかかり、顔を背ける。ジョッキを持った国島さんは、いつも以上にご機嫌だった。「程々にしとけや」と相方の井川さんは呆れている。「うっさい、後輩の祝杯やぞ」と国島さんはもう一杯注文した。

 今日のライブ後の観客投票で、鮫と龍は一位を獲得した。それも二位のジャマイカケルベロスを突き放した、圧倒的な一位だった。前回の票数を含めた総合順位でも、二十位から五位にまで浮上した。票を入れてくれた、黒服たちはどうやら邪魔をしに来たわけではないみたいだった。でも何もされないのは、それはそれで不気味だ。

順位が発表され、一番嬉しそうにしたのは国島さんだった。その姿に困惑していた私たちに、井川さんは「新しいライバルができて嬉しいらしいわ」と教えてくれた。鮫悪はその言葉に随分と恐縮していた。憧れの人からライバルと言われたのだから、無理は無いけど。

「そういやお前ら、漫才衣装は作らんのか?」

「作った方がいいんですかね」

 私は聞き返した。別に今私服でウケるなら、そのままでもいいかなと考えていた。

「あほ!漫才衣装は名刺みたいなもんやで。それが無いってのは名前が無いのと一緒や」

それは言い過ぎじゃ、と私が言おうとすると、横から「作りに行くぞ、赤稲」と鮫悪が言って来た。こいつ、鮫じゃなくて従順な犬じゃん。

 急に遠くに座っていた芸人が顔を赤らめて、私たちのテーブルに来た。男は国島さんの肩に手を回し、呂律の回らない口調で言った。

「ジャマイカケルベロスさん、今日手抜いたんじゃないすか?」

「あ?」

国島さんが表情を曇らせ、その男を見た。やばい、と思った。笑いに対する姿勢を馬鹿にされることは、国島さんの唯一の地雷だった。爆発するぞ。私は目を細めた。

「そんなわけないやろ!」

 そう聞こえて間もなく、「ひ」と怯え声があがった。やっぱり。恐る恐る目を開けると、井川さんが男の頭を鷲掴み、睨みを利かせていた。「なめとんのか」と任侠映画の一幕のように恫喝する。そうだった。井川さんの方がもっとお笑いにストイックだった。

「おう井川、そんくらいにせえ」

 国島さんが割って入った。いつもはふざけている国島さんの焦る姿が可笑しくて、私は声を上げて笑った。「みんな、ごめんな」国島さんは芸人たちの方を向き、手を合わせた。私もそれにつられて周りを見ると、居酒屋はお通夜のように静まり返っていた。

「お前だけだよ、笑ってたの」

 鮫悪が奇妙なものを見るように言った。そんな目で見ないでくれ。

 しばらくしてまた元の賑わいを取り戻した頃、若い芸人たちが私の横に座る実咲を取り囲んだ。彼らは「この後暇?」とか「カラオケ行きましょうよ」とか何の面白みも無い言葉で声をかける。実咲は顔を伏せた。これだから飲み会は嫌いだった。いや、自分が誘われなくて現実を知らされるからとかじゃなくて、芸人には酒癖が悪いのが多いから嫌だった。

「おいやめとけ」

 私の右隣の鮫悪が、男たちに言った。男たちは鮫悪を睨み返す。

「ナンパする暇があるなら家に帰ってネタ書けよ」

「は?今日ちょっとウケたからってもう天狗か?やんのかお前」

「おう、やろうぜ」

 鮫悪は立ち上がった。天井に頭がつかないよう首を曲げて、男たちを見下ろした。彼らの顔に鮫悪の巨大な影がさした。

 彼らはくそ、と俯き元の席に戻って行った。「やるねえ」と国島さんが拍手した。どうも、と鮫悪は無愛想に返す。素直になれない男子中学生のようだ。

「ありがとう」

 実咲が微笑んで言った。笑顔が眩しい。

「ま、まあね」

鮫悪はたじたじになって返した。屈強な彼も、彼女の可愛さには勝てないみたいだ。

「今日面白かったね」

 実咲が言った。「まだ舞台に立ったばかりなのに鮫悪くんはすごいよ。私なんか今日もスベっちゃった」

「いや、ウケてたけどなあ」

「それは嘘」

実咲にツッコまれ、ははは、と鮫悪は頭を掻いた。

 その後も二人は談笑を続け、最初はぎこちなくしていた鮫悪も次第に砕けて、楽しそうにしていた。因みにこの会話は私を挟んで行われており、高校生男女のようなやりとりに私はとても歯痒さとむず痒さを感じていた。

飲み会の終わり際、鮫悪は実咲に連絡先の交換をもちかけた。実咲はそれを快諾した。「やるじゃん」と私が鮫悪を肘でつつくと、彼は「うるせー」と妙に大きな声で返してきた。

あれ、これってもしかして。

いや、考え過ぎか。



 大都会東京でも、大通りを外れると人通りが少なかった。私と鮫悪は歩道を横に広がって歩く。飲み会で浪費した分、私たちは歩いて帰っていた。新宿から中野まで、約四十分の道のりは酔いを醒ますのに丁度良い距離だ。六月の夜風が、歩道脇に植えられた木々を揺らした。

 居酒屋を出てから、鮫悪との会話はほとんど無かった。彼はずっと物憂げな様子で歩き、なんだか話しかけられる雰囲気じゃなかった。まさかやっぱり、邪推を働かせた時だった。

「いつまでついてくるんだ」

 そう言い鮫悪は後ろを振り返った。私も驚いて背後を見ると、

「あら、バレてたのね」

暗闇から生まれるように、木造アパートの陰からあの細身の男が現れた。薄ら笑いを浮かべた男の顔は、青白い街灯にぬらっと照らされている。私は肝を潰した。

「隠す気なかっただろ」

「どうかしら」

 両者とも微塵の焦りも感じられない口調で言った。慌てている私は場違いな気がして、二人から距離を取った。

「お前は誰なんだ。ライブにまで来て」

「尾花(おばな)。そういう名前よ」

「名前なんか聞いてねえ。何者だって聞いたんだ」

「何者ねえ。逆にシャークちゃん、あなたは自分が何者なのか知っているの?」

「何?」

「ほら、答えられないでしょ。それと一緒。私も分からない」

「だからそんなことが聞きたいんじゃねーよ」

 のらりくらりと答える尾花に、鮫悪は苛ついた。それを見て、尾花は「からかって悪かったわね」と柔和な表情になり、「今日は全部を話しに来たの」と言った。

「全部?」

「そう。私たちにはもう敵意が無いから」

「撃って来た奴がよく言うぜ」

そうだ、そうだ、と小声で言った。すると尾花は私を見て「あの時はまだ力を見誤っていたわ。あなたもごめんなさいね。化粧をしていたから仲間と断定したの」と言った。恐ろしい地獄耳だ。私は手で口を覆った。

「大体あれはシャークちゃんが悪いのよ。化粧で変装なんて妙な真似しなければ、永遠に監視され続けるだけの平穏な一生だったのに」

「俺に人権は無いのか」

「間違っては無いわね」

「人じゃないってことか」

 鮫悪は少し下を向き、ぽつりと呟いた。でもすぐに顔を上げ、尾花を見つめ返した。

「俺がどうやって生まれたか教えろ」

「強いのね」尾花は真剣な表情を作ると、「いいわ、少しあなたの話をしましょう」と語り始めた。

「二年前、ある研究者が地質調査中に大きな黒い卵を見つけたの。研究者がその卵を持ち帰って調べたところ、地球には存在しない土が卵には付着していた。それから大きな機関主導でプロジェクトが動き出し、卵は山奥の研究所で厳重に保管されたわ。そして間もなく卵は産まれた。ただ一つ想定外だったことに産まれたものはあまりにも強すぎたの。それは生後間も無く、研究所を脱走してしまった。その後はあなたの知っている通りよ。シャークちゃん」

 鮫悪は腕組をして、じっと聞いていた。

「大きな機関てのは何だ」

「それは言えない。でもあたしは彼らの命令で動いているわ」

「全部話すんじゃなかったのか」

「ふふ、ごめんなさいね」

 尾花は手の甲を鼻に当て、上品に笑った。

「そしてここからが本題だけど、上は私に新たな任務を与えたの。鮫と龍が日本全国津々浦々どこへ行こうとも、追いかけ続けろって任務を」

「また監視かよ」

「いいえ、上はもっと違う呼び方をしていたわ。分かる?」

 尾花はクイズを楽しむように左右に揺れた。

私はさっきの尾花の話から、一つの答えが頭に浮かんだ。小さく呟く。

「ファン?」

「正解!」

尾花は私を指さした。やっぱり地獄耳だ。

「これからファン一号としてずーっとあなた達を追いかけ回すから。よろしくね」

「そりゃ、ストーカーだ」

鮫悪はしかめっ面で抗議した。私としても地獄耳のファンなんて嫌だ。

「物は言いようね」

 尾花はそう言うと遠くにある電柱の後ろに隠れ、また私たちを観察し始めた。

「え、これからずっとあれ?」

「そうみたいだな」

 鮫悪は諦めたように言うと、歩き出した。変なファンが付いてしまった。


    〇


赤、青、黄。ハンガーにズラリと並べられた原色のスーツを前に、私の目はちかちかした。一度漆喰の白い壁を見て、休憩する。その間も鮫悪は鏡を見ながら、熱心にスーツを見比べていた。国島さんに漫才スーツを作るよう言われたから、どうも張り切っているみたいだ。

今来ている店もジャマイカケルベロスが衣装を買ったという、歌舞伎町の小さな店だった。多分、漫才師というよりはホスト向けの店なんだろう。

「格好いいやつがいいんだよなあ」

 鮫悪はぶつぶつ言い、スーツを物色した。格好よさとか気にする奴だっけ。少し違和感を覚えたけど、どうせなら格好いい方がいいよなと思い直し、私もスーツを見た。

「あれ。このスーツ」

 鮫悪は一着を手に取り、まじまじと見た。すると丸い小さな眼鏡をかけた、初老の店主がやってきて、「どうかしたかい」と聞いた。

「これ、コミカル道中の色違いの衣装じゃ」

「おー、そうそう。よく分かったね」

「こっちは、ポリティカルロベルトと同じ?」

「正解」

「じゃあ、これは徘徊少年の前の衣装だ」

「そうだよ。んでこれは、中都会の衣装ね」

「すげーーーーーーっ」

 二人は次から次へと知らない芸人を言い合い、スーツを物色した。お笑いオタクどもめ。

 私は真剣に選ぼうと、手元のハンガーラックに目を戻した。カラフルなスーツを眺めていくと、光沢のある赤のスーツが目に入った。手に取ると光を受けて、糸が細かく光った。龍の鱗のような、色艶だと感じた。龍の鱗なんか見たこと無いけど。

Tシャツの上から試着した。鏡を見るとサイズは少し大きいけど、変というほど着られている感は無い。腕や背中を確認しても、結構いい感じだ。何より龍を纏っているようで、ちょっと強くなった気がした。

「気に入ったかい?」

 店主に声をかけられた。私はしっとりとした生地を撫で、「ええ」と返した。

「君、名前は?」

「赤稲あかね・ドラゴンです」

「じゃあぴったりの色だ」

店主は眼鏡の奥で目を細めた。でも「赤か」と鮫悪は不満げな顔を見せた。

「嫌なの?」

「赤って俺の名前と正反対じゃね?」

鮫悪は腕を抱えた。確かに海の生き物に赤は似合わない。すると店主は「揃いじゃなくてもいいんじゃないかな」とスーツを探し始めた。

「君、名前は?」

「鮫に悪と書いて、シャークです」

「鮫か。じゃあこれはどうだろう」

 店主はラックから、青いスーツを取り出した。こちらも生地に光沢がある。

「赤稲あかね・ドラゴンちゃんのと同じ生地で、海の青色だ」

「おお!いいね店主」

 鮫悪はスーツを受け取り、じっくり見た。暖色と寒色で対比になるし、私も良いと思った。

「これにするよ」

「気に入ってもらえて良かった。じゃあ君のサイズを新しく作るから、二週間後にまた来てくれ」

「了解」

 その後私のYシャツと赤いネクタイを選び、会計となった。金額は一式で七万八千円だった。当分はもやしと白菜で我慢しようと誓った。


    〇


「ん?そうか?じゃあ、しりとり、遊園地でのプレイ人口が異常」

 ずれた。

「ない」

「えーっと、決着までにかかる時間の長さに対して、勝利の感動が薄過ぎる」

またずれた。

「ない」

「えーー、しりとり、りんご、ゴリラ、ラッパ、パンツ、積み木、きつね、ねこ、コアラ、からが本当の始まり」

ここもずれた。駄目だ。今日は一段と呼吸が合わない。

 私は鮫悪の間に必死に合わせ、なんとか漫才を終えた。客の反応は上々だった。でも、私の中には焦燥感だけが生まれた。

 楽屋に戻ると、何組かの芸人が迎えてくれた。彼らは「ウケてたな」とか、「入れ替わり戦行けるんじゃね」と口々に言ってきた。ジャマイカケルベロス一強だったセカンドライブで、僅差の二位まで浮上した私たちへの、彼らの期待は大きかった。

 そんなだからいつまでもセカンドなんだ、と胸中で思う。私たちの失速に気付けないようでは、漫才師とは言えない。

 視線を感じて目を向けると、ジャマイカケルベロスの二人がつまらなさそうに私たちを見ていた。その視線が胸に鋭く突き刺さる。出番が近付いた彼らはすっと立ち上がり、舞台へ向かった。少しして、楽屋まで轟く爆笑が聞こえた。

 負ける。私は思った。このままじゃ絶対、ジャマイカケルベロスには勝てない。六月のライブは今日を含めあと二回だった。多分今日のライブで大きく票数を離されるから、次のライブでは全ての票を集めるくらいの大勝をしないといけない。

 なんとかしないと。気付くと爪を噛んでいた。白い部分がぼろぼろになっている。

 一際楽し気な話し声が聞こえた。胸に黒い靄が広がる。

「今日も面白かったよ」

「ありがとな」

楽屋の隅で鮫悪と実咲が談笑していた。今度いいスーツができるんだよ、なんて言いながら鮫悪は間の抜けきった笑顔を浮かべている。

 なんとかしないと。



 ライブ終わりに私は劇場前でほの香を呼び止め、鮫悪を含めた三人で会議を開いた。

「よし、鮫悪と実咲を引き離そう」

 私から事情を聞いたほの香はすぐにそう言った。

「待てよ、俺は漫才に集中できてる」

鮫悪の顔が青ざめた。「うそつき。実咲のことばっか考えてるくせに」私が言うと、鮫悪は何も答えず、顔を紅潮させた。忙しい顔色だ。一方ほの香は顔色を変えず淡々と言う。

「とりあえず実咲をブロックしろ。あと、次のライブから楽屋に入るな。実咲を目に入れるな。声も聞くな。淡い夢だったと思え」

「めちゃくちゃだ」

 鮫悪のYシャツの背中に、じわーっと汗が染みた。「国島さんは私たちを見限ろうとしてるよ?」私は鮫悪に訴えかけた。鮫悪の耳がぴくんと動く。彼は脂汗を滲ませ、言葉にならない喉が掠れる音を出した。憧れと恋の間で葛藤しているようだった。

「やれ」

 ほの香が冷酷な圧をかける。鮫悪は頭を抱えた。

「それじゃあ、駄目よ」

 艶のある声が背後でした。見ると尾花が、憐れんだ目をしてこちらに歩いてきた。

「駄目よあなたたち、引き離すなんて」

「え、どちら様?」

 ほの香は奇妙なものを見るように言った。「知り合い」私が言うと、「あんた変な知り合い増えたね」と言われた。変な知り合いの中には、鮫悪も含まれている気がした。

「なあ!やっぱ駄目だよな!」

 鮫悪が藁にもすがるように言った。

「ええ、もういっそのこと、お付き合いさせた方がいいわね」

「それはダメ」

 私は手をぶんぶん振って否定した。「付き合ったら、ますます漫才が疎かになるでしょ」

「未熟ね。男ってのは追いかけるのが好きな生き物なの。手に入れた女になんかすぐ興味を無くして、また漫才に戻ってくるわよ」

「そんなわけない」

 鮫悪が強く否定した。でもほの香は「一理あるな」と顎に手を当て考え込んだ。何か心当たりがあるのかもしれない。

「でも尾花さん、鮫悪の秘密は分かってるでしょ」

「それを気にするかは相手次第よ。で、相方のドラゴンちゃんはどうするべきと思う?」

 親し気に言われた。どうするべきって言われても。私は答えあぐねた。確かに引き離せば逆効果になるかもという恐れと、彼を恋愛に送り出していいのかという懸念がぐるぐる脳内を駆け回った。鮫悪を見ると「いつもありがとう」と謎の感謝を私に囁いていた。今日の彼は小動物のように小さく見えた。

「あんた実咲のこと好きなの?」

 改めて聞いた。「それは」と鮫悪は言葉を濁す。

「どうなの?」

「ん、と。はい。好き、です」

 彼は俯いて言った。耳まで真っ赤になっている。私は「よし」と頷いた。

「じゃあ決まりだ。今すぐ実咲をデートに誘おう!」

「今?」

 彼は目を白黒させた。

「当たり前でしょ。漫才に割く時間も考えたら、ちんたらしてられないし。ねえ」

「早く」

「早くなさい」

 ほの香と尾花が追撃を加えた。「ひえええ」と鮫悪は奇声を上げ、さっきの脂汗とはまた異なる汗をだらだら流した。鮫悪は逃げるように、私の耳元で言う。

「でも、俺人間じゃないんだぜ」

「その話は終わったの!」

私は突き放した。彼は肩で荒く呼吸し、膝をついた。三人でそれを取り囲む。逃がさないように、上からじろりと見下ろした。すると彼は観念したように項垂れると、

「やりゃあいいんだろっ!」

声を張り上げ、スマホを取り出した。そして実直に『デートに行きませんか?』と送ると、その画面を私たちに見せた。

「どうだこれで満足か。よし今日のところはこれで帰るぞ」

 そう早口で言い、スマホをポケットにしまった時だった。通知音が鳴った。私たちは実咲から?と音に食いつき、「早く見せてよ!」と彼を急かした。

「早過ぎだろ」

 鮫悪は困惑したようにもう一度スマホを取り出すと、まるで嫌なものを見るように、片眼を細めてスマホを点けた。

 そして魚のように目と口をぱくぱくさせながら、画面を私たちに向けた。顔をくっつけ、三人で小さい画面をのぞき込む。


うん、行こう!


「きゃあーーーーーーーーーーー」

 夕焼けに黄色い声が響いた。


    〇


 午前十時、池袋駅前。早めに到着した鮫悪は所在なくきょろきょろ周りを見ていた。顔を動かす度、いつもよりがちがちに塗られた鮫悪のファンデーションが、日差しを浴びてぎらぎらと光る。勝負の日だから気合を入れてメイクしたけど、やりすぎだったかと、少し後悔した。

鮫悪は頻繁にスマホを確認していて、遠目で見ても全く落ち着きが無い。私は彼に見つからないよう、駅の雑踏に紛れた。どうしても心配で来てしまった。彼はばっちりのデートプランを用意していると言っていたけど、本当だろうか。

 ふいに鮫悪が手を挙げた。構内から実咲が小走りで出てきた。ひらひらのスカートが可愛さをまき散らすようにふわふわ揺れる。息を挙げた彼女は顔を紅潮させて、鮫悪に手を合わせた。彼がたじたじになる。ほんと、あのガーリーな服装に負けないかわいさだから凄い。

私はイヤホンを付けた。

「今日はありがとう」

「ううん、こっちこそ誘ってくれてありがとう」

聞こえ方は良好だった。このイヤホンは鮫悪のリュックに入れておいた、盗聴器と繋がっている。尾花に貰った物だ。私は盗聴器が聞こえるぎりぎりの範囲内で、追跡を始めた。

 出発した彼らは商業施設や映画館が密集するエリアへ歩いた。映画でも見るのかな。確かに定番だけど、初デートで映画って話す時間が減るしどうなんだろうと、歩くサラリーマンを盾にして尾行する。

「人多いね」

「そうだね」

緊張気味な二人の会話が微笑ましくも焦れったかった。これを聴き続けるのってある種の地獄な気がする。

「そういや、実咲が何歳か聞いてなかった気がする」

「二十四だよ。鮫悪くんは?」

「俺は、二歳?」

「え?」

 実咲はきょとんとした。そこは嘘でも二十七とかにしとけ。

意外なことに彼らは商業施設やアニメショップが集うにぎやかな通りを抜け、人通りが減る奥まった道へ進んだ。どこにいくつもり?左右にメイドカフェやミリタリーショップが並ぶディープな通りに入り、不穏な予感を抱いた。

 ここだ、と鮫悪が立ち止まった。私は咄嗟に物陰に隠れる。そして着いた場所を見て、私は彼がどういう人間だったかを思い出した。

彼らの前には小さな地下劇場があった。そうだった。鮫悪は生粋のお笑いオタクだった。でも芸人のデートでこれはないだろ。「ここ?」と実咲は困惑した顔で、地下に伸びる階段を指さした。

「チケット取ってあるから」

鮫悪は自慢げに、財布から二枚のチケットを取り出した。この気遣いをもっと他へ回せよ。

 二人は階段を下り、劇場へ消えた。流石にこの規模の劇場に入ると尾行がばれるので、私は近くのコンビニのイートインスペースで時間を潰した。尾行で時間つぶしの定番と言えば、喫茶店に入り一杯のコーヒーで何時間も粘るだけど、貧乏芸人にそんな金あるか、ばか。

 一時間ほどして二人が出てきた。鮫悪は階段の前で劇場に振り返った。

「ここさ、俺が国島さんに誘われて、初めてお笑いを見た場所なんだ」

初耳だった。

「あの日のジャマイカケルベロスすげーウケてたよ。舞台で輝く二人を見たあの瞬間に、俺の生き方は決まったんだ」

「すごいね。お笑いの力って」

「うん。俺はさ、笑いを教えて貰った恩を、国島さんに勝って返したいと思ってる。仇で返すみたいになるけどな」

 鮫悪はオチをつけるように言った。ううん、と実咲は真剣に返す。

「絶対国島さん喜ぶって。私応援するよ」

「おいおい、実咲もセカンドのライバルなんだぞ」

 鮫悪のツッコミに「そうでした」と実咲は舌を出した。まるでアイドルだ。

「てなわけで、実咲に俺のことを知ってほしくてここに来ましたー」

 鮫悪は恥ずかしそうに声を小さくして言った。

「ありがとうございます」

 実咲はぺこりと頭を下げた。鮫悪は一層恥ずかしそうに指をもじもじさせた。

 いいデートプランじゃん。私はちょっぴり感動していた。最初から私の心配なんていらなかったみたいだ。帰ろう。

「次は浅草の劇場に行きます」

 駅の方へ足を向けた時、鮫悪の宣言が聞こえた。もう少し尾けた方が良さそうだ。



東京劇場弾丸ツアー。二人のデートに名前を付けるならそれだった。彼らは浅草、渋谷、中野、新宿、とそれぞれの土地にある劇場から劇場へ、全く寄り道せずに移動を繰り返した。昼ご飯も移動中に鮫悪が用意したおにぎりで済ませるなど、その徹底ぶりに私は引いてしまっていた。これで怒らない実咲は本当にいい子だ。

過酷なスケジュールと浪費される電車賃に私は音を上げていたけど、二人は楽しそうにデートを続けた。鮫悪はともかく、実咲は華奢なのにすごい体力だ。

 神保町に着く頃には、空は夕焼けに染まっていた。私はへろへろになりながら、なんとか二人について行く。もう劇場にしか行かないと分かった以上帰っても良かったけど、今から行くライブには私も興味があった。

 しばらく歩くと、大きな劇場が見えた。劇場前には大勢の客がいる。やっぱ人気あるな。流石はファースト劇場だ。入り口横のポスターには、しっかり東都八丁目横丁の名前があった。

 ここでも鮫悪はチケットを用意していて、二人はスムーズに入場した。私は慌てて券売機に向かった。券売機を操作しつつ二人を目で追っていると、実咲が鮫悪のTシャツの袖を掴むのが見えた。いつの間にそこまで親密になったのやら。案外今日のデートプランは悪くなかったのかもしれない。いや、悪いか。

 チケットを買って入場し、座席に向かった。開演ぎりぎりに買ったせいで一番後ろだったけど、尾行中だし結果オーライだ。中段に座る鮫悪たちの位置を確認し、席についた。

辺りを見渡すと、会場はかなり広いと感じた。座席数は三百で、セカンドの約二倍の広さだけど、多分舞台に立てばもっと大きく見えるだろう。やっぱり早くファーストで経験を積まないといけないと、胸の奥が湧き立った。

劇場の扉が閉まり、外の明かりが遮断された。私はステージに目を向けた。薄暗くなった部屋には、アップテンポの曲がかかる。そしてステージ横のモニターに、

東都八丁目横丁

紫色のゴシック体が浮かび上がった。私は息を呑んだ。いきなりか。

「どうもー」

 袖から詩帆と加瀬が出て来た。だぼついた衣装の詩帆と、ぴっちりしたスーツを着こなした加瀬の並びは、悔しいけど華があった。二人は大きな拍手に迎えられ、マイク前に立った。

詩帆。彼女の顔には緊張一つ見られなかった。もうこの規模には慣れっこってことか。

 客いじりなどは一切せず、漫才が始まった。秋葉原、という設定の漫才コントだった。ボケの詩帆が秋葉原にいる様々なオタクを演じ、加瀬がそれにツッコんでいくという構成だ。題材はかなりありきたりだった。でもその陳腐さを、東都は容易く跳ねのけた。

 変幻自在に繰り出される詩帆のボケに、加瀬の鋭い大喜利的なツッコミがばしばし決まっていく。特に詩帆の「私は撮り鉄」と電車に乗って風景を撮影する素振りに対して、「車内から撮るタイプの撮り鉄だ。普通の撮り鉄は電車が目的なのに、こいつにとっては手段でしかない」というツッコミが入ると、一気に劇場の笑いが加速した。早く次のツッコミが聞きたくなる。そんなネタだった。終わり際には音響設備が弱い劇場だと、漫才の声が聞こえなくなるくらいの笑いが巻き起こった。喝采の内に漫才は終わった。

 面白かった。めちゃくちゃ。でも私は全然笑えなかった。気分が悪かった。彼らに用意された面白さは悔しさや焦りに姿を変え、胸の中をへばりつくように侵食していった。私は二の腕に爪を立て、礼をする詩帆をじっと見た。

 顔を上げると、詩帆も私を見た。距離が遠くても、それははっきり分かった。私たちは寸刻目を合わせた。途端に得体の知れない恐怖に襲われ、目を逸らした。僅かに動悸が荒くなる。軽蔑とか挑発とは違う、何か超然的なものが彼女の黒目には宿っていた。

 もう一度舞台を見ると、既に詩帆の姿は無かった。出囃子が鳴り、次のコンビが登場した。

 ふと視界の端で大きなシルエットを捉えた。鮫悪が実咲の肩に手を回し、劇場の扉を開け、出て行くところだった。もうそこまで発展したのか、と思ったけど少し様子がおかしかった。実咲は顔に大粒の汗を浮かべ、唇をぴくぴく痙攣させていたのだ。私は立ち上がり、急いで二人を追った。



 近くの公園のベンチに座り外の空気を吸うと、実咲は大分落ち着きを取り戻した。鮫悪が買ってきた水を「ありがとう」と受け取り、一口飲んだ。

「水、何円した?」

「そんなのいいよ。それよりさっきはどうしたんだ」

 実咲は小さく首を振った。「答えたくないか」と鮫悪は少し寂しそうにした。

「もう暗いし帰るか」

鮫悪は空を見上げた。月がはっきりと見えた。彼女は何も言わなかった。

「帰りたくないのか?」

もう一度聞くと、「ううん、帰ろう!」実咲は気丈に言って立ち上がった。イヤホン越しでも、無理をした声色だと分かった。

「駅まで送るよ」

 鮫悪は寄り添うように、彼女の横に立った。

 二人は無言でとぼとぼと歩いた。ゆっくりと時間をかけて神保町駅にたどり着く。駅の入り口で二人は向かい合った。

「今日はありがとな。楽しかった」

「私も楽しかったよ、ありがとう」

実咲はそう言ってえくぼを作ると、近くの自動販売機に向かい水を買った。「これさっきのお返し」鮫悪は水を受け取り、「律儀だな」と可笑しそうに笑った。

「またね」

最後にそう言い、実咲は地下鉄の階段を降りて行った。駅の中へ消えていく彼女に、鮫悪は長い間手を振った。

しばらくして鮫悪は手を下ろすと、両方の拳を強く握った。彼の悔しさと寂しさが伝わって来た。何か声をかけてあげようと思い、鮫悪に近づこうとしたその時だ。

突然、彼はペットボトルの水を頭からかぶった。そして袖でごしごし顔を擦り、階段を駆け降りて行った。ちらりと見えた横顔は、ベージュと青色が混在した色になっていた。

何のつもりだ。私は急いで彼の後を追った。

階段を二段飛ばしで降りる途中、隣に尾花が並んだ。

「やばいわよやばいわよ」

「あんたいたの?」

「当たり前でしょ。ていうか今はそんなことより急ぐわよ」

 私は前を向き直り、改札を通った。駅のホームでは電車が出発するところだった。

「実咲!」

 電車に叫ぶ鮫悪が見えた。彼の顔はさっきよりも青くなっている。電車が来たばかりで人が少ないのが不幸中の幸いだ。私はイヤホンを外し、彼に駆け寄った。

「お前ら邪魔するなよ」

 鮫悪は私たちに目も向けず言った。私はあまりの剣幕に立ち止まった。そして「それはできないわ」と突き進む尾花の腕を掴んだ。「何するのよ」と振りほどこうとする彼に「殺されるよ」と言った。すると尾花は動きを止め、鮫悪の方を見遣った。ホームドアが閉まる。

「実咲、これが俺の素顔なんだ」

 乗車口の前に立つ実咲は、驚いて口に手を当てた。他の客も腰を抜かしている。

「俺こんなんだけど、赤稲とか国島さんに助けてもらってお笑いやれてんだよ。一人だったら全然駄目だけど、なんとかやれてんだよ。俺さ実咲のこと好きで、これからも一緒にお笑いとか、今日みたいに遊んだりとかしたいからさ、なんか辛いなら俺に話してくれねーかな」

 鮫悪はほとんど告白のようなことを叫んだ。実咲の目に涙が浮かんだ。

「俺ここで待ってるよ。だから戻ってきてくれ。そして話を聞かせてくれ」

 動き出した電車の中で、実咲は大粒の涙を流した。彼女は涙を拭くと、強く縦に首を動かした。鮫悪の大きな黒目から、綺麗な涙が溢れた。

「ありがとう。待ってるからな!」

 実咲はもう一度、大きく頷いた。ぷおー、と音を立て電車は走り去った。



 ホームの端っこで、私は応急処置的にファンデーションとリップを塗った。一応人っぽい顔にはできた。

「もう二度とこんなことしたら駄目よ」

尾花は口を酸っぱくして言った。「了解了解」鮫悪は上機嫌に返した。

「普通ならSNSで大騒ぎになるところだわ。今回は本当にラッキーよ」

「ネットに疎そうな老人しか乗ってなかったもんね」

私が言うと、「あんた失礼ね」となかなかのツッコミが飛んできた。

「まだかな」

 鮫悪はぐるぐる同じところを歩き回り、遠足前夜の子どものようだった。「早く来るといいね」と私は返す。電車が行ってから十分が経っていた。そろそろ来てもいい頃だ。

 でも三十分経っても、一時間経っても、実咲は来なかった。時間が過ぎるにつれ、鮫悪の表情は明るさを失っていた。

 ついに終電が行ってしまった。私は彼に声をかけることができなかった。

「帰ってください」

駅員から機械的に言われた。私はすみません、と頭を下げ、ベンチに項垂れる鮫悪の背中を押した。ふらふらと立ち上がる彼を二人で支えながら、出口へ向かった。

「用事あったのかな」

 駅から出て、私は気休めにもならないことを言った。鮫悪が何も応えなかったので、「そんなわけないよね」と自虐的に付け足す。

「やっぱ俺には恋愛とか無理だったんだな」

 鮫悪は弱弱しく、その場にへたり込んだ。「そんなことないって」と私は励ました。

「調子いいこと言うなよ。俺は化け物だから信用されなかったんだろ」

 鮫悪が涙を滲ませて吠えた。私はごめん、と謝る。「いや、ごめん。赤稲は悪くないのに」鮫悪は手の甲で目を擦って言った。またメイクがどろどろになって落ちた。

 私は鮫悪の隣に座って空を見上げた。星はほとんど見えない。

「あーきしょいなあ」

私は頭の後ろで手を組み、俯く鮫悪に言った。鮫悪は顔を上げた。

「いつまでもめそめそしてて、ほんときしょい。梅雨なのに湿度上がっちゃうじゃん」

「涙で上がるか」

「煎餅は湿気るし」

「食べないだろ」

「地面は濡れるし」

「別にいいだろ」

「ほんときしょい」

「きしょいってやめて。せめてきもいにして」

「元気じゃん」

 私は身振りを付けてツッコみ始めた鮫悪を指さした。彼は右手を高く上げたまま、はっとした顔になった。

「落ち込んでる暇あったらお笑いやろうぜ。それに実咲が本当にあんたを嫌ったか分からないんだしさ、もっとポジティブに生きな」

 私は笑い飛ばすように言った。「もっとファンの私を笑わせなさい」尾花が横から言った。

鮫悪は額に皴を寄せた。そして後ろを向くと、ごしごし目の辺りを擦ってまた私を見た。

「そうだな、お笑いやろう」

 目の周りが赤かった。「泣くなよー」私は鮫悪の脇腹を肘でつついた。鮫悪は恥ずかしそうに、「それ言うの野暮だぞ」と顔を赤くした。

「そういや今度のセカンドライブでやりたいネタ、さっき思いついたんだ」

「え」

 唐突な報告だった。鮫悪は夜中で人もいないのに、声を潜めて言った。

「設定は俺のお母さんが」

「あんたにお母さんいないでしょ」

「設定だ。あと普通に悲しくなるから言うな」

 彼は前だけを見るように、ネタの話をした。


    〇


 ジャマイカケルベロスの勝利。前回のライブを受け、ほとんど大勢は決まっていた。私たちが楽屋に入っても、前までのように「頑張れよ」と声をかけてくる人はいなかった。薄情なのか、気を遣っているのか。どちらにせよもう鮫と龍への興味は無いようだ。

 私と鮫悪は鞄からスーツを取り出し、袖を通した。衣装をお披露目するには、最高のタイミングだ。赤いスーツに、自然と気持ちが昂った。燃えろ、赤羽あかね・ドラゴン。

 今日は総合順位が決まるとあって、移動の合間を縫ってほの香が応援に来てくれた。

「いいスーツじゃん」

「へへ、そうでしょ」

「頑張れよ、鮫と龍」

冷やかす色の無い、勝利を信じる目で言ってくれた。ありがとう、と頷き周りを見て聞いた。

「実咲は?」

「今日はきつくて休むって」

鮫悪は不安と落胆の色を覗かせた。集中、と私は彼の背中を叩いた。鮫悪は犬のようにぶるぶる首を振り、「勝つから見てろ」と平静を取り戻しほの香に言った。「お、自信あり?」

「新ネタやります」

私たちはほの香にⅤサインをした。「新ネタ?」彼女の声が裏返った。



 勝負を諦めた者たちの漫才は弛緩しきっていた。噛むわネタを飛ばすわで、見るに堪えないものばかりだ。自分に見切りをつけるのは勝手だけど、プロならお客さんにそれを見せるべきではない。見る価値も無いと思い、私たちは出番まで楽屋に戻ることにした。

「つまらんな」

 楽屋では足を机に乗せた国島さんが、退屈そうにしていた。

「とっても」

 私と鮫悪は国島さんを挟んで座った。「井川はこんなライブでも真剣に見とる。ほんま真面目やろ?」国島さんはジャケットのポケットから飴を取り出し、口に放り込んだ。

「セカンドもおもんなくなった」

 国島さんは飴をからから鳴らし、「そろそろ上がるか」と呟いた。私たちは牽制するように、彼を左右から見た。「挟み撃ちかいな」と彼は歯茎を見せた。そして、

「お前らはちゃうよな」

立ち上がり私たちを睥睨した。

そのまま楽屋を出ようとする彼の前に、鮫悪は立ちはだかった。

「上には行かせませんよ」

「ほう」

 国島さんの目がきらりと輝いた。

「スーツ、似合っとるで」

がりっ、と飴を噛み砕き楽屋を去った。



 袖に戻ると、丁度ジャマイカケルベロスの出囃子が鳴った。私たちは屯する芸人を掻き分けて、下手に待機した。ジャマイカケルベロスの次が鮫と龍という、なかなか憎い出順だった。私は顎を引き、彼らの漫才をじっと見つめた。

 最初の掛け合いで分かった。今日の二人は絶好調だ。彼らのモットーである、超早口かつ超高速かつ超爆笑漫才を体現する出来だった。高速で行ったり来たりするラリーは、会場を右へ左へ、揺さぶった。私は呑まれまいと、犬歯で親指を噛んだ。

「わしな、この前彼女に浮気されて別れてん」

「そら辛いな、何されたん」

「彼女、妹の家に行くゆうて嘘ついて、男の家に行っとったんや」

「何でそれが分かったんや。ほんまに行ったかもしれへんやろ」

「だってわし、その日妹の家におったもん」

「お前アメリカのコメディアンか!」

「自分の失恋をアウトプットしとるから、アメリカのミュージシャンやな」

「やかましいわ。何がやかましいってアウトプットってワードが小賢しいわ」

「お前もワードゆうとるやないか。今のコンテクストやったら言葉やろ」

「コンテクスト?文脈?今のセンテンスによう組み込めたな」

「組み込む?」

「そっち?」

早口でもしっかりワードが頭にぶち込まれていく。気持ちのいい漫才だ。私は少しの間勝負を忘れて、彼らの漫才に見入ってしまった。いかん、いかん、と頬を叩くと、あはっ、と横で鮫悪が無邪気に笑った。

「なに笑ってんの」

「おもしれーんだもん」

 あまりの正直さに私は胸をつかれた。そういえば、面白い時って笑うんだ。当たり前のことを思い出し、自然と笑いがこみ上げてきた。それから私たちは心ゆくまで、ジャマイカケルベロスの漫才を楽しんだ。

「あいつら、諦めてるな」

 どこかで声が聞こえた。うるせー、黙っとけ。笑ったうえでぶっ潰すんだよ。

 大爆笑に包まれ、ジャマイカケルベロスはお辞儀した。そして舞台が暗転し、鮫と龍の出囃子がかかった。

「楽しもう」

 鮫悪が言った。言葉は要らない。私は鮫悪を引っ張るように、舞台へ突き進んだ。ジャマイカケルベロスとすれ違う時、視線は交わさなかった。今度は私たちが笑わせてやる番だ。

 前の余韻が残る客前でマイクの高さを調整し、鮫悪から始める。

「詐欺って怖いですよね」

「どうしたん急に」

「いやな、最近うちの母ちゃんが健康になるとか言って、胡散臭い器具を買わされてんだよ」

「道子(みちこ)さんが?」

「そう。てか、母ちゃんと知り合いだったっけ?」

「うん」

「そうだったかなあ。まあ、困ってんのよ」

「でもあんた運がいいよ。私丁度いい物持ってるから」

「え」

私はブレスレットを外し、にっこり笑って鮫悪に見せる。

「これ詐欺を撃退するブレスレット。今なら五万でいいよ」

「詐欺だろ」

「ほんとだよ。今は高いと思うかもしれないけど、後々絶対安かったって思えるよ」

「健康診断みたいに?嘘つけ。…あれ?」

鮫悪は首を傾げた。

「そのブレスレットどこかで…」

「私のでしょ」

「違う…。そ、そうだ…!昨日母ちゃんがつけてた…!」

客席で小さい悲鳴が上がった。私はため息をつく。

「あーあ。あの情弱は簡単に騙せたのになあ」

私はブレスレットを床にぽいと捨てた。悲鳴が更に大きくなる。

「そうです、私が詐欺師です」

「お前、俺の母ちゃんをぉ!」

「待って、電話」

掴みかかろうとする鮫悪を制し、私は落語家のように電話を耳に当てる素振りをした。

「もしもしー?あ、道子さん」

「母ちゃんだっ」

「昨日のブレスレットを買ってから詐欺に合ってない?そうでしょう、そうでしょう」

「合ってるよ!今すぐ電話切れ!」

「それで息子さんのためにもう一個買いたいと」

「もっと違う形で愛情を感じたかった!」

「でもね道子さん。二つ目となると、二十万になりますよ。何せオーストラリア南東部にある幻の海グレート海でできた岩塩を、あのストラディバリウスがブレスレットに成形したものですから」

「これ嘘って教えてあげてるようなもんだろ!」

「それはすごいって?そうでしょう、そうでしょう」

「情弱が過ぎる!おい母ちゃん、俺だよ俺。シャーク!頼むから電話を切ってくれ」

「今オレオレ詐欺されてる?だってさ」

「何でそこのリテラシーは高いんだよ!」

 鮫悪は膝を付き、天に救いを求めるように両手を掲げた。悲鳴と笑いが混在した、異様な笑い声が劇場を満たした。

「頼む赤稲、もうやめてくれ」

「え、買います?お買い上げありがとうございます」

「この通りだ!」

鮫悪は深々と土下座をした。

「他にもいい物が一杯ありまして。若返りの薬に、ノンノイズキャンセリングイヤホン、色を自在に変えられる多様性ランドセルに、8G対応スマホ。しめて二百万円になりますがどれもいい物ですよ」

「逃げろ母ちゃん!」

「全部お買い上げで。ありがとうございまーす」

「赤稲、貴様ぁ!」

「今度お届けしますね、はいそれじゃ」

私は電話を切る動作をし、泣き崩れる鮫悪の肩に手を置いた。

「もう私たち新世紀で優勝して、一千万円勝ち取るしかないね」

「お前は肥えてるだろぉ!もういいわ、どうもありがとうございました!」

 私たちは頭を下げた。暗転した劇場に観客たちのどよめきと大きな拍手が響く。劇場は一種のパニック状態になっていた。この反応が良い方に転べばいいのだけど。

 芸人たちの反応はかなり良かった。彼らは「面白い」とか「問題作だな」とか口々に褒めてくれた。でもそんな言葉よりも、ジャマイカケルベロスが床で笑い転げているのが、なによりも嬉しかった。二人はジャケットを埃まみれにして、好きなアニメを見た小学生のように、私たちの漫才の面白かったところを言い合っている。入り込む隙が無い、二人の世界にいた。「かっけーな、おい」鮫悪は興奮して、そわそわ動いた。彼も子供みたいだった。

 スタッフが廊下を走る姿が見えた、票の回収に行っているのだろう。人事を尽くした自信はあった。あとは待つだけだ。



 劇場支配人が楽屋へ入って来ると、自然と背筋が伸びた。彼の手には、順位が書かれた紙があった。私は太ももの辺りで手を合わせて祈った。

「随分と混戦だった」

 皆の前に立った支配人が言った。芸人たちがざわつく。それもそのはず、今日のライブの前まではジャマイカケルベロスが独走していたのだ。それが混戦になったということは。私はきゅっと強く手を握った。支配人は一つ咳払いをする。この音は天使の福音か、死神の足音か。「では発表する。今月の一位は」支配人が紙を広げた。

「鮫と龍」

 あまりにもあっさりしていた。でもそのあっさりした声で、私の心臓は一気に膨張した。

「やったーーーーー!」

私と鮫悪は抱き合った。それを合図に驚きの声が楽屋中に響いた。渦巻く熱狂を「どけや」と押しのけて、険しい形相の国島さんが傍まで来た。そして相好を崩し、

「あっぱれや」

私たちに手を差し伸べた。報われた気がした。私はその手を握ろうとすると、先に鮫悪が力強く掴んだ。彼は鼻の穴を開いて、歯を食いしばり、酷い顔で泣いていた。

「国島さん、勝った直後に失礼かもしんないですけど、俺国島さんのお陰でここまで来れました。ありがとうございます」

鮫悪は両手で手を握ったまま、頭を下げた。床にぽたぽた涙が落ちた。

「どうしたんや泣いて。俺そこまでのことしたか」

 国島さんは目を丸くした。「そりゃそうですよ、だって鮫悪は」私が言おうとすると、急に襟首を引っ張られ、体が後ろへ傾いた。振り返ると、井川さんがいた。

「あほ、鮫悪が黙っとるのに言うんは野暮やろ」

「井川さん、知ってたんですか」

「当たり前や。あんなでかい人間はすぐ分かる。気付かんのは国島くらいや」

 声を潜めた井川さんは、しばらく二人にしてやり、と付け足した。少し離れたところから見ると、今の鮫悪の表情はファンというより親を見る子のような幼げな愛に溢れていた。

 ふいに着信が鳴った。ほの香からだった。そう言えば大阪に行くとか言っていたな。

「もしもし」

「おめでとう!」

 大声にキーンと鼓膜が揺れた。感激しているみたいで嬉しいけど、大声を出すなら予告してほしい。「ありがとう」と私はスマホを離して言った。「ほの香からか?」と鮫悪は国島さんの手を掴んだまま、こちらを向いた。鮫悪にも聞こえるよう、スピーカーにする。

「すごいわあんたたち。それで入れ替え戦だけど、対戦相手は決めてるの?」

愚問だった。この挑戦権を得るために一か月やってきたのだ。

「東都八丁目横丁!」

私たちは声を揃えて言った。「やっぱりか」とほの香は言った。そして、

「らしいけど、あんたたち言うことある?」

急にそんなことを言った。

詩帆がいるのか。私は息を呑んだ。狼狽を悟られないよう、反応を抑える。電話の奥から「ないです」と加瀬の声が聞こえた。かちんときた。「お前にゃ興味はねえ」と目を腫らした鮫悪が般若のように顔を歪める。詩帆の声はしない。

「詩帆に代わって」

私は言った。ほの香が困ったように「ずっとヘッドホン着けてて、嫌そうよ」と言うけど、いいから、と催促した。すると少しして「何?」と気怠そうな声に代わった。詩帆だ。私は思い切り息を吸い、

「私だってあんたに興味ねーよ、バカ!一番弱そうだから選んだだけだもんね!」

まくし立てて電話をぶち切った。ふー、と煙が出そうなほど鼻から大きく息を吐いた。舐めやがって。「もっと言うことあるだろ」と鮫悪が呆れたように笑った。

「東都八丁目横丁か?」

 横から国島さんが言った。はい、と返すと、「俺らも明日戦うわ」

「え?」

「知らんのか。明日の大阪新人大賞の決勝、わしらと東都が出とるで」

 国島さんは誇らしげに笑った。


    〇


 絶望。二十八インチの小さなテレビの中で、国島さんの顔には絶望が浮かんでいた。今まで積み上げたものが脆くも崩れ去ったように、彼はじっと虚空を見つめている。井川さんは土台を失ったように、膝から崩れ落ちた。

 それと対照的にパンと音がし、金色の紙吹雪が宙を舞った。紙はひらひらと煌めいて落ちていき、東都八丁目横丁に降りそそいだ。「優勝 東都八丁目横丁」という金色のテロップが画面下部にでかでかと表示された。カメラは残酷にも、歓喜に包まれた東都と、打ちひしがれるジャマイカケルベロスを同じ画面に収め続けた。

 私は目を逸らしてしまった。あまりにも弱弱しく映る二人を見ていられなかった。でも鮫悪は歯が刺さるまで唇を噛み、脂汗をかきながらもテレビを凝視していた。私よりよっぽど、国島さんの弱さを見るのが嫌なはずなのに。私は辛いけどもう一度テレビを見た。

「おめでとう」

 司会者が東都に声をかける。二人は小さく会釈した。

「今の気持ちは?」

「嬉しいです」

すっと通った鼻筋に金紙を乗せた加瀬が言った。詩帆は何も答えない。

「各ブロックで圧勝を飾った二組同士の最終決戦やったけど、そこでも圧勝やったな。どうやったジャマイカケルベロスとの戦いは?」

司会者はデリカシーの無い質問をし、詩帆にマイクを向けた。

「特に言うことはないです。時代遅れの早口漫才師が淘汰された。それだけです」

詩帆が返す。

「時代遅れ?」

「はい。半世紀前に流行ったようなスタイルで、いつまでも低いレベルの劇場で後輩と仲良く漫才ごっこ。それじゃ私たちには勝てませんよ」

詩帆は淀みなく言った。「こいつっ」と鮫悪は怒りに任せてテレビの両側を鷲掴んだ。私も深い憤りでへその奥が煮えたぎっていた。詩帆は国島さんからの恩を忘れたのか。詩帆の横で素知らぬ顔をしている加瀬にも腹が立つ。でも同時に、何故わざわざ敵を作るような発言をするのか不可解だった。

 番組はそのまま幕を閉じた。鮫悪は荒々しくテレビの電源ボタンを押した。

「胸糞悪い」

鮫悪が吐き捨てるように言った。「俺あいつら許さねえ。舞鶴詩帆が許せねえ」彼は床を殴った。古いアパートが軋む。

「うん、絶対勝とう」

もう詩帆を見返すだけの戦いじゃなかった。彼女は私たちの大事な憧れを傷つけた。

「次さ、早口漫才でいこうぜ!」

鮫悪が突然立ち上がり言った。

「早口漫才であいつらを叩きのめして、時代遅れじゃないって俺らで証明するんだよ」

彼はブレーキの無い暴走列車のような勢いで私に迫った。いいアイデアだと思った。でも、「私たち早口漫才のネタなんか無いじゃん」

「じゃあ作ればいい」

彼はノートを広げ、ローテーブルに叩きつけた。「やろうぜ」と真っ直ぐに私を見る。

 ほんとに国島さんラブだな。私はにやりと笑った。

「いいねえ」

ペンを持ち、鮫悪と向かい合って座る。ノートの最初に「早口漫才万歳!」と書き込んだ。不覚にも韻を踏んでしまった。

 外では六月の太陽が最後の仕事という感じで、アスファルトを乾かしている。

入れ替え戦まで、あと七日だ。


    〇


 一体どうすればいいのか。私たちは頭を抱え、ネタを細部まで見返した。

睡眠や食事の時間を削り、バイト中も店長の目を盗んでネタ作りに励んだことで、なんとか三日目でネタは完成した。そこから私たちはインディーズライブで、ネタをかけまくった。でもウケは芳しくなかった。客たちはセカンドで一位って言っても所詮はセカンドか、という期待外れの表情で私たちを見ていた。

それでも最初の方はまだヤバいかも程度で、ネタの一部少し変えて次のライブに臨んでいた。しかしいくら回を重ねてもウケは増えず、徒に日にちだけが経過していた。はじめに感じていたヤバいかもは、明確にヤバいになっていた。

「どうすりゃいいんだ!」

 入れ替え戦二日前で鮫悪はついに爆発した。私は耳に指を突っ込んで塞いだ。

「もうこれだけ修正してもウケないなら、新ネタ作るしかねーじゃねーか」

鮫悪は頭をわしゃわしゃ掻いた。確かに彼の言う通りだ。でももう新ネタを作る時間なんてない。時間のことを気にしたせいで、また焦りが募った。

 私たちはジャマイカケルベロスを参考に早口漫才を作った。今思えばそれが悪かった。結果的にボケ、ツッコミ、テンポ、間、全てがジャマイカケルベロスを真似ただけの模造品になってしまった。仇を取りたいからと言って、パクリをするのは絶対に違う。一部では中華製ジャマイカケルベロスと呼ばれる始末だった。

 はあー、と私たちは揃ってため息をついた。サーキュレーターを回しているせいで、ため息が部屋中に循環する。最悪の空気だった。

「よし!」

 鮫悪が急に力強く言った。「どうしたの?」

「ジャマイカケルベロスにアドバイスを貰いに行こう」

「えー」

私は嫌がって首を振った。

「中華系ジャマイカケルベロスとか呼ばれてるのに、更に近付けてどうすんの」

「もう偽物を本物に近付けるくらいしかできることねーだろ」

「でも」

私は言いかけたところで引っ込めた。「どれだけ近づけても本物のジャマイカケルベロスは負けている」と続けるのは憚られた。早口漫才をするなら目指すのは絶対そこじゃないはずだ。でも「ほの香に連絡してくれ」と促され、私は仕方なくスマホを取り出した。

 事情を話すと、「それはやめといた方が」とほの香は渋った。「何で」と返しても、彼女はうーん、と言葉を濁すばかりだ。

「頼むよほの香」

 横から鮫悪が言った。するとほの香は「あんたたちのためにも会わない方が」とまた要領を得ない返事をした。やっぱり彼女も、ジャマイカケルベロスのネタに近付けるのは反対なのだろうか。しかし鮫悪はしびれを切らし「いいから」と強く要求した。ほの香は思案するように押し黙る。そして「分かった」と渋々折れた。

「ただし彼らに会っても絶対に失望はしないであげて」

 不思議な頼みだった。私たちが、特に鮫悪が失望することなんてあり得ない。


    〇


 炎天下を歩き目的地に着くと、ほの香から送られてきた位置情報は間違いじゃないかと思った。でも確認しても彼女はここだと言う。

目の前には小さな病院があった。看板には精神科病院という文字が入っている。私と鮫悪は疑いの顔を見合わせ、恐る恐る病院へ入った。

 エアコンのよく効いた真っ白なロビーに入ると、「こんにちは」と受付の人が笑いかけて来た。私は軽く会釈で返し、「あの国島さんと井川さんという人は来てますか」と聞いた。彼女は眉を顰め「失礼ですがどういったご関係ですか」

「芸人の後輩です」

鮫悪は受付カウンターに身を乗り出して言った。受付のお姉さんは少し後ろに椅子を引いて、「井川さんは来られてませんが、国島さんは診療中です」と教えてくれた。

本当に国島さんはここに来ている。あの国島さんが心の病なんて信じられなかった。まだこの五日間で精神科医になったと言われる方が、説得力がある。

私たちは奥に通され、ビニールのソファに腰掛けた。天井のスピーカーからは童心を思い出させるオルゴールが流れている。曲は最近ヒットしている、若者の気持ちを歌った曲だった。なんて曲名だったかなと考えていると、中学生くらの少年や初老の女性など様々な年代の人たちが入って来た。私はその人たちをぼーっと眺めた。鮫悪は置いてあった雑誌のページを、ただ捲り続けていた。

 ごろごろと引き戸の開く音がした。私は扉に引かれるように、頭を持ち上げた。

 一瞬、誰だか分からなかった。視線の先には目が落ちくぼみ、口を開けっ放しにした廃人のような男がいた。街で会えば目を逸らしてしまうようなその男は、顔つきはまるで違うけど国島さんに違いなかった。

覚束ない足取りで出て来た彼を支えようと私たちは駆け寄った。でも彼は私たちを無視して口を開けたままふらふら歩き、ソファに倒れ込むように座った。彼は乾いた布のように滑らかさを失った黒目で、斜め上を見ている。その目が何も捉えていないことは、聞かずとも分かった。私たちは彼の両端にそっと座った。

「何があったんですか」

 鮫悪は国島さんの手を握って聞いた。国島さんは微動だにしない。私は国島さんがこうなってしまった理由は一つしか思い浮かばなかった。

「詩帆のせいですか」

「しほ」

 私の問いかけに彼はぼそりと呟いた。眼球だけがこちらを向いた。

「そうです。東都八丁目横丁の」

そう私が付け足すと、国島さんはいきなり呻き声を上げて顔を掻きむしった。「国島さん」と受付のお姉さんが駆け寄ってくる。「あなたたち何をしたんですか」と彼女に言われ、私は力なく首を振るしかなかった。よくも国島さんをこんな風に。失望するなと、ほの香が言った理由が分かった。受付に背中を撫でられても、国島さんの掻きむしる力はどんどん強くなった。皮膚が破れるような耳を覆いたくなる音が、鼓膜を震わせた。

「もうやめてくれ」

 顔を真っ赤にした国島さんの手を鮫悪が止めた。抵抗するけど鮫悪の力には勝てない。鮫悪はそのまま国島さんを抱きしめた。

「大丈夫、大丈夫」

鮫悪は耳元で何度も言った。ぎゅっと、包み込まれた国島さんは「あ」と声を出し、段々大人しくなった。その国島さんを鮫悪は壊してしまいそうなくらい更に強く抱いた。国島さんの目に僅かな光が戻った気がした。

「シャーク頼むで」

 国島さんはぽつりと言った。そしてまた、口をポカンと開け遠いどこかを見つめてしまった。鮫悪は眉間に深い皴を刻み、大きく頷いた。

絶対勝ちます。私は国島さんに強く誓った。私は今の国島さんから失望や恐れではなく、燃え盛る覚悟を貰った。ネタのアドバイスなんかより遥かに大事な覚悟を。

「ねえ」

 私は鮫悪に切り出した。

「早口漫才をするなら、もっと鮫と龍の色を出そうよ」

「俺たちの色?」

「このままジャマイカケルベロスに寄せたところで、どうせ負けるよ」

 私が言うと、鮫悪は顔を曇らせ国島さんに視線を向けた。

「遠慮してる場合じゃないよ。頼まれたんでしょ、国島さんに」

「そうだ」

 鮫悪は口を真一文字に結び、大きく首を縦に振った。

「じゃあやろう。今までのネタを破壊して、私たち色に染め直すんだよ」

「それってスクラップアンド」

「ビルド」

 私はよくできましたと、鮫悪を指さした。よせよと彼の顔に笑顔が戻った。

「じゃあ帰ってネタ作りだ」

 時間は無い。私たちが入り口へ向かうと、自動ドアが開き井川さんが入って来た。「お前ら」彼は私たちを見つけ動揺を見せた。国島さん程の変化では無いが、井川さんも随分頬がこけている。

「今度の入れ替え戦見に来てください」

「絶対勝ちますから」

 バツが悪そうにする井川さんに言い、病院から飛び出した。蝉の鳴き声よりも速く走るつもりで、アパートへ駆けた。


    〇


 芸歴二年目の夏、詩帆とファースト劇場に来たことがあった。当時サードにいた私たちは生意気にも芸を盗むつもりでライブに訪れた。でもすぐに目的を忘れるくらい、まんまと笑わされてしまった。お笑いってすごいね。そんな浅いけど深いようなことをひそひそ話したのを覚えている。ライブ終わりに私たちは希望に満ち溢れた顔で、早くファーストに昇格しようと誓い合った。少女のように小指を結んで。

 そう約束したのに、私たちは敵同士でファースト劇場に立っている。私は彼女を栄光の舞台から引きずり降ろそうとしている。でもこれって私が悪いの?いや全部詩帆が悪い。

私はファーストの芸人が集まる完全アウェーの楽屋で、詩帆を睨んだ。詩帆は相変わらずヘッドホンを着け、音楽を聴いている。ネタ合わせもしないとはずいぶん余裕らしい。

「なんか言うこと無いの」

 私は詩帆に近寄り言った。彼女はよっぽど音楽に集中しているのか、下を見て何の反応も見せない。隣にいた加瀬が呆れた顔で詩帆の肩を叩いた。

「ああ、あかね」

ようやく私に気付いても、彼女は至って興味が無さそうだった。ヘッドホンも着けっぱなしだ。「何か言いたいことは?てさ」加瀬が話を繋いだ。

「頑張って」

詩帆はそれだけ言うと、また視線を下に向けた。「ヘッドホンぐらい外せば」と私は刺々しく食って掛かった。でも加瀬から「まあ落ち着いてください」と制される。「悪気は無いですから」と目の前で囁かれて、大変不快だった。後ろにいた鮫悪にも「やめとけ」と腕を引かれ、私は腹を立てたまま楽屋を出た。

「あーむかつく」

 私は廊下の壁を殴った。ぺち、と情けない音が鳴る。

「昔それで骨折った野球選手がいたぞ」

冷静にツッコむ鮫悪に「あんたはあんな態度取られても平気なわけ」壁を見たまま言った。

「気にしたら負けだ」

「腑抜け」

 そう言って彼を見ると、薄ら笑いを浮かべていた。瞼はぴくぴく震え、細くなっている。溢れ出てくる感情を必死に堪える、仮止めのような笑みだった。安心した。気にしてて。

 ふいに大きな笑い声が廊下の奥から聞こえた。嘲笑を含んだ笑いだった。次に「馬鹿だよな」と嗄れた声が曲がり角の向こうから聞こえ、耳を澄ませた。

「今の東都に挑戦するってどんだけ馬鹿なんだよ」

「元相方だからって格がちげーのにな」

「人生の一か月無駄にしてるわ」

「ジャマイカケルベロスは何か月も無駄にしてるけどな」

「それな。てかあいつら、負けたのがショック過ぎて病んでるらしいぜ」

「ざこ」

「鮫と龍も負けて病むんじゃね」

「それはおもろい」

「あー早く公開処刑見て―な」

曲がり角から姿を現したのは、少し前までセカンドにいた男性コンビだった。そして私たちを見つけて青ざめた。彼らは気まずそうに目を伏せる。でも私と鮫悪は取り合わずに、

「ネタ合わせするよ」

「おう」

壁に向かった。気にしたら負けだから?違う。気にする価値も無い雑魚だったから。

 壁の線をセンターマイクに見立て、全てを黙らせるように本番さながらの熱量で始めた。



 今日のファーストライブのスケジュールは前半がいつも通りのライブで、後半がメインイベントの入れ替え戦だ。今日に限っては芸人にとっても客にとっても、いつものライブは食玩に付属するガムくらいのおまけであり、おもちゃに当たる入れ替え戦を皆心待ちにした。中にはあの雑魚芸人のように、野次馬的な楽しみ方をしている人もいるかもしれないがそれならそれでいい。そいつらは数十分後に度肝を抜かれることになる。

 私は体の熱を発散させたくて、いつもより少し広い舞台袖で、やったこともないシャドーボクシングをした。他の芸人に見られ、すぐやめた。

 司会者役の芸人が最初に舞台に上がる。怒号のような声と拍手が鳴った。

「レディースエーンジェントルメン!ウェルカムトゥ・・・あれ、この後なんだっけ」

 とぼけた司会者に、袖の芸人たちが総ツッコミを入れた。司会者は気を取り直して、「東都八丁目横丁と鮫と龍のお出ましだ!」拳を突き上げた。

 私たちは下手から、東都八丁目が上手から舞台に上がった。盛大な拍手が起こる。二組は司会を挟んで並び、客席に体を向けた。真っ白な眩いスポットライトに目を細めた。客席で大きく手を振る影が見えた。「来たわよー」とその影は言っている。多分尾花だ。私は顔を逸らした。国島さんたちは来ていないのかな。

司会者は盛り上がる客席に、落ち着くよう手を下げるジェスチャーをして言った。

「みんなわざわざ言わなくても分かってると思うが、投票の仕方をおさらいさせてくれ。この入れ替え戦はラップバトルのように、観客の声量で勝敗を決する。二組の漫才終了後に東都が面白かった人、鮫と龍が面白かった人って一組ずつ聞くから、より面白かった方に声を上げるのが君らの仕事だ。一回練習してみるぞ」

司会者が言うと観客はまた盛り上がった。

「東都八丁目横丁の方が面白かった人!」

うおーーーーーーーー!と地響きのような声がした。たけのこのように一瞬で、客席に大量の手が伸びた。

「鮫と龍の方が面白かった人!」

はあーい。男の猫なで声がして、二人だけ手を上げた。いや、よく見ると一人が両手を上げているだけだった。二百九十九対一。それが現時点で保有している票の差だ。

「はいばっちり!本番でも頼むぞ」

 司会者は言った。今の格差をフォローしないとは正気か。

「では勝負にうつる前に二組に握手をしてもらいましょう」

 司会者は一歩下がり、私たちを促した。客も待ってましたと言わんばかりに拍手をしたけど、私たちは踵を返し、袖に戻ろうとした。握手?ふざけるな。仲良しこよししに来たわけじゃない。握手をすれば握りつぶしてしまうくらいの覚悟で私たちはここにいるのだ。

 しかし、「逃げるの?」と背後で呼び止められた。振り返ると詩帆が空洞のような不気味な目をしてこちらを見ていた。この前のライブと同じ目だ。

「誰が逃げてるって?」

 私は叫んでまとわりつくような不快さを振り払い、詩帆の手を掴んだ。

「あんたが嫌いなだけだよ」

ぐっと握る力を強めた。彼女は眉をピクリと動かし、私の手を離した。「勝ちだね」と私は言い、爽やかに笑う加瀬を睨みつけながら握手をする鮫悪を連れて、下手に戻った。元コンビの意地の張り合いに、芸人、客問わず異様な興奮を見せた。

「トップバッターは東都八丁目横丁です。開始まで少々お待ちください」

 司会者の言葉で、舞台が暗転した。そしてスタッフが何やら慌ただしく、ステージに道具の搬入を始めた。まるでコント前のような光景だった。まだ何か面倒くさいコーナーが始まるのかと、私は鼻白んだ。しかし何のアナウンスも無くステージは明転した。

 舞台には教室のセットがあった。その真ん中の机には、制服姿の詩帆と加瀬が向かい合って座っていた。彼らはいつの間に着替えている。これじゃあ本当にコントだ。

「パパが加瀬君を紹介しろっていうんだけど」

 詩帆は語尾を上げ、若者口調で話し始めた。

 途端に屈辱と憤りがつま先から頭頂部を駆け巡った。これは何の冗談だ。顔が内側から火を点けられてみたいに熱くなった。傍の鏡を見ると目が充血している。

話が違った。想定と違った。私たちは漫才師として、漫才でガチンコの勝負をするつもりでここにいた。なのにコント?東都のコントなど見たことが無かった。楽屋の芸人もざわついているところを見ると、最近も漫才しかやっていないらしい。それもそのはず東都八丁目横丁は生粋の漫才師だった。その東都がここでコントを初披露したのだ。

つまり詩帆たちにとって入れ替え戦は、ショー?踏み台?練習試合?

ふざけるな。格上の自覚があるなら漫才をしろ。プライドは無いのか。もうスベれ。お笑いに真摯じゃないやつらは。スベり散らかしてヌルヌルになってしまえ。

「コント?」

 横を見るとほの香がいた。彼女は信じられないといった顔をしている。

「ほの香も知らなかったんだ」

「うん」

「舐めてるね」

 私が腕を組むと、彼女は「でも」と言って舞台を唖然として見つめた。

舞台では詩帆が彼氏を父親ではなく、パパ活相手に会わせるという展開を迎えていた。劇場は笑いで揺れ始めた。「すごいウケてる」ほの香が言った。

 そうだった。慣れないコントでウケていたのだ。それが本当に癪に障った。悔しさでむず痒くなっている間にも、加瀬の大げさな反応に客席はまた爆発した。ここまでウケると、後は尻上がりに笑いが増えるだけだ。私は中指の第二関節を噛んだ。

「そういえば鮫悪は?」

 ほの香が袖を見渡して言った。私は慌ててしー、と人差し指を立てるジェスチャーをした。

ほの香は不思議そうに下唇を突き出して首を傾げた。

 鮫悪の不在。それが私たちの早口漫才の秘策だった。この漫才ならいける。何度も爆笑が生まれている目の前を見ても、そう信じていた。

 加瀬が「僕も将来パパ活するために貯金します」とオチをつけてコントが終わった。舞台が暗転し、鳴りやまない拍手が起こった。暗い舞台をスタッフが撤去するのを見て、ぐっと緊張感が増した。いよいよだ。一人のせいか、いつもより鼓動が早かった。

「どっちを応援してるとか言えないけどさ、頑張れ」

 ほの香が言った。私は強く頷く。

 下手に東都が戻って来た。加瀬はウケた芸人特有の晴れやかな笑いを浮かべ、私に会釈した。詩帆はすぐにヘッドホンを着けた。私は精神を乱されまいと目を閉じる。

勝たなきゃいけない。国島さんの為にも、私の為にも。

舞台が明転した。私は開眼し、東都の余韻が残る舞台へ乗り込んだ。形式的な拍手がした。私は真っ直ぐセンターマイクに向かう。鮫を連れていない龍に、客席は困惑していた。それでいい。それがいい。

マイク前に到着し動画を三倍速で流すような、超早口の漫才を始めた。

「この世に生まれて四半世紀、まあ酸いも甘いも経験しましたわ。え、小娘が粋がってんじゃないよって。うるさいね、人生の長さと濃密さは比例しないんだよ。んでね、今日は私の苦労話を聞いてもらいたいんだけど、やっぱ真っ先に思い浮かぶのはATMを使ってる時だね。ありゃなんだい。私がえっちらおっちら使ってたら、後ろで待つ人間があからさまに苛だってやがる。嫌だねほんとに。あと電車もそうだ。この前空いてたから優先席に座ってたら、中年男性に何事かって怒鳴られちまったよ。空いてんだからいいじゃないかねぇ。あとノイズキャンセリングイヤホンが、結構雑音を通してくる。私のがしょぼいだけか?あと段ボールを解体してる時って、指を切りがちじゃないかい?段ボールてのはもう凶器だね。あとよ」

「ちょっと待て!」

 私の全てを無視したハイスピード語りに置いてけぼりになっていた観客席から、劇場を貫く大きな声が上がった。皆の集中が一点に集まる。そして観客席は驚愕でどよめいた。

「お前、何で俺に触れずに平然とできる!」

 驚天動地の中心には別世界の住人のように一際大きい影があった。鮫悪だ。観客たちは鮫悪を中心に波打つように仰け反った。劇場はてんやわんやの大騒ぎになった。「きゃー、なんでー」と尾花の声が聞こえる。

「あと野球場でジェット風船を膨らまし過ぎて割る奴。あれびっくりするからやめてくれ」

「何でまた始める!」

「ついでに言うと、風船膨らましたのに七回が長引くのやめてくれ。風船持つ手が疲れる」

「あるある発表会か!」

「あと帽子のつばをいつからみんな折らなくなった?私はまだ高校球児ばりに折ってるぞ」

「野球あるある発表会でした」

 鮫悪が客に語り掛けるようにツッコむと、笑いが起こった。

「漫画の表紙カバー外した時に、違うイラスト描いてくれてる漫画家好き」

「さっきから苦労話やめてるな!」

「てかSNSで文章のオチが思いつかないから、○○なの好き、みたいな脳死構文使ってる奴きもくね?」

「俺も使ってるから言わないでくれ!」

「芸人さんなのに?」

「初めての反応が俺への嘲笑だ」

 劇場の笑いはまた大きくなった。そして「おかしいよな」と鮫悪が隣の客に話しかけると、「俺も使ってる」などの声が客席でぽつぽつと聞こえ始めた。次第に声は広がる。

「あとコップ、四日くらい洗わない」

「お前だけだ!」

 鮫悪のツッコミに被せて、「汚ぇ」とか「臭そうだな」とか観客が立ち上がり各々のツッコミを始めた。普通ネタ中に客が声をあげる、ましてやツッコミをするなんて最悪だ。

でも今は最高だ。私たちはこれを待っていた。

「Z世代あるある言いまーす。倍速とか短い動画に慣れたせいでせっかちになり過ぎて、移動は徒歩じゃなく、走って行うようになった」

「ねーよ!」

 鮫悪が一番にツッコんだ。それに続いて客たちがツッコむ。劇場全体に、ツッコもうという一体感が生まれていた。鮫悪を客席に置いたのはこのムーブメントを創り出すためだった。観客がツッコミを身近なモノに感じ、大きな連帯感を生み出したかったのだ。結果的に大成功だ。いまや鮫と龍の漫才は私たちの手を離れ、三百人で作り上げる作品になった。

「客どもツッコミは俺だぞ!」

 鮫悪が駄々っ子のように手をぶんぶん振り回して言った。「もう遅えよ!」と総ツッコミが入る。群衆はもうツッコミたいという潜在的欲求を制御できなくなっていた。

「テレビは衝撃映像を流し過ぎだ。スーパーってたまねぎくらいなら、簡単に万引きできそう。この前図書館行ったら、中学生カップルみたいなのがイチャついてて辛かったよ。洗濯物取り込むの、世界で一番めんどうくさいよな!」

 怒涛のあるあるラッシュにツッコミの嵐が吹き荒れる。全身にツッコみの圧がかかり、私は後ろに倒れそうになった。もう鮫悪の声すら聞こえなくなった。その時だった。

「めちゃくちゃな漫才だな」

 鮮明に笑い声が聞こえた。そのまま導かれるように、視線は一点を見つめた。一番後ろの席に国島さんがいた。いや正確には国島さんらしき影だ。でも私にははっきり国島さんと分かった。来てくれたんだ。

 私は胸がぐーっと熱くなり、早口を途切れさせてしまった。でもそれでよかった。

漫才はここで終わりだ。

「なんか騒がしいので帰ります」

 私は頭を下げた。拍手は鳴らない。代わりに「まだツッコませなさいよ」など、漫才終わりとは思えない暴動が起った。その中に鮫悪の声は無かった。どうせ泣いてるんだろう。

 客席を探すと、案の定鮫悪は泣きじゃくっていた。結構涙もろいよなこの男。私は彼を引き上げる為、ステージに手を差し伸べた。彼は私の手を掴もうとする、聞かん坊たちを押しのけ私の手を掴んだ。でも重くて引き上げられず、結局彼は自力で上がった。

「かっこつかねーな」

「それがあんたでしょ」

「いや今のはお前だろ」

 そう言い私たちはハイタッチした。

二人で客席を振り返ると、もう国島さんの姿は無かった。

「やっぱかっけーよ」

 鮫悪がしみじみと言った。

「お疲れ様でーす」

 司会者が異様な客席の騒ぎに怯えと困惑を浮かべ、恐る恐る現れた。「何びびってんだよ」と観客が司会者に牙を剥く。もうツッコミではなく嫌なノリの陽キャみたいだ。

「では投票に映りましょう。東都八丁目横丁出てきてください」

 青ざめた司会者が袖に向かって言うと、まず加瀬が出て来た。彼はさっきのような笑顔こそ無いが、特段動揺した様子は無かった。でも次に出て来た詩帆は違った。

 詩帆はがたがた膝を震わせ、この世の終わりのような表情をして出て来た。この数分間で十歳くらい老けたようにも見える。そんな表情するなら最初から漫才やっとけよ。全く同情の余地は無い。ざまあみろだ。

「では両雄が揃ったところで投票といきましょう」

 司会者が言うと、劇場が壊れそうなくらい観客はジャンプした。

「東都八丁目横丁の方が面白かった人!」

 ぱらぱら五、六本くらいの手が上がった。細胞全部が湧き立った。髪の毛が逆立ち、鳥肌という鳥肌を屹立させる興奮が全身を走った。

次の投票にいかないで。この昂りを永遠に感じていたいから。

「鮫と龍の方が面白かった人!」

 どわあああああああああ、というけたたましい熱狂と共に、観客席では沸騰する泡のように一斉に手が上がった。歓声に心が踊りだす。体は声に押し上げられるようにジャンプした。

「やったああああああああああああ!」

 私と鮫悪は飛び上がったまま抱き合った。

「勝者、鮫と龍!」

 司会者の声でわああああああ、と一段と声量が増した。観客も一緒になって飛び跳ねる。「俺のお陰だ!」などと好き勝手に叫んでいる。そうだよあんたらのお陰だよ。「おめでとうよー」と尾花の声がした。サンキュー、ファン一号。

あまりの熱気に心臓はぶしゃっと破れて血が飛び出しそうなくらい、早く鼓動した。間違いなくここが今世界の中心だ。

「勝った!勝った!勝った!勝った!勝った!勝った!勝った!」

 私と鮫悪は顔を見合わせ、何度も言った。そして勝ち誇ってやろうと思い、詩帆を探した。

 でも詩帆は舞台から消えていた。私は執念深く彼女を探しに袖に戻ると、詩帆は暗闇でヘッドホンを着け、ぷるぷる小刻みに震えていた。唇は真っ青だ。

「詩帆さーん、負けたけどなんか言うこと無いんすか?」

 詩帆は震えたまま、何も答えない。

「ごめんなさいしなくていいんすか?」

 私の顔すら見ず、ずっと一点を見つめている。私は彼女に相手にされず、カチンときた。何なの負けたくせに。

「ずっと何聞いてんのよ」

私は彼女の注意を引くため、ヘッドホンを無理やり取った。

 すると彼女の様子が変わった。彼女は虚ろな目なり、私に手を伸ばした。

「返して、返して、返して、返して」

譫言のように「返して」と繰り返す彼女は、まるで言語能力が未発達の幼女のようだった。

 これが何なの。

 私はヘッドホンを見つめ、ごくりと唾を飲んだ。別に何の変哲も無いヘッドホンだ。どこにでもある三万円くらいの高いヘッドホン。でも詩帆の態度から、何か不気味なものを私は感じていた。私は恐る恐る、ヘッドホンを着けた。


あはははははははははははははははははははははははははははははははははは


 瞬間、腹の奥から悪寒がこみ上げ、思わずヘッドホンを床に叩きつけた。

 笑い声だった。女の笑い声が大音量で垂れ流してあった。腕にぞわーっと鳥肌が立った。狂気に満ちた笑いは、耳にこびりついて何度も思い出された。気持ち悪い。

そう思った所で私はある疑念が浮んだ。ヘッドホンを拾ってもう一度装着した。

やっぱりそうだ。この笑い声は詩帆の声だ。詩帆が自分の笑い声を録音して、自分に聞かせていたのだ。でも何で。

ヘッドホンを失って目をぎょろぎょろと動かしながら震える彼女が、何か人間とは違う別の生き物に見えた。悪霊に取りつかれているような、そんな感じだ。気付くと彼女から距離を取っていた。

「ヘッドホンを返してあげなさい」

 こつこつ、とローファーの音を立て加瀬が近付いて来た。私は首を振る。

「ダメ。これはおかしい。あんたは知ってたの?」

「ええ」

 加瀬は目元を細め、涼しい笑いを浮かべた。加瀬に気付いた詩帆は立ち上がり、彼の下へすり寄る。ふらつく彼女は途中でよろけて転倒した。ごん、と大きな音を立て床に転がる。

起き上がった彼女の顔は、頬から鼻にかけて真っ赤になっていた。一部は出血している。でも彼女は全く痛む様子もなく加瀬の膝に抱きつき、

「笑いちょうだい。笑いちょうだい」

ブツブツと言った。加瀬は「いいですよ」とにっこり笑うと、詩帆の耳に口を寄せた。

「あっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは」

劇場全体に響き渡るような声量で、加瀬は笑った。詩帆は狡猾とした表情を浮かべる。彼女は「えへー」と、間の抜けた声を出した。

「それでは私たちはこれで」

 加瀬は詩帆を背負うと、それだけ言って奥へ消えて行った。「待って」と青ざめたほの香が二人を追いかける。

 私はその場にへたりこんだ。加瀬に吐き気を催す不気味さを感じ、少しも近付けなかった。

「笑いちょうだい」

 そう虚ろな目で懇願する詩帆の顔は、精神病院で見た国島さんのそれとそっくりだった。

一体私は何を見せられたんだ。

「何かあったのか」

 戻って来た鮫悪が不安げな様子で、私の肩に手を置いた。私は首を振った。

「分からない」



 次の日、東都八丁目横丁は事務所を辞めた。



 梅雨が明けた七月、いよいよ新世紀のエントリーが始まる。外では草木に緑が生い茂り、風がむせ返るような自然の匂いを運んでいた。戦いの季節が幕を開けた。


    〇


 雨が窓を叩く音で目が覚めた。薄暗い部屋に、ぼつぼつと断続的に音が鳴る。傘あったっけなと思いながら私はベッドから体を起こし、窓の前に立った。

重たい瞼を何度か擦ると、東京全体が雨雲で白色に覆われているのが見えた。これじゃホテルの良い眺めも台無しだ。ため息をつきそうになったけど、幸せが逃げるそうだからやめた。まだ梅雨入り前だけど、六月にもなれば雨が増えるなあ。

「外から見られてしまいますよ」

 そう後ろで言われ、私は咄嗟にベッドに戻った。

「なんだ、気付いていなかったんですか」

「はい。寝ぼけていました」

 私は布団で体をくるんだ。服を着ていないことを忘れていた。加瀬さんは愉快そうに私の頭を撫でて言った。

「脅かせてみただけです。三十四階なんて誰にも見られませんよ」

「もう、やめてください」

 私は彼の首元に頭を押し付けた。「こんな良い部屋をとってくれてありがとうございます」

「君にはこの部屋が相応しいと思っただけです」

 大真面目に言う加瀬さんに、私の方がこっ恥ずかしくなってしまった。ありがとうを込めて、頬にキスした。すると彼はまた私の頭を撫でてくれた。私がこれをされるのが好きって、よく分かってくれている。

 ひとしきり頭を撫でると彼はベッドを出て、鞄から小さな箱を取り出した。私はその箱を見て感動し、思わず口を塞いだ。彼は裸のまま床に膝をつき、私向けて箱を開いた。中には小さいながらも威厳のある輝きを放つ、ダイヤモンドの指輪があった。

「二十四歳の誕生日おめでとう。実咲さん」

 彼は私の左手薬指に、指輪を通した。



 ホテルから出ると加瀬さんは折りたたみ傘を開き、私を入れてくれた。用意周到さに私は目を見張る。「どうぞお姫様」と彼が言うと、警備員の人に横目でちらりと見られた。

 丸の内の綺麗に舗装された道を歩きながら、私は指輪を大事に撫でた。指輪をしていると、彼に包まれているような気持になった。それがとても嬉しい。

「笑いとは非常に窮屈だと思いませんか」

 ふいに加瀬さんが言った。彼は「あれを見てください」と並んで歩く、上司と部下に見えるサラリーマンを指さした。部下風の若い男性は中年男性の顔を窺い、へらへら笑っている。

「現代は人に色々な笑いを強いる社会です。ああいう愛想笑いが最たる例ですが、人々は面白くも無いのに笑うことに慣れきってしまった。私はね、そういう人たちに本当の笑いを届けたくて芸人をやっているんです。窮屈な笑いが溢れた世界で、私は皆を心の底から笑わせたい。恥ずかしいし余計なお世話だけど、それが私の夢なんです」

 彼は熱弁を振るうと、照れ草そうにはにかんだ。「素敵です」と私は彼の手を握る。

「実咲さん、そのためにあなたの力が必要なんですよ」

 風が微笑む加瀬さんの長い睫毛を揺らした。「はい」と私は強く返事をした。



 アパートに着くと加瀬さんは合鍵を使って扉を開けた。

「ただいま」

 彼が言うと「おかえり」といくつもの高い声が重なって聞こえた。

 彼に続いて部屋へ入ると、八人の若い女性がこちらへ顔を向けていた。「ただいま帰りました」と私が言うと、彼女たちは「おかえり」と優しく迎えてくれた。私は部屋の空いているスペースへ腰を下ろした。「その指輪どうしたの?」隣の人に聞かれ、「内緒―」とはぐらかした。

「みなさん共同生活には慣れましたか?」

 加瀬さんが私たちを見下ろして言った。皆が頷くと、「よろしい」と彼は満足げに言った。

「私の夢は既にお伝えした通りです。そしてここはその拠点となり、みなさんは戦士です」

「はい」

「もう一度問います。私たち東都八丁目横丁は近々事務所を退所し、ここに新事務所を設けます。皆さんは私たちについてきてくれますか?」

「はい!」

 加瀬さんの熱を帯びた口調に乗せられ、私たちも熱く返した。すると「みんなありがとう」と加瀬さんは声を震わせ、目頭を押さえた。美しい涙が頬を伝った。私たちは立ち上がり、彼の背中や頭を撫でた。

「みんなありがとう」

更に声を震わせ、もう一度言った。女性の一人が貰い涙を流した。

「よーし、絶対に全員で売れるぞ!」

「おーーー!」

 加瀬さんの掛け声に合わせ、私たちは拳を突き上げた。

 全員で売れる。その大きな目標のため、私たちはこの狭いアパートで共同生活をし、日々お笑いの特訓をしていた。ネタ作りや大喜利に追われるのは大変だけど、少しずつ成長できている気がする。

「今日は大喜利から始めましょう」

 加瀬さんに言われ、私たちはスケッチブックを取り出した。すると加瀬さんは思い出したように手を叩き、「今日から新しいルールを追加します」と言った。ルール?

「詩帆さんお願いします」

 加瀬さんが顎をしゃくると、部屋の隅に座るヘッドホンを着けた詩帆ちゃんは立ち上がり、勝手を知った手つきで冷蔵庫を漁った。このアパートには元々彼女が住んでいたのだから当たり前だけど。彼女は冷蔵庫から弁当やパン、ヨーグルトなど大量に食べ物を持ってきて机に広げた。

「より笑いに緊張感を持ってもらうために、今日からその日の面白さをランク付けし、順位に応じて食事が異なるようにしました」

 加瀬さんが微笑んだ。何を言っているのかよく分からなかった。彼が「詳しくはこれを見てください」と付け足すと、詩帆ちゃんは居酒屋のメニューのような横長の紙を壁に貼った。


 1位 ハンバーグ弁当

 2位 海苔弁当

 3位 ウインナーパン

 4位 レトルトご飯

 5位 ヨーグルト

 6位 バナナ

 7位 味付け海苔

 8位 なし


 部屋が戸惑いでざわついた、私も信じられず、加瀬さんを見た。

「みんな静かに」

 加瀬さんは手で制した。一応静かになった。それでも不満の色は拭えない。

「事務所のために、みなさんのためにやっているんです」

 彼は言った。それでもこれはあまりに重すぎる。誰も返事をしなかった。

「これ、一日一食ってことですか?」

「そうです」

 女性の質問に、加瀬は答えにくそうに返した。そして彼は膝をついて私たちに頭を下げた。

「私の為に助けてくれませんか」

加瀬さんはフローリングに頭を擦りつけて言った。それを止めようと私たちは近寄る。でも彼は「みなさんが受け入れてくれるまで、私は土下座を辞めません。どうか」と言った。一同は顔を見合わせた。一様に迷いが浮かんでいる。

 私は今朝のホテルでの優しい彼を思い出していた。指輪をぎゅっと握る。

「分かりました」

 私は迷いを断ち切るように言った。これをくれた彼のことだ、絶対に私を思っての提案に決まっている。それから少しして「私もやります」と別の女性が続き、それからみんな口々に同意した。「ありがとう」と加瀬さんはまた深く頭を下げた。頑張りましょうと、私たちは声をかけた。

「じゃあ大喜利を始めましょう」

 頭を下げる加瀬さんの横で詩帆ちゃんが言った。加瀬さんは「そうだな」と頷くと、立ち上がってお題を出した。

「善人には実は裏の顔があった。どんな顔?」



 今日の特訓が終わり、加瀬さんは一人一人に食事を支給した。一位のハンバーグ弁当は山野(やまの)さんという、私より五年先輩の女性に渡った。彼女はこれまでもずっと面白かったから納得だ。二位は詩帆ちゃんだった。彼女は加瀬さんの相方ということもあってすごく悔しそうだったけど、海苔弁当を食べられるだけでも羨ましかった。

 私は加瀬さんに味付け海苔を貰う子を恨めしく見た。食べ物を渡し終えた加瀬さんはそんな私に気付き、極めて事務的に言った。

「実咲さん、明日は頑張ってください」

私は「はい」と俯いた。

「食べ物の受け渡しは禁じます。くれぐれもやらないように」

 彼はそう言って部屋を去った。心のどこかで、そうは言っても食べ物が貰えると期待していた私は、悲しみに打ちひしがれた。私は指輪を触る。自分が一番に了承したのに、不満は言えない。気持ちを押さえつけた。食べ物を買いに行きたいけど、加瀬さんがお笑い以外のことに気を取られないようにと、外からしか開けられない二重の鍵をつけてしまったのでそれはできない。もう明日まで食事は我慢するしかなかった。

 ピー、っとレンジが温め終了の合図をした。山野さんがレンジを開けると、ハンバーグの匂いが鼻腔をくすぐった。ぐー、とお腹が鳴る。周りに憐みの目を向けられ、顔を伏せた。

 山野さんは弁当を取ると、私の横に座って割り箸を割った。嫌味かな。私は匂いを嗅がないように息を止めた。

「食いなよ」

 そうハスキーな声が聞こえ顔を上げた。きしんだ金髪を揺らし、山野さんが私に弁当を差し出していた。「え、でも」と私は当惑して受け取らなかった。だってそれは加瀬さんの言いつけを破ることになるから。でも山野さんは私に無理やり弁当と箸を渡して言った。

「腹空かしてたらお笑いもできないでしょ。いいから食っときな」

 私は周りを見た。彼女たちは見て見ぬふりをするように、黙々と自分のご飯を食べている。

「あ、ありがとうございます」

私は頭を下げた。手に持ったプラスチックの弁当箱よりも、遥かに熱い優しさに触れた。

「ただし全部じゃねーぞ。半分だからな」

「そんなに食いしん坊じゃないですよ」

 私は笑ってハンバーグを頬張った。熱い肉汁とソースが口に流れた。

 後から大きな後悔をすることになる、一口だった。



 翌日、加瀬さんの様子がおかしかった。彼は荒々しくドアを開けると、いつも言う「ただいま」も言わずに凄い剣幕で部屋へ入って来た。彼はどたどたと足音を立てて山野さんの方に向かうと、彼女の髪の毛を鷲掴んだ。痛いっ、と山野さんが声をあげた。

「おい、飯をあげたな」

「それがどうしたんだよ」

 怯えで彼女の瞳孔が開いた。私は怖くなって後ずさりした。誰かが密告したんだ。

「何故私の言いつけを破った。何故無視してもいいと思った?」

「お腹空いてる子に、何も食べさせるなってのが無理な話だよ」

 山野さんは言い切った。その彼女を加瀬さんは冷たく見下ろし、「ちょっと来い」と髪の毛を引っ張り、物置となっている横の部屋へ連れて行った。

「待ってください。食べたのは私です」

 怖かったけど、私は加瀬さんに言った。優しい山野さんを見捨てることなんてできなかった。すると眉根は上げながらも口角を上げた奇妙な表情で「君は大丈夫です」と彼は言い、山野さんを部屋へ放り投げて扉を閉めた。

罪悪感がこみあげた。山野さんは私を助けたばかりに。でも一つはっきり分かった。私は指輪を撫でた。やっぱり私は愛されている。

ふいにとんとんとヘッドホンを着けた詩帆ちゃんに肩を叩かれた。私はびくりとしながら「何?」と返した。

「ちくったの私だよ」

 彼女は私に屈託のない笑みを見せた。なんだか不気味だった。「なんで?」

「当たり前じゃんルールだもん」

 そう言って彼女は皆の方を向き、「よく聞いてて。始まるよ」と物置部屋を指さした。何を言っているのか全然分からなかった。

 その次の瞬間だ。

 あっ、あんっ、あっ、あっ、んん、はあっ♡あっ、あっ、あん、あっ、んんん♡

 物置部屋から耳に突き刺さるような艶やかな嬌声が聞こえた。いつものハスキーな声よりもニオクターブ以上高いけど、山野さんの声だった。同時に中で何が行われているかも察しがついた。

なんで。私は胸を締め付ける疑念に苛まれた。なんで私以外の人と。

「なにしてんのよっ」

突如、背後でヒステリックな声がした。振り向くと、後ろの女性は怒りに拳を震わせていた。いやその人だけじゃない。この部屋にいる女性のほとんどが、不快そうに顔を歪めていることに気付いた。普通の反応じゃない。みんなもまさか。私はある最悪の想定が頭に浮かんだ。私は扉に目を戻した。確かめないと。私は恐る恐るドアノブに手を伸ばした。

しかしすんでのところで、詩帆ちゃんに手を掴まれた。

「駄目だよ。教育だから」

 彼女はさも当たり前のように言った。教育?なんの?ただの浮気じゃないの?

さっきの怒りに震えていた女性は、詩帆ちゃんに掴みかかる。

「あんた相方だからって何でも知ってるつもり?」

「あなたの番もちゃんとくるから」

詩帆ちゃんはそう言って女性の手を振りほどいた。女性は「くそ」と壁を蹴った。壁紙が小さく破れる。詩帆ちゃんはそれを意に介さず、部屋の真ん中に座った。あとにはただ、質量を持って圧迫してきそうなほどの、重苦しい空気だけが残った。

 しばらくして扉が開いた。真っ暗な部屋からワイシャツのボタンを二つ外した加瀬さんが現れた。汗を滲ませた彼はカッコよかったけど、今はかなり複雑だった。私が彼に話しかけようとすると、「どういうこと」「説明して」と何人かの女性が先に詰め寄った。でも加瀬さんは悪びれもせずに、「じゃあ君、次行こうか」とさっきヒステリーに陥っていた女性を指さし、また物置部屋に連れ込んだ。そして山野さんを追い出すと、扉やぴしゃりと絞められた。

 床に横たわる山野さんの格好は酷く乱れていた。Tシャツはしわくちゃになり、髪の毛が顔全体を隠すくらいぐちゃぐちゃになっている。私は彼女の前で屈んで聞いた。

「あの、大丈夫でしたか」

「うるさいよ!メス豚っ」

 顔の前で急に吠えられ、私は面食らった。そして彼女は私を突き飛ばし、勢いよく立ち上がった。私は昆虫のようにひっくり返った体勢で彼女を見た。

「あんたたちと加瀬の関係、全部聞いたから。ほんと可哀そうねあんたたち」

山野さんは勝ち誇ったような顔で周りを見下した。私が可哀そう?彼女は加瀬さんに何を吹き込まれたの?口から唾を飛ばし、一方的にまくし立てる山野さんが空恐ろしかった。

「詩帆、今日の特訓始めてよ」

 彼女は息もつかず、次は詩帆ちゃんを向いた。詩帆ちゃんは頷いてスマホを見る。

「二億年後の幻の生き物。その名前は?」

「シーラカンス!」

 山野さんが間髪入れずに答えた。周りは彼女の熱に、取り残されていた。



 それから代わる代わる女性たちが部屋へ呼ばれていった。呼ばれては淫らな声が聞こえ、また呼ばれてはよがる声が聞こえた。この繰り返しに、私は頭がおかしくなりそうだった。何で加瀬さんは私以外の人とそういうことをするのだろう。とめどなく溢れる不安を抑えるために指輪を撫で続けたけど、もうそれも限界に近かった。

 戻って来た女性たちはあからさまに豹変した。気性が荒くなり、周りを威嚇するようになった。それにお笑いに対して異様なやる気を見せ、積極的に大喜利の回答をした。

「偏差値二億のスーパーエリート高校に通う生徒の驚きの生態とは?」

「学年一位の偏差値が十七億」

「今シーブリーズの蓋を交換するのが流行っている」

「指定校推薦を馬鹿にしている」

「ちょっとそれ今私が言おうとしたやつなんだけど!」

「知らないわよ泥棒豚!」

「普通猫でしょ?」

 こういう具合に、彼女たちはずっといがみ合いを続けている。加瀬さんに抱かれた者同士の敵意か何か知らないけど、苛立ちが私にも伝播しそうで耳を塞いだ。加瀬さんに話を聞きたかったけど、自分がああなってしまうかもと考えると、呼ばれるのが怖かった。

 あん、んんっ♡あん、あっ、はあ、はあ♡

 また中から淫声が聞こえた。今は六人目が入っている。詩帆ちゃんを除くと、残りはもう私しかいなかった。緊張と恐怖がこみ上げる。中で私も抱かれるのだろうか。いつもなら歓迎だけど、今日は気が進まなかった。他の女の人を抱いた手でそのまま私に触ってほしくなかった。アダルトビデオのような大袈裟な声に、私も正気を失いかけていた。

 でも私はその官能的な声を聞くうちに、妙だと思い始めた。声があまりにも作り物じみている気がした。普通あんな声を出すかな。それによく考えればこんな短時間で何度もできるわけない。多分中ではアダルトビデオが流れているだけなんだ。うん、そうだ。きっとそうだ。何でかは分からないけど。

そう思うと少し気持ちが楽になった。私は指輪を触る。彼女の私が加瀬さんを疑うなんてどうかしていた。あとでちゃんと謝ろう。そしてちゅーをしよう。

 扉が開き、加瀬さんが出て来た。襟がよれた首元は汗でぐっしょり濡れ、光を反射している。彼は女性の髪を掴んで外に放り投げると、端正な顔で微笑み、私に手招きをした。

「実咲さん」

「はい」

 彼の乱れた姿を見ると、また不安になった。私は右手で左手薬指を握る。きっと大丈夫。彼が私を裏切るわけが無い。私は立ち上がり、彼のいる部屋へ足を踏み入れた。



汗や色々な液体がないまぜになった、しょっぱい匂いが鼻に飛び込んできた。私は思わず鼻を塞ぐ。コントの衣装などが積まれた埃っぽい部屋の真ん中には、今できたばかりと分かる大きな染みが付いた布団があった。目の前の光景に、私の期待は淡く消し飛ばされた。

彼は動揺する私の手を引き、布団に押し倒した。布団に染みた冷たく粘っこい液体が首筋に当たり、不快感で体がびくんと震えた。彼は無言で私を布団に押さえ、首を舐めた。

「いや」

 私は彼の頭を押しのけた。加瀬さんは何が起きたか分からない様子で、目を白黒させた。

「どうしたんですか」

「加瀬さんこそ、どうしてみんなにこんなことするんですか」

私は段ボールが積まれた部屋の端まで逃げた。加瀬さんは立ち上がり、私との距離を詰める。

「教育ですよ」

 彼は私を見下ろした。私は段ボールが凹むまで背中を押し付けた。「教育?」

「躾、ただそれだけです。本当に愛しているのは実咲さんだけですよ」

「嘘だ。そんなの教育じゃない」

「実咲さん、信じてください」

 彼は悲痛な面持ちになって屈んだ。「指輪をあげた私のことを疑うんですか?」彼は私の左手薬指を触った。「それは」と私は言葉に詰まった。「指輪に誓います。愛している」そう言って私の背中に手を回そうとした。私は彼の肩を押し、突き飛ばした。

「嘘つかないで」

 尻餅をついた彼に言った。彼はきょとんと呆けた顔をしている。でも次の瞬間、眉間に深い皴を寄せ、ぎょろぎょろとした目を見開き、私を睨みつけた。彼は怒りに任せて体を起こし、勢いよく私に寄って来る。「やめてっ」私は膝立ちになりながら、ドアに手を伸ばし開いた。そして足をばたつかせて立ち上がり、脇目も振らず部屋の外へ駆け出した。

 どしん、と頭に大きな衝撃が走り、体が後ろへ倒れた。起き上がり見ると、目の前で詩帆ちゃんがバランスを崩したように壁にもたれかかっている。ぶつかってしまったらしい。彼女は先ほどの全てを知ったような余裕とは打って変わり、歯をカチカチ鳴らして呪詛のような何かを呟いていた。あはははは、とどこかから狂気に満ちた笑い声が微かに聞こえた。探すと私の足元にヘッドホンが転がっていた。何?何でヘッドホンで笑いを聞いているの。

いや、それよりも加瀬さん。私は慌てて後ろを振り返ると、案の定彼がすぐ傍に立っていた。彼は穏やかになった顔で、私の方に手を伸ばした。私はぎゅっと目を瞑る。

でも彼の手は私を避けて、足元のヘッドホンを掴んだ。それを拾い上げ、ぶつぶつと袖を噛んで呟いている詩帆ちゃんに着けてあげた。その途端詩帆ちゃんは、平静を取り戻してヘッドホンを耳に強く押し付けた。

何もかもがおかしかった。加瀬さんも、ドラッグのように笑い声を聞く詩帆ちゃんも、豹変した山野さんたちも。私は窓に目を移した。逃げなきゃ。ここからすぐに。

「逃げ出そうなんて無理ですよ」

 耳元で鼓膜を這い回るような声がした。加瀬さんが真顔で私を見つめている。人工物のように整った顔が不気味だった。「教育は終わってませんよね?皆さん実咲さんを押さえて」  彼が言うと女性たちは私の頭と両手両端を押さえつけ、大の字に寝かせた。それを確認すると彼は詩帆ちゃんから注射器を受け取った。私は恐怖で体が動かなくなった。彼は蓋を開けると、「あっはっはっはっはっはっ」と注射器に向かって叫んだ。

「笑いを注入します」

彼はにっこり笑った。ひゅーっと、喉から掠れた音が出た。瞬きもできないほど、体ががちがちに固まる。彼は私の袖を捲り、腕に注射器の先端を当てた。私は黒目だけ動かし目を背けた。「面白い人間になりますよーに」彼はそう言い、針を押し出した。「ぷちっ」針が刺さる時、彼が言った。

痛みを植え付けられた。


    〇


 今日も最下位だった。私は鼻を塞ぎ、食事をする女性たちに背を向けペンを動かす。

「なにすんのよっ」

誰かが怒った。

「うぇーい、ダブル海苔弁の完成じゃーい」

山野さんの声だ。どうやら海苔弁当を貰った山野さんが、七位の人から味付け海苔を奪い、ダブル海苔弁なるものを完成させたらしい。一日で大変な変わりようだった。

 私はノートに意識を戻す。考えた結果、脱出は困難を極めた。窓から飛び降りるのは、ここが三階ということもあって命がけ。警察とか誰かに言うのは、バレた瞬間に殺さそう。ライブで外出した時も、常に複数人で行動させられて、五人組のように監視されているから無理。ほとんど策は無かった。

 苦肉の策で私はネタを書いていた。芸人で売れさえすれば、ここから逃げ出せると考えていた。売れれば忙しくなって、ここに戻ってくる時間は無くなるし、テレビ局までは監視も入ってこれない。その隙をついて逃げるんだ。空腹状態ではそれしか思い浮かばなかった。

 それに女子高生が彼氏をパパ活相手に紹介するという、なかなかいいコントが思い浮かんだ。この調子ならきっと抜け出せる。

 ぶー、とスマホが揺れた。最近あかねちゃんが連れて来た、相方の鮫悪くんからだった。この前飲み会で連絡先を交換して以来、ちょくちょくやり取りをしている。あの飲み会の時はお腹一杯食べて幸せだったなあ。ぐー、とお腹が鳴った。ダメダメ、ご飯のこと考えちゃ。私は鮫悪くんへの返信に集中した。

「あんた、その指輪加瀬に貰ったって本当?」

 メッセージを送ると、山野さんから声をかけられた。「そうですけど」と恐る恐る返すと、彼女は海苔の付いた口をへの字に曲げた。

「ねえこのメス豚、加瀬に指輪貰ったらしいよ」

山野さんはみんなに伝えるように言った。「何?」「ふざけないで」女性たちが血相を変えて周りに集まってくる。あっという間に私は六人から囲まれた。逃げ場が無かった。

「指輪を奪え!」

 山野さんの号令で彼女たちは、私の指に手を伸ばした。強引に指が引っ張られる。

「やめてっ、痛いっ」

その声も虚しく、関節が引っ張られて、ごりっと音を立てた。ああっ、と呻き声が漏れる。

「サイズぴったりだ。全然取れない」

力んだ誰かが言った。彼女の言う通りだった。じゃなかったら、こんな指輪はとっくに外している。また関節が鳴った。指が取れそう。怖い。誰か助けて。痛みで涙が流れた。

「やめなさい」

 ぴしゃりと冷や水をかけるように、詩帆ちゃんが言った。一同は動きを止める。

「あなたたちはお笑いをするためにここにいるんでしょ。今の姿、加瀬さんに見せられる?」

「うるさいわねっ」

「加瀬さんに言いつけるよ」

詩帆ちゃんは反抗する山野さんを射抜くような視線で見た。女性たちは俯き、私から手を離した。好き放題された薬指は紫に変色していた。

「分かったら、寝なさい。明日もあるでしょ」

 そう言うと、詩帆ちゃんは布団を引いて寝転がった。女性たちは不満顔だったけど、渋々それに従い布団に入った。

 あっという間に静かになった。私は安心して床に崩れ落ちた。なんか助けられた。でも憂鬱がすぐに心を埋める。どうせ明日も特訓だ。私は水道水で指を冷やし、寝床についた。



 鉄板同士がぶつかるような、けたたましい音で目が覚めた。かーん、かーん、かーん、一定で鳴る音は私に二度寝を許さない。なんの音だろうか。眠気まなこで周りを見たけど、暗くて何も見えなかった。まだ夜中のようだった。

急にぱちりと視界が真っ白になった。眩しくて目を細めると、頭上で両手に握ったフライパンを、シンバルのように叩き合わせる加瀬さんが見えた。

「みんなおきろー」

周りの女性たちも次々に目を覚ました。「何?」と詩帆ちゃんはが寝ぼけた声で言った。彼女も今回は何も知らされていないらしい。

「今から大喜利しますよ。日本焼き蛤委員会の電話番号を教えてください」

 みんな呆然としたまま加瀬さんを見つめていた。寝ぼけているのもあるけど、そもそも何をさせられているのか理解できなかった。「日本焼き蛤委員会の電話番号を教えてください」と彼は繰り返すけど、やはり誰も答えない。

「何でこんな時間に大喜利なんだ」

 山野さんが暗い窓を見た。加瀬さんは上機嫌に笑って答える。

「特訓を続けてきましたが、皆さんは相変わらず面白くなりません。これでは誰一人売れないので、これからは夜中も特訓をすることにしました」

「寝なきゃ体力が持たないよ」

起きて早々、ヘッドホンを着けた詩帆ちゃんが聞いた。

「睡眠時間は三時間も与えましたよ」

彼は不思議そうに首を傾げた。そしてまた顔をぱーっと明るくし、拳を突き上げた。

「それでは元気よく行ってみよう!日本焼き蛤委員会の電話番号を教えてください」

 地獄だ。薬指がずきずき痛んだ。



 その日からノンストップでお笑いをしている感覚だった。午前四時起床、二十一時間お笑い、翌日午前一時就寝。これがこの部屋のルーティンだった。

 この生活が始まって二日くらいで、みんな殆ど正気を失った。睡眠不足で疲労困憊となり、意識が朦朧とし、大喜利の回答も支離滅裂なものばかりになった。

「転ばぬ先の杖みたいなことわざを作ってください」

「遠からず私には幸福が訪れるでしょう」

こういった回答が乱発された。的外れな回答をした人たちは、決まって物置部屋に連れて行かれ、「教育」を受けた。以前は艶めかしかった彼女たちの声も、今や獣の雄叫びに成り果てていた。当然疲れている所に、疲れることをするのだから正気に戻ることは無かった。変な回答をすればするほど、順位は下がるので女性たちは一気に不健康な痩せ方をした。

それに彼女たちは加瀬さんにお金を払っているみたいだった。行為中、たまに喘ぎ声が止まったかと思えば、女性が恥じらいもせずに裸でこっちの部屋に出てきて、財布を持って戻って行く光景を何度か目にした。みんな正常な判断能力を失っている。

一方で正気をぎりぎり保っていた私は自動的に順位が上がり、痩せることは無かった。でも睡眠不足に加え、喘ぎ声が聞こえる部屋に監禁されていては、私もおかしくなるのは時間の問題だった。

「じゃあ実咲さん、天使がコンビニで買ったものとは?」

「えっと」

いきなり名指しされ、混乱した。天使、コンビニ。頭を回転させ答えようとすると、急に体から力が抜けた。あれ?体が動かない。間もなく視界が真っ暗になった。



溺れるように呼吸が苦しくなって飛び起きた。顔がとっても冷たい。

ぎゃははははははははははは

 汚い笑い声がして見ると、山野さんを筆頭に女性たちが腹を抱えていた。上半身に冷たい不快感があり、触るとびしょ濡れだった。水をかけられたみたいだ。

 意識がはっきりし始め、すぐ傍のバケツを持った詩帆ちゃんに気付いた。彼女は何の感情も無い目で私を見つめていた。彼女もこの生活が始まっておかしくなった一人だ。

「おはようございます」

 加瀬さんが手に注射器を持って言った。私は鋭く光る注射針に恐怖し、逃げ出そうとした。でも女性たちにすぐ捕まった。彼女たちはまた楽しそうに、邪悪で無邪気な笑い声をあげた。

 加瀬さんは私の前で屈むと、躊躇なく針を刺した。

「ぷちっ」

 針を刺す時、彼は決まってそう言った。痛い。彼は最近、血管じゃない皮膚に針を刺すようになった。そのせいで私の腕は赤紫の注射痕が広範囲に広がっていた。もう注射は嫌だ。

 注射に付いた血を拭くと、彼は何事も無かったように大喜利を再開した。

「助っ人外国人が一番最初に覚える日本語とは?」

「加瀬サ~ン、私ト良イコトシマショ~」

 山野さんが身をくねらせて答えた。これ以上ここにいちゃダメだ。今すぐ逃げないと。

 ふいにスマホが揺れた。鮫悪くんからのメッセージだった。


 デートに行きませんか?


 思いがけない誘いだった。このタイミングで、このメッセージだ。ここから連れ出してくれる救いの手のような、希望にあふれたものに見えた。

 窓を見る。地上三階。危ない賭けだけど、もう飛ぶしかない。私は腹を括り返した。


 うん、行こう!


    〇


 運がいいことに、鮫悪くんが提案した日は日曜日だった。日曜日はファーストのライブがあり、加瀬さんと詩帆ちゃんが部屋を空けるから脱出し易くなる。まあ山野さんたちは相変わらずいるから、難しいのには変わりないんだけど。

 時刻が午前九時を回り、東都八丁目横丁の二人は揃って出て行った。加瀬さんが扉に厳重に鍵をかける。

 ここからが勝負だ。私は窓から二人が駅の方に消えて行くのを確認し、後ろを見た。女性たちは真剣にネタ作りに取り込んでいる。今日に限って彼女たちは錯乱していなかった。逃げたらすぐに連絡されるかもと、私は少し尻込みした。でもすぐにその考え打ち消す。こんな生活とはこれでお別れするんだ。心の中でカウントダウンする。

3・・・

2・・・

1・・・!

 私は窓を勢いよく開け、ベランダに飛び出た。体に吹きつける、蒸し暑い風が気持ちいい。

「待て!」

 後ろで山野さんの声が聞こえた。待つわけない!私は夜中の内に用意しておいた靴を履き、勢いに乗って白い柵を跳び箱のように飛び越えた。

 その時、世界がスローになった。落ちていく景色、道路を走る車、近くのグラウンドで練習をする野球少年たちの声、そのどれもがスローで動いていた。

 あれ、これ私死ぬんじゃ。

 そう思うと世界が加速した。そのまま真下にあった植込みに墜落する。

 手の甲や背中に、ぐりぐり押される痛みを感じた。植込みの枝が当たっているようだった。でもそれ以外に痛い部分は無かった。すごい。奇跡だ。三階から落ちたのに。

「どこ行くんだよ!」

 真上で女性たちは、ベランダから身を乗り出して喚いていた。彼女たちと大地を踏みしめている自分を比較し、自由になったんだと強く実感できた。

 私は植込みから起き上がり、駆けだした。こんなに思い切り走るのも久しぶりだった。見慣れたはずの車や信号機、猫などが全て新鮮に見えた。鮫悪くんとの待ち合わせまで一時間、汚れた服を新しくしたり、指の包帯を買ったり、色々やることがある。

なんとなく左手薬指を触ると、ぴったりだった指輪がするりと取れた。やった。私は指輪を近くにあったゴミ箱に捨て、鼻歌交じりに街を進んだ。今日はいい日になりそう。


    〇


 鮫悪くんとのデートは本当に楽しかった。何で劇場にばかり連れて行かれるのかは謎だったけど、彼は私のためにチケットを取ってくれていて、すごく私のことを考えてくれていた。昼ごはんも鮫悪くんが私のために手作りのおにぎりを作ってきてくれて、すごく嬉しかった。最近人の優しさに触れることが無かったから、私は感動してしまった。

「次はファーストライブに行こう」

 新宿の劇場を出ると、鮫悪くんが言った。ファーストライブという言葉に私の心臓は大きく跳ねた。さっと血の気が引く。私は首を振って抵抗した。

「無理だよ、絶対」

「大丈夫だよ。チケット取ってあるから」

 鮫悪くんは嬉しそうに私にチケットを見せた。

「そういう問題じゃないよ」

 私が言うと鮫悪くんは「ごめん嫌だった?」と、とても悲しそうに目を伏せた。それを見て私は何も言えなくなってしまった。こんなに私のことを考えてくれる人の思いを無碍にするのは、心苦しくてできなかった。

でも行きたくない。加瀬さんの近くに寄りたくない。どうすればいいの。

 答えが出ないまま、ずるずると神保町に着いてしまった。沈んでいく陽が心に翳りを落とす。顔を伏せておくくらいしか、まだ対策が思いついていなかった。

 道のりは随分と短く感じ、気付けばファースト劇場は目の前にあった。心臓がバクバクと鼓動する。ここに加瀬さんがいると考えただけで、おぞましい場所に思えた。手際よく受付の人にチケットを見せる鮫悪くんに、ぴったりくっつき中に入った。

劇場内には若い女性のお客さんが多かった。これなら目立たないかもしれない。気休めをしつつ鮫悪くんの袖をぎゅっと握り密着して、真ん中らへんの座席に座った。

「ちょっと近くないか」

「あ、ごめんね」

 煙たそうにする鮫悪くんに謝り、離れた。途端に不安が押し寄せた。人に触れていないだけで、心細さは段違いだった。私は誰にも見つからないよう、じっと下を向いた。

 扉が閉まったようで、劇場は薄暗くなった。そして東都八丁目横丁の出囃子が流れた。いきなり?太ももの上でぎゅっと拳を握った。

 漫才中、私は歯を食いしばり、漫才が終わるのをじっと待った。加瀬さんの声がスピーカーから聞こえる度、大量の汗が至る所から流れた。観客の笑い声はただただ憎らしかった。電車で自分の体調が悪い時、元気そうにしている乗客が恨めしく思える状況に近かった。

笑いの勢いを始めから終わりまで維持したまま、二人の漫才は終わった。私はほっと胸を撫で下ろした。あとは聞き流すだけで、大丈夫だ。

ぷちっ。

鳴りやまぬ拍手の中、ふいにスピーカーから聞き覚えのある声がした。腹の底から暗い不快感がこみ上げる。私は反射的に顔を上げてしまった。

ぷちっ。見るとステー上で加瀬さんが私を凝視し、そう口を動かしていた。私は戦慄した。悪寒がナメクジのように、体をぬめぬめ動き回った。恐怖が心臓を貫いた。全身がぷるぷる震え出した。気付かれていた。

 鮫悪くんは私を見て、「どうした」と眉根を下げた。「ここから出して」と私は震える口で強く言った。すると彼は不安げな顔で頷き、私を支えて外に連れ出してくれた。



 近くの公園で、鮫悪君に何があったか聞かれた。でも答えなかった。多分私を好きでいてくれる鮫悪くんに、加瀬さんの女だったという私の醜い部分を見せるのは酷だと思った。それに彼を巻き込むのは申し訳ない。

鮫悪くんに貰った水を飲んで落ち着くと、「帰るか」と彼は言った。私は同意して後を追うけど、どこに帰ればいいのか分からなかった。多分、加瀬さんたちは今必死に私を探している。安全な場所はどこにあるの。とりあえず警察に行ってみよう。でも痴話喧嘩とか言って、まともに取り合ってくれなかったらどうしよう。不安がぐるぐると頭に渦巻いた。

 駅に着くと私は一人でいる時間を少しでも先延ばしにしたくて、自動販売機で水を買い、彼に手渡した。でもそんなのは虚しい時間稼ぎにしかならず、私たちはすぐに解散した。

 駅の階段を降りる時、私は何度も鮫悪くんを振り返り手を振った。彼は私が見えなくなるまで、ずっと見ていてくれた。

 付いて行ってもいい?

 鮫悪くんにお願いしようかと思った。でもやめた。好意に付け入るのは卑怯だ。

 ホームに入って少しすると、八両編成の電車がやってきた。押上行きと書いてある。目的地は決まっていないけど、私は電車に乗った。とにかく遠くへ行きたかった。

 扉が閉まる。私が戸に手を付いた時だった。視界の端で、大きな男性が階段を駆け下りてくるのが見えた。よく見るとその男性は青と肌色が混じった不思議な顔をしており、私は仰天した。さらに驚くことに、その人は鮫悪くんを自称した。車内がざわつく。

 信じ難いことだけど、背丈や声は鮫悪くんと似通っていて、私は肝を潰しながらも半分信じてしまった。それに後ろに何故かあかねちゃんがいるし、信憑性は高かった。自称鮫悪くんは、自分がこんな姿であること、でも周りから助けられていること、彼も私を救いたいと思っていることを、必死になって叫んだ。その言葉を聞きながら私の目頭は熱くなった。青い顔の彼が鮫悪くんだと、完全に確信した。

「俺ここで待ってるよ。だから戻ってきてくれ。そして話を聞かせてくれ」

 彼は喉を潰すように言った。私の目からは滝のように涙が流れて止まらなかった。

 私は何度も大きく頷いた。私は涙をこぼす彼に見送られながら、一旦神保町駅を離れた。

彼になら話したい。そう思った。彼ならきっと私を救い出してくれる。全部を打ち明けよう。電車が隣駅の大手町に止まり、私は浮足立った。早く神保町駅に戻ろう。扉の先に希望が見えた気がした。

扉が開き、私は年甲斐もなく駆けだした。だけど、入ってくる人にぶつかってしまった。私は「ごめんなさい」とその人を見上げた。

 息が止まった。

「どこへ行くんですか?」

 目の前には笑顔を張り付けた加瀬さんがいた。体の細胞がぷちぷちと潰れてしまいそうな恐怖を感じた。

「加瀬、さん」

 声が上ずった。何でここにいるの。加瀬さんは私を押し込むように電車に乗り込んできた。出口が遠のいていく。視界は絶望で埋め尽くされるように、加瀬さんだけが映った。

「帰りましょう、私たちの家へ」

 扉が閉まった。


    〇


 紫に腫れた薬指を踏みつけられ、喉を焼き切るような金切り声が出た。

「指輪はどうしたんだ」

加瀬さんは怒りで歯を食いしばり、何度も何度も私の指を踵で踏んだ。山野さんたちに押さえつけられた私は抵抗できず、ただ悲鳴を上げるしかなかった。

「みんながネタ作りしている時に、お前は浮気とは良い身分だな。あ?一番面白くない奴が遊んでてどうするんだよっ」

 体が粉々になりそうな痛みに、気が遠のいた。体がぐったりと動かなくなる。すると「おい」と加瀬さんが冷たく指示し、詩帆ちゃんにバケツの水をかけられた。息が詰まり咳をして起きると、げらげらと女性たちの笑い声が響いた。そしてまた指を踏まれた。

死ぬと思った。

「元気になったな」

 彼は愉快そうにすると、私の襟を掴んで物置部屋に引きずりこんだ。部屋に埃が舞い、またごほごほと咳が出た。

「今日サボった分、ここでネタを書け」

 彼はそれだけ言ってドアを閉めた。周りが暗闇に包まれた。


    〇


 それから私は一ネタにつき、パンを一かけら貰えるという条件でネタを書かされ続けた。

加瀬さんはネタをくすりとも笑うことなく読んでは、パン屑を床に放り投げる。毎日これの繰り返しだった。パン屑をいくら大事に食べても、お腹は満たされなかった。ペンを持つ手は肉が落ち、骨と乾いた皮膚だけになっていた。

ずっと暗い部屋にいるから、この生活が何日続いたのかとか、今が朝なのか昼なのかとかは、とっくに分からなくなっていた。生きるためにネタを書いているのに、何のために生きているのか分からなかった。

辛い。


    〇


 今日はずっと横になっていた。起きた時点から部屋がサウナのように暑くて、気力と体力が全く湧かなかった。

 ふいにドアが開いた。やばいと思った。すぐに起き上がらないと、また注射をされる。でも考えに反して、体は一ミリも動かなかった。

 意外にもドアの奥から顔を見せたのは詩帆ちゃんだった。頬から口元にかけて、大きなガーゼが貼ってある。

「出なさい」

 彼女は機械的に言い、私に肩をかした。出て何をされるのかに怯えながら、彼女を支えになんとか立ちあがる。

「顔、怪我したの?」

「あなたには関係ない」

 彼女は冷たく言い放ち、私の手を引いた。

 久しぶりに出たリビングでは、山野さんたちが壁にもたれかかり項垂れていた。虚ろな目をした彼女たちは、抜け殻のように見える。

その焼け野原のような部屋の中心で、加瀬さんは頭を抱えて座っていた。

「来ましたか」

 彼に一瞥され、俯いた。

「実咲さんを呼んだのは、鮫と龍のツッコミ、鮫悪のことを聞きたいからです」

「鮫悪くんの?」

 思ってもみなかった要求に、私は顔を上げた。

「彼らは東都にとって大変な邪魔者です。よってお笑い界から消えて貰うことにしました」

 彼は淡々と言ったけど、話が全然飲み込めなかった。

「性癖、浮気、犯罪、不道徳。下品であればあるほどいい。鮫悪にとって不都合な事実、親しいあなたなら知っているでしょう」

 彼は立ち上がり、私の顎を掴んだ。私の頭には真っ先に、鮫悪くんの本当の姿が浮かんだ。でも「知りません」と首を振った。一度裏切ってしまった鮫悪くんを、これ以上裏切れない。

「本当に?」

目の中を覗き込まれるように見られたけど、じっと見返した。

彼は「よし」と頷くと、納得したように詩帆ちゃんを見た。私は一息つく。

「注射だ。こいつは嘘をついている」

「え」

 声が漏れた。何でバレたの。「絶対吐かせてやる」

加瀬さんは私の腕を強引に掴み、袖を捲った。紫色の注射痕が露出する。彼はいつに無く切羽詰まった様子だった。私はいつも以上の痛みを覚悟し、ぎゅっと下唇を噛んだ。詩帆ちゃんが棚から注射器を取り出す。そして加瀬さんに渡そうとした時だった。

彼女は注射器を床に落とし、思い切り踏みつけた。がしゃんと高い音が鳴り、プラスチックの破片が粉々に飛び散る。

「無様ね」

詩帆ちゃんは吐き捨てた。「何やってる」と加瀬さんが目を見開いた。

「実咲のネタをパクって負けたからって、八つ当たり?惨めね、加瀬さん」

詩帆ちゃんは私のノートを見ながら、鼻で笑った。詩帆ちゃんが変だった。それにパクリ?整理が追い付かなかった。

「ネタを作らせるために、私たちを閉じ込めてるんでしょ。もうやめなよ」

「誰に口をきいている」

「コンビバランス最悪だね。私たち」

 彼女は小馬鹿にするように、眉をぴくりと動かした。加瀬さんは彼女の腕を掴む。

「来い。教育してやる」

「ねえ、そんなことより鮫と龍を潰す方法、思いついたよ」

「何?」

 加瀬さんは動きを止めた。

「新世紀漫才頂上決戦の一回戦、私たちはいつ出るか知ってる?」

「東京予選二日目のトリだ」

「そう。でね、数奇なことに鮫と龍も東京予選の二日目、順番も私たちの一つ前の組なの」

「それがどうした?」

「東都八丁目横丁と鮫と龍、負けた方が引退って条件で勝負しましょう」

「何?」

加瀬さんの顔が強張った。

「一回戦から順位は付けられるでしょ。勝敗を決めるのにふさわしいと思わない?」

「そんな勝負してたまるか。引退なんて」

「あれ、自信無いの?他人を身勝手にお笑いで苦しめた人が」

「違う!負けるなんて思っていない。なにより鮫と龍が引き受けるはず無いだろう」

「鮫と龍は来るよ」

 詩帆ちゃんは言い切った。その気迫に、加瀬さんは少したじろぐ。「何故分かる?」

「うん。あかねは私のことを嫌ってるから」

 加瀬さんはぐっ、と言葉に詰まった。

「どうする、もう逃げてるのはあなただけだよ」

加瀬さんの額に脂汗が浮かんだ。そして珍しく声を荒げた。

「分かった、やってやるよ!」

「あいあいさー」

 詩帆ちゃんは軍人のように敬礼した。

「あいあいさあぁーーーーーー!」

 突然、大声と共に玄関ドアが蹴破られ、部屋中に轟音が響いた。心臓がトランポリンを使ったたように、大きく跳ねた。見ると、入り口の向こうに首から下しか見えない大男がいた。

「楽しみだねぇ、加瀬さんよぉ」

 彼がしゃがむと、綺麗な青色の顔が見えた。一気に全身が熱くなった。


    〇


 私は飛び込んできた青い顔を見て、大きくため息をついた。

「あんたさ、折角秘密を守ってやったのに、何で素顔で来るわけ?」

「うっせーな。威嚇だよ威嚇」

 鮫悪は土足で上がってきて言った。マナーの悪い奴だ。

彼は真っ先に実咲に駆け寄り、「ごめんな、助けてやれなくて」と抱きしめた。実咲は彼の腕の中で「ありがとう」と、わんわん泣きじゃくった。

「な、なんなんだよ。お前」

 加瀬が腰を抜かして、鮫悪を見ていた。とてもこんな環境を作り上げたイカレ野郎には見えない。「鮫悪だよ。鈍いねあんた」と加瀬を見下ろして言った。

「説明しろ、詩帆っ!」

「やっぱあんた鈍いよ」

 私はズボンのポケットからクレンジングオイルを取り出し、メイクを拭き取った。ガーゼも一緒に剥がす。すると加瀬は愕然として口を大きく開けた。掠れた声で言う。

「赤稲あかね・ドラゴン?」

「正解」

「何で」

「詩帆と実咲を助けるため」

 加瀬は顔面蒼白になり、後退した。ほんと無様。

「詩帆はどこだ」

「私の家でぐっすりすやすやだよ。まるで何日も寝てなかったみたいに」

「返せ」

「物のつもり?まあ新世紀の時だけは一緒にいていいよ。鮫悪という監視付きだけどね」

 加瀬は顔を大きく歪めた。でも元の涼しい顔を作り、不気味に笑った。

「ふふふ、分かりました。では私たちに勝てたら、鮫悪さんの正体は黙っておいてあげましょう。ただし、負けた場合はここで見たものは口外無用で頼みますよ」

「は?何条件出してんの?」

私は呆れた。自分の立場が分かっていないのだろうか。「あのね犯罪者さん」と言い返そうとしたら、と鮫悪に肩を掴まれた。「こういう奴は話通じねーよ」と言われ、それもそうだと思い言葉を飲み込む。

「赤稲さん、犯罪者の私を通報することもできないんですか?」

「あ?」

「虚勢だな」

 おちょくられてカチンときた私を、鮫悪はまた制した。そして玄関へ歩きながら「お前には法よりも、きつい裁きを下すから期待しとけ」と言った。

「どんな裁きか教えてほしいですね」

「板の上で公開処刑だ」

「それは無理な話です」

 加瀬の笑いが低く響いた。私たちは部屋を後にした。



「何で助けに来れたの?」

 部屋を出て実咲に聞かれたけど、別に大したことはしていなかった。

 入れ替え戦での加瀬の奇行を見てから、私たちはずっと加瀬を尾行していた。すると加瀬の住む部屋に、何人もの女性が出入りしていることに気が付いた。いよいよこれはおかしいとなり、私は得意のメイクで詩帆に化け、潜入する作戦を立てた。そして加瀬と詩帆が離れた隙に詩帆を誘拐し、代わりに私が詩帆として潜入できたというわけだ。中の惨状とか、実咲がいたこととか想定外はあったけど、詩帆も実咲も助け出せてよかった。

まあ何で助けに来れたかを要約すると、

「加瀬が変なことしたからだよ」

「なるほど?」

 実咲は首を傾げた。そして少し暗い顔をした。

「山野さんたちは大丈夫かな」

「山野さん?」

「部屋にいた女の人たち。加瀬さんにおかしくされちゃったの」

部屋の酷い光景を思い出した。

「じゃあ、助けに戻るか」

 鮫悪が実咲に言った。「ちょっと待って」と割って入る。

「あそこって実咲にとっては怖い場所でしょ。そこに連れ戻そうなんてそんな」

「大丈夫だよ」

実咲が私の言葉を遮った。

「鮫悪くんとなら、怖くないよ」

彼女は力強く言った。「実咲」と鮫悪は青い頬を赤くした。二人はしばらく見つめ合った。

「あ、ごめん。あかねちゃんも行きたかったよね」

 実咲は置いてけぼりの私に気付き、慌てて取り繕った。私は首を横に振る。

「行ってきなよ。二人で」

 彼らの時間を邪魔できなかった。ていうか戻るのは普通に面倒くさい。

「行くぞ」

 鮫悪が実咲の手を引き駆けだした。頑張れ鮫悪。遠ざかる彼にエールを送った。


    〇


 負けた方が引退。加瀬が逃げられないようにSNSに投稿すると、かなり世間の耳目を引いた。そのおかげか、東京予選二日目のチケットだけ、驚異的な速度で完売したらしい。加瀬を最高の舞台で叩き潰せると私たちは大満足だったけど、当然事務所が黙っているはずもなく、ほの香が私のアパートへ乗り込んできた。汗びっしょりなのは暑さのせいだけではないだろう。

「赤稲!これどういうこと?」

「まあまあ落ち着いて」

「折角ファーストに上がって今からって時に、何考えてんの。いくら詩帆が嫌いだからって」

そう言った所で、彼女は言葉を切った。目を大きく見開いている。

「詩帆?」

 ほの香の視線はベッドで眠る詩帆に釘付けになっていた。「何で」彼女は呟く。私は事の成り行きを説明した。

「なるほど。それなら思う存分やりなさい。事務所は私が黙らせます」

 話を聞いた詩帆は、態度を一変させた。「さっすがほの香」

「でも引退なんて大見得切って、勝つ保証はあるの?」

「無いよ」

 不安げな彼女にきっぱり返した。彼女は昭和のコント番組のようにズッコケた。

「無いって」

「笑いって水物だよ。今やれることをやるだけ」

「あんた、頼もしくなったね」

 同い年のくせに、彼女は母親のようなことを言った。

「おう、ほの香。来てたのか」

 湯気を漂わせて、鮫悪がシャワールームから出て来た。「ちょっと鮫悪、赤稲になんか言ってやってよ」と彼女は鮫悪を見た瞬間、ぎゃーと叫んだ。

「なに。なんなのあんた」

 ほの香は青ざめ、私の背後に隠れた。「盾にするなよ」と言いつつ、「その顔で出てきちゃダメでしょ」と注意した。「別にいいだろマネージャーだし」と鮫悪は扇風機の前に座った。

「それもそうね。えっとほの香、彼は鮫悪です」

「え?」

「え?じゃないの。受け入れてこれが事実なの」

「いや、リストラを宣告する上司みたいな言い方されても困るんだけど」

 全然納得しなかったので、一から説明した。この説明が本当に面倒だ。

「でかい理由が分かったよ」

 説明を聞いた彼女は最初にそう言った。最初の感想がそれかい。

「でも赤稲と詩帆のどっちかが引退って私は複雑だな」

 ほの香は俯いた。それは私も同じだった。加瀬を裁くために、詩帆にもリスクを背負わせてしまった。私は僅かな後悔を感じ、ベッドの方に目を遣った。

 そして驚愕した。彼女はいつの間にか、体を起こしていた。んん、と猫背の彼女は、手の甲で目を擦った。

「詩帆!」

 私は駆け寄り、彼女の手を握った。一週間ぶりに目覚めた彼女は、寝ぼけた目で私を見た。

「あかね?」

 彼女によく見えるよう、私は大きく頷いた。彼女は「何で」と呟くと、はっとしたように飛び起き、周りをきょろきょろ見た。こめかみに汗が浮かぶ。

「加瀬さんは?」

 私はその言葉に胸が締め付けられた。彼女の傷の根深さが垣間見えた。

「もういないよ」

 私は詩帆を抱きしめた。「あかね?」詩帆は不思議そうに言った。

「もうヘッドホンはいらない?」

 私が聞くと、彼女は咄嗟に耳元を触った。「あれ、いらないかも」

「よかった」

私は詩帆の背中を撫でた。

「ねえ、詩帆は新世紀に出さない方がいいよ」

ほの香が隣から言った。「そうだね。やっぱり加瀬とは近付けちゃだめだ」と返す。

「何があったの?」

詩帆は困惑しながら言った。私は経緯を説明した。

「私帰るよ」

 説明し終えると、詩帆は立ち上がった。「何で?」

「あかね。二年前コンビを解散したのは、加瀬さんに操られていたんじゃなくて、自分の意志でやったことなんだよ」

「うん」

「なのに今更なかよしこよしできないでしょ」

「そういう問題じゃないでしょ」

「そういう問題だよ!」

 詩帆は短く叫んだ。

「私は嫌われる覚悟を決めて、幼馴染のあかねを切り捨てたんだよ。私のためにも同情しないでよ」

 詩帆は布団を叩き、まっすぐ私を見つめた。私は握っていた彼女の手を放した。

「行きなよ。今度のライブでぶっ倒してあげるから」

「よく言うよ。捨てられたくせに」

 詩帆は立ち上がり玄関に向かった。私は彼女の背中に言う。

「待って詩帆!漫才するにしても加瀬とやる必要は無いんじゃない」

「このまま負けっぱなしは嫌なの。あかねに勝つためなら、相方が加瀬だろうとやるよ」

 ほの香は悲観的に額に皴を寄せたけど、それ以上は何も言わなかった。

「詩帆を倒して私の方が面白いってこと、証明するから」

「次が本当の勝負だね、あかね」

 詩帆は前を見たまま言うと、靴を履き出て行った。「ちょっと詩帆」とほの香が追いかける。「詩帆に危険が及ばないようにね」と私はほの香に言った。

「当たり前でしょ」

 ほの香は胸を強く叩き、部屋を飛び出した。

 静かになった部屋で、鮫悪は私の肩に手を置いた。

「負けらんねーな」

「うん」

 私は強く言った。




 劇場が爆発した。そう言っても大袈裟ではない程、観客は引っ切り無しに大爆笑した。エアコンがガンガンに効いているのに、客たちは大粒の汗をかいている。

 新世紀漫才頂上決戦一回戦の前日、私たちの渾身のネタはこれ以上ないほどの輝きを見せた。客席に礼をしながら、私たちは拳を合わせた。

 いける。私は直感した。このネタは勝てるネタだ。

 ファーストライブ終わり、芸人たちから「まっすぐ帰れよ」と言われた。彼らは何故私たちが新世紀の一回戦にそこまで賭けているのか不思議そうだったけど、一応引退がかかる私たちに配慮をしてくれた。私たちは笑顔で会釈し、一番に劇場を出ると、まっすぐ寄り道をした。どうしても行きたい場所があった。

 熱帯夜の暑さにあえぎながら、中野の廃ビルにたどり着いた。ビルは私と鮫悪が出会った時と、全く変わらない姿で寂れていた。

 中に入ると、砂埃で咽てしまった。こんな所で女の私を寝かせたなんて、信じられない。私は今や実咲と良い感じになっている鮫悪を、恨めしく見た。でも彼はそれに気付かず、柱の弾痕を撫でている。尾花に撃たれたのも、今となってはいい思い出だ。いや、やっぱ、ちゃんと考えたら全然良い思い出じゃないわ。

「ここから始まったんだよな」

 鮫悪はしみじみと言った。

「何?明日で解散するみたいな言い方しちゃって」

「ここに来たいって言ったのはお前だろ」

「そうでした」

 舌を出した。明日の戦いの前に、どうしてもここに戻って来たくなったのだ。

「勝てるよな、俺たち」

「勝つんだよ、私たち」

 コンビを結成した時のように、まっすぐ見つめ合った。気持ちが重なり合った。絶対に勝つんだ。勝って加瀬を地獄に叩き落とし、詩帆に勝利宣言をしてやる。

「勝ってもらわなきゃ困るわよ」

 こつこつこつ、と階段を上る足音を立て、真夏なのに真っ黒なジャケットを羽織った尾花が入ってきた。これも前に見た光景だ。

「尾花、いたのか」

「鮫と龍のいる所に、尾花ありよ」

 鮫悪は小さく笑い、肩を竦めた。彼は私たちの前まで来て言った。

「明日で鮫と龍が見られなくなるなんて絶対嫌だからね。ファンの私を悲しませないで」

「自己主張の強いファンね」

「ファンは自己主張が強いのよ」

「まずファンじゃなくて監視だろ」

 鮫悪がツッコむと、コンクリートのビルに笑いが響いた。増々やる気が湧いて来た。こんなどうしようもないファンでも、応援されるのは嬉しいもんだ。




 天高くから落ちてくる日差しが、スポットライトのように劇場に降り注いだ。劇場前の看板には、「新世紀漫才頂上決戦 予選一回戦会場」と書いている。まるで神様も今日の戦いを楽しみにしてくれているようだった。今日は私が主人公だ、己を奮い立て、劇場へ入った。

 楽屋には真剣そのもののプロや、記念受験でやって来たアマチュアなどが様々な思惑を浮かべて、入り乱れていた。いつも仲良く喋っている芸人同士も、今日ばかりは敵として目も合わせない。この独特の雰囲気が新世紀だ。私は帰って来たのが嬉しくて、身震いした。楽屋に取り付けられたモニターには、サンパチマイクが荘厳と立つ、暗いステージが映っていた。ごくりと息を呑む。早くあの舞台に立ちたい。敬意と闘志がわいた。

「すげーな」

鮫悪は憧れの舞台に、顔を強張らせた。

「アガってんじゃないぞ。相棒」

鮫悪の背中を叩いた。「誰がだよ、相棒」と強く叩き返された。内臓まで振動が伝わる。

「少しは手加減しなさいよ」

「緊張してんだからできるわけ無いだろ」

「怪我したらどうすんの」

「怪我したら解散だ」

「いいじゃん、相棒」

 私はいつもの調子で返した鮫悪に親指を立てた。鮫悪は照れ臭そうに、「お前もな、相棒」と言った。

 私たちは荷物を下ろし漫才スーツに着替えると、すぐに壁に向かってネタ合わせを始めた。私のボケも鮫悪のツッコミも、昨日の大ウケしたライブと同等、いやそれ以上の切れ味があった。仕上がり切っている。

一度通しを終えると、近くので聞き耳を立てていたアマチュアの女子高生らしきコンビが、拍手をくれた。「ありがとう」と私は手を振りつつ、胸の中ではガッツポーズをした。何事も無ければ、今日は完璧な漫才が披露できるはずだ。

「おはようございます」

 二回目の通しを始めた背後で、耳がぞわりとする不気味な声がした。顔も見たくないけど、振り返ると、以前のように善人ぶった笑顔の加瀬がいた。

「実咲さんは元気ですか?」

「元気」

 鮫悪がぶっきらぼうに返した。加瀬は「それは良かった」とわざとらしく胸を撫で下ろす。

「実はさっき、実咲さんが観客席にいるのを見かけました。あと近くには国島さんもいたな。終わったら二人に挨拶をしないと」

「やめろ」

 鮫悪は血走った目になった。動揺してはダメだと、鮫悪の手を叩いた。

「おお、怖いな。皆見ていますから、落ち着いて」

 加瀬が顎をしゃくった。気付くと私たちを取り囲み、大きな円ができていた。芸人たちは格闘技を見るように、楽し気にこちらを観察している。

「我々は注目の的ですから、それ相応の行動をしましょう」

加瀬は勝ち誇った顔をした。心底胸糞悪かった。歯を食いしばると、奥歯がピキッと小さな音を立てた。緊張感が張り詰め、楽屋は水を打ったように静かになった。

でも次の瞬間、勢いよく扉が開く音で、静寂は破られた。詩帆とほの香がなだれ込むように入って来たのだ。「一人で行動するなって言ったでしょ」とほの香は血相を変えて、加瀬の肩を掴む。「すみません」と加瀬は後頭部を掻いた。

詩帆に目を移すと、彼女はヘッドホンを着けていなかった。ちゃんとほの香が守ってくれたみたいで良かった。これで正々堂々漫才ができる。

私と詩帆は床が焦げそうなくらい、バチバチと火花を散らして睨み合った。私は歯を剥き出し、更に威嚇した。すると彼女は歯茎まで見えるくらい、歯を剥いた。牙は研いできたようだった。私と詩帆はお互いに小さく笑うと、同時に背を向けた。

きもい加瀬に、闘志むき出しの詩帆。舞台前にどっちも見られて良かった。

面白くなってきた。



 大噴火を起こすようにウケる芸人もいれば、アイスショーをしているように、ツルツルスベり散らかす芸人もいた。これもある意味、有象無象がいる一回戦の醍醐味だ。

そうして一組、また一組と出番を終え、残りはファースト劇場に所属しているような、そこそこ名のある芸人だけになっていた。アマチュアが消え失せた楽屋は、ぴりっと緊迫したムードに変わった。それぞれが他を寄せ付けないオーラを放っている。

スタッフが出番の芸人を呼びに来る度に、心臓が跳ねた。自分じゃないと分かっていても、強張ってしまう。緊張は加速度的に増した。

モニターに映る芸人がわっとウケた。やっぱりプロは声量もネタのクオリティも、アマチュアとは一段違った。プロを引き立てるために、アマチュアにも参加資格が与えられているんじゃないか、なんて思ってしまう程に。

モニターの中のコンビがネタを終えるまでに、二組の芸人が楽屋から出て行った。ついに楽屋には、鮫と龍と東都八丁目横丁だけになった。私は決して東都を振り返らずに、精神統一をした。勝つ、勝つ、勝つ、心の中で復唱するのは、ネタではなく気合になっていた。

「鮫と龍さん、お願いしまーす」

 スタッフに呼ばれた。手の中にぬめりを感じて見ると、じわーっと汗をかいていた。私は汗を太腿で拭き、立ち上がる。

「行くよ鮫悪」

「おう」

 私たちは並んで、スタッフについて行った。今歩いている道が、栄光への道だと信じて。



 白い光に照らされた舞台の上で、ボケの芸人が飛んだり跳ねたり、大立ち回りを演じた。客席は面白さの笑いというより、楽しさの笑いに包まれていた。弾ける笑顔を振りまく彼らは、大盛況のうちに漫才を終えた。

 まだ体力があり余っているようにそそくさと舞台を去った彼らは、袖に戻るや否や、膝から崩れ落ちた。特にボケの方は過呼吸のように、ぜーぜー言って肩を震わせている。プロだなと思った。今から立つ舞台が、どういう場所か再確認した。

 ふと、鮫悪が膝をがたがた震わせているのが目に入った。彼は緊張で顔を引きつらせている。「怖気づいたの?」私は茶化した。

「なめんな」

 そう言うと鮫悪は手を振り上げ、両膝を思い切り叩いた。ぼす、と鈍い音がして、鮫悪の膝の震えは少しだけおさまった。「これでも心配か?」と彼は私を安心させるように胸を張るけど、元より心配していない。だって新世紀に立つ者なら、緊張しないわけがないから。私も気付かれていないけど、さっきから指の震えを隠すため、ポケットに手を突っ込んでいた。

「緊張してもいいんだ」

自分と鮫悪に言い聞かせる。舞台に立てば、緊張を押しのけて口が勝手に動き出すくらい、稽古は積んだから。

「でも怪我されたら困るから、あんま膝叩くなよ」

 熱いことを思ったのが照れ臭くなり、軽くボケて誤魔化した。実際、一つ前の組のネタは半分近く終わっていたから、もう怪我とかハプニングの心配はしていなかった。あとは思いっきりやるだけだ。

 突然、頬に無数の小さな痛みが生じた。いや、違う。痛いじゃなくて、冷たいだ。脳は一瞬で、認識を改めた。

 何?

 反射的に右を見ると、鮫悪の顔がずっぷり濡れになっていた。衣装は水が滴っている。後ろにはペットボトルを握った加瀬と、唖然として口を押える詩帆がいた。

「鮫悪!」

 私は咄嗟に駆け寄った。彼は何が起こったか分からず、戸惑うように立ち尽くしていた。顔のメイクはどろどろと溶け、みるみる青い肌露出していく。まるで青い衣装と同化していくようだ。メイクが落ちるのを止めようと、手で押さえたけど、手にファンデーションが付着し、余計に青い部分が広がった。

 慌てて様子を見に来たスタッフたちは、一様に腰を抜かした。彼らは舞台を気遣って叫びはしなかったけど、恐怖と混乱が舞台袖に吹き荒れた。

「加瀬!」

 私は加瀬の胸倉を掴み、壁に押し付けた。加瀬は心底動揺するように、何度も瞬きした。

「何した、あんた」

「ご、ごめんなさい。躓いてしまって、水を鮫悪さんにかけてしまったんです」

加瀬は何度も私に謝った。ふざけている。襟を掴む力が強まった。

「あかね、やめて」

 詩帆が言うけど、この怒りをどこにぶつけろって言うの。こいつは私と詩帆の勝負、そして鮫と龍自体を潰したんだ。私は自然と拳を振り上げていた。加瀬の口角が、僅かに上がった。こいつっ。

「やめろ」

 今度は鮫悪に腕を掴まれ、止められた。顔はもうほとんど青色になっている。

「何で」

「出番だ」

 鮫悪が指さした舞台を見ると、一つ前のコンビが礼をしていた。「行くぞ」

「待って、その姿で行くの」

「何だ?こんなん今までのことを無駄にすんのか?」

鮫悪はびしょ濡れのくせに、からっとして言った。彼はズボンからぽたぽたと水滴を垂らしながら、舞台へまっすぐ進んだ。

 そんな姿でウケるわけ無いじゃん。離れていく鮫悪の後ろ姿に思った。お客さん引くよ、絶対。ネタだって、鮫悪の見た目に触れながらやらないといけなくなるし、何もかもが予定と変わってしまった。絶体絶命。舞台に立つのは自殺行為だ。

でも。

私は加瀬から手を離し、走って鮫悪の横に並んだ。

相方が死ぬ気なら、全力で救ってやるのがコンビってもんだ。

「結局行くんじゃねーか」

「もう行くしかないでしょうが」

「その意気だ」

「その意気だ、じゃないよ。言っとくけど私はまだ死にたくないから、本気で笑わせに行くよ。アドリブばんばん入れるから、覚悟してツッコミなさい」

「その意気だ!」

 目の前の舞台は、天国のように照明で白く光っていた。

あれ、今から死ぬかも?いや、死んでたまるか!

二人揃って、割れんばかりの拍手が響く板の上に踏み出した。



マイクに向かうまでの動線で、拍手は次第に薄れ、悲鳴が響いた。気圧されるな。ここを乗り越えろ、鮫と龍。気付けば早足になっていた。マイク前に立ち、無我夢中で始める。

「どうも。鮫と龍です。お願いします」

 頭を下げた。笑いは無い。

「赤稲、俺言わなきゃいけないことがあってさ」

「大丈夫そうやね。話聞かんよ」

「どしたん、話聞こか?の逆だ!お前のことナンパと思ってないから、警戒しないで」

「てか私も言いたいことあるわ」

「いや、俺の説明が先だろ」

「今日の私、いつもと違うんだけど分かる?」

「俺以上の変化なわけ無いから、先に説明させて?」

「実は私さ」

「あ、聞く耳が無い方でした」

「虫歯が三十二本あるんだ」

「どしたん、話聞こか?」

悲鳴がおさまった。

「この前までは二十五本だったんだけどさ、今日見たら三十二本になってたわ」

「早く歯医者行け!」

「行ってるよ。歯医者で診てもらったもん」

「じゃあ何で放置してんだ!てかお前、三十二本て全部の歯が虫歯じゃねーか」

「いや私の歯、八十本あるから」

「ワニと同じだ!こわっ」

「お前の方が怖いわ、化け物!」

「めちゃくちゃ雑に触れて来たんですけど!」

 鮫悪が客席に語りかけると、笑いが起こった。客の何人かが、鮫悪に同意するように頷く。それに後押しされ、漫才の勢いは加速する。

「あと背中にでっかい和彫り入れてさ」

「え、龍とか?」

「Z世代」

「Z世代?」

「っていう文字」

「やばぁ!Z世代とか背負う言葉じゃないよ」

「私は誇りに思ってるから」

「てかお前二十七歳だから、Z世代じゃねーだろ!サバ読んでんじゃねーよ!」

「痛っ」

「どうした急に?」

「実は肩がめちゃくちゃ腫れてんだわ」

「なんでだ?」

「昨日中野で色んな奴と、一分間のガチ喧嘩したのよ」

「ブレイキング・タウン?中野ってそんな街になってんの?」

「私が主催者」

「何やってんだお前。あんなん反社しか参加しねーんだからやめろ!」

「みんないい人たちだよ!」

「なわけないだろ!あんな入れ墨だらけで。て、お前もZ世代って入ってたわ」

「あとさ尻の肉を吸引して、乳房に入れたわ」

「賛否両論ありそうだな!」

「鮫悪は尻か乳房、どっち派?」

「そうだなー」

「私は尻か乳房だと」

「いや、呼び方気になるわ!二十代の女の子なら、おっぱいとかもっと可愛く言え!」

「あんたその見た目でジェンダーへの固定観念持ってんの?やば」

「見た目で人を判断する奴に言われたくねーよ!」

「あと膝の皿を玄関に飾ってます」

「普通、百万円の皿とかを飾るだろ!もう怖いからやめてくれ!」

「あとはね、くるぶしを凹ませながら」

「もういい!止まれ止まれ!」

「え?」

「お前がヤバすぎてお客さん、俺のこと忘れて大笑いしてるぞ!」

 そう言われ、客席を見ると暴風のような笑いが顔を直撃した。あまりの笑いの量に、唇がめくれ、ぷるぷるぷると音が出そうになる。

国島さんに実咲、尾花が腹を抱えて、膝をばたつかせている所がよく見えた。

がむしゃらに漫才をしていたから、いつの間にかこんなにウケていたことに気付かなかった。嵐の中心で浮遊しているような感覚になる。

「これは、すごいな」

「急に素に戻るな!」

 またどっと客席が湧いた。

「お前はずっと変なんだよ。出会った時に飯を奢らせるし、銃弾が飛び交う中、平気でネタをするし、バイト中は店長の目を盗んでずっとサボってるよな。てかそもそも俺みたいな化け物を相方に選ぶ時点でどうかしてるよ!もうお前のおかしさには参っちまった」

鮫悪は緑の口を一生懸命動かし、私に叫んだ。思い出が蘇り、胸を打たれる。

「嫌だった?」

「一つ言わせろ。赤稲あかね・ドラゴン!」

彼は真っ直ぐ私に体を向けた。

「な、何?」

鮫悪の畏まった態度に動揺した。彼は目を弧の形にし、思い切り笑った。

「お前が相方でよかったよ!」

「鮫悪・・・」

「おかしすぎるからな!」

「感動を返せ!」

「返せません」

「もういいよ。どうもありがとうございました」

 頭を下げた。体を震わすほどの鳴りやまない拍手が、会場に響いた。ぴゅー、と指笛が聞こえた。熱い塊のようなものが胸にこみ上げ、私はうっ、と嗚咽が漏れた。

「泣くなよ」

 鮫悪はツッコんで、にやりと笑った。「泣いてないし!」私は赤い袖でごしごし目を擦り、顔を上げた。強く手を叩く客たちが見えた。国島さんは前の陽気な姿を取り戻し、手を振っていた。実咲は顔を赤くし、笑っていた。鮫悪の方を向いているように見えるのは、気のせいじゃないみたいだ。尾花は「あれが鮫と龍なのよ!見た目なんかは超越した存在なのよ!」と周りの客に絡んでいる。本当にファンっていうのは厄介だ。

 ありがとう。胸の中でもう一度お辞儀して、舞台袖に戻った。袖ではスタッフたちが警戒しつつも、かなり好意的に寄ってきてくれた。でも私たちは取り合わず、一点を見つめた。

 加瀬は床に座り込んでぶるぶる震えていた。私たちの顔を見ると、あからさまに瞳孔を開いて、はいはいをして壁まで逃げた。鮫悪は大股でその後を追う。

「よお」

「ひっ」

 鮫悪は屈み、顔を加瀬の目の前まで突き出した。

「次はお前の番だぜ。楽しませてくれるんだよな」

鮫悪と加瀬の額が当たる。加瀬は震えるだけで何も答えない。

「どうなの?」

 私も鮫悪の隣で屈み、加勢した。加瀬は私と鮫悪を何度か交互に見た後、ぐるんと白目を剥いた。気絶する、こいつ。私があまりの小心者ぶりに呆れた時だった。

 加瀬の頭に水がかけられた。ぶはっ、と加瀬は息を吹き返し、咳をした。

上を見ると、詩帆がペットボトルを逆さにして立っていた。

「早く行くよ」

 詩帆は吐き捨てるように言った。「へ?」と加瀬は鼻水を垂らし、情けない声を出す。

「立ちな。クズ野郎」

「何だよ詩帆。今まで仲良く」

「さっさとしろ」

詩帆は冷たく言った。「東都八丁目横丁さんお願いしまーす」とスタッフが呼んでいる。

「ほら」

 詩帆は顎でしゃくった。でも加瀬は俯いて、いつまでも立とうとしない。それにしびれを切らした鮫悪は加瀬の襟を掴み、無理やり立ち上がらせた。

「公開処刑行ってらっしゃい」

 鮫悪に背中を叩かれた加瀬は、壁に激しくぶつかった。水しぶきが飛ぶ。

「死ぬ気なんてないよ。少なくとも、私は」

 詩帆は私たちの前に仁王立ちした。鮫悪は参ったな、と頭を掻く。

「見てるからね、詩帆」

「見てなさい、あかね」

 私たちは睨み合った。

「行くよ」

 詩帆は先に目を逸らすと、加瀬の首根っこを掴み、舞台へと直進した。必死で抵抗する加瀬を、馬力と勢いで押さえつけ、舞台に上がる。コンビらしからぬ様子に、スタッフも客も騒然とするけど、詩帆は堂々とセンターマイクの前に立った。

「どうもー!東都八丁目横丁横丁です!」

照明が彼女の全身を柔らかく包んだ。

「さて見せてもらうか」

 鮫悪は舞台を見て言った。私は腰の辺りで手を組み、隣から彼の顔を覗く。

「あれ、ただぼーっと見るつもり?」

「駄目なのか?」

「ネタ作りしながら見よっ」

「ったくこいつは」

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笑飢、鮫と龍 イッツァ ジャパニーズ侘び寂び @ringarindon

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