第3.5話 私の世界/ランチタイム・グリーンコットン
【私の世界】
佐倉まことは、昔から少し変だと言われる。
友達がいなくても平気なのは変だ、とか。
負けても悔しくないのは変だ、とか。
……一目惚れをするのは変だ、とか。
そんな数々の言葉に傷つけられるほど、私の人生は脆く儚いものじゃなくて、だけど投げつけられた言葉を無視できるほど強くもなくて。
周りの友達が結婚や育児で忙しい時期、私は夢だったカフェをオープンさせた。それは「少し変」な佐倉まことの人生として、100点満点の出来事だったのかもしれない。カフェのおかげで色々な人と話すことができて、私はようやく自分の人生は「変じゃない」ことを知るのだから。
そして、そこに来たひとりの女性に一目惚れしてしまうのは、「とても変」であることを知る。
彼女を初めて見たとき、妙な胸騒ぎがした。
それを一目惚れというのだと、後になって私は知ることになる。そのときはただ、彼女が亡くなった私の妹に似ていたからだと思った。もしくは、あまり思い出したくない暗い時期の自分に、どこか重なるものがあったからかもしれない。
純粋でありながら、現実を諦観の瞳で見つめる彼女は、話を聞くにここで働いていると言う。
迷う余地はなかった。コーヒーをサービスし、サンドイッチをオススメすると、彼女は注文してくれた。その瞬間、わずかに表情が曇ったのを私は見てしまった。もしかしたら、断りにくい雰囲気を作ってしまったかもしれない。いつもより丁寧にサンドイッチを仕上げ、彼女に出す。
自分が変な行動をしている自覚はあった。
コーヒーのサービスは、何度か経験がある。だけど、他のメニューをさらっとオススメできるほど私は商売に貪欲じゃなかったし、なによりそういった下心や騒がしさをカフェに求めていないことは誰より自分がよく知っていた。
だからきっと、そのときの私は少し「普通じゃない」私だったのだ。そして彼女が去ってからようやく、私は自分が何をしたのかをエプロンに入ったスマホの画面から理解した。
「お友達になりたいです」
小学生ぶりに発した言葉は、胸の内をグルグルとせわしなく駆け巡って、私の体温を上げた。
「ほんと、子どもじゃあるまいし……」
一度意識してしまうと、もう無意識には戻れない。彼女のサンドイッチをつまむ指先、お釣りを渡すときに触れ合った手の温度、夜の海を思わせる凪いだ瞳。なにより印象的なのは、サンドイッチを頬張った際に見せてくれたわずかな笑顔。驚き、感動、そしてそれらを抑制するようなぎこちない口元の動きが、彼女の純粋さと不器用さを表していた。すべてが好ましく思えて、すべてをもっとじっくり見てみたくて、交換した連絡先には「南理央」の輝かしい3文字があって。
私は恋をしてしまったのだ。
「一目惚れ?まことが?」
私の恋心を打ち明けると、佐藤ルナは言った。
信じられない、と言いたげな面持ちで。それも無理はないと思う。
ルナちゃんとは、大学生時代からの友達だ。おまけに、ルナちゃんは私のカフェが入る建物の、向かいのプラザで働いている。だからこうして、ルナちゃんは気が向いたタイミングでたびたび私のカフェに顔を出してくれて、途方もない雑談に興じてくれる。もっとも、話すのは7対3でルナちゃんのほうだけど。
午後3時、天高く上っていた太陽が西に傾き始める頃、ルナちゃんはひょっこり現れた。昨日と変わらず、今日もお客様は少ない。特にランチタイムを過ぎた午後の時間は、誰か来てくれることのほうが珍しい。今日もまた、いつもと変わらない静かな空間で、ルナちゃんだけが唯一のお客様らしいお客様だった。
「一目惚れねぇ……どんな人なの?」
ルナちゃんはいつも通り、砂糖とミルクでしっかり甘くなったカフェラテを片手に私に尋ねる。目尻に引かれたアイラインも淡く色づくアイシャドウも、さりげなく甘さをにじませていた。周りのメイクが次々とシンプルなものに移り変わる中、ルナちゃんだけは大学生の頃と何ら変わらず、佐藤ルナのメイクを貫いている。
それが少しうやらましくて、まぶしくて。
「この前来てくれた人。ここで働いてるって」
「ふぅん。名前は?」
南理央、その3文字がよぎったのに私の口は淡白な答えを返す。
「わからないの。まだ聞いてなくて」
後半は嘘ではなかった。いくら交換した連絡先に南理央の3文字があっても、自己紹介したとは言わないと思うから。次、彼女がここに来てくれるのなら、そのときに改めて名前を聞こうと思っていたのだ。
ルナちゃんは何かを勘ぐるように私をじっと見つめたあと、「ふぅん」と意味ありげに相槌を打った。こう見えて……というのも変だけど、ルナちゃんは稀に勘が鋭いところがある。今の私の繕えない表情から、一目惚れの相手が「とても変」であることを読み取ったのだろう。のちに知るまで、まさかふたりが同じ職場だとは夢にも思わなかった。
「まぁ、まことがいいならいいけど」
次いで放たれる言葉に、私は上手く受け身を取れず打ちのめされてしまう。
「一目惚れって、なんか変だよね」
ルナちゃんに悪気がないことは、これまでの付き合いでわかっていた。わかっているつもりだったのだ。あくまでルナちゃんは一目惚れを「変」と考えていて、それを口に出すことに何の問題もない、はずなのに。私の心の中には、これまで様々な人たちから言われてきた「佐倉まことは変」という客観的事実が、軽くかけられた言葉が、拒絶を含んで投げかけられた反応が、ずっと底に溜まっていて。
「そんなこと、言わないで」
しまった、と思ったときにはもう遅い。私の懇願めいた響きを感じ取ったのか、ルナちゃんは「ごめん」なんて、すぐに謝る。こういうさっぱりとした性格が、ルナちゃんのいいところなのに。今日の私はちょっぴり、イライラしているみたい。
ルナちゃんがカフェラテを一気にあおる。止める間もなくカウンターに500円玉が置かれ、「また来る」と、一瞬のうちに去ってしまった。グリーンコットンは、また静かな空間に戻る。大きな窓から見上げる空には、わずかにオレンジに染まる雲がぽつりぽつりと間を空けて浮かんでいた。
こうしてここから空を眺めるのも、次の春で最後になる。
最後を迎える前に南さんと出会えたことを喜ぶべきか、それとも、最後を迎えると告げなければいけない時期に出会ってしまったことを悲しむべきか。私にはずっとわからなくて、南さんが来てくれるたびに、嬉しさと後ろめたさが私をさいなむ。
結局、私は何も言い出せないまま、交換した連絡先の「南理央」を眺めていて。
そしてようやく、彼女と出かける約束をした。
人を遊びに誘うことが、こんなにも難しいなんて。世間のカップルと呼ばれる人たちは、皆こんな難しさを味わって関係を築いているのだと思うと、街中のカップルが尊く思えた。さらに結婚や育児までいくと、もう私の想像では再現できないほどいろいろな事柄を経ているのだろう。本当に、尊敬する。
正方形のアイシャドウパレットを手に、私は悩んでいた。
9つの色が敷き詰められているそれを手に、スクールバッグにさまざまな種類のマスコットをつけた女子高生がレジへ向かう。月のお小遣いが5000円だった高校生の頃の自分にとって、4000円のアイシャドウパレットは奮発した買い物に思える。
あの子はアルバイトとかしているのだろうか、それとも昔の私みたいに高いけど欲しい理由があって、お小遣いをはたいて買うのだろうか。
最低限のスキンケアをするくらいで、普段からメイクに興味があるわけじゃない。
それなのに、こうしてわざわざ遠くのショッピングモールまで来て、コスメショップの店頭で頭を悩ませているのは、今度の約束が理由のほとんど。そして、ルナちゃんのメイクがまぶしかったから、なんて気持ちもほんの少し含まれている。
「あ、新作出てるじゃん!」
後ろから響く元気な声に、私は驚いて肩を震わせた。すぐ横から手が伸びてきて、あっと思う間もなく正方形のアイシャドウパレットがまたひとつ、レジに運ばれる。その後ろ姿はさっきの女子高生と同じく、若く輝きに満ちている。
こうして悩み始めて、もう何分経つだろうか。世間の流行も人気のコスメも、はたまたブランドの違いも、ぼんやりとしていて区別がつかない。学生の頃は「普通」になろうと勉強していたけれど、大人になるといつの間にか止めていた。終わることのない情報の流れに疲れてしまったのかもしれない。頭に詰め込んだ新作の情報は、すぐに次のものへと移り変わり、気づけば消えている。
「これにしようかな」
正方形のそれを元の場所に戻す。
きっと1週間後、1ヶ月後には売り場ごとなくなっているだろう。
結局、無難そうなコーラルピンクと淡いベージュが配色されたアイシャドウパレットを手に、その場を離れる。そう何度も来ない場所だし、ついでに買えるものなら買っておこうと、どこもかしこも輝く店内を歩く。私と同世代くらいのカップルから放課後を満喫する女子高生まで、さまざまな年齢の人たちがコスメを見ていた。
ふと、ひときわ華やぐポップの前で足が止まる。新発売のリップティントのようだ。
手前に置かれたテスター以外、どの色も残りは1つか2つのようで、その人気がうかがえる。このオレンジの4番、かわいい。
「でも……」
手に取って、すぐに戻す。
少し派手すぎるかも。これまで言われた「少し変」の経験値から考えるに、周りの友達ならきっとそう言う。手にあるアイシャドウパレットの色は、無難。それならば、リップだって無難なものにしたほうが、きっと。
隣の5番、唇の色に近いナチュラルなピンクの箱に手を伸ばそうとした。
「それ、かわいいですよね」
反射的に振り返り、首に下げられたスタッフの名札にホッとする。艶やかな黒髪を後ろでひとつに結んで、制服を思わせるネイビーのスタッフユニフォームを着た女性。
どこか南さんにも似て見える彼女は、私が問いかける間もなく滑らかに話し出す。
「人気のシリーズの新作なんですけど、果物をテーマにしてて発色がいいんですよ」
「そうなんですね」
「よかったらテスターありますし、手で色味を確認してみてください」
返事をしなければ、それなのに言葉は喉の奥に詰まってしまって出てこなかった。アイシャドウパレットを持つ手が少し震えて、頭の中で「無難」の2文字がチカチカと点滅する。ああ、私は。
横から伸びてきた手が、5番の箱をつかむ。
「すみません、5番はこれで品切れなんです」
店員さんが申し訳なさを表情ににじませ、言う。
残された、オレンジの4番がひとつ。これを手に取るも、取らないも私の自由。
瞬間、脳内に声が響く。
こんなお膳立てをしてもらわないと、自分の好きな色さえ選べなくなってしまったの?
「大丈夫です」
手を伸ばし、4番の箱をつかむ。
「最初から、これにしようと思ってたんです」
言い、店員さんに微笑んで見せる。
佐倉まことは、「少し変」だから。
「無難」の2文字のために生きられるほど、私は強くない。弱いから、弱いなりに歩いていく。かけられる言葉に打ちのめされても、投げつけられた言葉に傷ついても。
自分の思う「普通」な人生を、まっとうしてみようじゃないか。
レジでお金を払い、商品を受け取る。
紙袋に入れられた正方形のアイシャドウパレットとオレンジのリップティントは、不思議なほど私の気持ちを高揚させた。
【ランチタイム・グリーンコットン】
「……暑い」
つぶやいた声は、頭上の太陽に対する文句。
それなのに横からは佐倉さんの返事があった。
「今日も、暑いですね」
迎える24回目の夏。それほどまでに繰り返した記憶はないし、この季節に付随するポジティブでエネルギッシュなイメージにはいい印象がない。
冷房代は年々上がる一方だし、そのくせ冷房をつける日ばかりが増えている。今年の夏は、昨年以上にバカみたいに暑い日が続いていた。
私がバイトを辞めてから半年。
そして佐倉さんのカフェ、グリーンコットンが閉まってから半年が経とうとしていた。
あれからというもの、私は短期バイトを転々としながら資格の勉強に励んでいる。特に理由もなければこだわりもなく、貯金を切り崩しながら生活する日々。強いて変わったところといえば、こうして佐倉さんと出かける回数が増えたくらいか。
対する佐倉さんはというと、キッチンカーの資金のため、こちらもバイトに精を出している。小さな美術館の受付で働いているらしく、たまに展示会のチケットを渡してくれる。さすがに私のような切羽詰まった財政状況ではないようだが、それでも「お金があると選択肢が増えますから」と微笑んでいた。
珍しく両方の休みが重なった土曜、それが今日こうして一緒に歩く理由である。この半年、どことなく距離は縮まったり遠のいたり、海にぷかぷか浮かぶクラゲのように私たちは生きていた。
もっとも、植物園に遊びに行った際の佐倉さんの告白は記憶の奥に焼き付いている。そして、その返事を私がいまだできていないことも。
「あそこのカフェ、入ります?」
彼女が指さす先には、有名なチェーン店の看板が堂々と立っている。この晴天の元、冷房の効いた涼しい場所ならどこでもいい欲望と、満足できないカフェに入っても仕方ない論理的思考がぶつかり合って爆ぜた。コーヒーを飲むと、どうしてもグリーンコットンを思い出してしまうのだ。グリーンコットンが閉店して以降、どこか満たされない気持ちが胸の中にくすぶっている。ひとつに拘泥するのは趣味にしろ将来にしろ、よくないことだと理解はしていても感じる気持ちまでは操作のしようがない。つまり、グリーンコットンのコーヒーがいちばん好きだということだ。
「行きましょう」
じりじりと太陽に照らされる頭で下した決断は、冷房の効いた室内に逃げ込むのみ。出勤退勤で必要に迫られて歩くのと、休日に自らの意思で歩くのでは、同じ炎天下の元でもまったく違う。
自動ドアが開いてすぐに冷気が私たちを出迎え、同時に長い長い列がお目見えした。どうも真夏の太陽は、人間の思考を画一化してしまうらしい。
「南さんは何にします?」
茜色のボブを揺らし、佐倉さんが問いかける。
暑いから脱ぐ単純思考の私とは違って、彼女は肩にかけたバッグから薄手のカーディガンを取り出して羽織っていた。それを見る私の腕には鳥肌。
注文するものはもう決まっていた。
「アールグレイにします、ホットで」
私がコーヒーを飲むのもサンドイッチを食べるのも、グリーンコットンだけだ。目をつむれば、あの白い空間が懐かしく目の前によみがえる。コーヒーの香り、佐倉さんの緑色のエプロン、カウンター席の丸椅子。私の大切な場所。
「アイスコーヒーじゃないんですね」
佐倉さんの声に、現実に引き戻される。
私の内心をとうに見透かしていそうな笑みで、彼女は次いで言う。
「今度、コーヒー持ってきましょうか?」
それは魅力的な誘惑だった。が、「いえ」と、断る。ただ佐倉さんのいれるコーヒーが飲みたいのではなく、私はカフェ・グリーンコットンが好きなのだ。あの空間にあのコーヒーとサンドイッチがあってこそ、グリーンコットンなのであって。
我ながら、めんどうな性格だと思う。だけど、好みらしい好みのない自分にとっての、数少ないこだわりなのだ。そこだけは、譲れない。
「次のお客様、どうぞ」
気づけば呼ばれ、レジへ向かう。
あっけらかんとした店員さんの笑みに、ぎこちないながらも表情を柔らかくして注文した。
「……実は今日、コーヒーあるんです」
そう言われたのは、いよいよ帰ろうかと駅ビルから改札へ向かう道すがらのことだった。
思わず足を止め、佐倉さんをまじまじと見る。
小粒のラメがまぶたできらめいて、いつか見たグリーンコットンでの彼女の姿と重なった。
「よかったら……」
その先に続く言葉を遮るように、私は言う。
「少し、歩きましょう」
駅から遠ざかるように、また終わりから遠ざかるように線路沿いを歩く。私も佐倉さんも、まるで今、世界が終わることを宣告されたかのように黙っていた。もし本当に今日で世界が終わるとするならば、私たちはいったい何を話すのだろうか。
その時こそ、私は佐倉さんの告白について返事をしなければならない。その結果、なにかしらの関係が終わりを迎えたとしても。
「ここで、座りましょうか」
彼女の提案に、線路沿いの小さな公園に入った。
狭い砂場にベンチがふたつあるだけの、建物の隙間にひっそりと存在している公園は私たちに似ていた。それでも日中は利用する人がいるのだろう、砂場には誰かのじょうろが忘れられ、またベンチにはドラゴンが描かれたカードが1枚落ちている。夕方をとうに通り過ぎ、夜に足を踏み入れる時間なだけに今は人っ子ひとり見当たらない。おまけに夏だというのに、セミすら鳴いていなかった。
ドラゴンが占拠するベンチを避け、もう片方のベンチに腰を下ろす。太陽が沈んだおかげか、それとも今朝の天気予報で見た「秋の空気を運ぶ北風」のおかげか、そこまで暑くはない。
「……もらってもいいですか」
沈黙を破ったのは、私のひとことだった。
主語も何もない、最低限の言葉でも意図は伝わったようで、佐倉さんはバッグから小さな水筒を取り出した。ボルドーの水筒は暗闇のなかでも鈍く輝き、彼女の手によって蓋が開けられる。
「どうぞ」
渡された水筒からは、グリーンコットンの香りがした。ただのコーヒーのはずなのに、どうしてここまで執着してしまうのか、私にはわからなかった。わからないけど、気持ちに嘘はない。
ひとくち含み、香る生ぬるい液体を飲む。
暑い時期に熱いコーヒーを飲むなんて、昔の私からすれば信じられない非合理的な行動だ。ましてや、その味に心が落ち着くなんて。
「……おいしいです。今日も」
つぶやくと、佐倉さんが華やいだ笑顔を見せる。
理由もなく、花火が夜空できらめく様子を連想した。暗ければ暗いほどに、その華やかさは引き立つのかもしれない。
「南さん」
元々小さな水筒に入っていたからか、コーヒーはあっという間になくなってしまう。それを見計らったようなタイミングで、隣に座る彼女から呼ばれる名前には真剣なトーンが含まれていた。
「キッチンカー、なかなか準備が難しくて……ごめんなさい」
せっかく手伝ってくれると、言ってくれたのに……言わずとも、続く言葉は察しがついた。
私は水筒を佐倉さんに返すと、努めて明るい声でフォローする。
「大丈夫です。ゆっくり待ちます」
半分は本心だったが、残り半分は自分に言い聞かせているようなものだった。どんな経緯にしろ事情にしろ、自分で働いて生活しているならばそこに優劣はない。だが、母の言葉は刺さったままで時々激しく痛む。「正社員じゃないなんて」、「普通じゃない」、「あなたはおかしい」と。
佐倉さんは戸惑うように、あるいは不安をたたえた瞳で私を見つめた。その視線の意味を読もうとするのではなく、できるだけ彼女の気持ちに寄り添えるように目を合わせ続ける。
「……もし」
風が吹いて、木々が揺れる音がした。
ここではないどこかと繋がっているような、そんな現実味のない風邪だった。
夜は嫌いじゃない。勝手にやって来る太陽が支配する日中よりも、いっとう。
「明日世界が終わるとしたら、どうします?」
からかうような声音で告げられるイフに、私は黙って向き合う。一瞥した彼女の横顔は、別人のように切なさと冷たさをたたえていて、私は初めて夏の夜が怖いと思った。求められているのは「あの日」の答えだと、無意識に脳が弾き出す結論。
きっと佐倉さんも、そのほかの人も皆。
勝手にやって来る明日が怖くて、不安で、怯えて目をつむっていたいんじゃないか、なんて。
母が「正社員じゃないなんて」と言うのも全部、決まった答えが欲しいからではないか。この不安定で複雑で不思議な世の中を生きるためには、「普通」という心の拠り所が必要な人が多いのではないか。
そうだとするならば。
私も佐倉さんも、とてつもなく「普通」で。
「明日、世界が終わるなら」
答えはもう決まっている。
明日、明後日、来週、来月、来年の私がそうではないとしても、今日の私の答えはひとつだ。
「グリーンコットンでコーヒーとサンドイッチを頼みます」
真意を伝えるには、それで十分だった。
手を伸ばし、彼女の手を握る。自分とは違う温度の手に、どこか安心してしまうのは不思議だ。
「……好きです」
こぼされた佐倉さんの告白に、返す言葉は決まっていた。
「ありがとうございます。私も、」
完
ランチタイム・グリーンコットン 空間なぎ @nagi_139
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