第3話 私とグリーンコットン

世界は壊れた。はずだった。


彼女の言葉を聞いてから、約1週間が経とうとしていた。あれ以来、グリーンコットンには顔を出していないし、出す気も起きなかった。詰め込まれているバイトに行って、帰って寝るの繰り返し。むしろ、バイトという予定がなければどこまでも私は思考の海に沈んでしまって、もう息をすることすらできなかったかもしれない。


人から好意を向けられるのは、これで2度目だった。高校の卒業式で、消化試合じみた告白を受けたことがある。それはただ一方的な気持ちの吐露に過ぎないように見えたし、相手もそのつもりで告白したのだと笑っていた。

だから、始まりもしなかったし終わりもしなかったのだ。人生で初めて受けた告白は、夕立のように突然やってきて、何事もなかったかのように過ぎ去っていった。


だけど、今回は違う。

佐倉さんは私と「友達」という関係を始めた。その関係の終わりがどこにあるのか、どこに向かうのかなんて私は考えてもいなかったけど、もしかしたら彼女は最初からそのつもりでいたのかもしれない。「友達」という関係が、早々に終わる計画で。


頭が痛い。とめどない思考に、脳が悲鳴を上げているようだった。


「私、あなたが好きです」


決定的なその言葉より脳内で繰り返されるのは、


「……私、帰りますね」


最後にかけられた、去り際の挨拶だった。彼女との関係の「終わり」は、そのひとことで表されていた。終わりは始まりだなんて人々は言うけれど、そんなはずはなかった。割れたお皿は元に戻らないし、一度友達を辞めた人とはまた友達にならない。


佐倉さんからの告白。あのときの場面を端的に説明してしまうなら、その言葉に尽きる。なぜ連絡先を交換してもすぐに連絡が来なかったのか、必然性のない理由で植物園のカフェに誘われたのか、たったひとつの結論ですべての謎は解けてしまった。そしてどうしようもなく、彼女のこれまでの言動は俗っぽく見えてしまうのだった。万人にあまねく降り注ぐはずの慈愛は、たったひとりのどうしようもない人間にそそがれるのだ。理解できない。納得できない。


彼女が私を好きになったことに、疑問がないと言えば嘘になる。もしかしたら聞き間違いかもしれないとも考えたが、そうなると彼女が先に帰った意味がわからない。無神経に、自意識の膜を断ち切ってグリーンコットンに行ってみようかとも思った。その割に体はいやに重く、足はその場から離れない。そうして、私はやけに長かった8連勤を終え、ひさしぶりの休日の空気を布団で味わっていた。


カーテンから漏れる光は、とうに昼頃の色をしていた。休みの日はいつも、読書に没頭するか家事をするか、あるいは散歩に行くかの3択。

私は機械のように、日々のルーティンをこなす。こなして、こなして、こなしたその先に息苦しい明日が待っているのだとしても、勝手に朝がやって来る以上は逆らう術がない。ずっと同じ景色の道を、ぐるぐる歩いているような気持ち悪さ。


「私、あなたとお友達になりたいです」


心が佐倉さんに支配されている。何をしても、思考はめぐりめぐって佐倉さんにたどり着く。テレビでよく見るドラマのように、付き合うとか付き合わないとか、そういうにっちもさっちもいかない頭になりたかった。私の頭で渦巻いているのは、よくわからない自分をよくわからない理由で好いて、よくわからない告白をした彼女に対する自己中心的な怒りだった。


「…………」


ゆっくり、私は明日に向けて流されていく。

ようやく自分の本性に気づく。


拒まれることが怖ければ、受け入れられることも怖かったのだ。


そしてさらに1か月が過ぎて、私はバイトを辞めた。




「お世話になりました」


言って、頭を下げる。最後の勤務は午前中だけで、社会科見学に来ていた中学生の団体が帰ると同時に私はスタッフジャンパーを脱いだ。青色のままの社員証とも、今日でおさらば。働き始めてからおおよそ半年と少しが経っていた。元から長く勤める気はなかったので、ある程度予想はしていた終わりだった。仕事内容に不満はないが、満足感や達成感があるわけでもなかった。

それなのに、最後という言葉だけで後ろ髪を引かれる感傷に浸れるのだから、不思議を通り越して自分が気持ち悪くなる。


いまだに名前を知らない人々に拍手や形ばかりの感謝をもらいながら、私はバックヤードに引っ込む。専用のロッカーがないおかげで、私物を忘れて再度ここに来る可能性がないことはたしかだ。以前コンビニにいたときは、辞めたあとも制服の返却やら私物の持ち帰り忘れやら、なんだかんだ行かなければならず手間だった。


スタッフジャンパーや社員証は机に置いておけばいいとの話で、丁寧に畳み目立つところに置く。何を話しているのか、バックヤードの外からは楽しげな笑い声が聞こえた。私がいてもいなくても、この場所は明日も明後日もその先も、変わることなく続いていくのだろう。それはある意味救いでもあった。


では、佐倉さんはどうなのだろうか。


つつじ市民プラザを出た私は、向かいの建物へ向かった。

目的地は、彼女の待つカフェ、グリーンコットン。さすがに、最後くらい顔を出すべきだという確固たる理由を胸に、私はガラスのドアを開けた。

思えば、その時点で私は気づくべきだったのだ。開け放たれていないドア。いつもより薄いコーヒーの香り。数人のお客さんがいる店内。そのなかに、見知った顔。


赤のメッシュが入った黒のボブカットに、人生を楽しみ尽くしているメイク。雑誌のモデルでも身にまとわないであろう、派手な原色の服装。普段首から下げている銀色の社員証は見当たらないが、間違えようもなく佐藤さんだった。

そして、カウンター越しに佐藤さんと楽しげに話すのは、佐倉さんで。

沸騰した感情は、すぐに言葉になって口から放たれた。


「どうして?」


心とは裏腹に、思考は冷静にふたりを分析していく。ここは誰でも入れるカフェだ。佐藤さんが来てもおかしくはない。では、黒のコートは?偶然という言葉で、ふたりの関係を片付けられるのか。佐倉さんは私に告白をした。それなのに、佐藤さんと親密に話すのはいかがなものか。最初からすべて仕組まれていたのでは。


「ああもう、」


つぶやく声は、ふたりには届かない。終わったのなら、もう始まらない。


「全部壊れてしまえばよかったのに」


なにもかも、始まらなければよかったのに。ふたりはまだ私に気づかない。

帰ろうと、開けたドアに貼られた白い紙。そこには、


「グリーンコットン 閉店のお知らせ」


私の世界は音もなく、静かに崩れ去った。




「南さん!」


追いかけて来る声が誰のものか、振り返らずともわかった。誰にでも媚びる甘ったるい声は、聞き間違えようがない。私がいちばん嫌いな人だから。


「なんですか」


敵意を隠す理由はない。同じ場所に勤めているわけでもない他人に、何の遠慮をする意味があるのか。それがただの嫉妬だとしても。


「……まことちゃんに返事、してあげてください」


彼女を下の名前で呼ぶのか。私はようやく佐藤さんに向き直り、にらんだ。


「本当に、なんですか。放っておいてください」


「ずっと待ってるんです、まことちゃん。南さんのこと」


「うるさいです。関係ないでしょ」


「あるの!私の友達だから」


「友達なんて、何の意味があるんですか!」


つられて、声を張り上げる。通りがかったおじさんが、ぎょっとしたように動きを止める。視界に入った何もかもを無視して、言葉は感情と直結し、止まることなく私の口から流れていく。


「どうせいなくなるのに、そんな関係に何の意味があるって言うんですか」


「まことちゃんはいなくならないもん!」


「いなくなるでしょう、グリーンコットンだって」


「来ない南さんが悪いでしょ!」


「グリーンコットンだって、閉まるのに!」


佐藤さんは口をつぐんだ。子どもでもないのに、公衆の面前で私は何をしているのだろう。ああ、嫌いだ。この世界も、目の前の人も、自分も。

そして無意識に熱くなる目頭も、目から落ちてくる水も。


「バカみたい」


佐藤さんのつぶやきが、すべてを表していた。そうだ。間違いなくバカだ。

ずっと過去を引きずって、自分の感情に蓋をして、毎日死にたいと願って。

そんな人間が好かれるはずはないと、近づいてくれた他人まで否定して。


私はどうしようもなく普通で、バカで、すべてを信じたいただの人間だった。




「南さん、なんで辞めたんですか」


私が落ちついたのを見計らって、佐藤さんはそう尋ねてきた。

昼休憩のとき、ひとりで座っていたベンチにふたり、腰かける。あの佐藤さんと並んでベンチに座って話すなんて、数か月前の私が聞いたらきっと嘘だと思うだろう。


「別に。辞めたかったので」


本当は大きな理由なんてなかった。現状を変えるには今のバイトを辞めるのがいちばん効率的だと思ったのも、春先に増える正社員募集に向けて今のうちに辞めておこうと思ったのもある。そんな細かな理由が積み重なって、行動に移した。


結局のところ、私の人生に起承転結はない。誰かと出会った程度で死にたい現実は変わらないし、バイトを辞めた程度で何かが終わることもない。


「向いてると思ってたのになぁ。南さん、案外子どもに優しいですよね」


言葉選びにカチンと来たが、佐藤さんにそんなことを言われるとは意外だった。自分では向いているなんて一度も思ったことはない。だが、佐藤さんの言葉を否定する材料はどこにも見つからなくて、私は複雑な気持ちで足元のアリを見つめた。


アリは右へ左へ、予測できない挙動で歩く。私がちょっとした気まぐれで足を踏み下ろせば消えてしまう小さな命は、エサを探しているのか懸命に働いている。

前に、何かの本で読んだ。他と自分を比較するのは、人間だけの特性らしい。アリは自分が他のアリより働かないことに罪悪感を覚えないし、エサ探しが下手なことに劣等感を覚えないそうだ。


佐藤さんが足を前に投げ出し、アリの姿がかき消される。今ので踏みつぶされてしまっただろうか、それとも上手く避けられただろうか。


「南さんのこと、みんな褒めてましたよ。仕事を覚えるのも早いし、接客も丁寧だって。特に時間をきっちり守ってくれるから、助かるって2階の人が言ってました」


「……褒めたところで、何もお渡しできるものはありませんが」


「え、事実ですってば。南さん、自己肯定感どこかに置き忘れてきました?」


佐藤さんはそう言って、悪びれることなく笑う。この小悪魔のような人が社会で正社員になれている以上、私はもっと肩の力を抜いて生きてみてもいいのかもしれない。


「私、佐藤さんのこと……あんまり好きじゃないかもしれません」


初めて口に出せた心からの言葉は、爆笑で受け止められた。




グリーンコットンに戻ると、店内はもぬけの殻になっていた。

いつもなら意識せずとも鼻に届くコーヒーの香りも、今はしない。かろうじてある「グリーンコットン」の立て看板だけが、ここにそんな名前のカフェがあるのだと存在を確かなものにしてくれている。整理された、真っ白な空間。そこに繋がる半透明のドアを、私はゆっくりと開けた。


黄昏に近づく夕方の陽が、店内を暖色に染めていた。

いつものカウンターの中ではなくテーブル席に囲まれるように佇む、茜色のボブカットに緑のエプロンの彼女。私が開けたドアの音を聞いてか、振り返る姿はまるで映画のワンシーンのようで。


「今日は、もう……」


言葉は、そこで途切れた。佐倉さんの顔には、何かを我慢するような痛々しげな笑みが浮かぶ。少し前の自分なら、きっと「そんなごまかしの笑みを浮かべて」なんて、突き放しただろう。目の前の人より、過去の経験から「こうであるはずだ」なんて自分に都合のいい理想を組み立て、信じないと強く誓っただろう。

だけど、今ならわかる。


人は誰かを裏切ったり、騙したりするために笑顔を浮かべるんじゃない。

もちろんそういう理由で笑うこと、共感すること、怒りながら笑顔を浮かべることだってあるんだろう。私がこれまで関わってきた人達は、そういう人達だった。だから、私は誰もかも、自分さえも信じないようになった。


でも、それがすべてじゃない。


「佐倉さんと、話に来ました」


言うと、私は無遠慮だと知りながら近くのテーブル席に座る。佐倉さんの言葉、そして店内の状況からして今日はもう営業が終わっているはずだ。彼女が出ていけと言うのならば、それに従うつもりでいた。


「おひさしぶり、ですね」


佐倉さんは懐かしむように、慈しむように私を見つめて言った。私が最後にグリーンコットンに来たのも、佐倉さんに会ったのも、1か月と少し前だ。彼女は何も変わっていなかった。


あるいは、変わらないように見せているのか。


「南さん、この間は……ごめんなさい」


佐倉さんが頭を下げる。そのまま、言葉は続く。


「とても自分勝手に振る舞って、南さんに気持ちを押し付けてしまいました」


どこか独白めいたトーンに、思わず否定を挟みたくなる。自分勝手に振る舞って気持ちを押し付けていたのは、私のほうだ。勝手に期待して、過去と重ね合わせて、好意から目を背けていた。


私が恐れていたのは、終わることだった。


母と父の離婚によって、失われた幸せな時間。

「友達、やめていい?」理由なき関係の終止符。

自分が努力しても、どうしようもないことがある。手を伸ばしても、絶対に届くわけじゃない。それを知ったとき、私は初めて絶望感を味わい、「始めなければいいんだ」なんて、根源から「終わり」を否定した。目を背けた。現実から逃げ、ただ平凡な毎日が繰り返されることを願った。

同時に、誰かが平凡な毎日を打ち破ってはくれないかとも願っている。つまりは、物語のように主人公にとって都合の良い展開だけを夢見たのだ。

今も昔も、私は自分で選ぶことから逃げて、すべてを他人任せにしていた。


もう、現実と向き合わなければならない時間だ。


「南さん、南さんが嫌だとおっしゃるなら、私はもう……」


「やめてください」


私の声に、佐倉さんは肩を震わせた。

改めて、彼女をじっと見る。私がこれまで見ようとしていた理想の佐倉まことではなく、私のことを好きだと言ってくれた普通の佐倉まことを。

仮に、彼女が人殺しに手を染めていても、誰にでも恋する惚れっぽい人だとしても、打算で私にコーヒーを出してくれたのだとしても。


向き合わなければならない。

彼女がくれた言葉と、その意味に。


「佐倉さん、どうして」


感情を覆い隠さずに口に出すのは、難しい。

つっかえながらも、問う。


「どうしてグリーンコットンを閉めるんですか」


佐倉さんは消え入りそうな声で「ごめんなさい」と謝ってから、私の目をじっと見て言う。反射的に目を逸らしてしまいそうになるのを、ぐっとこらえる。


「もともと、長くは続けないつもりでした。ちょうど、この春で契約が終わるので……」


夕陽の光を含んだ彼女のこげ茶の瞳は、わずかにうるんでいた。きっと心の奥では、私なんかが計り知れない経営のことや人生のことが渦巻いていて、その結果出した答えが閉店なのだろう。本当は、このままやめていいんですかと叫びたかった。だけど、それでは佐倉さんを責めているのと変わらない。


「南さんにも、きちんとお伝えすべきでした」


だから、ごめんなさい。佐倉さんの言いたいことは、口には出ずともなんとなくわかったような気がした。あれだけお客さんの数が少なくても、焦らず構えていた彼女の気持ちも。私が2度、3度とここに顔を出したとき、彼女はいったいどれだけの後ろめたさを抱えて、笑顔でサンドイッチを振る舞ってくれたのだろう。


「佐倉さん」


呼びかける。彼女の瞳にうつる私は、彼女が思い描いた通りの私だろうか。もしそうだとするなら、私は今から、彼女の中の私を裏切る。それが佐倉まことが望む「友達」という関係の終わりとは違うとしても。


席を立ち、ゆっくり彼女に歩みを進める。これからしようとする行為に、わずかな吐き気を覚える。ぐっとバレない程度に下唇を噛み、不安げな表情の彼女に両手を伸ばす。指先は少し震えているが、彼女には悟られたくない。そのまま1歩踏み込んで、佐倉まことを抱きしめる。動悸が激しくなり、嫌な記憶が堰を切ったように蘇る。




暴力が私を襲った。小学生のときは頭をはたかれ、中学生のときは蹴とばされ、高校生のときは胸倉を摑まれた。大学生のある日、私はいきなり母に抱きしめられた。


「もう疲れちゃったの」


言葉と共に伸ばされた両手は、私の首を絞めていた。

母を突き飛ばした私は、親に手を上げたと親戚から非難され、ここぞとばかりに「娘が、急に暴力を……」と被害者面の母に勘当された。ちょうど大学の卒業とも重なり、私は母のいない都市で一人暮らしを始めた。


上手くいくはずがないと思っていた社会人生活は、意外にも楽しかった。

きっと母にたくさん殴られた影響で、頭のどこかがおかしくなっていたのだろう。

入社した企業は世間で言われるところの「ブラック企業」だったけど、給料はそれなりに良く、私は世界で生きていけるチケットを手にしたような気分でいた。

ところが半年も経たないうちに、私の体は使いものにならなくなってしまった。

通勤電車が怖いのだ。特に、朝のラッシュで他人と体が密着する環境が、たまらなく怖くて吐いてしまう。次第に欠勤が増え、私は会社をクビになった。


情けなかった。同年代の人たちが地道に努力を続け、華やかに飲み会に参加している傍ら、私は家でひとり空虚な時間を過ごしている。心が折れたときの直し方、普通に生きていける方法、そんなことは誰も教えてくれなかった。義務教育でも大学での授業でも、家庭でも、どこでも。

そんな私を、母は思うがままなじった。私の失業は、親戚を通じて母に伝えられたらしく、「勘当」を言い渡した口は笑みを浮かべて罵倒する。この嘘つきめ、恥知らず、大学まで行かせてやったのに親不孝者、と。

また、実家に戻って来いと執拗に誘われたが、私は固辞した。母が見ているのは、娘の私ではなく思うがままに動いて面倒事をすべて片付けてくれる奴隷なのだと、そのときの私にはもうわかっていた。幸い、前職で貯めた金でどうにか食うには困らなかった。


そうして、さらに半年が経ってから、私は近くのコンビニでアルバイトを始めた。

電車に乗らなければ大丈夫だと思っていたが、甘い考えだった。お金をもらうときや渡すときに触れる手でさえ、怖いと思ってしまうのだ。その気持ち悪さは、理性で抑えることのできない、人間として致命的なまでの欠陥。

普通から遠ざかる一方の人生を歩んでいた。


いずれ、慣れる。そう言い聞かせた成果か、24歳を迎える頃には誰かと手が触れ合った程度では動じない心を手に入れることができた。その代わり、なのだろうか。

ある夜の眠りが、そのまま永遠の眠りになればいいと、毎日願うようになった。




奥歯を食いしばる。佐倉まことを抱きしめたままの腕は、自分の意思に反してぴくりとも動かない。母との苦い記憶を思い出してしまう心とは裏腹に、体は誰かとの触れ合いを求めていたかのように心地よい。彼女から伝わる熱が、お互いの鼓動の速さを意味していた。私は過去のトラウマからの緊張だが、彼女は好きな人に抱きしめられる喜びや嬉しさなのだろうか。


「……もう、大丈夫ですから」


言わずとも、私の真意が伝わったのだろうか。いや、そんなはずはない。だけど、そう錯覚してしまうほどには長く抱きしめ合ってから、私たちは離れた。


「……実は」


落ち着きを取り戻したのか、佐倉さんがいつも通りのトーンで秘密を打ち明けるように言う。その先にある予想される言葉には、不思議と暗い予感が伴わなかった。実際、その通りで合っていたんだけど。


「次は、キッチンカーでグリーンコットンをやれたら、って思っていまして……」


「そんな気がしてました」


言い、ぎこちないながらも微笑んでみる。彼女は、一瞬あっけにとられたように目を丸くしてから、きれいな手で口元を隠した。ああ、そうだ。初めてグリーンコットンを訪れたときも、こんなふうに佐倉さんが笑ってくれた。


こんなこと、彼女をよく知らない自分が思うのも変だけど。佐倉まことには、笑顔が似合う。

だから……というのもまた、変だと自覚している。でも、それがすべてじゃないから私は言う。

何もかもを飛び越えて、思考から響いてくる怖さを無視して、ただ自分の感情にゆだねて。


「佐倉さん、もしよかったら私にお手伝いをさせてください」


それは突然の提案で、だけど目の前の彼女はそれすらもわかっていたように優しく微笑んで、


「ぜひ、お願いします」


と、承諾してくれた。

彼女は私に向かって手を差し出してきた。その手を握る。グリーンコットンの真ん中でふたり、向かい合って握手。


「なんか、こそばゆいですね」


そう笑う佐倉さんのボブカットは、黄昏の陽を浴びて柔らかく揺れた。




世界がまた、夜を迎えようとしている。

今日がまた終わり、明日がまたやって来る。

仮に明日、世界が滅びるとしたって私は後悔しないし思い残しもなく、受け入れるだろう。


すべてが嫌いだった。

この世界も、人間も、社会も、自分も。

だから私はダメなんだと、気づいているふりをしていた。本当は目を逸らしていただけだった。

拒まれることが怖ければ、受け入れられることも怖かった。終わりを恐れて、始まりを遠ざけた。


佐倉さんとのこれからに、不安がないと言えば嘘になる。母との関係が変わるわけでもなく、「普通」から外れた人生を進んでいることに変わりはない。変わったとするなら、私の心だろうか。

明日が勝手にやって来るなら、私は彼女のサンドイッチを食べて生きる。コーヒーもセットで。

もちろん、すべて本当の気持ち。

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