第2話 心休まる、ほんのひとときを

朝は嫌いだ。

望んでないのに勝手にやって来て、私の時間を先へ先へと進める。カーテンを開けて朝日を浴びると健康的とか、早起きは三文の徳とか皆は言うけれど、それは朝を好きになるため無理やり理由付けをしているに過ぎない。


「…………」


枕元の時計は一昨日も昨日も見た、午前6時30分。近所のホームセンターで買った千円ぽっきりの目覚まし時計は、その日のうちに役割を半分奪われている。思ったよりも大きな音で鳴り響くので、アラーム機能は私の手によってオフにされたのだ。たかだか千円、されど千円。結局、スマホひとつで生活のすべてが成り立ってしまう。


「………………」


起床時間ぴったりに起きる喜びなどとうにない。繰り返しの日々がまた始まる、その苦しみだけが私の胸には満ちている。同調するように、思い当たる節のない目の奥がズキズキと痛んだ。ドライアイを疑うほど、スマホの使用時間は長くない。だが、たしかに私の目は乾いているのだろう。最後に泣いたのは、はたしていつだったか。母に叩かれても、誰かと友達をやめても、周りがみんな泣いていた卒業式も、私が涙をこぼす理由にはならなかった。




「友達にならない?」


その言葉は入学式の直後、ぞろぞろと列を成して教室に戻ったあとの休み時間にかけられた。無論、私が誰かにかけた言葉ではない。

振り向くと、そこにはまるでモデルのような整った顔の、私より小さな背丈の女の子がひとり。誰かと話すのを心から楽しみにしているような、それでいて私から拒絶されるのに心底怯えているような、彼女からは相反する表情が見えた。事実、その理由は2年後のクラス替えで明らかになるのだが。そのときの無邪気な私はまだ、彼女が他の誰でもなく私を「友達」として選んだことに嬉しくなった。




冷たい水で顔を洗い、シリアルを適当な皿に入れた。ザラザラと音を立てて皿を満たす薄茶の粒は、まるでペットフードのようにも思える。ほとんど物がない、目覚まし時計同様アイデンティティを剥奪されつつある冷蔵庫から牛乳を取り出す。それをかけようとしてようやく、化粧水をつけ忘れたことに気づいた。紙パックの口を開けたままテーブルに置き、洗剤の横にある化粧水を手に取った。


築50年のアパート、その一部屋である我が家には洗面台なんてものはない。数年前に替えたらしいエアコンだけが新しく、それ以外は昭和の香りが漂う年代物の設備だ。当然、築50年の貫禄は音にすべて集約されていて、隣の部屋との壁は薄いし、階段は上り下りするたびに嫌な音がする。特に意識しなくとも、隣人がいつ帰ってきたのか音でわかってしまうくらいには何もかもが筒抜けの家だった。駅から徒歩40分、バス停まで徒歩25分という都会の便利さをすべてかき消すような物件を選んだあたりに、自分に対する失望が濃くにじみ出ている。

結局のところ、ただ私は「生きている以上は生きるべき」という忠言に従っているだけで、そこに喜びや楽しみはないのだ。あるはずもない。


化粧水で顔をびしゃびしゃにしてようやく、シリアルに牛乳をかけスプーンを突っ込む。さしたる理由もなくスマホ片手に、私は朝食を済ませた。今日もニュースサイトは賛否両論、ああでもないこうでもないとにぎわっていた。誰かの死体が見つかっていた。誰かと誰かが結婚していた。誰かがアイドルをやめていた。




「友達、やめていい?」


その言葉を聞いて真っ先に思い浮かんだのは、「友達って、そんな感じで始まりと終わりを宣言するものなんだな」という何の感慨も動揺も情緒もない、まっさらな感想だった。

彼女と友達になってから、2年が過ぎていた。1年、2年と同じクラスになり、それなりにどこかへ遊びに行ったり互いの家を行き来したり、悩みを打ち明けたりもして、何の疑いもなく「友達」をやれていると思っていた。さすがに大人になっても一緒とまでは考えていなかったけど、同じ中学に通っているうちは一緒にいるのだと私はひとり理解したつもりでいた。


「いいよ」


私の返事は空っぽの教室に落ちて、彼女はおろか見ていた誰かが拾うことはなかった。初めて会ったときに見たはずの小さな背は、この2年で私と同じくらいになっていた。そうして、私と彼女は「友達」をやめた。


翌日、ひとりぼっちで登校した私は見る。

彼女が他の何人かと連れ立って、楽しげに会話しながら歩くのを。彼女の隣を歩くのは、かつて私の悪口を言っていた人たちだった。そうなのか、私は失望も怒りもなく単純にそう思った。私も彼女も、今までそうだったかのように顔色ひとつ変えなかった。むしろ、この出来事を周りで見ていたクラスメイトたちのほうが「ひどい」だの「ケンカ?」だの、ありもしない事実をそれっぽく並べ立ててあっちこっち、右往左往。別に、ひどくもなんともないのに。ただ誰かと誰かが友達になって、2年後に友達をやめただけの話。


それが始まるのなら、それは必ず終わるのだ。




「おはようございます」


通用口から誰もいない館内を抜け、スタッフオンリーの扉を開ける。過去のイベントポスターやら壊れた展示品やら、とにかくごちゃごちゃしているバックヤードに今日も私は一番乗り。勤務名簿に南理央を記入し、私は適当なロッカーに荷物を放り込む。働く人が多いせいか、ここの職場に個人のロッカーはない。おかげでスタッフジャンパーやら水やら、置いて帰れないのが地味なストレスになっている。


今日来る団体のリストを確認すると、嬉しいことに午前中だけの見学らしい。つまりは午後、あのサンドイッチを食べられるというわけで。空腹はシリアルで満たしたはずなのに、まだお腹は空いていないのに、あの味を求めている自分がいる。

アウターを脱ぎ、スタッフジャンパーに袖を通す。社員証を首から下げ、静電気で乱れた髪の毛を整えていると、いちばん顔を合わせたくない彼女が出勤してきた。いつもは時間ギリギリで駆け込んで来るのに、今日はどうやら雪が降りそうだ。今朝の降水・降雪確率は0%だったけど。


「おはようございますっ! って、まだ南さんだけですか?」


「……おはようございます」


善悪の意図はさておき、陰で「オシャレ番長」と呼ばれている佐藤さんは今日も凝った装いだった。淡いオレンジで統一されたメイクに、ボブカットの黒髪にはいつの間に染めたのか赤のメッシュが入っている。人生を楽しむべくして生まれた人が、人生を楽しむべくして楽しんでいるその姿には、もはや怒りや呆れを通り越して羨望すら覚える。彼女はアルバイトの初日にとんでもなく短い丈のスカートで出勤し、それまで大した服装の規定のないうちの会社に「ミニスカート禁止」の条例を創った。


誰にともなく「今日そんな寒くないですよねぇ」などとつぶやきながら、金のボタンがついた高そうな黒のコートを脱ぐ佐藤さん。私は行きたくもないトイレのため、ロッカーにしまったキャンバスバッグからタオルを取り出す。


「あっ」


ふたつ隣のロッカーに荷物を入れていた彼女が、急に言った。反射的にそちらを見てしまって、私はすぐに後悔する。ちらりと舌を見せ、佐藤さんはおどけた表情。


「スタッフジャンパー、忘れてきちゃいました。怒られますよねぇ、これ」


私は努めて、無表情を作る。「そうですね」と簡単な相槌を残し、バックヤードを後にした。行き場のない沸騰した感情に、自分でも驚く。トイレの個室のドアを閉め、私はひとり青色の社員証を意味もなく眺めた。




「お疲れ様でした。お先に失礼します」


残る人たちに形ばかりの挨拶を投げつけて、私は足早にあの場所へ向かった。午前中に訪問してきた団体は、驚くことに社会科見学の小学生ではなく近所の幼稚園の子たち。どうやら、稀にそういうケースもあるらしい。気ままに走り回り、どういう理屈か泣き叫ぶ幼稚園児たちの誘導は困難を極めた。市長の等身大パネルが怖かったのだろうか、あるいは共に誘導をした川口さんの顔が怖かったのだろうか。まるで磁石にひっつく砂鉄のように、幼稚園児たちは先生と共に館内を見学して帰った。たかだか1時間の出来事ではあれども、普段の倍は動き回り、足が悲鳴をあげていた。


グリーンコットンは今日も空っぽだった。

初めてこの場所を知ってから週に数回ほど通うようになったが、今まで他にお客さんがいたためしがない。飲食店の稼ぎ時たる昼間でさえ、この調子なのだから、いよいよ経営難が疑わしい。

同時に、この場所を独占している少しばかりの優越感と罪悪感を覚えるのだから困りものだ。


「こんにちは。あ、南さん」


入ると、茜色のボブが柔らかに揺れた。佐倉さんは今日も緑のエプロンを身にまとい、すっと背が伸びた美しい立ち姿でカウンターから出てきた。まぶたで細かなラメが輝き、私は思わず、


「……そのメイク、素敵です」


と、口に出していた。佐倉さんのまぶたが、ほのかに小粒のラメによって彩られていたのだ。よく見なければ気づかない程度の、淡い輝きが佐倉さんの優しげな魅力をより際立たせる。きっとナチュラルメイクというのだろう、初対面のときはさっぱり気づかなかった。


「ありがとうございます。今日はちょっと特別にしたくて、ラメにしてみました」


少し弾んだ声が、佐倉さんの喜びを表していた。しかし、特別とはどういう意味だろうか。浮かんだ疑問は口に出す前に消えて、私はいつものようにカウンター席の左端に座った。午前中ずっと立ちっぱなしだったから、ふわふわの丸椅子はいつもより柔らかく感じる。


このカフェを初めて訪れてから、1ヶ月ほどが経っただろうか。たとえおいしいサンドイッチに、くつろげる空間があるとはいえ毎日通うほどの経済的余裕はない。週に1度か2度、昼休憩のたびに顔を出すと佐倉さんは「いつもありがとうございます」と微笑み私を出迎えてくれた。交換した連絡先、そして「お友達になりましょう」の言葉から始まった関係に進展はなく、そのことが私にとって少しばかり気がかりだった。


昼食のサンドイッチを食べ終わり、のんびり食後のコーヒーを飲む。お金を払うだけの価値が、その空間にはたしかにあった。遠くで迷子を知らせるアナウンスが鳴り響いていた。休日でもないのに迷子とは、と思うものの、もしかしたら午前中うちに来た幼稚園の子かもしれない。どのみち、私には関係のないことだ。


ふと見たカウンターから、佐倉さんの姿が消えていた。どこに行ったのだろう、最小限の動きで探すと彼女はドアの前。キョロキョロとあたりを見回す素振りに、迷子の子が近くにいないか確認しているのだと思い当たった。瞬間、少しだけ彼女のことが嫌いになる。どうせ近くにいるはずもないのに、そうやって探したって無駄なのに。

いくら私に優しくたって、所詮は皆おなじ人間なのだ。役にも立たない雑談で親しくなった気になって、私はなぜ浮かれていたんだろう。


皆、最後にはいなくなってしまうのに。


佐倉さんが戻ってくるまで、私はぼんやりとコーヒーカップの真っ黒な水面を眺めていた。連絡先の交換、あんな行為に何の意味があるというのだろう。この1ヶ月間、連絡はひとつも来なかったのに。不意に隣から聞こえた佐倉さんの声に、私は驚いて身を震わせた。


「南さんって、カフェはお好きですか?」


質問の意図を読めず、戸惑いながらも返す。


「まぁ、普通に……」


佐倉さんはホッとしたように笑った。


「素敵なカフェがあるんです。南さん、ご存知かなと思って」


そのあとに告げられた住所から、どうやら近くにある植物園に併設されたカフェの話のようだった。植物園なら、小学生のときの遠足で行った記憶がある。だいぶ前からある、こじんまりとした温室が有名な場所だ。

その旨を伝えると、佐倉さんは「そうなんですね」と頷いた。その反応を見るに、彼女は植物園に行ったことがないらしい。


「それで、もしよろしければ、なんですが」


丁寧な前置きと共に、


「一緒に行きませんか?」


そのお誘いは、雷のように急に落ちてきた。




「……さむ」


来てしまった、植物園。今日は寒波が襲来しているらしく、吐く息は驚くほど白い。雨や雪こそ降らない予報だが、空は一面灰色に染まっていた。よく考えてみれば、こんな真冬に植物園に行ったとて、たいした植物など見られもしないだろう。メインの温室だって広くはないし、併設のカフェだって私と来る必要はないはずだ。彼女の言動にはどこか、信じきれない影が付きまとう。

それでも来てしまったのは、誰かと外に出かけることが楽しみというよりは、彼女の言葉の真偽を確かめたかった気持ちが大きかったからだ。


バスを降りてすぐ、厳かな雰囲気漂う門をくぐり入場券の販売所に足を向けた。待ち合わせの時間まで残り5分、適当に園内マップでも見て時間を潰す。小学生のとき来たはずなのに、マップを見ても懐かしさはまったくない。「植物園に小学生のとき遠足で行った」という、説明文めいた記憶だけがハッキリとしていて、それに付随する思い出はさっぱり消し去られたみたいだった。


待つこと数分、私が乗ってきたものとは逆方向へ向かうバスが来た。降りるだろうか、そう思って眺めていると、上品な黒のコートにロングスカートの女性が降りた。遠くからでもわかる茜色のボブは、まさしく佐倉さんだ。

と、彼女のほうも私に気がついたのか、小さく胸のあたりで手を振ってくる。その仕草に、普段とは違う装いに、私の胸はなぜだか高揚している。


やがて、ゆっくりと黒のブーツで歩いてきた佐倉さんは言った。


「こんにちは、南さん」


その黒のコートには、どこかで見覚えがあった。それなのに思い出せなくて、私は挨拶も忘れてじっと佐倉さんの服装に目を凝らしていた。


「そんなに見られると、恥ずかしいです」


「……あっ、ごめんなさい」


頭を下げると、佐倉さんは軽やかにその場でターンしてみせた。ロングスカートがふわりと広がり、すぐ恥ずかしくなったのか、「ふふ」なんて笑い声をたてる。私は慌ててコートの疑問を頭の片隅に追いやり、確保しておいたパンフレットを献上した。


「パンフレットです」


「ありがとうございます。チケット、買いましょうか」


そう促されてようやく、彼女が来る前にチケットを買っておけばよかったと後悔した。ここで彼女に借りを作るのは嫌だし、彼女の前で「大人2枚」を言うのも張り切っているようで嫌だ。ひとりのうちに、さっさと買っておけばよかった。


「南さん?」


「あっ、自分が払います」


言ってしまった、と思った。


「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」


佐倉さんは言うと、颯爽と窓口に赴き、


「大人1枚、お願いします」


と、白の肩掛けバッグからスマホを取り出す。後ろから見ていると、どうやらキャッシュレスで支払うらしい。その動作までもが洗練されて見え、私は財布を出すのをためらった。




母が父と離婚してから、我が家は貧乏になった。

より正確に言うならば、父の家系が裕福で母の家系が貧乏だった。だから、母は父と結婚していた10年間だけ、裕福な暮らしをしていた。そしてそれは私も同じで、生まれてから10歳の頃までは何も我慢することなく、比較的のびのびと過ごしていた。あくまで、比較的ではあるが。


母との暮らしは、困難を極めた。

私は小学生のうちから母のために毎食を用意し、家事をこなし、パートを終えて帰ってきた母の愚痴を聞いた。怠れば、軽やかな暴力が私を襲った。母は気に入らないことがあれば、すぐに手を出す主義の人間だった。


友達と遊ぶ時間はない。遊ぶどころか、そもそも豊かに生活していく金もない。学校へ行き、帰って家事をし、寝て起きて学校へ行く。

それを繰り返していたら、24歳になっていた。

愕然とした。モラトリアムのはずだった大学の4年間は、更年期の母をなだめていたら過ぎ去った。母の言いつけで、バイトは許されなかった。




「……お客様?」


「南さん?」


声に、私は財布を持ったまま立ち尽くしていたことを知る。ここで何事もなかったかのように振る舞えるほど、私は人間になれていない。素直に、


「すみません。ぼーっとしてました」


と、打ち明け、現金でチケットを買った。よくわからないブランドのボロボロになった財布を、人の目に触れないようバッグの奥に押し込んだ。


「では、行きましょうか」


佐倉さんに連れ立ち、どうにか読める「入場口」の看板を通る。アクリル板の向こうの係員は、


「今日は空いていますから、ゆっくりご覧くださいね」


なんて、見栄えのいい言葉を並べ私たちを通した。ゆっくりも、なにも。カフェに行くだけだ。


園内は、予想に反して人がいた。親子連れに、ご婦人の集団。こんなに寒いのに、植物園に何の用だろうか。


だだっ広い公園のような空間を、道に沿ってひたすら奥へ進む。晴れていればキレイなはずの芝生は、今日の曇り空の下ではくすんで見える。右手に見えるガラスの温室も、左手に見える小さな池も、何もかもが陰鬱な雰囲気をまとっていて、いい気味だ。目的のカフェは植物園のいちばん奥にあるらしい。


「南さん、手は冷たくないですか」


隣を歩く佐倉さんが、不意にそう言った。言葉に従い、無意識に自分の両手を見る。やや荒れてはいるが、ただの私の手だった。


「私の手、いま温かいんですよ。……繋いでみます?」


冗談めかした響きなのに、なぜか私の心には鋭く刺さった。どちらともなく立ち止まって、私は無言で差し出された手を握る。彼女の言う通り、しっかりと熱かった。グリーンコットンでお釣りを受け取るときは、そんなに熱くなかった記憶がある。今日は体温が高い日なのだろうか。


「……南さん、あの」


道の真ん中でふたり、向かい合って握手。さすがに私もおかしいと思ったが、今更手を離すこともためらわれて。結果、佐倉さんが困惑したような表情で不服を申し立てた。


「あの……これはこれで、ええ」


彼女にしては遠回しな表現で、握手の解除を求められる。私は佐倉さんがよくわからなくなって、とりあえず歩けるように逆の手で握った。


再び、奥へ歩みを進める。自然が豊かな証拠だろうか、冬なのに小鳥のさえずりが流れていく。茜色のボブに見え隠れする耳は赤く染まっていて、手は熱くても体は寒いのかなぁ、なんて思う。手を繋いでいるせいか、佐倉さんのペースに合わせるだけで心の余裕を使い果たしてしまいそうだ。誰かと一緒に歩くのは、やはり難しい。

温室を横目に通り過ぎ、しばらく奥へ進んだところでようやくオシャレな建物が見えてきた。色あせたオレンジのこじんまりとした洋風建築が、くすんだ緑の中に佇んでいる。


「着きましたね」


どちらともなく繋いでいた手が離れて、私たちは不思議な空気のままカフェの前に立った。グリーンコットンと同じく、ガラス張りのドアには「CLOSE」の文字。


「定休日……?」


ドアから見える店内は暗く、人もいないようだった。CLOSEの文字に相違なく、閉まっている。

だが、定休日はないはずなのだ。植物園は年末年始を除き無休と書いてあったし、カフェもそれに準じて営業するらしいが……。


「あ、今日は臨時休業みたいです」


スマホを操作して、佐倉さんが言った。


「ほら」


と、見せられた画面にはカフェのSNSのアカウント。植物園の公式サイトしか見てこなかった私には、気づきようのない臨時休業の知らせだった。

言いようのない虚しさと、怒りが胸に溜まっていく。なぜ今日、休みなのか。私が来るときだけ、どこも臨時休業になるんじゃないのか。どうして、私は不幸を引き寄せてしまうのか。


「……ごめんなさい」


「どうして、南さんが謝るんですか?臨時休業なら、仕方ないですよ」


手に温かいものが触れた。佐倉さんの手だった。


「少し休みましょうか」


そう言われて、私は導かれるままにベンチに移動した。古く、ところどころ塗装の剥げたベンチだったが、佐倉さんはためらわずに座る。私も少しの嫌悪感をなかったことにして、腰を下ろした。


「南さんは、自分のことを普通だと思います?」


切り出された質問の意味がわかるまで、しばらく私は花壇の隅に生えた雑草を見ていた。それは、初めて佐倉さんが自分のことを語るにあたって捻り出した、ひとつの導入だったのだろう。


「……24歳でアルバイトしてる以上、普通ではないと思います」


母から言われた言葉はそのまま、私の思考に、感情に、私そのものになっている。何ヶ月か前、母は私に言った。


「周りの子は正社員なのに、あなたは24にもなってアルバイトで恥ずかしくないの?」


普通じゃない。

24歳でバイトは、普通じゃない。

普通は皆、正社員で働いている。

その単純な事実だけで、私は「普通」から弾かれる。思えば、いつも弾かれていた。

家に帰って家事をするのも、アルバイトを禁止されるのも、母の愚痴をずっと聞くのも、稀に理不尽に暴力がやって来るのも、すべて。


なにひとつとして、普通じゃない。


「普通の人間なんて、そもそもいるんですか」


どこの家庭も、子どもが家事をするのだと思っていた。どこの家庭も、アルバイトを禁止されるのだと思っていた。どこも、私と同じだと。

それなのに、耳に入る言葉はおかしかった。

親には何か買ってもらったり、一緒に出かけたり、あまつさえ話や愚痴を聞いてくれると言う。


だから私は、私を信じることにした。

私は普通だ。周りがおかしい。


「みんな、普通じゃないでしょう」


隣からは、何の返答もなかった。私は、花壇の花をにらみつける。春が来ればきっと咲き誇るであろう、キレイに整列して植えられた花たち。


「…………」


言いすぎてしまったと、後悔した。いくら佐倉さんの投げかけた質問が、自分のモヤモヤと合致したからといって、あれこれ熱弁していい理由にはならないはずだ。


「……そうですよね」


声に、佐倉さんの顔を見る。そこには、何かを隠した空っぽな笑顔だけが浮かんでいた。

単調な同意。形だけの共感。そういうものを感じさせないから、私は彼女を信じられたのに。

いや、勝手に期待したのは自分だ。みんな信じるに値しないのに、佐倉さんだけは特別だと夢を見ていた。……それは、なぜ?


「南さん、あの……お伝えしたいことが、あるんです」


彼女の言葉に、疑問を奥へ押しやり耳を傾ける。


「…………」


遠くでカラスが鳴いた。灰色の雲は、変わることなく空を埋めつくしている。私は佐倉さんの言葉を待って、しばらく待って、ようやく。


「私、あなたが好きです」


世界は普通に続いていた。私の息が止まることもなく、地球が滅亡することもなく、そして佐倉さんが消えることもなく、至って普通に。

彼女の表情を見る必要はなかった。笑った顔で怒る、怒った顔で褒める、そういう真逆の言動すらできてしまうのが人間だから。表情は嘘をつく。信じられない。信じられるのは、言葉だけだ。


だから、その言葉は本当なのだろう。


佐倉さんは、そっと立ち上がった。視界の隅の黒いコートが、佐藤さんのものと同じであると私は遅まきながら気づいた。


「……私、先に帰りますね」


佐倉さんの声は震えていた。それが寒さのせいではないことくらい、さすがに私でもわかった。私が早く返事をしないから、彼女がそうなっているのだという推測もあった。だが、何を言っていいのか私の頭は何も答えてくれなかった。

彼女が遠ざかっていく。


吐いた息はやっぱり白くて、今度タバコでも吸ってみようかと思いついた。

そしてすべて、忘れてしまえたらいい。

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