ランチタイム・グリーンコットン

空間なぎ

第1話 憂鬱な今日がまた始まって

嫌いだ。すべてが嫌いだ。

この世界も、人間も、社会も、自分も。

だから私はダメなんだと、気づいている。

だけど、私は何もかもを好きになれなくて、どうしようもなく苦しくて、少しずつ誰かが首を絞めてくれやしないか願っている。

ある夜の眠りが、そのまま永遠の眠りになればいいと思っている。

もちろん、すべて嘘なんだけど。




腕時計は12時1分を示していた。再び、なんでもないふうを装って館内に目をやると、小走りでこちらに走ってくる佐藤さんの姿が見えた。もう一度、腕時計を見る。12時2分になっていた。約2分の遅れが、わずかに私を苛立たせる。


キレイな二重のまぶたでつやめく薄いピンクのアイシャドウに、キレイに手入れされグレージュで染められた眉毛。佐藤さんはわざとらしく困ったような顔を作りながら、走って乱れた髪を直す。くせ毛でひとつに結ぶしかない私にあてつけるかのように、彼女のつやつやの黒髪はかわいらしいボブカット。見ているだけで腹が立つ。


「ごめんごめん、次の休憩は南さんだよね? 休憩、行っちゃってください」


言われるまでもなく。そう私は心の中でつぶやいて、ぺこりと頭を下げた。佐藤さんのネイルがやけにまぶしく輝いているのにも、彼女の首から下がっている社員証が正社員を表す銀色に変わっているのにも腹立たしいと思うのは、きっと私が空腹だから。それ以上でも以下でもない。


私、南理央みなみりおはフリーターだ。社会のレールを踏み外してしまった、できそこないの24歳。職場は、いわゆる市の歴史や特産品を紹介・展示するプラザ。美術館ほど堅苦しくなく、特設コーナーほどくだけてもいない。そこで平日は社会科見学に訪れる小中学生を、休日は普通のお客様をご案内している。大学生のときに働いていたコンビニとは違い、ここでの接客には速さや正確さは重要視されない。そのことに最初こそ戸惑ったものの、慣れれば殺伐としたコンビニよりも楽であることは確かだった。


 私は荷物を取るべく休憩室へ向かいながら、青色の社員証を首から外す。かけっこをしている小学生2人とすれ違ったけど、注意はしない。今は昼休憩の時間であって、仕事中ではないから。公私は、しっかりと区別しておきたい。


「あー、走ると危ないよぉ。展示品にぶつかっちゃうと、痛いよぉ」


小学生2人を注意しているのか、後ろから聞こえてくる佐藤さんの声はやけに甘ったるい。誰に対しても媚を売る、ずる賢い猫みたいな仕草には私は騙されない。腕時計の針は、既に12時4分になっていた。「スタッフオンリー」の立て看板の横をすり抜け、バックヤードへ続く重いドアを開ける。こちらを興味深そうに見ていた小学生の男の子と目が合うけど、無視を決め込んだ。




昼休憩をとる人でにぎわっている第一研修室に、息を殺して後ろのドアから入る。同じ職場とはいえど、知らない顔のほうが多い。私の働くこの施設は、1階に常設展示、2階に視聴覚室や本格的な撮影スタジオがある。その結果、機械の操作が得意な人が2階の勤務に割り当てられると面接時に聞いた。私の仕事は1階の常設展示の案内・監視なので、2階の人とは話す機会すらない。こうして昼休憩の研修室が唯一の接点だが、同年代が少ないこの職場では、いまいち話す話題に困る。そもそも、積極的に仲良くしようという気が湧かない。つまるところ、どうでもいい。


そっとロッカーを開けキャンバスバッグを取り出し、足音を忍ばせ部屋を出る。ドアを閉める際に見えた談笑の景色に、わずかに胸が痛んだ。それは集団になじめない自分に対する自責の念なのか、それとも自分を受け入れてくれない人々に対する不満なのか、自分では判断できなかった。とにかく、すべてを空腹のせいにした。


自動ドアから外に出ると、嫌でも今が冬であると自覚させられる。冷風が容赦なく吹き付け、私はスタッフジャンパーを着たまま外に出たことに気づく。空腹のせいだろうか。部屋に充満していたお弁当の匂いに影響されたわけではないが、今日は白米よりもパンが食べたい気分だった。ハムやレタス、卵が挟まったサンドイッチがいい。それが贅沢だというのはわかっているけど、食べたいものを我慢し続ける人生は果たして生きる価値があるのか。そんなことを考え、手近なベンチに腰を下ろした。


ここはちょうど、私が働く建物と向かいの建物の間で中庭のようになっている。中学や高校の中庭ほど狭くなく、かといって大学の中庭ほど広くもないが、それなりにベンチが並び休憩スペースとしては十分機能している。欲を言えば屋根が欲しいところだが、それは市や県の予算の問題だろう。ここは市と県の土地だからだ。


今日のお昼はいつも通り、家で作ってきたおにぎり1つ。おにぎりと呼ぶにはやや粗雑かもしれないが、どうせ口に入れば形なんてあってないようなもの。スタッフジャンパーを手早く脱ぎ、バッグに放り込むと同時にアウターを引っ張り出して着た。ネイビーのスタッフジャンパーは、私が初めて腕を通したときより色あせ、バッグの中で小さくなっている。いい気味だ。


バッグの底に沈んでいたランチトートバッグを引っ張り出し、ラップに包まれたおにぎりを取り出す。今日は北風が冷たい、朝の天気予報では止むと言っていたのに。1口かじると、こだわりも感動もない、日々に埋もれた味がした。すっからかんの何も考えていなさそうな青空の下で食べたところで今さら、おいしさなんて感じるはずもなかった。


米の塊を咀嚼しながら、リュックを背負った小学生の列が向かいの建物に吸い込まれていく様子をしばらく眺めていた。ぽつりと、列の最後をひとりで歩く女の子に視線が吸い寄せられる。きっと他クラスに友達がいたり、班分けで仲のいい子とバラバラになってしまったり……きっとそういう事情があるはずだ。見ていると、急に強い風が吹き、その子の手元から何か白いものが飛んだ。校外学習のしおりだろうか、慌てて追いかけ駆け出すところを私は遠巻きに観察する。最後尾の事情など気にする余地もなく、列は止まらず進んでいく。私はどこか居心地が悪くなって、近くの鳩を凝視した。鳩は疑うように私を見、何もくれないと悟ると飛び立っていく。


おにぎりを半分ほど残し、私は丁寧にラップをかける。腹は減れど、食べる気はさらさらなかった。いつからこうなったのか、最後においしく食事したのはいつかなんて思い出したくもなくて、私はいまだ病院に行けずにいる。行けばきっと、それなりの病名で私の憂鬱な気持ちの正体は判明するんだろうけど、怖いのだ。仮に、病気ではなかったのだとしたら。私はなぜ、レールを踏み外したのか。こうして言い訳をつけて逃げ続けたとて、得られるものは何もないのに。


腕時計を見ると、まだ昼休みは45分も残っている。このままベンチで物思いにふけってもいいが、背に吹き付ける北風が鬱陶しい。近くにコンビニやら飲食店があればいいのだが、あいにく数年前からドミノ倒しのように閉店したと聞いている。たしかに、社会科見学で来る小中学生たちはお弁当を必ず持参してくるし、休日にわざわざお弁当を持参し見学にいそしむ人なんていない。では客ではなく働く側に需要があるかといえば、そうでもない。私の職場は定年退職を控える年配の方々ばかりで、皆なにかしら家で作って持ってくる。その事実に気づいたとき、私は思うと同時に諦めた。潰れるのも妥当だと。逆に考えれば、昼休みに散財する余地がないのは大変いいことだと思うが。


ベンチから立ち上がり、行くあてもなく散歩をすることにした。5分前には戻りたいので、40分間の散歩。ただ無意味にベンチで物思いに励むより、体を動かしたほうが健康的だろう。ふと思い立ち、私が働くプラザの向かいにある建物を探索することにした。




ここには昔ただの原っぱがあって、本当は工場が建つ予定だったんだ。だけど、ちょうどその年に世界的な博覧会があった。その一部にうちの市の特産品が使われて、どうせなら文化産業を興す名目で子どもたちに役に立つ施設を作ろうって話になったんだ。それで完成したのが、この「つつじ市民プラザ」。そして、向かいの建物は科学館や多目的ホールがある「つつじ文化センター」だ。


と、面接の際にマネージャーから説明されたことは、今でも覚えている。稀にだが、施設の成り立ちを尋ねてくるお客様や、原っぱ時代からこの場所を見守っているお客様がいるからだ。また、同じような建物が向かい合わせに建っているせいで、間違えて来るお客様も多い。私だって、働くまではどちらがどちらの建物かなんて知りもしなかったし、マネージャーからの説明がなければ今でもお客様からの質問にあたふたしていたに違いない。


文化センターの自動ドアを抜けると、開放的でありながらどこか近未来的な空間が広がる。2階に宇宙科学館があるのだ。もちろん、ここにも黄色い帽子をかぶった小学生たちがぞろぞろとうごめいている。あの集団は宇宙科学館の見学を終えれば、まもなくうちの施設にやってくるだろう。1階に多目的ホール、2階に宇宙科学館、3階に学術資料館を有する文化センターは、いつ来ても人であふれて騒がしい。常に閑散としているうちとは大違いだ。


学校団体が来ていることを知らず、うっかり平日に来ちゃった一般客を装い、だだっ広いエントランスを歩く。吹き抜けになっているせいか、小学生たちの集団から聞こえるざわめきが反響して大きく聞こえる。左手には2階へ続くエレベーター、右手には多目的ホールへ繋がる仰々しいドアが鎮座している。かつて、高校の制服採寸のときに多目的ホールに来た記憶があるが、中がどうなっていたかほとんど覚えていない。多目的というからには、きっといろいろな設備が整っているのだろう。


そういえば、この建物のいちばん奥には何があるのだろうか。ふと浮かんだそんな疑問に突き動かされるように、私は真っ白な床を進む。新人研修のとき、お客様から多くいただくお問合せとして「自販機はどこですか?」があると先輩から聞いた。私が働くプラザは館内飲食禁止なので、自販機すら設置されていないのだ。


市のイベント写真を展示するコーナーを抜け、あたりを見回す。お手洗い、公衆電話、宇宙科学館のイベントのポスター。その隣に見つけた館内マップのパネルに私は近づいて、半透明なマップの向こうに見えた「グリーンコットン」の立て看板に視線が奪われる。いかにもありきたりなホワイトボードに、丸みを帯びた文字。


「グリーンコットン 休憩にどうぞ! コーヒーやサンドイッチあります」


宣伝の文言もありきたりなのに、なぜか心惹かれるものがあった。それはこれが手書きだからか、それともサンドイッチへの食欲か。自然と、私の足は立て看板に向かっていく。吸い寄せられるといっても過言ではないほど、気づけばグリーンコットンの前に立っていた。おそるおそる、ほとんどが白で構成された空間を覗く。入りやすさを考慮してか、ガラスのドアは私を呼び込むように大きく開かれていた。店内はカフェというより、開放的な市役所の休憩スペースに近い印象だ。右側にあるカウンタは特に、市役所の受付だと言われたら納得してしまうかもしれない。市役所ではないぞと主張するように、ふわりと本格的なコーヒーの香りが漂う。


「こんにちは」


そう聞こえた声は、真っ白な店内からではなく私の背後からだった。振り返ると、柔らかな茜色のボブカットの女性が緑のエプロンに身を包み、私に笑いかけている。女性にしては背が高く、大人びて見えるがメイクはしていないようだった。そのせいか、素朴で柔らかな雰囲気から保育士さんのようにも見える。


私は動揺して、


「いらっしゃいませ」


と、この半年でいちばん多く口にしてきた言葉を口にした。どう考えてもおかしな言動なのに、彼女は笑みを絶やすことなく私を見つめている。何もつっこまれなかったからか、私はさらに動揺して、


「クリスマスカラーで、かわいいですね」


なんて、思いついたままをしゃべる。パッと見たときから髪の赤とエプロンの緑がクリスマスみたいだなぁ、なんて思っていたのだ。我ながら幼稚というか、少なくとも初対面の大人の女性に対して褒め言葉として使うなんて、本当にありえない。


女性はさすがに驚いたようで、一瞬あっけにとられたようにアーモンド形のこげ茶の目を丸くしてから、きれいな手で口元を隠した。どうやら笑っているらしい。


「もしかして、こちらで働いている方ですか?」


質問に、首を縦に振ることで肯定を表す。彼女の口元にあった手が、そっと店のほうへ指し示される。どうやら、入ってくれと言っているようだ。私は腕時計で時間を確認してから、真っ白な店内に足を踏み入れた。カフェで過ごすには約30分の残り時間は短すぎると思ったが、結局は好奇心が勝った。


入ってみると店内は思ったよりも広くなく、市役所の受付のように見えていたのはカウンター席だった。他にも白の円形テーブルが2つと、それぞれに椅子が4つずつ配置されていて、小さめのカフェとしては十分くつろげそうな雰囲気に思わず心が躍る。特段、カフェが好きというわけではないのに、ここまで嬉しくなるのは自分だけの場所を見つけられたからか。


「どこでも、好きな席におかけください」


そう促され、私はカウンター席の椅子に腰を下ろした。テーブル席とは違う丸椅子の、ふかふかの座り心地に少し嬉しくなる。さっきまで北風が吹きつける外にいたからか、ほのかに暖かい店内と香るコーヒーのリラックス効果に心が落ち着いた。


「コーヒー、今お持ちします。少々お待ちください」


彼女の茜色のボブが揺れ、カウンターの下に消える。当たり前のようにカチャカチャと何やら準備をしているようだが、そもそもクリスマスカラーのお姉さんは何者なのか。いや、その前にコーヒーを頼んだ記憶がない。きっとコーヒーだろう、何かがそそがれる音がして、私はようやく彼女のしようとしていることを察した。


「あ、あの……」


手を挙げ、お姉さんを呼ぶ。返事の代わりとばかりに、彼女はいい香りのする紙コップをカウンター越しに差し出してきた。コンビニでよく見かけるような白の紙コップには、半分ほど真っ黒な液体が波打っていた。私の疑問に先回りするように、


「こちらはサービスになりますので、遠慮なさらないでくださいね」


と、彼女は優しげな笑みと共に言う。心の奥にある優しさが、そのまま表情ににじみ出ているような笑みだった。私のように貼り付けた笑みでも、佐藤さんのように媚を売る笑みでもなく、ただ純粋に陽だまりのような温かさがそこにはあった。


疑う余地はなかった。むしろ、ここで下手に遠慮をして彼女を悲しませるほうが、よっぽど不義理だろうと思った。私は素直に礼を言い、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます」


「いえいえ。ここで働いていらっしゃる方には、サービスしているんです。それぞれお仕事は違うかもしれませんけど、一緒に頑張りましょうって気持ちで」


なんだか、すごい人だなぁ。私は至って冷静な思考で、いれたてのコーヒーをいただいた。酸味はほとんどなく、ほどよい苦味が口に残る。やはり、本物は普段飲んでいるインスタントのコーヒーと比べものにならない。こだわりも知識もない私ですら、そのおいしさは抜群に感じられた。ただの好みの問題かもしれないが。


三口目を味わったところで、スッと目の前に名刺が差し出された。格式高いビジネスの名刺とは異なる、お店の情報が書かれた味わいのある丸みを帯びた文字の羅列。


「カフェ グリーンコットン 店長:佐倉まこと……」


読み上げるつもりはなかったが、自然と口に出していた。くすくすと声がして顔を上げると、お姉さん、もとい佐倉さんが「ごめんなさい」と謝った。


「私の妹に似ていると思って。人見知りで、でもわかりやすいところが似ています」


「あ、ありがとうございます……」


「いえいえ。あっ、サンドイッチ、いかがですか。プレーンなら、300円ですが」


サンドイッチが、300円で食べられる。聞いた途端、おにぎりを前にしても出てこなかった食欲が一気に襲ってきて、私は無意識に手を挙げ、


「お願いします」


そう、注文していた。これがもし、そういう……優しさに付け込んで物を売るタイプのお店ならば、今の私は罠にかかった格好の獲物だ。私の脳がそう警告しても、数か月ぶりに湧いてきた食欲にかき消される。サンドイッチ。食べ物を前に、これだけ心が躍るのはひさしぶりの感覚だった。


ほどなくして、カウンターから姿を消していた佐倉さんがサンドイッチを手に現れる。白地にブルーのラインが入ったお皿、やや小ぶりで薄めのサンドイッチがふたつ。見た瞬間にすぐ、これは私が食べたいサンドイッチだとわかった。ハムにレタス、潰されたゆで卵。パンは真っ白で、触らずともしっとりとした柔らかさが伝わってくる。最近やたらテレビで見るような、分厚く断面が華々しいサンドイッチとは違う、素朴な一品。佐倉さんのこだわりが詰まっているのだろう、正方形のフォルムがなんとも愛らしい。


「ご注文のサンドイッチです。どうぞ」


音もなくカウンターに置かれたサンドイッチに、思わず唾を飲んだ。


「いただきます」


手を合わせ、サンドイッチに手を伸ばす。触れる寸前で、隣に添えられていたおしぼりの存在に気づき、今のをどうか佐倉さんが見ていないようにと祈りながら手を拭いた。空腹すぎて、一刻も早く食べたい人だと思われたかもしれない。


おしぼりを丁寧に畳み、いつでも使えるように皿の脇に置いておく。ようやくサンドイッチをひとつ持ち上げると、予想通りパンはしっとりと柔らかく、卵はやや粗めに潰されている。鮮やかな黄身に、大ぶりな白身のコントラストがまた、私の期待を膨らませる。


一口、大きめに頬張る。癖のないパンと卵の風味が来たかと思えば、レタスの軽い食感、続いてハムの旨みがバランスよく口に広がった。味はかつて、母親が作ってくれたサンドイッチに似ている。だが、ひとつひとつ丁寧に作られ、重ねられた食材の魅力がまったく違う。このパンには、この卵とレタスとハムが絶対に必要だと、直感的に思った。代替できるものがないという点では、他の追随を許さない組み合わせ。


「おいしそうに食べますね。嬉しいです」


佐倉さんの声で、私は味わっていることをごまかすように二口目を頬張った。食べることがこんなに素晴らしいのだと、人生で初めて知ったかもしれない。それほどまでに、これまでの私の生活には食べ物を味わう余裕がなかったのだと、今になってようやく気づく。家族は皆、グルメなタイプではなかったし、外食した記憶は数えるほどしかない。あっという間に二口目がなくなり、三口目をいただく。それから私がサンドイッチを食べ終えるまで、佐倉さんが話しかけてくることはなかった。


おしぼりで手を拭き、きれいに畳む。食事の時間がこんなにも長く、濃厚に感じられたのには驚いたが、それで遅刻しては話にならない。私は慌てて腕時計に目をやると、なんと10分しか経っていなかった。休憩は、残り15分。まだあたたかな店内でゆっくりしていたい気持ちと、食べ終わったのに店内に居座る罪悪感を天秤にかけ、私は席を立った。カウンターの右端、開け放たれたドア間近のレジに向かい、キャンバスバッグから財布を取り出す。なんとも不用心な位置にレジがあると思ったけど、それが店主である佐倉さんの意向であることは疑いようもない。


スッとレジの向こう側に立った佐倉さんが、


「お会計は300円になります」


と、言う。500円を渡すと、手早く佐倉さんがレジを打ち、ガシャンと荒い音がしてドロアが開く。以前はこうしてコンビニでお客様に接客してきたことを思うと、懐かしいような、もうすべてセルフレジでいいような、不思議な感慨にとらわれる。人間がやると必ず間違えるのだから、全部機械に任せてしまえばいいのだ。


「こちら、お釣りの200円です」


「ありがとうございます」


一瞬触れた手の冷たさに、ハッとした。私は勝手に、この人の手ならあたたかいだろうと想像していた。そうだ、人間なんて皆、同じなのに。


信じるに値しないのに。


この人だって、表ではこんなに優しそうに振舞っていたって、裏では悪口を言ってるんだ。佐藤さんだってそうだった。川口さんだってそうだった。お母さんだって、お父さんだって。


それなのに。


なぜ、私は片時だけでも、この人に優しくされて嬉しかったんだろう。


小さな疑問は、佐倉さんの「あっ」という声に引っ張られ、すぐに消えた。カウンターをぐるりと回り込むように出てきた彼女は、出会ったときよりもひとまわり大きく見えた。「あの」と、茜色のボブが嬉しそうに揺れ、緑のエプロンから指紋ひとつないスマートフォンの画面が差し出される。そこには、人生で数えるほどしか見たことのないQRコード。連絡アプリのものだ。


「交換しましょう。私、あなたと」


その先に紡がれた言葉を、私は一生忘れない。


「お友達になりたいです」

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