鈴木ちゆり

 紺野さん、いや今は澤田さんか……。

 久しぶりに会ったが、すっかりいいお母さんになっているようだった。今日は段ボール箱の片づけをしていると、遠慮がちに「もらっていいか?」と聞いてきた。聞けば、上のお子さんが工作に夢中で、空き箱や牛乳パックがいくつあっても足りないんだそうだ。他のパートさんに聞くと「ウチも~!学校の工作でトイレットペーパーの芯が欲しいとか、当日の朝に言い出すから困ったもんよ~」と笑っていたっけ。

 それにしても、まさかまた学生時代の級友に再開するとは思わなかった。地元だから古い知り合いに出会うことが多いのは分かっていたが、彼女で二人目だ。もっとも、一人目の方は完膚なきまでに叩きのめして追い出してやったが。


 「――こちらが江藤さんチームのラインで作った部品の不具合の割合です。で、こちらが高橋さんチームのラインで作ったものの割合。差は歴然ですね」

 会議室には、藤井専務と坂東工場長、それにパート社員の高橋さんと、江藤さん。付け加えるなら、江藤さんは中学時代の私の同級生で、ここでは古株のパート社員だ。

 私は二人のパートに、パソコンの画面を見せた。この一週間に、二つのラインの工程で出た不良品の数を、それぞれグラフで表記させたもの。高橋さんのは青い線、江藤さんのは赤い線。明らかに赤い線が上回っている。江藤さんは不貞腐れたような、そして半ば馬鹿にしたような表情を隠さない。厚化粧でも隠せない荒れた肌。いまどき茶髪金髪など珍しくもないが、染めた髪は乾燥してパサついているうえに、頭頂部が黒くなったプリン頭になっている。

 私はさらに、彼女の前にふちが欠けたり歪んだりしている部品を並べた。

「こちらは一個作るのに七円五十銭相当の材料費がかかります。それが十個出れば七十五円、百個出れば七百五十円――」

「七百五十円かぁ。そりゃあ、『にしき食堂』のトンカツ定食が食えるな」

 藤井専務が冗談交じりで返す。だが、その目は笑っていない。

「工程マニュアルを読み直しましょうか。検品前の部品は、青いトレーに入れて、上から保護材をかぶせて蓋をする。運ぶときは必ず台車に載せて移動させる。トレーを手に持って移動しない――これらは全て、デリケートな部品を守るために決めたマニュアルです」

 このルールを順守せず、適当に運ぼうとして転んだりドアにぶつかったりしたことで、部品が破損しているのだ。

「だから? 悠長にそんなことしていたら納期に間に合わないんでしょ。少しぐらい欠損したってさっさと作業済ませなきゃ――」

「決められた予算内で商品を製造するのも、納期を守ることと同じぐらい大事です。こうも欠損率が高ければ赤字になり、それは皆さんのお給料にも響きます。それに、最初からきちんと欠陥品を出さない製造にすれば、金銭的にも時間的にも節約になります」

「だーかーらー、そんなの建前じゃん。現にみんな納期ギリギリで急かされているのにチンタラやっていたら割にあわないっつーの! ま、鈴木主任は現場にいないから分かんないでしょうけどねぇ~」

 小ばかにした表情は中学時代から何一つ変わっていない。彼女の中で、私は今もドン臭くて冴えないスクールカースト最下層の小娘なのだろう。

「何だか知らないけどずっと事務所にこもってさ、変なラベルを作って道具にベタベタ貼るわ、勝手に道具の置き場所かえるわで、ホントにいい迷惑だわ!」

「ラベルを貼ったのは誰が見ても何の道具で何に使うかが一目で分かるようにしたものです。工具の配置を変えたのは、工程の動線に沿った適切な置き場所にするため。そしてもう一つ――」

 私はひと呼吸置き、彼女を睨みつけて言った。

「新人パートさんがすぐ必要な道具を手にできるようにするためです。誰かさんがわざと隠したりしないように、ね」

 「はぁ?」

 私は手元のプリントアウトした紙を見ながら、専務と工場長に目配せした。坂東工場長がいつになく厳しい顔をして切り出した。

 「会社で定めたマニュアルが作業効率を悪化させているなら、それはもちろん改良の余地があります。鈴木主任がいろいろやっていたのはその一環です。いつでも必要なときに道具がちゃんと取り出せるよう、整理整頓を徹底する。誰が見てもどの工程でどう使うかが分かるようにラベリングする。江藤さん含め、ベテランのパートさんの中には、道具を全て自分の手元に置いて、他の方が使えない状態にしていると報告がありました。さらに保管箱の予備の道具すら行方不明になっていて、他のパートさんが使いたくても使えないんです」

「………」

「先週、作業ラインを江藤さんチームと高橋さんチームに分けたのは、江藤さんたちのチームがどれだけ非効率なのかを見える化させるためでした」

 私は江藤さんの前にプリントアウトした紙を置いた。高橋さんのチームとの差が、明確に分かるように、文字も大きく色も赤を多用した表やグラフ。一時間当たりの製造数と不良品の割合など。自分ルールで作業を進めた江藤さんチームよりも、私がマニュアルを組んだ高橋さんチームの方が勝っている。当たり前だ。誰がやっても一定水準の成果を出せるように半年かけて工場内を見て回り、マニュアルを組んでは見直し、整理整頓を徹底して行ったのだから。いくらベテランで慣れているとはいえ、手抜きで雑な仕事なのが分かる。

「――これを見てなお、自分たちの方が手早く効率よく作業できていると言えますか?」

 彼女はついに黙り込んでしまった。だが、それでもなお不貞腐れた表情だ。私は専務を見た。彼は黙ってうなずくと、話し始めた。

「ラインを分けたのはもう一つ理由があります。高橋さんたちのストレス軽減もあったんですよ。それでなくても、ここ五年ほどはパートさんたちの定着率が低くて本当に困っていたからねぇ」

 私は現場の整理整頓をしながら、ずっとパートさんたちの仕事の様子を観察していたのだ。新人にマニュアルを教えて作業をさせていると、江藤さんのベテラングループが割って入り「そんなんじゃ時間通りに終わらないでしょ!」と強い口調で責め、彼女たちが勝手に決めたルールで作業をさせようとする。気の毒なのは社員とベテランパート社員の間で板挟みになる新人さんだ。仕方なく彼女たちの言いなりになり、その結果不良品が増える。

 中には真面目にマニュアルに従おうとするパートさんもいた。すると彼女たちは道具の置き場所をわざと変え、自分の手元に置きっぱなしにして他の人に使わせないなど、子どもじみた嫌がらせをするのだ。

 彼女たちが原因で、新人パートさんはおろか、新卒の正社員まで半年もたたずに辞めていったという。原因は給与の低さや待遇の悪さではない。江藤さんグループによる新人いびりがひどかったのだ。人手不足で誰もいないよりマシだと、前職者が甘やかしたのも良くなかったようだ。

「――これは他のパートさんに対するハラスメント行為と捉えられてもおかしくないですね」

 ハラスメントという言葉に、江藤さんの表情が心なしか引きつったようだ。

「仕事は雑、同僚へのハラスメント行為が目立つ……。ここには他のパートさんたちが、江藤さんたちからどんなことをされたか、一人ひとりにヒアリングした結果が全て書かれています。……読みますか?」

 「いらないよ! 辞めりゃいいんでしょ、辞めりゃ! くっそムカつく!」

 「辞めなくてもいいんですよ。ちゃんとこちらのマニュアルを順守する、他のパートさんや社員さんに謝罪して、きつい物言いや態度を改める……簡単でしょ?」

 「……鈴木さんさぁ、アタシのことバカにしてるでしょ? 陰キャのくせして」

 「ちょっと、江藤さん!」

 気色ばんだ工場長を軽く手で制し、私はわざとニッコリほほ笑んだ。

 「江藤さん、ここはあなたと私が通っていた中学校ではありません。お互い社会人として働くいい大人ですよ。いつまでも昔のままだとは思わないでください。それに……」

 私は立ち上がって彼女を強く睨み付けた。

 「私があなたより社歴が短かろうと、ここでは私が主任であり、あなたの上長です。これ以上その言動を改めないのであれば、弊社としても相応の措置を取りますので!」


 結果、江藤さんと、一緒につるんでいたパート連中には、雇用契約の更新をしないと伝えた。五人ほどいたお局気取りのパートは全員、無事追い出したことになる。

 「アタシらいなくなったら、仕事回んないよ」

 そんな捨て台詞を残した彼女たちに「足を引っ張る人がいなくなったから効率アップしていますけど?」と返した。

 あんぐりと口を開けた彼女らの間抜け顔に、私は笑いを必死でこらえていた。

「アンタ、本当にあの鈴木さんなの? キャラ変わりすぎ……」

 それが、私が最後に聞いた江藤さんの言葉だった。


 入社初日、喫煙所での会話は筒抜けだった。

 「今日入ってきた中途採用の社員さぁ、中学時代の同級生なんだわ~」

 「え~、マジ?」

 「マジマジ。地元一緒なんだよね。なんかさぁ、正社員だって調子こいてるけど、昔は陰キャだったんだよねー」

 「どーせすぐ辞めんじゃね?」

 「それな~~~」

 「ま、現場取り仕切っているのはウチらだし。どーせなぁーんにもできないで終わりっしょ?」

 倉庫裏の喫煙コーナーで品のない会話。昔の同級生である私をターゲットにしようとしていたのもとっくに分かっていた。頭の中が中学時代で止まっているのだ。

 私はもうあの頃の私ではないというのに……。そう、あの日から私は変わったのだ。


 「ちゆりちゃん、この度は……」

 葬儀会場を訪れたのは、はす向かいに住んでいる篠原さん夫妻だった。

 「篠原のおばさん、おじさん、こんな大変な時にありがとうございます。母も喜んでいると思います」

「まぁまぁまぁ……もう、本当に……こんな……」

 おばさんはもう言葉にならない。ご近所ということもあったけど、母とは旧知の仲だけに、ショックが大きかったのだろう。

 「母一人、子一人で暮らしてきたのにねぇ。ちゆりちゃん、大丈夫? ちゃんとごはん食べてる? 大変だろうけど、困ったことあったらおばさんに言ってね」

 「ありがとうございます」

 確かにこれからが大変だ。家は壊れこそしなかったが、一階部分は土砂と水が流れ込んでめちゃくちゃ。当分は住めないだろう。ママの葬儀の後は、保険対応や諸々の手続きが控えている。うちの町内会では台風による水害が原因で、ママを含め三人も亡くなったのだ。

 棺の中のママは、きれいに死化粧を施してもらっている。陳腐な表現だが、まるで眠っているようだ。左側の頬にあった擦り傷と痣は、濃い目のコンシーラーとファンデーション、それに頬紅で巧みにカバーされている。

 

 うちのママは華やかな美人だった。常に自信に満ちていて、彼女の娘であるのが誇らしい反面、劣等感に悩まされることもあった。しかもママは、私のクラスメイトなどに会うと決まって彼女たちを褒めたたえ、「それに引き換えこの子は何にもできないから」と言っていた。ママから見れば、離婚したパパに似ているらしい私には内心不満があったのかもしれない。

 私は「何もできない」から、卒業後もママと一緒に暮らすしかなかった。県外の企業に就職したいと言った時も、一人暮らしをしたいと言った時も「あんたは何もできないから」と反対された。

 好きな人ができたというと「あんたみたいな女、本気で愛してくれる奴なんていないでしょ、騙されているんだよ」と鼻先で笑われた。そのくせ、三十路を迎えた頃には「いい加減に結婚しなさい。あんたはママが言わないと結婚もできないの?」と言われ、婚活を命じられた。でも、こんな自分をもらってくれる人なんかいない。婚活は思うようにいかず、ママには「いい年をして恋人もいないなんて、あんたは恋愛もマトモにできないの? 情けないわねぇ~」と笑われた。

 あの夏。ママと地元の夏祭りに行った際だった。混雑する公園の石段で転倒したママは、足首を骨折してしまった。ギブスが取れるまで、私がママの面倒を見ることになった。でも、何もできない私に、ママはイライラしてきつく当たる。

 お盆休みが終わり、それまでの好天が嘘のような土砂降りが続いたこの数日。家の近所を流れる川の水かさはあっという間に増してゆき、避難勧告も出た。超大型台風が我が家のある街の一帯を襲ったのだ。

 早く公民館に行こうという私に、ママは何かと文句をつける。早く避難しようと言ったり、あんなところに行きたくないから二階に避難しようと言ったり。はたまた足を怪我しているから二階に行くのは面倒だと言ったり。ママの言うことは二転三転、避難用の荷物の中身にも文句を付け、あれも入れろこれはいらないと何度もリュックの中身をいじくり回す。そんなこんなでママを連れての避難のための準備はもたついてしまい、気が付けば我が家も床上浸水になってしまった。

 足首まで水に浸かる中、ベランダのガラスが割れる音がした。どこかの家のスクーターが流されてきて、ベランダの窓ガラスにぶつかったのだ。次の瞬間、一気に大量の泥水が居間に流れ込んできた。私たちは腰まで水に浸かりながら、二階に避難しようとした。私はママの手を引いて階段を上る。ママはヒステリックに喚き散らした。

 「まったく、グズグズしているから! こんなになる前に避難すりゃ良かったのに! 本当に、お前は何もできない子だね!」

 次の瞬間、私はママの手を振りほどき、振り向きざまに思い切り蹴りを入れた。私の蹴りはママの腹に当たった。ママは一瞬「えっ?」という何が起こったか分からないような、きょとんとした表情のまま、蹴られた反動で階段の手すりに顔面を強打し、頭から転落した。一階部分はもちろん、階段の途中まで流れ込んだ濁水が、ママを飲み込んだ。悲鳴一つ上げず、ママは水の中に沈み、その上に流れたカラーボックスや椅子や得体のしれないゴミなどが覆いかぶさるように流れ込んだ。

 私は黙って二階の自室に戻り、濡れた体を拭いて新しい服に着替えた。そして、そのまま一晩を過ごした。

 翌日には水が引いて私は救助されたが、ママは死体で見つかった。左の頬には、手すりにぶつかったときにできたらしい打撲痕と擦り傷が少々。地元の消防団も警察も「足を怪我して逃げそこなって、二階に上がろうとしていたものの水にのまれてしまった」という私の言い分を疑いもしなかった。

 ボランティアや近所の人たちが助けてくれたおかげで、「わたし」はママの葬儀の喪主を務めあげ、被災した家の後始末も完璧に終えることができた。ママの生命保険や、家に掛けていた保険のお金もおりて、私のその後の暮らしを支えてくれた。それらの出来事が、私に自信を与えてくれたのだ。

「何にもできない」?いいえ、ママ。私はママを完璧に殺すことができた。ママが死んだ後のことも全部ちゃんとできた。


 私はそれから変わった。ママに言われるままに入社した会社を辞め、転職して、引っ越して、ずっと飼いたかった猫を飼った。髪を切り、髪を染め、お化粧もした。スポーツジムに通い、料理教室に行き、マラソン大会にチャレンジした。好きだったアーティストのコンサートに行くために、新幹線とホテルを手配して、東京にも出かけた。そして、職場では主任に昇進した。


「転職? アンタなんかどこも雇ってもらえないでしょ。なぁーんにもできないんだから」

「引っ越し? アンタなんか家のことなぁーんにもできないのに、一人暮らしなんてできっこないでしょ、笑わせないでよ、まったく」

「猫を飼いたいってぇ? 冗談でしょ、アンタなんかに生き物の世話できるとでも思っているの? なぁーんにもできないくせに」

「本当、あんたってば運動音痴ねぇ。ジムなんて行くだけお金の無駄遣いでしょ? なぁーんにもできないくせに」


 もう、私は「何にもできない」子じゃなくなったのよ、ママ。

 だって、ママをちゃんと殺せたから。

 もう「何でもできる」ようになったの。

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「アナタは、なんにもできないから」 塚本ハリ @hari-tsukamoto

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