澤田美沙
「おはようございます。あの、今日からこちらでお世話になります、
「ああ、新人さんね。事務所に行ってください。はい、これ入館証。そこにかざすとドア開きますから。入って右側ね、行けば分かるから」
初老の、気のよさそうな守衛さんはてきぱきと案内してくれた。私の緊張は少しだけほぐれる。無理もない、パートとはいえ七年ぶりの仕事になるのだ。
社屋入り口の自動ドアはガラス張り。私は自分の姿を確かめる。子どもの入学式で着た濃いグレーのスーツは、仕事用にも見えなくはない。子育てで忙しく、なかなか美容室にも行けず伸ばしっぱなしだった髪は、後ろで一つに束ねたら何とかさまになったようだ。
よし、頑張って働こう。職場の人たち、優しい人だといいんだけどな。
「失礼します、今日からお世話になります澤田と申しますが……」
事務所のドアは開いていて、三、四人の社員がパソコンに向かっていたり、電話で話していたりしている。私の声は小さくて聞こえないかと思いきや、入口から離れた席の女性が、すっと立ち上がって素早くこちらに向かってきた。
「おはようございます、澤田さん。主任の鈴木と申します、よろしくお願いします!」
やや明るい色のショートボブヘア、着ているものはグレーの作業服なのに、よく似合っていると思った。歳の頃は私と同じくらいか。ハキハキとした口調。白い歯が光るスマイル。デキる社員オーラのようなものを感じる。
「じゃあ、こちらで諸々の手続きを行いますね。藤井専務、そこの商談スペース借ります」
「あー、はいはい。それじゃ澤田さん、後は鈴木主任の指示に従ってください。彼女は優秀だからね。分からないことあれば何でも気軽に相談してね」
思い出した。面接時に対応してくれたのは、この専務だった。鼻の横にある大きなホクロには見覚えがあった。
見覚えがあると言えば、この鈴木主任もそうだ。面接時にはいなかったので、会うのは今日が初めてのはずだが、どこかで会ったような気がする。
「――で、こちらがパートさん用の入館カードです。カードキーになっていて、正面玄関と工場と更衣室と倉庫に出入りできます。ただし、検査室と事務所、社長室には入れません。また、18時になると自動的に施錠されますので……」
鈴木主任の説明はよどみなく、しかし早口すぎず聞き取りやすい。私はメモを取りつつ、彼女の声に耳を傾ける。
「――と、これで一通りの説明は終わりです。ここまでで何か分からないことはありませんか?」
「あ、いいえ。大丈夫……かと。ただ、その……仕事するのが久しぶりなので大丈夫かなぁと……子どものこともありますし」
鈴木主任はにっこり笑って「大丈夫ですよ」と返した。
「もちろん、お子さんが熱を出したとか、そういう時は臨機応変に対処しますから。お子さんは小学生ですよね?」
「ええ、上の子が二年生で、下の子が年長さんです」
「あらあら、まだまだ大変ですよね。困ったことがあれば言ってくださいね。同じようにお子さんいるパートさんも多いから、皆さん助け合ってお仕事しています」
「……助かります」
「私だって、最初の頃はなぁーんにもできませんでしたから。大丈夫、慣れですよ、慣れ」
彼女の「なぁーんにも」で、私の記憶のスイッチがいきなり入った。そうだ、彼女は…!
「あ、あの、鈴木さんって……もしかして鈴木ちゆり……さん?」
「え?」
「覚えていない? 私、東高の同期。同じクラスだった。旧姓は紺野、紺野美沙」
「……えーっ! 紺野さん!? うっそー!」
素っ頓狂な彼女の声に、藤井専務が「どーした?」と血相を変えて飛び込んできたのが、ちょっとだけ笑えた。気が付けば、緊張はほぐれていた。
「ごめんね、紺野さんだって気づかなかったわ~」
「あはは、もう三十代だし、だいぶ老けたもんね」
「いやいや、そうじゃなくて。で、聞いていい? いつ結婚したの? 旦那さん、どんな方? ……って質問だらけだね、ごめん」
「いいよ、気にしないで。二十三歳のとき。高校出てすぐ就職してさ。旦那は同じ会社の人で、二つ年上。一緒に仕事をしているうちに何となくそんな雰囲気になって、付き合って結婚ってわけ」
意外なところで再会したかつての級友ということで、少しだけコーヒーブレイクとなった。私たちは自販機のカップコーヒーを飲みながら、少しだけ互いの話をした。
「持田ハウジングって知っている? そこで営業事務やっていたの」
「知っているも何も、地元の住宅メーカーでしょ。良いところに就職したのね」
「うん、でも保守的なところでさ。結婚しても仕事は続けられたんだけど、子どもができたら何だかんだでね。旦那だけが残って……結局、私は専業主婦しかなかったのよね」
もっとも、別にバリバリ働くつもりはなかったので、自分としては結婚生活に不満はない。もちろん夫婦同士、時にはささやかな諍いはあるが。それでも娘と息子に恵まれ、子育てで奔走。気が付けば三十路である。
「子育てもひと段落したけど、この先、子どもの教育費もあるでしょ。それでパートとして働くことにしたんだ。でも、鈴木さんがいるとは思わなかった。それこそ最初は分からなかったもん。すごいなぁ、バリバリ働いてカッコいい」
思い出せなかったのも無理はない。私の記憶の中にいたのは、高校生の彼女だ。
おとなしくて、成績が良くて、でも、どこかちょっと暗い感じのメガネをかけた猫背の子。全体的にもっさりしていた彼女は、どこかオドオドしたところがあり、クラスの中でも派手な子や上位カーストの子には軽んじられていたっけ。
今、目の前にいるのは、生き生きとして働くカッコいい女性だ。それに、昔と比べて非常に垢抜けた。ヘアスタイルやメイクも、別に凝っているわけでも厚化粧でもないが、似合っていて彼女の良さを引き出している気がする。
「そうかなぁ、私なんていまだ独り者だし。なぁーんにもできないよ。紺野さんこそ、立派にお母さんしているの、えらいよ」
鈴木さんはそう言ってほほ笑むと、空になった紙コップをくしゃっと潰し、ゴミ箱に放り込んだ。ああ、そうだ。彼女の口癖だった「なぁーんにもできない」って。そこだけは変わっていないようだった。
「さて、おしゃべりはここまで。じゃあ、紺野さん……じゃなかった、澤田さん、制服用意するね。あと、ロッカールームはこっち。タイムカードはこの入館カードを使って――」
再び仕事モードに戻った彼女は、もう「鈴木主任」の顔をしていた。まだまだ聞きたいことはあったけど、私もそこは我慢した。唯一分かったのは、彼女がまだ結婚していないことぐらいだろう。鈴木姓のままだし、指輪もしていないのだから。
その日の夜、私は初出勤について聞いてきた夫の悟に、鈴木さんの話をした。
「へぇ、そりゃ驚いたね」
「うん、でもちょっと安心した。知っている人がいると精神的ハードル下がるね」
「ま、俺らずっと地元だしな。ウチの会社だって施主さんのところ行ったらクラスメイトの親だった…なんて、ざらにあるもんなぁ」
「そうそう、地元あるあるだね」
私たち夫婦は生まれてこのかた、ずっと地元で暮らしている。ど田舎ではないが、大都市というわけでもない。駅はあるが列車の本数は多くないし、急行は止まらない。駅からのバスも路線が少ない方だ。結局のところ、車がないとどこにも行けないから、高校を卒業するとだいたいみんな免許を取っている。そして休日になるとドライブして、遊ぶのはバカでかいショッピングモール……そんな日々を過ごしていた。
私は、ここは過ごしやすい街だと思っている。大抵のものは買えるし、昔ながらの知り合いも多いし、暮らすには不自由しない。家族も友人もいる、この地元が気に入っているのだ。
鈴木さん、いや鈴木主任が相当優秀なのは、すぐに分かった。つねに事務所と工場、倉庫を走り回り、作業ズボンのポケットに入っているスマホはしょっちゅう鳴り響いている。
ここでの私の仕事は、工場のライン作業だ。月・水・金の週三回、十時から十六時までのパートタイム。出勤するとまずロッカールームへ。作業服に着替えたら、工場入口にある読み取り機に入館カードをかざして、ランプが緑に光ったら「出勤」になる。
十時になると始業のベルが鳴る。工場長と数人の社員、そして十数人のパート従業員たちが集まって朝礼を行う。その日やること、安全上の注意点、その他もろもろの申し送りなどを伝達すると、鈴木主任がパートさんにてきぱきと指示を出す。
「――では、今日はこちらを十五時までに五十ロット出荷が目標です。Aラインは木下さんをリーダーに、高橋さん、加藤さん、渡辺さんのチームで。Bラインは井上さんをリーダーに、横山さん、相川さん、中村さんのチームで組みます。梱包は吉田さんと大島さん。澤田さんは、橋本さんと青木さんと一緒にこちらで検品作業をお願いします。橋本さん、サポートお願いしますね」
「はーい」
ここの工場は、電気関連の工事に使う資材の部品を作っているそうだ。見たこともないような名称と、一見すると何に使うのか分からない形状の部品。私は先輩パートの人たちと一緒に、その部品をチェックしていく。ここで不良品を取り除いていくのが私の初仕事だ。
「澤田さん、これがダメな部品の一覧だから、最初はこれと見比べながら進めてね」
先輩パートの橋本さんが、小さな額縁のようなものを私の目の前に置いた。昆虫標本のように、欠陥品がピン止めされ、その下に「欠け」「割れ」「歪み」といった説明がラベリングされている。
「わぁ、分かりやすいです」
「でしょ? これ、鈴木主任が作ってくれたんだよ。これなら間違えにくいものね」
「そうなんですか」
「口で言うより見た方が早いでしょって。これなら新人さんでも見分けがつきやすいからね。おかげで効率が上がったのよね」
「へー、澤田さんって鈴木主任と同級生だったの?」
「あの人、昔っからあんな風に優秀だったの?」
昼食時、パートさんたちとの会話で、ついその話になった。
「……そうですねぇ、昔から成績は良かったですよ。高校時代は進学コースで、県立大学に進学したって聞いています」
「あ~、やっぱりねぇ。あのね、こういっちゃ何だけど、前の主任が全然ダメでさぁ」
「そうそう、こっちが何か言ってもぜーんぜん聞いてくれないし……」
パートさんたちの話によると、彼女がここに来たのは四年前のこと。いわゆる中途採用だったらしい。この工場は、当時はあまり時給も良くなく、パートさんの定着率も悪かったらしい。鈴木主任は入社すると、まず社内の雑用から始め、最初の半年は徹底的に整理整頓を行ったそうだ。
「検品用の虫眼鏡とか、工具類もね、ぜーんぶラベル貼ってさ。それも検品用の道具は青いラベル、製造ラインの工具は黄色いラベルって、一目見ても分かるように。工具入れも同じラベルにして、何がどこにあるかを全て一目で分かるようにしてくれたの」
「それから、作業工程の手順を全て印刷して、工程ラインごとにそれを壁に貼って――」
「あと、ここの休憩室ね。ここ、もともとはガラクタが詰め込まれていた物置部屋みたいだったのをぜーんぶ片づけて、きれいにしてくれてね~」
そして、彼女の何よりの功績が、新人いびりが酷かった古参のパートを追い出したことだったという。
「そう言えば、それこそ彼女が鈴木主任と中学時代の同級生って話だったよね?」
「あー、そうそう。江藤さんっていう人。傍から見ててもすごい態度悪かったよね」
「もう最初っからバカにしていてさ。主任が何か指示だしてもヘラヘラしててさ、取り巻きみたいなのもいて、彼女と一緒に言うこと聞かないでさ――」
そこから先は、その江藤という女性たちの悪口で盛り上がっていた。気が付けば昼休みは終わっていた。
「――澤田さん、試用期間の三カ月間、お疲れ様でした。今日からは本採用で、時給も皆さんと同じになります。これからも頑張ってください」
朝礼で鈴木主任がそう言うと、周囲から拍手が起こった。これまで私の作業服についていた若葉マークのバッジも取り外しとなった。
「さ、今日も頑張りましょう! 今日は再来週の連休を控えて、ちょっと前倒しのスケジュールになっています。いつもより二割ほど注文数が増えているので、Aラインは五人編成で――」
相変わらず的確な指示で作業を進める鈴木主任。パート社員の取りまとめだけでなく、繁忙期には自らもラインに立って一緒に作業に取り組んでいる。もっとも、ときどき専務たちから「おーい、本社から電話来てるよ~」と呼び出されたりするが。
「鈴木主任、若葉マークのバッジ返しに来ましたよ~」
昼休みの合間に、私はバッジを片手に事務所を訪ねた。
「あ、澤田さん。ありがとうございます。どう、仕事は? 困ったことない?」
「ぜんぜん! みんな親切だし、作業指示が明確だから分かりやすいし」
「そっか、それは良かった」
三カ月前、ここで再会して互いに驚いたのが、ついこの前のようだ。
「それにしても、鈴木さん……いや、主任か。すごいね、仕事バリバリできるし、こう言っちゃうとあれだけど、昔と比べたらすごい変わった気がする」
「そう……? そんなぁ~。照れるなぁ」
「昔はもっとこう、何と言うか……そのぉ……」
「うんうん、暗かったし、覇気なかったし、モサかったもんね」
「え、いや、そんな……! でもまぁ、もっとおとなしかったなぁとは」
彼女は少し黙って、小さな声で答えた。
「あのね、覚えてる? 六年前の台風のこと」
「あ……うん」
あれはお盆を過ぎた辺りだっただろうか。強い大型台風がこの街一帯を襲った。私たちの住んでいた場所は、さほどの被害はなかったが、一部の地域で川が氾濫して、住宅が数棟流された。その際、数人の死者が出たのは知っていた。
「……あの時、ウチの母親が死んじゃったんだ」
「それは……ごめん。私、何も知らなくて」
「仕方ないよ。卒業してからお互い全く行き来もなかったし」
考えてみれば、LINEの交換もしていない程度の付き合いだし、SNSでも接点はなかった。
「でもね、だからこそしっかりしなくちゃって思ったの。もう、母親はいない。自分一人で生きていくしかなかったんだ。変わったのは、死んだ母のおかげだね」
彼女は、晴れやかな笑顔でそう言った。
鈴木さんの実家は電車とバスを乗り継いで一時間以上かかる辺鄙な場所だった。高校時代の彼女は、登下校に時間がかかるからと、部活動にも参加せず、もちろん放課後にみんなで遊びに行くなんてこととも無縁だった。思い返せば、そういう付き合いの悪さが級友たちから疎んじられたのかもしれない。
学生時代、一度だけ鈴木さんの母親に会ったことがある。あれは夏休みだったか。部活か夏期講習会だったかの帰り道、夕方の駅前通りだったと記憶している。鈴木さんの母親は、明るい色の華やかなワンピースを着こなす美人で、地味目の鈴木さんとは対照的な印象だった。
そうだ、思い出した。鈴木さんの口癖は、彼女の母親と同じだった。
――まぁまぁ、お若いのにしっかりしていらっしゃるのね。えらいわぁ~。この子なんて、なぁーんにもできないから……
そう言って笑う母親の隣で、鈴木さんがどんな顔をしていたかは、もう思い出せなかったけど。
「うち、母子家庭でさ。母と二人だけで暮らしていたから、もしもある日母がいなくなったら……私は何もできないだろうって思い込んでいたの。それが、あんな形で急に死んじゃって。でもね、できないなりに必死に頑張ったのよ。喪主として母の葬式を取り仕切って、家の片付けして……って。とにかく無我夢中でね。けど、母がいなくても、ちゃんとできるって分かった。まだまだできないことの方が多いけど、自信ができたから」
そうだったのかと納得いった。大好きな母親の死を乗り越えて、今の彼女があるのだ。私は嬉しかった。
その日の夜、私は久しぶりに実家の母に電話をかけた。
「ああ、お母さん? いや、別にどうってわけじゃないんだけどさ。今度、一緒に『虹の湯』に行かない? ほら、例のリニューアルしたスーパー銭湯。ずっと行きたいって言ってたじゃん――」
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