風呂場の人魚

海沈生物

第1話

 先週からうちの風呂場には人魚が居候している。彼女はヒヨ姉が拾ってきたモノだ。昨今の異常な暑さから海岸で死にかけていた人魚を、ヒヨ姉が助けてあげたらしい。藍色の髪のヒヨ姉は昔から心優しい人物で、自分の志望していた本命の受験を投げ売ってまで、友達が忘れた受験票を届けに行ってあげたほどの善人だ。だからこそ、最初の内はそんなヒヨ姉の行動に対して、「見知らぬ人魚まで助けてしまうなんて、心優しいヒヨ姉らしいな」と思うだけだった。


 しかし、その人魚はあろうことか、うちの風呂場に居候をし始めた。それもまだ「実はまだ体調が優れなくてェ……」みたいな理由ではない。彼女はすっかり元気を取り戻して、なんなら尾ヒレでパシャパシャと水面を叩いて、ヒヨ姉に対して『ご飯を持ってこい!』と要求できるようになったぐらいだ。


 「もう体調は大丈夫なんだし、さっさと海に帰してやればいいのに」と私は思う。ただ、この人魚は助けてくれたヒヨ姉に対してとても懐いていた。一度だけヒヨ姉が風呂場から出して海に帰そうとしたが、その人魚は風呂場から動かないどころか、危うくヒヨ姉の首を締めて殺そうとしてきた。その時は、近くにいた私が掃除用のモップで人魚の頭を殴打したことで、なんとかヒヨ姉の命は事なきを得た。しかし、そのことから私はこの人魚に対して強い警戒心を抱くようになった。


「ねぇヒヨ姉。警察とか保健所の人とか呼んでさ、あの人魚を引き取ってもらうべきじゃないかな? ヒヨ姉の首を絞めて殺そうとしてきたんだし、このままうちに置いておくのは危険だと思うよ」


 そんな風なことをヒヨ姉に相談したことは一度や二度ではなかった。けれど、心優しいヒヨ姉はただただ、藍色の髪を揺らし、首を横に振るばかりだった。ヒヨ姉が言うには「彼女は悪気があって首を絞めたわけじゃない」「私が無理矢理海に帰そうとしたのが悪かったのよ」とのことらしい。ヒヨ姉の言うことにも一理ある。ただ、たとえそうだとしても、助けてくれた恩人を殺そうとする奴を助けてやる義理など本当にあるのか。そんなことを思いながらも、文句を付けて大好きな姉に嫌われたくないという一心から、何も言わないままでいた。


 しかし、時間が経つにつれ、徐々に二人の関係性はおかしくなっていった。最初の頃の二人は、三食のご飯を持ってくる時にしか顔を合わせない程度の関係だった。それが一週間が経った頃には、ヒヨ姉は大学に行かなくなり、朝から晩まで人魚の傍にいるようになった。二人は決して特別キスをするような関係ではなかった。


 ヒヨ姉と人魚は常にお互いの顔を見て微笑み合う。ご飯を食べる時は人魚の口に姉が食器ではなく自分の手で、食事を運んであげる。眠る時にはヒヨ姉が服を脱ぎ、浴槽の中で裸の身体を絡め合うようにして、一緒に眠っていた。


 それは「友達や親友というにはあまりにも親密すぎるし、恋人というにはキスの一つもない関係性」であった。その曖昧で具体的な呼称のない関係は、ヒヨ姉の生活を徐々に蝕んでいった。

 

 ヒヨ姉は人魚のためにはちゃんとご飯を作っていたが、私や自分のためにご飯は作らなくなった。そのため、彼女の身体はドンドンとやせ細っていった。特徴的な藍色の髪も、かつてのハリや艶を失っていた。大好きな姉に嫌われたくないので何も言わないままでいた私だったが、さすがに健康被害が出ているのをみると、さすがに二人を別れさせなければならないと思い始めた。


 そこで、私は人魚を「殺す」ことにした。ただヒヨ姉や人魚が起きている時間帯だと、妨害を受ける可能性がある。そこで確実に二人が眠っているであろう、深夜帯に彼女を殺すことにした。


 私は深夜にこっそり自分の布団から抜け出すと、出張が多くあまり家に帰って来ない父の趣味である登山用のロープを持ち、そろりと風呂場のドアを開ける。そこにはぐっすりと寄り添いあって眠る、人魚とヒヨ姉の姿があった。


 二人は手と足を絡みつかせるようにしてくっついて眠っていた。ここだけ切り取れば、この二人が「異種族の姉妹でーす!」と言ってもバレなそうだなと思った。だが、ヒヨ姉にとっての本物の血の繋がった妹は私だけである。こんな尾ヒレをした異種族の人魚などでは、決して、ない。


 私は早速人魚の首のグルグルとロープを巻いた。二人を起こさないように細心の注意を払った行動であったが、よほどぐっすり眠っていたのか、ヒヨ姉も人魚も全く起きる気配がなかった。やがてロープを巻き終わると、私はロープの端と端を思いっ切り引っ張ってやった。


 別に苦しませることが目的ではないのだが、きっとこの人魚はもがき苦しむのだろう。そのもがく姿を私からヒヨ姉の妹の座を奪った「代償」として頂こう。そう思っていた。しかし、首を絞めている最中、人魚はずっと安らかな顔をしていた。苦しむ声など、少しもあげることはなかった。


 やがて人魚が息をしなくなると、私は彼女の身体を浴槽に戻した。ロープを回収すると、そっと風呂場から出る。なんだか締まらないが、これで人魚は死んだのだ。明日にはヒヨ姉は元通りの「私の姉」に戻って、大学にもちゃんと通うようになってくれるはずだ。その日はなんだか落ち着かない気持ちのまま、眠りについた。


 そして翌朝。寝て起きて早速ヒヨ姉の様子を見に行こうとすると、風呂場からちゃぷちゃぷという聞き覚えのある音が聞こえてきた。ヒヨ姉が風呂場の中で泳いでいる、のだろうか。そういうふざけたこをするタイプの人ではないと思うのだが、一体どうしたのだろうか。


 そう思って風呂場のドアを開けると、そこにはヒヨ姉の姿がなかった。代わりに昨日殺したはずの人魚がケロッとした顔で、ちゃぷちゃぷと尾ヒレで赤く染まった水面を叩いている。水面にはただ、藍色の髪だけがちゃぷちゃぷと浮かんでいた。

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