ヒトラーの闘争 上

@maikama

第1話

ヒトラーの物語 ノンフィクション

史実をなるべく再現しましたが、誤りがあるかもしれません。ご了承ください。


国家主義的な場面入っています。

苦手な方は読むのをお控えください。


あくまで小説であり、ナチスを賛美したり肯定したりする作品ではございません。


 1章 ヒトラーの子供時代


誕生


私は1889年、オーストリアとドイツの国境付近にある街であるブラウナウに生まれた。父は国家公務員であり、母は専業主婦だった。

父はブラウナウから同国の首都であるヴィーンに行って、努力し国家公務員となった。


少年期


私は小学校に通わなければならなかった。この時からヤンチャな子との交友により成長しガキ大将になっていた。成績も良かった。同時に私は、教会で歌を習っていた。


親子喧嘩


私が11歳のとき、将来について父と意見が衝突していた。父は私をなんとしても公務員にさせたかったが、私は画家になりたかったため父に反対した。父は自身の権力で私に画家になるための勉強をやめさせた。

だが私は一歩進んで勉強を怠った。父は自身が高級な職業につけたことを誇りに思い、息子の私にも同じ職業にさせようとした。だが私は抵抗した。親という独裁者から己の自由を勝ち取るために。私は隠れて絵の勉強や練習をした。見つかって殴られたりもしたが、私は継続した。画家になるために。


成績の転落と父の死


私は1900年、11歳の時に大都市リンツの中学校に通った。私はこの時怠けてしまい成績が低かった。だが歴史だけが高かった。1902年には私の父が死に、将来の夢の論争が幕を閉じた。私は勉強を怠りすぎて田舎町のシュタイルの中学生に転校させられた。私はリンツが好きだったので悲しかった。


どうだっただろうか 我が成長の過程は他の誰よりも苦難な人生を歩んでいることがわかるだろう。


 2章 青年時代


1904年 クビツェクとの出会い


私はオペラが好きだ。食費を節約しながら可能な限り通っている。私は特にワーグナーが作った作品が好きだ。今日もリンツのオペラ座にいく予定だ。今日はアイーダという作品がやっているらしい。私がアイーダを見ていると、隣に私と年齢が近そうな男性がいた。私は何も気にしずにアイーダを見終えた。彼は私がオペラを見に行くとちょうど隣にいたので、いつしか彼と仲良くなった。彼の名前はクビツェクという名前らしい。私より1歳年上で装飾工で働いており、芸術家を夢見て仕事終わりにオペラに来るようだ。芸術家?私と同じじゃないか!この運命の出会いは神によって成されたに違いない!。私は彼と出会って以降、オペラの出し物が変わる度にクビツェクと共にオペラを見るようになった。オペラを見終わった後は夜のリンツの街を歩くのが定番だった。特にドナウ川の橋を渡るのが興奮した。


退学


1905年に私は肺の病気にかかり、わたしはシュタイルの学校を辞めた。この病気により私は田舎の親戚の家に住み始めた。ここの田舎の野菜とミルクは私の体をどんどん良くしていく。わたしは絵を描いたり、森を探索するのが日課だ。


目覚め


今日 1906年11月1日は祝日だ。クビツェクと共に私が大好きなワーグナーの作品「リエンティ」を見に行く。初めて見る作品なので緊張感する。今日の夜にクビツェクとオペラ劇場で集合する。夜になって私はクビツェクと集合し、入場料を払い中に入った。いつもより人が多いのはこの作品が人気なのか、今日が祝日だからなのかが分からなかった。今日の作品はいつもより趣がありそうだ。上映が始まると私はクビツェクのことを忘れ食い入るように見ていた。上映が終わると私の頭の何かが切れた。有名になり、国を動かし、世界を掌握したいと感じた。


母の病 


1907年1月 私の母が突然倒れた。医者を呼び、診察すると重度の乳がんだった。


画家になるための試験


9月 私は画家になるために首都ヴィーンへ試験を受けにきた。明日が試験だ。私には絵の才能がある。試験には合格するだろう。


試験当日


私は試験会場に来た。会場の外見は美しく、ギリシア風の建築で私は胸が高まった。

わたしはこの美しい建物に入ると、緊張が高まった。試験の緊張と、この神聖な建物に入ったからであった。

「これより一般絵画科の入学試験を行います。

合格者は明日に発表をします。」

私ならいける。私は父に何度も攻撃されながら絵の勉強を勤しんできた。そのうえ、他の青年絵描きとは違い、学校を中退してまで美術に勤しんできた。

「それでは、はじめ。」

試験が終わり、絵の全体図を見てみると美しいドイツ人の男性が描かれていた。手を見ると、ペスト患者のように真っ黒になっていた。

これで大丈夫だろう。私は確信した。


翌日


試験会場で発表される合格発表を聞いた。

この結果は悲惨なものだった。

私は不合格だった。

なぜだ 私は小さい頃から絵を描いてきた 他の青年絵描きとはちがい、学校をやめてまで絵の勉強に勤しんできた。ふざけるな 全ての努力は無駄だったとでもいうのか!

私はこの結果に満足いかず、責任者に問い詰めた。

「なぜ私が不合格なんですか?!」

「あなたには絵は合格基準に達していませんでした。あなたは建築家を目指した方がいいでしょう。」

神は私に絶望から希望を与えた

わたしは絵の次に建築な設計が好きだ。助かった。私の才能が活かせる職がまだあったと思い。安堵した。だが建築家の説明を聞き絶望した。建築家には建築学校を卒業しないといけなかった。しかも、その建築学校は中等学校を卒業しないと入学できなかった。わたしはまた絶望した。私はいままで学歴というものを重視していなかった。この世は学歴社会だということを深く学んだ。学歴社会はわたしが死んでもなお続くだろう。人類が滅ぶまで…


故郷への帰宅 


わたしが試験を終えた後。母の病状は悪化した。私は焦りすぐに故郷レオンディングに帰宅した。母は痩せて衰弱していた。私は毎日母の介護をした。


母の死 


私の母は12月21日に死んでしまった。わたしは何も手がつけられなかった。他の家はクリスマスが近いが故に祝っていたが、わたしの家族は葬式をしていた。それが余計に悲しく思えた。進路も家族も全部ダメになった。絶望しかなかった。


 3章 ウィーンでの放浪生活 


ウィーンに住む


私は1908年2月に再度ウィーンに戻った。まだ希望はある。再度画家になるための試験を受ければよい。運がいいことに、親友クビツェクもウィーンに来ている。彼を私の家に誘い共同生活をしたい。


クビツェクとの生活


私はクビツェクと共にアパートを借りた。

部屋はあまり広くなかった。二人が暮らすのが大変だった。二人のベットはもちろん。彼は音楽家の道を辿るためにピアノを買い、部屋の大部分を使った。部屋はつめつめになった。ギリギリ生活できるくらいであった。わたしと彼の生活は昼夜逆転しており、朝にわたしが寝ている時にクビツェクが学校に向い、帰ってきてクビツェクがピアノを練習する時にはわたしは公園や図書館にいる。また昔のようによくオペラに通った。ウィーンのオペラはリンツとは違い、規模が大きくあまり高くない、しかもワーグナーの作品がリンツよりも多く好都合だった。私はまた画家の受験を受ける意欲が出た。


2度目の試験


私は1年前と同じところにきた。ギリシア風建築はそのままのこっていた。変わったのは人くらいだ。この時も私は受かると思っていたが、1年前と同じ結果となった。私には絵の才能がないのか?なぜクビツェクは音楽大学に受かったのにわたしはこの様だ?!私は憤慨してしまった。次の日、私はクビツェクの前から姿を消した。


孤独


私は元いたアパートから離れた公営住宅で暮らすことになった。私は特に希望もなく、本を読み、自分の描いた絵葉書を売ったり日雇い労働をしていた。


ウィーンの社会情勢


この都市は浮浪者が多かった。街を歩くとホームレスが多く存在し、死体か生きてるか見分けのつかない人もいた。彼らは日雇い労働でお金を稼いでいるようだ。日々のパンを稼ぐために労働をする。ウィーンが首都であるハプスブルク帝国(オーストリア)は今、自国にいる他民族の独立を恐れている。この帝国は本来ドイツ人の国だが、ドイツ人がいる地域ではない地域も併合している。マジャール人の国であるハンガリー スラブ人の国であるチェコスロバキア ルーマニアのトランシルバニア地方など。彼らの独立を抑えるために増税や自国民の貧困の対応は後回しにされている。わたしは憤慨した。なぜだ なぜドイツ人の国がドイツ人を助けない なぜ他の国の民族どもを助けるのだ?やはりオーストリア及びチェコのズデーテン地方、チロル地方、スロベニアはドイツに属するべきだ。同一の地を持つ民族は共通の国家に属するべきだ!


社会民主党についての考察


私はこの政党についてあまり知らなかった。社会民主党は労働者の生活条件の向上を目指していて、この部分は賛同していたが、彼らはドイツ人よりスラブ人を優遇していた。それに私は不満があった。


ユダヤ人の恐ろしさ


私は新聞などでユダヤ人の恐ろしさについて知った。彼らは富を独占し、我々ドイツ人を支配している。なので彼らの富はドイツ人に分配しないといけない。それに彼らのルーツはアラビア人であり、ドイツ人ではない。彼らとの混血がもう始まっており血の同一性を保つためにもユダヤ人を国外に追放しないといけないと私は思った。


 4章 ミュンヘンと世界大戦


ミュンヘン


わたしは1911年、わたしはこのドイツ帝国の第二都市であり、バイエルン王国の首都でもあるミュンヘンへやってきた。あのスラブ化が進んでいるウィーンとはおさらばだ。

この時はウィーンとは違い、浮浪者やホームレスが少ない。活気も違う。約350kmしか離れていなく、同じ経度であるのに、ウィーンとは違った。


皇太子への発砲


1914年6月 オーストリアが占領していたセルビアのボスニアヘルツェゴビナ地方の州都サラエボでオーストリア皇太子がセルビア人に撃たれたという記事が新聞に大々的に飾られていた。少し疑問に思った。ハプスブルク帝国の皇帝はスラブ人を優遇していたはずだ、だが瞬時に気付いた。バルカン戦争の時にオーストリアがセルビアを占領したのが理由だと。


宣戦布告


8月にわたしが家にいた時になにやら外が騒がしかった。わたしが外に出てみると民衆が大慌てしており、神に祈るものもいた。わたしは地面に大量に落ちていた新聞を読んだ。

[フランス、ロシアに宣戦布告!]

まさか、と思った。周りをふたたび見ると北の方面に走って行くので私は民衆と同じ方向に走っていった。わたしは民衆についていくと、オデオン広場にたどり着いた。オデオン広場にあったライオンの銅像の土台に立っている男が

「我らドイツ帝国はフランスとロシアに宣戦布告をした!我々が祖国のために尽くす時が来たぞ!」

わたしは感激した。嵐のような民衆と勢いに感激したと同時に、神がこの時代に生きることを与えてくれたことに心から感謝した。

「ドイチュラント ドイチュラント ユーバ    アーレス ユーバ アーレス イン デア ヴェルト」(ドイツよ ドイツよ 世界の全ての上であれ)

わたしは思わず口ずさんでしまった。

わたしはバイエルン連隊に入隊し、2か月の軍事訓練を受けることになった。


初陣


私は10月に義務を遂行するためにミュンヘンを去った。鉄道は西にゆき、西部戦線であるベルギーに向かった。その途中にわたしはドイツの川の皇帝たるライン川を見た。わたしが何度も見てきたドナウ川とは違い、神聖であった。列車からはドイツ帝国の実質的な国歌であったラインの護りが響き、胸が締め付けられる思いだった。私は既に攻略済みのルクセンブルクを通り、フランドル地方についた。そこで列車に降り、わたしが所属している連隊は西へと向かった。兵士たちはラインの護りを歌い、進軍していた。彼らは陽気で旅行に行く雰囲気であった。だがその陽気さは一つの鋼鉄の挨拶で消え去った。パチパチと銃声が聞こえ、兵士たちは怯えた。上官の命令で私の連隊はほふく全身で進んだ。すでに悲鳴が聞こえており、逃亡するものもいた。私はドイツのために戦わなければならない!私たち連隊は敵陣に突撃し、なんとか占領した。ドイツ軍が装備しているヘルメットは革でできており、耐久性に乏しかった。わたしの連隊は私を含め新兵が多く、戦場を知らなかった。


感激からの恐怖


戦闘が続くなか、兵士たちの感情は感激から恐怖へと変わっていった。愛国心よりも自己保存欲求が高まってきたのだ。兵士たちは突撃を嫌がり、行軍中に逃げ、精神が狂うものも現れた。私もその欲求に何度も襲われた。だが次第にその感情は薄れ、落ち着いてきた。戦場という名の地獄に慣れてきたのだ。


伝令兵


私は伝令兵に配属された。情報を伝えるために前線でも後方でも構わず任務を遂行する。

前線の任務の時は死と隣り合わせだった。

私は他の兵たちとは違い、任務に忠実であったがために私が所属している連隊で一番早く二級鉄十字勲章を手にした。私が情報を伝えている途中で野良犬がいた。私は犬が大好きだ。私はこの可愛らしい犬をフクスルと名付けた。この愛犬は芸が上手だった。これが唯一の安らぎであった…


ソンムの戦い


私は1916年9月のフランス東部のソンム地方での戦いに参加した。以前の戦いとは違い、毒ガスが登場し、砲台を持つ鋼鉄の車を運用していた。ドイツ軍のヘルメットは鋼鉄のものへと進化して生存率は大幅煮上がった。兵士たちは2年前とはちがい、臆病な羊から従順な狼へと変貌していた。新兵を除いては。私たちの連隊は何度も突撃をした。突撃する時、塹壕から飛び出すと地獄のような背景があった。腐った木々が倒れていて、人間の死体にネズミや得体の知れない虫が集まっており、地面には大小の穴が空いておりそこには瀕死の兵士が隠れている。そこから小さなうなり声が聞こえるが銃声によってかき消された。ドドドドと機関銃の銃声が響き、母に助けを求めるもの、「ドイチュラント ドイチュラント ユーバ アーレス」と叫ぶものもの。棒立ちになって失禁しているもの。この光景は地獄よりも苦しい場所であった。その理由はこの戦いには古参兵と新兵が混ざっていたからだろう。だが2年前よりは勇敢に見える。私は叫びながら突撃した。敵の塹壕をなんとか奪ったが、すぐに敵が向こうから 「viva la France!」と叫び突撃してくる。敵が突撃してくる方向には機関銃がなかったので小銃で撃ち、石を投げて応戦した。だが敵の勢いは収まらず、自分たちがいる塹壕に入ってきた。白兵戦だ。我々はさっきの突撃で疲労しており、人数も減っていたので不利であった。

隊長から撤退の指示がだされ、我々は元いた塹壕に死にものぶるいで逃げた。この間に機関銃によって何人か死んだ。なんとか助かっと思ったら、砲弾が私の方に飛んできて、私の近くに落下した。そのせいで私は足を負傷してしまった。負傷はこれがはじめてであった。


ドイツへの帰郷


10月にわたしはこの戦いで負傷して故郷のドイツへ帰ることとなった。これほど嬉しいことはない!わたしは再度ライン川を通り、ベルリンへと向かった。私はベルリン郊外の病院につき、私の寝床はフランスの泥沼から白い清潔なベットへと変わった。


卑怯な負傷者


病院では負傷は名誉と考える勇敢なる獅子もいたが、それと同時に卑怯な狐もいた。

わざと負傷してこの病院にきたという。

「おれ、わざと怪我したんだよな 手を」

この卑怯な狐は笑いながらベラベラと自慢話のように話す。すると勇敢なる獅子が不満を卑怯な狐に対して吐く。

「戦場では多くの兵が死んでいる。お前はその過去の英雄たちを侮辱する気か?。」

「は? 俺死にたくねーし こんな戦争辞めちまえばいいんだよ」

彼はこの卑怯な狐の胸ぐらを掴んだ。

「ふざけるな!この卑怯者!さてはお前フランス人だな?!」病院内は静まり返った。

「なんだよ? おい」

卑怯な狐はそういい、ベットに帰っていった。


ベルリン


私の足の怪我が良くなり、歩けるようになったので外出許可がおりた、ベルリンの街はどうなってるのか非常に興味があった。いざ鉄道でベルリンの中央にいってみると、飢餓が発生していて。治安が悪い。ブランデンブルク門の周りを通ってもそうだった。つまり戦場も銃後も地獄なのだ。


再び戦場へ


12月1日に私はこのベルリン郊外の病院を退院し、私はミュンヘンに戻った。ミュンヘンは反戦の雰囲気が漂っていた。私は祖国のために戦ってきたため反戦が理解できなかった。まったく腹立たしい!ここで戦争をやめたら祖国のために戦ってきた英雄たちが無駄死にと化すのだ!私もそのうちの一人となるだろう!


勝利の希望


私は1917年3月5日に戦場に復帰した。この直後にロシアでは革命が起きていた。これはチャンスだと思った。味方の兵士たちは勝利の希望が見えたことにより気持ちが高揚し、士気が高まった。私も勝利を信じた。神聖なるドイツ帝国がフランスどもに負けるはずがない!プロイセンの栄光を引き継いだドイツは負けるはずがない!この後もわたしは何度も戦闘に参加した。ロシアで2度目の革命が起き、東部戦線が解消されてからドイツ軍の指揮は高まった。


盲目の危機


私は1918年の9月から始まったイーペルの戦いに参加した。現在、連合国が祖国ドイツに対して大攻勢を仕掛け、どんどん後退している。だが後1年は戦えるだろう。

この時ドイツ軍は過去最高に士気が落ちている。春の大攻勢が失敗し、同盟国であるブルガリアとオスマン帝国が負けた。残るハプスブルク帝国も瀕死であり、我らドイツ帝国が最後の希望なのだ。

私はドイツのために必死に戦った。劣勢でも勝機があると信じた。この戦いは敵である連合国は我々に毒ガスを使ってきた。わたしはガスマスクをつけるのが遅れてしまった!あつい!暑すぎる!目の奥まで焼ける!フランス人どもめ!目から光が奪われた!失明してしまう!


気がつくとベットで寝ていた。目の痛みはひいている。ここはどこだ? 病院にいるのは確かだ。

「ここはどこだ? だれか 答えてくれ」

「ヒトラーさん 落ち着いて ここはドイツだよ」

医師であることは分かった。だが敵の捕虜にされたかもしれない。だが捕虜なら私の名前を知っているはずがない。やはりドイツなのか

「失明はしないので安心してください」

私はほっとした。実際痛みが引いているので信じることができた。すると何やら外で物音がする。トラックの音のようだ。私は寝ようとした。


敗戦


すると突然、大声が聞こえた。

「キール軍港で水兵たちが反戦の革命を起こした!これにより軍部が降伏することになり、戦争が終わった…」

???

なぜだ

なぜ最後まで戦わなかった

これまで死んできた200万の兵の死は無駄だったと言うのか?6500万人の働きは無駄だったとでも言うのか?私は頭が真っ白になったと同時に、精神がおかしくなった!

「あああああ!」

「ヒトラーさん 落ち着いて!」

私は目の包帯を取り実際に目で見ようとした!

「祖国の不幸に比べれば…失明の苦悩など小さいものだ!」

「すべての犠牲が無駄だったとでも言うのか!ベルギーで死んだ陽気な兵も?ソンムで死んだ英雄たちも?飢えに苦しんだ銃後も?全てが無駄だったとでも言うのか!!ふざけるな!」

わたしは倒れてしまった。起きた頃には夕方の夕陽が輝く時間だった。

ドイツよ…我らドイツよ…フリードリヒ大王よ…ビスマルクよ…我々は負けてしまった。多くの若者が死んでしまった… 敗戦という名の刺青を背負ってしまった… 神よ…我々を救いたまえ… 我々を救いたまえ…女神ゲルマニアよ…

私は突然頭に電流のような痺れると共に、私は政治家になろうと決心した。

ドイツを救うために…プロイセンの栄光を取り戻すために…私の闘争はこれからだ!



参考書籍


[我が闘争 (上) 平野一郎・将積茂] [我が闘争 (下) 平野一郎・将積茂] [まんがで読破(わが闘争)] [ 青年ヒトラー 大澤武男] [ヒトラーの秘密図書館 ティモシー・ライバック=著 赤根洋子=訳]


参考サイト


アドルフ・ヒトラー Wikipedia

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヒトラーの闘争 上 @maikama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ