年老いた竜

黒心

 水平線より光が昇るとき、竜の咆哮は山脈に響き渡る。生き物は暗い森で音と共に活力を漲らせる。

 鳥は朝に向かって羽を広げ、地を行く獣は巣よりで、草花は自らを開ける。


 欠伸、右目を失った竜は今日も二度寝に入る。渡り鳥の話す言葉が分かり、象の行く先もわかる。近頃は人の話す言語もすべて網羅した。

 退屈、娯楽を得ない竜は命尽きるまで眠りたい欲望がある。しかし、尚も生物、されど生物。好奇心は猫よりも強かった。


 山の中腹、高原にポツンとある竜の祠、年端もいかぬ子供が一尾の魚を捧げる。竜はそれに気付き、巨大な翼を広げ降り立つことにした。最後に狩りをしたのはとうの昔、すでに胃の中は空だった。祠にあるのは小さい小さい魚、潮の匂いが残る一尾の小さな魚、とても腹を満たすことはできない。

 竜は呻く。


 もっと、もっと欲しい。

 爪で器用に魚を腹に収めた竜は思った。湧き上がった欲望が退屈を貪り尽くす。翼は既に羽ばたいていた。


 貝殻散らばる岸辺、穏やかに波寄せる。ガサツな竜は荒々しく砂を巻き上げ降り立った。かつて聖女と希望を語り合った白い砂浜、竜は目を細めてしばらく動けずにいた。


 魚、腹が叫んでいる。


 炎の息吹、命を絶やす。


 海水の防壁、意味を成さず。


 焼き魚群、竜の腹に収まる。


 二、三回で疲れ切ってしまった。老いとは恐ろしいと、竜は喉を鳴らす。しかし機嫌はいい。このまま思い出に向かって飛び立つのも悪くない。聖女の約束を破り、大空に向かって翼を広げる。


 黒い森を超えた先、灰の平原と呼ばれて久しい。一匹の竜と何万の兵士が死闘を繰り広げた場所である。青々とした平原は炎の息吹によって燃え盛り、人すら焦げる。竜が一歩一歩と踏みしめて歩くと、亡骸が足裏に存在を伝える。


 失った右目が疼く。


 黒雲の日、勇者と仲間は五人、国を滅ぼし数多の命を奪った竜を討伐する為、竜に立ち向かった。竜はまず、女の魔術師を焼き殺した。防御を上回る火力をぶつけたのだ。次に賢者を引き裂いた。竜すら知らぬ弱点を知っていたのだ。ああ、盗賊の小僧は噛み砕いた。知恵をもってし罠に嵌め、自ら口に飛び込んだ。最後に勇者に全力を注いだ。戦わず、回復のみに徹する聖女など眼中になかった。


 勇者、小柄な体躯に長き剣。


 無数の技、魔法、道具。彼の人生全てを賭けて竜に一打を与えた。右目。力無く振った剣なれど、深々と突き刺さる。


 竜がもう二度と開かない右瞼を触る。


 力尽きた勇者はとどめを刺すまでもなく死に絶えた。丁度その時であったか。雨が、涙の如く降り注ぎ雷までも鳴り響いた。ただ一人残された聖女は芯まで燃え尽きた魔術師の女に祈る。小僧を戻して欲しいと懇願された。竜は何故か殺す気にはなれなかった。竜は地に臥せ、歯に挟まった頭を返すと、聖女は一言も発さず四人の亡骸を集める。

 祈り、長い長い祈り。涙は全て雨に拭われ、血だらけの手、服はボロ布同然、見下ろす竜は聖女を哀れにしか思わなかった。命は戯れ、驕り高ぶる人の成した業である。


 人灰じんばいの平原に小高い丘が出来たのは聖女がこの地を去った後である。未だ錆びる気配を見せない剣が頂点に突き刺さっている。誰が刺したのだろうか。


 眠りを妨げぬよう翼をはためかせ、竜は再び大空へ飛び立つ。

 何百とある村、何十とある街、いくつかの国を飛び越える。人々の目に伝説が映るものの、竜は気にしない。


 空は夕陽を携えて手招きしている。もっと、もっと向こうへ。

 過去に滅ぼした国々の跡が見える。若き頃の竜は世界全てが棲家だった。遍く生き物は腹を満たす以外に必要なかった。退屈を紛らわすために人々の努力の結晶たる城を破壊し、街も目障りだった。竜は傲慢、反省の色なし。


 地平線に光が沈む間近に漸く思い出深い土地に着く。人の気配が全くしない大聖堂、竜ほどの幅がある巨大な扉、無数のアーチ構造、中に入れば歴史を伝えるイコンがずらりと描かれている。白き光がステンドガラスで種々の色に変わり、竜は眩しさのあまり目を細めた。


 この聖堂に椅子はない。


 あるのは棺。


 竜と棺。


 掟破りの竜は心地よく喉を鳴らす。

 浜辺で語り合ったあの時以来の邂逅。


 竜は多くを語らない。棺の納められる聖女にだけ聞こえる音で、静かに…………


 翼が軋む。これ以上年を取ると空を飛ぶことすら叶わなくなる。だからこそ、約束を破ってまでここに来た。

 長き月日を生きた竜は空を飛ぶ。山の住処に帰り、死ぬまで寝よう。竜は疲れ切っている。世界をほんの半周した程度で休まねば飛べなくなった。


 眠りにつく場所は竜の祠、遠い昔、竜も覚えていないほど遠い昔、小石を積み上げて供物を置いたその祠。


 幼き子供、今日も小さな魚を携え向かう。


 竜は片目を閉じ、丸くなって、喉を鳴らし歓迎する。


――よく来たね


――今日も昔話をしよう


――君の先祖の話


――世界がまだ竜に畏れていた時代

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年老いた竜 黒心 @seishei

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