お月さまになったお父さん

仲乃 斉希

お月さまになったお父さん

 子供に先立たれることほど悲しいことなんてこの世にない──その言葉は、親から子供にかける、愛を嘆いた呪文なのかもしれない。

 だけど、逆はどうだろうか。

 まだ小さな手で握りしめた父の手がふと消えてしまう、愛の呪文の唱え方すら知らない、死の重みも理解できない幼子に、お空へ飛んで行ってしまった父が、雲を蹴って飛び降りてくる幻想を思い浮かべて待ち続けた、あの四歳の頃の私は、この世にないほど幼気いたいけな夢想家になってしまった。


 だけど、葬式場で残された母子の背中を見て、悲劇の人生ね、なんて、赤の他人が意味付ける資格はない。

 可哀想、なんて哀れみの言葉は、しょっばい涙よりも美味しくないし、腫れ物に触れるような弱々しい手で頭を撫でられたからって、喪服を纏う幼女には、慰めになんてならない。

 四歳児だって、プライドはあるのだ。

 

 父が死んだ。

 これは、人生四年目に起きた悲劇のヒロインのノンフィクション───ではない。

 

 あの父と死に別れた日に見た、

 脳裏に深く焼きついた、

 一生忘れられない夢がある。


 邪気の色に染まった悪夢でもなく、

 息が凍る恐怖が刺さったトラウマでもない。


 それは、光だった。






 朝起きたら、世界が変わっていた。月並みのような表現しか当時四歳だった私には浮かばなかったけど、確かにその鮮烈な光景を前にして、私は呆然と胸の中にそう呟くしかできなかった。

 離れた地方に住むおじいちゃんとおばあちゃんが何の連絡もなしに我が家に来ていて、お母さんも、叔父さんも、叔母さんも、みんな、黒い服を身に纏っている。やっぱり服は赤が好き、黒なんて着たくないわって、お母さん、あんなに言ってたのに。

 あれ、と異変に気付いてしまって、私は口に出したのだ。


「お父さん、どこ?」


 それが残酷な言葉だとも理解できない私は、つい凍てつくような無表情のお母さんに問いかけた。


 刹那、氷が溶けた。


 お母さんのブラウンの丸い瞳から、蛇口を捻ったみたいに大量のしずくが零れて、雨になって、嵐になって、お母さんは子供みたいに泣きじゃくった。

 その瞬間、子供ながら悟った。

 スーパーマンみたいにたくましかったお父さんが、たった一夜でお空にさらわれてしまったのだと。



 くも膜下出血。誰もが予想しなかった、急死だったという。



 その後の記憶も、鮮明だった。

 葬式場に着くや今、家では泣きじゃくっていたお母さんも、目を真っ赤に腫らして震える指先をこっそり包み込みながらも、親戚や友人たちに慎ましやかに挨拶をしていた。私もお母さんのところへ寄り添おうとしたが、ここで座ってなさい、と促され、とこぢんまりとしたベンチに一人軽く腰をかけていた。

 いつもにこやかなおじいちゃんとおばあちゃんが弱々しくすすり泣いているのを、叔父さんと叔母さんが涙ぐみながら肩に手を添えている。

 

 まだお若いのにお可哀想に。

 娘さんも小さいから分からないでしょうね。


 周囲からの囁き声に、思わずムスッと不貞腐れた。


 分かるもん。知ってるもん。

 お父さんは病気のせいで、お空に飛んでっちゃったんだ。

 いじわるな神様に、さらわれちゃったんだ。

 でも、みんなこそ知らない。

 お父さんはスーパーマンなんだ。そう言ってたんだもん。

 だから、きっと、きっと、きっと、きっと、

 ぐちゃぐちゃな顔の私の涙を拭いに、戻ってきてくれる。

 いじわるな神様をやっつけて、お空もこえて、ただいまって、大きな声で、帰ってくるんだ。

 ねえ、そうでしょ、お父さん。

 本当はね、怖いよ。寒いよ。痛いよ。苦しいよ。

 私が辛い時は、真っ先に助けてやるって、言ってくれたよね。嘘ついたら、針千本のますって指切りしたよね。ねえお父さん、どうしてあんな箱の中で横になってるの。力の強いお父さんなら、拳一つで突き破ってみせるでしょ。


 ねえお父さん、早く起きて。

 みんなの涙を、止めに来てよ。


 何度も何度も祈っても、箱は動かなかった。

 箱は、動かなかった。





 最後のお別れよ。

 お母さんのそんな潤み声も、ぼうっ、と夜の闇に霧がかかるみたいに、頭の奥底へ沈んでしまった。

 箱の中で仰向けになるお父さんは、蝋燭みたいに真っ白な顔で眠っている。いつもはほっぺたが赤味がかっていて、お風呂上がりにお父さんまっかかー、とからかっては頭をクシャクシャに撫でられたのに。

 菊のお花を添えましょう、そう周囲の大人に促され、有無も言う前に白い菊を小さな手に握らされてしまった。

 なんで、と私は胸に呟いた。

 なんで、こんな寂しいお花なの。

 お父さんの好きなお花は、真っ赤なバラなのに。

 お母さんにプロポーズした時に、百本のバラをプレゼントしたって、そんなドラマみたいな実話が話題に出るたびに照れくさそうに、でも熱のこもった眼差しではにかんでいたのに。

 どうしてバラをあげちゃいけないの。

 どうしてお父さんを箱から出しちゃいけないの。

 どうしてみんな泣いてばかりで、スーパーマンを信じないの。

 もやもやと浮かぶ疑問の言葉が口に出そうになったけれど、お母さんが私の肩に添えた手があまりに冷たく震えているものだから、何だか私が悪いことをした気分になったのだ。しぶしぶ出かかった言葉を喉奥に押しやって、ちくちく痛むけど飲み込んで、私はぎこちない動きでお父さんの顔の横に菊を添えた。

 素直にありがとうって言える子が好きだぞ、なんて言ってたくせに。

 お父さん、どうしてずっと黙ってるの。

 寂しいお花は、嫌だった?

 真っ赤なバラをあげたら、お父さんはまた頬を染めて笑ってくれるかな?

 悶々としている私は、気付いたらお母さんとリンクしたみたいに、体が震えていたのだ。

 唇をきゅうっと噛み締める。そうじゃないと、悲しい感情の渦が巻いて口から泣き叫んでしまいそうだったのだ。

 泣いちゃだめ、泣いちゃだめ、呪文のように心に唱えて、ちくちく刺さるような胸の痛みに知らないふりをした。

 嫌な汗をワンピースの裾にすり付けて、見ないふりをした。

 お父さん、スーパーマンでしょう。

 ねえ、早く悪を倒して帰ってきてよ。

 そんな悲痛な祈りも虚しく、お父さんの箱に、長い蓋がかざされた。

 お父さんが真っ白い顔のまま、眠ってばかりのスーパーマンのまま、その寝顔に影がかかる。

 

 お父さんが──見えなくなる!!


「いやだぁっ!!」


 噛み締めた唇を解くと、私の口からガラスを割るような金切り声が飛び出た。


「返してえっ!! お父さんを返してぇっ!!」


 叫びと同時に眼底がじわりと熱くなって、大粒の涙が溢れ出た。


「おどうざぁんっ!! おどうざぁぁんっ!! いがないでぇっ!! うぁぁぁぁぁぁ〜!!」


 駄々っ子みたいに泣きじゃくりながら、手足をもがいてあがいて、遠ざかる箱の方へ手を伸ばしそうとするが、お母さんに取り押さえられてしまった。

 されどもお母さんの腕を振り払い駆け出そうと足を踏み出すが、今度は叔父さんに抱き上げられる。宙に手足が浮きながらも、あがいて、あがいて、あがきまくって、くうを殴りまくって、私は獣みたいに癇癪を上げて泣き叫んだ。


 泣きながら、また、残酷なことを悟ってしまった。

 スーパーマンなんて、いないんだ。

 お空にさらわれたら、帰ってこれないんだ。

 お父さんのばか、嘘つき。

 



 

 さらさらとした冷風に額をくすぐられ、私は瞳を開けた。

 視界一面に広がる、深緑色の森。

 甘く冷えた空気を吸い込み、短い草むらの上を裸足で歩いた。

 天を仰ぐと、黒い夜の色に金の星の光が散らばっていて、思わず綺麗だな、と呟いた。

 夜空を眺めながら視界を一周すると、私は目を見開いて、視線を一点に止めた。

 

 ぼんやりとした雲がゆっくりと晴れ渡った先に────お父さんが、浮かんでいる。

 

 まん丸い顔のお父さんが、囲まれた星よりもずっと大きいお父さんが、夜空に浮かんで微笑んでいる。


 刹那、私は駆けた。

 まん丸のお父さんに目がけて、夜の森を裸足で駆けた。

 冷たい風に頬を打たれながらも、足がよろめいて転びそうになっても、無我夢中に駆けた。

 

 お父さんがいる! お父さんに会える!


 それだけの思考に染まって、友達との鬼ごっこの時よりも、運動会のかけっこの時よりも、ずっとずっと速い足取りで駆けたのだ。


 だけど、いくら走っても、一緒についてくるようで、お父さんは遠くに浮かんでるだけ。


 相変わらず笑いながら浮かんでるお父さんを見上げて、駆け足を少し止めて、ゆっくりと歩き出した。するとお父さんの動きも緩やかになって、まるで歩幅を合わせているようだった。


 森の中を一周して、ふと、何かに類似したように思えた。


 お月さまだ。お父さんは、お月さまになったんだ。


「お父さん、お月さまになっちゃうの?」


 空を向いて問いかけると、お父さんはにかーっ、と歯を見せて笑って、

 

『そうだ、里帆りほ。お父さん、お月さまになるんだぞ』


 その得意げな笑みが、声が、あまりにお父さんらしかったから、さまよう暗闇の中でやっと光を見つけたような、そんな高揚感が湧き上がった。


「もうお父さんには会えないの?」


『ごめんな。昔みたいには会えないよ』


 むぐ、と下唇をかじった。


『でもな』


と、お父さんは天高いところで言葉を紡いだ。


『日が暮れて、暗くなって、夜になったら、お父さんはお月さまになって、お前を見に行くよ』


 優しい声で、紡いだ。


『辛い夜になった時は、夜空を見上げて、お父さんを探してくれ。例え探してくれなくたって、お父さんはずっとずっと見守ってるぞ! 里帆に忘れられたって、お父さんは里帆を照らしてやるからな!』


 溌剌な声で、紡いだ。


 私は目から涙の雨を降らしながら、そんな眩しいお父さんを見つめ続けた。


「忘れないよ」


 みっともない涙声で叫んだ。


「絶対に忘れないよ。探してあげるよ。一番星より先に、お父さんを見つけるよ。ねえ、約束だよ。お父さん、お月さまのまんまでいてね。見えないところにいかないでね。ねえお父さん、約束だよっ」


 ああ、とお父さんは夜空の中でゆっくりと頷いた。


 そんなお父さんの溶けてしまいそうな笑顔から、流れ星が降るようなキラキラとした煌めきが瞬いた。


 金色こんじきの光に包まれて、お父さんは幸せそうだ。


 眩しくて眩しくて、思わず瞳を閉じた。


 いかないで。会いたいよ。もっともっと、会いたいよ。あの笑顔が見たいよ。あの声が聞きたいよ。手を伸ばしてだっこしてほしいよ。高く高くおんぶしてほしいよ。眠る前にキスをしてほしいよ。


 だけど────さよならしなくちゃ。


 お父さんは、お月さまになったんだから。

 スーパーマンから、お月さまへと大出世したんだから。

 私以外のたくさんの人たちも、照らしてあげなくちゃいけないんだから。


 だからお父さん、さようなら。

 まん丸のお父さん、さようなら。

 また夜空の中で、一番に私を見つけてね。

 今度こそ、約束なんだから。





「──里帆、里帆」


 何度も耳元に囁かれる声に、私は目を覚ました。

 温かい人肌に包まれているかと思ったら、お母さんの膝の上で抱きしめられていた。

 ガタンゴトンと電車に揺られている。

 どうやら、お葬式は終わったらしい。

 私は泣き疲れて、いつのまにか眠ってしまったようだ。


「里帆、お母さんがいるからね。これからお母さんと、頑張ろうね」


 お母さんの声は相変わらず潤み声だけれど、どこか芯の強さを感じさせた。


 私はうん、と頷いて、ありがとう、と微笑を漏らした。


 するとお母さんは、細い眉を下げて少し苦笑を浮かべていた。


「里帆。辛かったら、泣いていいのよ。我慢しなくていいのよ」


 お母さんの優しさは、胸に沁みるほど温かくて、いつも乗る電車なのに、もう三人じゃないんだ。そんな現実も重なって、また目の縁から涙が溢れてきそうになったけど、ゴシゴシと袖で顔を拭って、大丈夫、と首を横に振った。


 電車の窓から見える、まん丸いお父さんが、見てるから。もう泣いてばかりじゃ恥ずかしいよ。


 見ててね、お父さん。 

 お母さんと一緒に、頑張るから。

 だって私は、お月さまの子になるんだよ。

 スーパーマンよりも、もっともっとすごい、誇らしい、私は、とっても強い子なんだよ。

 

 そんなことを胸中に呟いているうちに、またうとうととまどろみに包まれて、私はお母さんの胸に抱きつくように寄り添った。そんな私の上から、お母さんのくすりとした笑い声が降ってきた。




 あれから十六年、私は教育大学に入学して、キャンパスの近くの寮に住んでいる。

 この頃はバイトやらレポートやらで忙しくて、お母さんと会うのは一ヶ月ぶりだ。


「もう、あんな高級なお花買ったのなら言ってよぉ、お母さんだけホームセンターの安いもの買って恥ずかしいじゃないっ」


 お墓参りの帰り道に、お母さんがこの上ない困り顔で言うものだから、私は吹き出してしまった。


「いいじゃん、要は気持ちが大事なんだから。それにお父さんもお母さんのケチなところ分かってるでしょ」


「もうっ! 里帆っ!」


 軽い叱咤が飛んで、いたずらっ子みたいにくすくすと笑った。

 

 すっかり外は暗くなって、足元には少し深い雪が積もっている。お墓参りに行ったのは朝だったが、久しぶりに会えたお母さんがはしゃいだあまり洋食屋さんでお昼を食べたあとに、ちょっとオシャレな喫茶店まで入って優雅なティータイムを過ごした。


 いつからだろう、命日にも笑って過ごせるようになったのは。考えても分からないから、私はただ夜空を見上げた。


 今夜は綺麗な満月だ。あの日に見た、まん丸の形と同じ。

 しかし、どんよりと仄暗い雲が、ゆっくりと動いて、

 少しずつそのまん丸い光を塗りつぶすようで、ふと懐かしくとも鮮やかな思い出に浸った。




 あの不可思議な夢は、どれだけ年月を重ねても、記憶の引き出しが古びていっても、あの夢だけは、色褪せることがなかった。

 私とお父さんとの最後のふたりぼっちだった。

 私とお父さんとの最後の鬼ごっこだった。

 でも、私が全力疾走しても、捕まえることは一生できない。

 私が老いて、老いて、

 写真に映るお父さんよりも、歳をとって、しわくちゃになって、みんなに愛され涙をもらい、息絶えるその瞬間までずっと、お月さまのお父さんに指先すら届くことはない。

 それまでは、お父さんには会えない。

 お母さんと、一緒に生きよう。


 お墓の前で涙を流しながら、

 幼い私にお母さんは教えてくれた。

 震える声と体で、されども力強く抱きしめてくれた。

 

 お母さんは、大好きだ。

 例えるなら、太陽。

 花咲くような明るい笑顔に、

 優しい母性溢れる眼差しと共に、

 鈍ることのない純粋無垢な輝き。


 この上なく温かい太陽に包まれていた──その幸せに決して偽りはなかった。


 だけど、

 お母さんの仕事時間が増えて、ひとりぼっちの留守番が続いたある夜。


 月が、ほしくなった。


 太陽がない夜は、


 月が、見たくなった。


 お父さんの、たくましい体のおんぶやだっこが、無性に恋しくなった。 

 もう一度だけ。ほんの、一秒だけでもいいから。

 カーテンを開けて、月を探した。

 点々と星が散らばる黒い空の真ん中に、真っ二つに割れて、半分だけかじられたみたいな、一番輝く光を見つけた。

 星々よりも、半分のお月さまをじっと見つめて、

 こんばんは、と控えめに声をかけた。


 月は何も言わなかった。

 

 一番に見つけたのに、  

 本当は大好きなお星さまだって、知らんぷりをしたのに!

 ちゃんと、夜のあいさつもできたのに!

 こんなにも、こんなにも、辛いのに!

 約束したのに!

 お父さんの嘘つき! 嘘つき!

 届かないとか、会えないとか、

 そんなさびしすぎることを言ったお母さんが正しいの?

 それとも、お父さんは半分だけ、嘘をついたの?

 あの半分こになったお月さまのように、

 お母さんと、お父さんも、

 半分だけ嘘つきになるのかな?

 お父さんはお月さまだけど、今はまだ会えない?

お空でお仕事でもしているのかな?

 みんなを照らすのは、スーパーマン以上の、すごいパワーがいるのかな?

 だから今は、私と遊んでくれないの?

 少しでも、少しだけでも、ほんのちょっぴり、すこしだけでも、だめなの?

 年をとって、しわくちゃになったら、

 指先だけでも届けるの?

 会える時が来るの?

 そんな、はち、きゅう、じゅう、それ以上!

 指を折っても数えきれない、長い長い時間なんて、待てっこないよ!

 私のお父さんなんだから、

 私だけのお父さんなんだから、

 今だけでいいから、お月さまのお仕事をやめて、お話に来てよ! お返事をしに来てよ!

 みんなよりも、娘の私をえこひいきしてよ!

 ううん! 

 お話だけじゃいや!

 今すぐに、だっこをしてほしい!

 おしゃべりは我慢するから、

 お返事もいらないから、

 ぎゅってしてよ! だっこしてよ!

 たかいたかいもしてほしいよ!


 お父さんに、会いたいんだよぉ!!


 窓から前のめりに飛び出して、

 星空の海に浮かぶ半分の月に手をいっぱいいっぱい伸ばそうとし、鷲掴みするようにくうを切った瞬間、ぐらり、と、落っこちそうになって、視界が荒く半回転し、地鳴らしのような重い音が響いた。

 部屋に引き摺り込むように身一つで抱き止め命綱となったのは、お母さんだった。

 お父さんに負けんばかりの強い力で抱き寄せたお母さんの顔は、今まで見たことのない、涙と汗でぐちゃぐちゃの泣き顔だった。


「ああぁぁぁああああぁぁぁぁあああああああああ」


 泣いているのか、怒っているのか、淋しいのか、怖いのか、全部、全部、脆いガラス細工をかき混ぜるような、お母さんは言葉にならない悲鳴を上げた。私も釣られて大声で泣いた。

 二人でわんわん泣いて、美人親子なんて褒められた顔も歪みに歪んで不細工になって、泣いて、泣いて、声が枯れ果てようとも、声にもならぬ呻きで泣きじゃくって、

 それでも、お母さんは、死んでも離さんばかりに私を強く抱きしめた。

 お母さんの胸と私の胸がくっついて、

 命の音が重なった。

 その音に、お母さんは壊れたように笑った。

 泣きながら、震えながら、命を抱いて、へらへらと笑った。

 命に抱かれた私も、おんなじように、目は泣いて、口だけへらへらと笑った。

 

 お父さんに、この音は無い。

 どれだけ祈っても、手を伸ばしても、

 お父さんの音は、蘇らない。

 

 今あるのは、

 母と娘の

 二人ぼっちの命の音。

 

 静寂な夜に、

 澄んだ冷たい風と一緒に揺れる、命の音。


 ゆらゆら、ゆらゆら、壊れた人形みたいに、同時にまぶたが落ちていく。

 

 泣き疲れた幼子のように、枕も布団もなく、床で抱き合って眠った。


 そんな二人のぼろぼろな寝顔に、

 開いた窓から、一筋の月明かりが照らされ、

 優しい光に包まれた気がした。


 

 あったかいね、


 うん、


 あったかいね、


 だいすきだよ、


 うん、


 だいすき。


 そんな、寝言のような朧げな会話を、

 母子でささやき合った気がした。


 



 お母さんが太陽なら、

 お父さんはお月さま。


 なんて贅沢な身分で生まれた子供なのかしら、なんて、初めてお酒を飲んだ時に、

 母と笑い合った思い出がある。



 あの夢に、名前をつけることは難しい。

 金色に燃えるような光が、

 お父さんを纏った光が、

 あの目を突き刺すような眩しさが、

 新鮮すぎるまま、ずっと記憶に刻まれている。


 あの約束は、呪いだった。


 悲劇のヒロインになんかなるな、と。

 お前の逃げる場所は月であっても、

 朝になったら、必ず太陽に帰りなさい、と。

 ただいま、と、おかえり、は、

 その命が交差する言葉は、

 お父さんには届かない。

 その言葉を待ってるのは、

 太陽お母さんなのである。

 だから、母と共に生きろ。

 強く、強く、強く生きろ、と。

 生きろ、生きろ、生きろ、生きろ、生きろ────

 涙の雨が止まない日も、

 母と喧嘩し泣き叫んだ日も、

 もう死にたいって家から裸足で飛び出した日も、

 生きろ、生きろ、生きろ、生きろ、生きろ────

 父の光が、

 いつまでも鮮明で、時にうざったいくらい存在を照らしてきて、

 夜の闇に沈んで消えたい、

 そんなどん底ですら、あのいたずらな光に、見つけられてしまって。

 あの愛おしい光を、見つめてしまって。


『お父さんは里帆を照らしてやるからな!』

『絶対に忘れないよ!』

 

 あの夢で、私はお空の天辺までのぼる前の、最後のお父さんを見た。

 お父さんの最期の顔は、蝋燭みたいに真っ白なんかでもなく、寂しいお花に囲まれたわけもなく、


 にかーっ、と歯を見せて、生意気で得意げに笑う、いつものお父さんの笑顔だった。


 私にだけ向けた、最後の最高のえこひいきだった。


 そんなお父さんを、私は絶対に忘れない。

 

 涙の夜は、上を向いてお父さんを見つけよう。

 涙枯れるまで、お父さんに見守ってもらおう。

 

 そうしたらきっと、胸の真ん中の命の音が、闇に溶け落ちそうな命の音が、一つ、一つ、力を拾って、大きく強く、打ち鳴らしていく。


 苦しくても、生きねばならない。


 お父さんは、私にそんな優しい呪いをかけた。


 

 本当は、知っている。

 空を超えるスーパーマンはいないと同じ。

 お月さまは喋らない。

 笑わない。

 身を張って守ってくれるわけでもない。

 でも、消えたいよって震えた心臓をそっと静かに包んでくれたのは、お父さんだった。

 夜の闇にひとりぼっち、

 誰にも見せられない涙を、音もなく拭ってくれたのは、紛れもなくお月さまお父さんの光だった。

 呪いは、時に生きる苦しみを与え、

 時に生きる勇気を生み出した。

 

 お父さんがお月さまでよかった。


 だって、お月さまはお月さまのまんまだから。満月じゃなくても、半分や、三日月に、欠けていっても、形が変わっても、消えることは絶対ない。

 真っ暗闇で悲しくなっても、

 必ず光はやってくるのだから。

 

 ほら、夜空の仄暗い雲の隙間から、大好きな光が自慢げに覗き始めた。

 明日も、明後日も、明明後日も、

 ずっとずっと、光は消えない。

 あの、約束は、消えない。

 だってこんなにも寒くたって、

 暗くたって、

 夜道を歩く足取りは、踊るようだった。

 

「なぁに、里帆? 突然ご機嫌になっちゃって」


 隣を歩くお母さんが、爛々と目を輝かせ、私の顔を覗いた。


「何だかね、思い出しただけ」


「悲しい思い出?」


「うーん、悲しいのもあるし、楽しかったことも」


「そりゃあ、こんなに良いお母さんがいるんだからねぇっ!」


「ふふっ………」


「里帆………あなたってやっぱり」



 ゆっくりと蠢いた雲から

 顔を出した、まん丸のお月さまと、

 なんだか目が合った気がして、

 私はかーっ、と歯を見せて笑った。


 途端、お母さんはぷっと吹き出した。


 やっぱりねぇ、と呟くお母さんは、どこか遠くを見つめているような気もして。


 笑い方までお父さんにそっくりじゃない!

 と、お母さんはけらけら笑って、

 互いに笑みをこぼして、

 一緒になって、空を仰いだ。


「お月さま、今日も綺麗だね」

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