チューニンガール・クライシス
白日朝日
第1話『天神かわせみは天使である』
梅雨入り前に夏の第一波がやって来た。
窓から差し込む日光が机の天板をじりじりと焼き、わたしの席からは黒板が陽炎がかって見える。特等席のはずだった窓側一番後方の席は今や焦土と化してい て、机に突っ伏してしまうと人間がおいしく焼けてしまいそうな木製の天板は、まるでお好み焼き屋の鉄板だ。真夏にマンホールで目玉焼きをつくるというのは 聞いたことがあるけれど、まさか夏が本格化する前にこれほど暑くなるだなんて思わなかった。今年はエルニーニョ現象で冷夏って言ったやつ誰だよ、心の準備ってのは結構大事なんだぞ。
「あづい……死ぬ。あるいは死ぬ」
突っ伏したら死ぬのだが、それでも突っ伏しそうなくらい頭がぐつぐつ煮えている。
冬山で眠ったら死ぬと分かっているのに寝るアレの逆パターンみたいなやつだ。
「……有城、暑かったらカーテン閉めてもいいぞ」
そんなわたしを見るに耐えかねたのか、夏目漱石の文章を読む口を止めて現代文の春日がわたしの名前を呼ぶ。
「はい」とだけ答えてのそりと席を立つと、窓の一番後方からいささか黄ばんだ白いカーテンの端をつかみ、一息に自分の前の席まで引っ張り歩く。
「天神さん、よろしく」
「ほえ? あ、あのよろしくお願いします」
彼女の席の前までカーテンを閉める中継をお願いしたのだけれど、なぜだか天神さんはあいさつをしてきた。時すでに六月後半、今が初対面というわけではない。
「じゃなくて、カーテン、前の席に渡すのお願いしていい?」
「あ、うん。大丈夫ですとも」
語尾にいささか不安は残ったけれど、無事カーテンを閉めることが出来た。教室への直射日光はいくらか抑えられた気がする。
陽炎の去った黒板を見て授業に集中しようと思ったところ、天神さんが両手で頭抱えている様子が目の前に見えて、集中が一瞬で切れてしまった。
「ぁー、ぅぁー」小声でうめく彼女の声はぎりぎりの音量でわたしの耳に届く。
天神かわせみはいささか天然でちょっと自己嫌悪が強い、ここまでがわたしにとっての彼女のイメージだった。
――この瞬間まで。
強い風が、開け放った窓から吹きつけた。
風を孕んだカーテンはまるで白いスカートのように広がって、ちょうど天神さんとわたしのふたりを包み込んだ。白、とはっきり言うには少し黄ばんだドームの中で、わたしの髪の毛はぶわーっとドライヤーでもかけたみたいに煽られ、現代文のノートのページは音を立ててめくれていく。目の前にいた天神さんは風を正面から受けるようにして、外を眺めていた。他の学校なら違反にでもなりそうな背中まで伸びた長い髪の毛を遊ばせながら、なにを見ているのだろう。超然的、という言葉がピタリと来る。まるでその一瞬、精霊かなにかにでも取り憑かれたような姿で、彼女は大きな瞳を見開いたままで。
彼女のノートもわたしと同じようにぱらぱらとめくれていって、最後のページに辿り着く。
そこに「天神かわせみとは天使である。」という文字列が記されているのをわたしは目にした。
「いや、別にそこまでのことを思ったわけじゃねえよ」
わたしはひとりごちる。
風は何事もなかったように止んで、わたしたちは何気ない幻想からいつもの授業へと戻っていく。教室の気温はまるで下がるようすもなく、天神さんもいつも通り黒板に向いている。もしかしたら、わたしが見たのは夏の暑さが見せた蜃気楼のようなものかも知れない。
ただ、なんとなく彼女のことが強く気になっていた。
「あゆみーん、はらへったー、ごはーん」
昼休みを告げるチャイムが鳴り終えるのと同時に、野々宮ののがわたしのもとにやってくる。制服の襟のボタンが外れたまま、くしゃくしゃのスカートも直さず歩いてくるその姿は、正直なところ女子力底辺かっていう有り様だ。
「わたしは専属コックかよ。ぷりおんの分は持ってきてないから、さっさと買ってこい」
「ふえーい」
ののの服装だけきれいに正すと、買い物に行くよう背中を押す。ののは基本的にパッシブなのだ。
野々宮のの、あだ名は「ぷりおん」。脳みそがふわふわしているくせにスポンジみたいに吸収力がやたら高いからそう名付けた。多分、PTAにバレたらこっぴどく怒られるやつなんだけれど、のの本人が気に入っているからわたしはそう呼んでいる。
「あれ、あゆちゃん。ののちゃんはどうしたの?」
「購買まで昼ごはん買いに行ったよ」
ののと入れ替わるようにやって来たのは、相家すみか。すみかの見た目はののとは真逆で、制服は第一ボタンまでしっかりと留め、スカートのプリーツはしっかりとまっすぐ伸びている。短めの黒髪をボブみたいにしてまとめた姿は楚々としており、目鼻立ちについてもしっかりとしていながら主張しすぎず端麗ときている。唯一整っていないのは暴れ馬みたいに主張する胸部のでかいふたつのボールだ。わたしととののとすみか、この三人のなかで唯一のサービスシーン担当ということになっている。
「あらら、わたしも購買に消しゴム買いに行こうかと思ったのになあ」
「わたし、ふたつ持ってるから貸しちゃる。だからさっさとごはん食べようよ」
「あゆちゃん待ってあげないんだ。優しいのやら、優しくないのやら」
すみかはそう言って小さく笑った。笑うとき口元に手をやる仕草は女の子っぽくて完成してるなと羨ましくなる。
「ぷりおんはそういうタマじゃないよ」
「タマって、あゆちゃん。ののちゃんも女の子だよ」
「んー……あれはどっちかってゆーと、『野々宮のの』っていう生き物って感じ」
「あー。分からなくもないかな」
苦笑いするすみか。
「ホモ・サピエンス・ノノハラノノネンシス的な」
「……生態観察したいかも」
冗談めかして言ったすみかの目は本気だった。
「なーんのはなしして―んの―」
椅子に座ったわたしの肩に大きめの荷重がかかる。
「ぷりおんの話してんの。あと抱きつくのやめる」
背中越しの野々原ののに対してわたしは呆れたように言葉をかける。しかし、あんたのその抱きつきぐせはどうにかならないものかね。
「ウチがとってもかわいこちゃんって話、カナ?」
「そうそう。めんどくさいからそういうことにしとこう」
どこかの有名お菓子屋チェーンのマスコットみたいに、ぺろっとした表情を作りながらかわいこぶるののを放置。
「ののちゃんは女の子っていうより、ののちゃんだねって話をしてたの」
「おお……それは誇っていいの、カナ?」
「好きなようにしてくれ」
「じゃあ、抱きついていいってことだな!」
「そっちの方じゃねえよ!!」
「あうち」
ののの頭のてっぺんあたりを平手でぱこんと叩く。中身が詰まってない割になかなか良い音が響いた。
「……ところでさ」
みんながご飯をわたしの机に広げて食事をはじめたところで、ひとつ話を切り出した。
「天神さんっているじゃん」
「ああ、髪の長い子」
「ふわふわした感じの子なー」
てめえだよふわふわしてんのは、と言おうとしてやめる。
「あの子って、ふたりから見てどういうイメージある?」
「うーん、えっと、髪が長い……とか?」
なんの新情報も付与されてないんですがそれは。
「ふわふわした感じ」
「ふわふわしてんのはてめーだ」
さすがに二度目は我慢できなかった。
この様子なら、おそらく後ろの席に座っているわたしのほうが詳しいだろう。ひとまず天神かわせみという女の子がひととあまり接していないっぽいことだけは理解した。
「こんにちは、天神さん」
案ずるより産むが吉日、わたしは授業間の休み時間に直接話してみることにした。
「……」
天神さんは瞑想かなにかしているのだろうか、祈るように手を合わせ、まぶたを閉じている。
「天神さーん……」
「ほ、ほえっ!? な、何がご入用でしょう?」
道具屋に話しかけたつもりはないのだけれど。
びっくりしたようにわたしを見上げる彼女は、泳ぎすぎて溺れかけてるような瞳をしている。天神さんは目がでっかいからこのあたりの感情表現が豊かだ。
「いや、まあなんというか、気になっていたというか、一度話してみたいなーと思って」
「気になるというと、あの、わたしが! あの件がバレたとか! その!」
天神さんがめっちゃ焦っている。会話2、3ターン程度で大きな地雷でも踏んだような会話状態になってしまったのはどういうことだろう。
「つまりあの件に関しましては! その!」
あの件ってなんだよ、ちょっと気になってくるじゃないか。
「まあ、一旦落ち着いて。あの、単純におしゃべりしてみたいなって思っただけだから」
「おしゃべり?」
「うん。わたしたち席が近いのにほとんど話したことないからさ」
「……なるほど」
一応、納得してくれたらしい。
と言ってもなにから話してみたものか。ひとことめから天使の話とかしたって天神さんに警戒されそうだし、まず自分の見たものが幻でないという保証もない。
「えっと、ひとまず、ご趣味は?」
我ながら、お見合いかと言いたくなるような雑な問いかけだ。
「あの……有城さんは、天使に興味はお有りです?」
「え゛っ!?」
遠慮がちに微笑みながらとんでもない爆弾放り込んできた!
「……あ、ごめんなさい。いきなり変な話しちゃいましたね」
天神さんは表情を一変させて泣きそうになっている。どっちだろう、泣きたくなる人間は。いやいや、だめだ、ここで挙動不審になったら天神さんをむやみに不安にしてしまう。
「ああ、いやわたしも天使好きでさー、逆に驚いちゃって? みたいな!」
フォローを入れてみたけれど、これが良策かなんてわたしには分からない。
「やはりそうでしたか。では、有城さんも天使なんですよ」
にっこり笑顔で言う。
わたしには意味が分からなくて、無言で笑顔を返す。
無言で笑顔のふたりが対峙するという謎のシュールな時間が数秒続いたところで、天神さんが先に口を開いた。
「あっ。ごめんなさい、唐突で。でもですね、天使が見えるひとはみんな天使なんです」
先ほどのごめんなさいよりも明るめの調子で、言葉を継ぐテンポも違う。
「どう説明したらいいんだろう。うーんと、有城さんは『クオリア』ってご存知です?」
「ああ、流氷の天使ね」
自信満々に答える。
「それクリオネですね」
秒待たずに否定される。
「コンビニとかで使える」「それクオカードですね」
「もう売ってないけど美味しかったアイスクリー」「それクオリテです……。っていうか、有城さんアイスお詳しいですね」
これは会話の流れを変えるチャンスボールだと思ったわたしはすかさず飛びつく。
「そうなんだよー。昔からアイスクリーム大好きでさ、もう食べちゃいたいくらい」
「アイスはそもそも食べ物じゃないですか」
そういってクスクス笑う天神さん。よしよし、上手くいっているな……
「アイスは天使の食べ物なんです」
と思った気持ちはおおよそ文章にして改行ひとつくらいで打ち砕かれた。
「話を戻しますね」
にっこり笑顔で言う天神さんを前に、わたしは絶望的な気持ちになっていた。初めてサインコサインタンジェントを教えられたときもそうだった。理解の追いついていない概念が矢継ぎ早に提示されて頭がオーバーヒートする感じ、思えばわたしはあの頃まで数学は嫌いじゃなかったんだ、サインコサインタンジェントってなんだよ呪文かよ。マハリクマハリタヤンバラヤンヤンヤンかよ。
これから天神さんに教わる天使という概念、既にクオリアとかいう知らないワードが登場してきているし、ここから宗教用語ハードコアな事態になったら、意識放り出して首肯と相槌をやり続けるChatGPTにでもなるしかない。
そう思っていたのだけれど……。
「アイスが『甘くて冷たくて美味しいこと』。その甘くて冷たくて美味しいという感じって、自分自身の感覚なんですよね。別に絶対甘くて冷たくて美味しいというわけじゃなくて、別の誰かには美味しくないものになるかもしれないですよね」
「ああ、そうだね」
この言葉は割とすんなり理解できる。
「でも、自分のなかでは完璧に『甘くて冷たくて美味しい』じゃないですか」
自分の頭のなかに森永乳業のクオリテを浮かべる。
「うん、甘くて冷たくて美味しい」
「そういう感覚が自分のなかに備わっているっていう……。だからですね、わたしにとって『天使』を感じられるひとは、『天使』をその心の中に持っているひとだと思うんです」
随分と抽象的な話だなあとは思うけれど、なるほど、天神さんの言うことはなんとなくわかる。つまり、自分の内側に定義めかした感覚があるものを持っているから、なにかを体験したときにそう感じられるという話。
でもやっぱり理解の追いつかないところはあって、
「うん。ところで、天神さんにとっての『天使』ってなんなの?」
某神話でいうところのクピドーであったり、司教の脳天に穴開けて「島に聖堂つくれ」って命じるパンクなあいつ的な話なのか、でもそのどれもがここまでの会話のイメージにしっくり来ない。
「そうですね。すこーんとはまる表現が出てこないですが……。うーんと、『なにか素敵なもの』でしょうか」
「なるほど。大まかに言うと素敵なものがわかるひとは素敵なひと、っていう感じ?」
「そんな感じで受け止めてもらえれば」
ただ、そうなったらそうなったでまたひとつ疑問が浮かぶ。
「神宮さんはなんでそれを『天使』って表現するの?」
「え、だってカッコイイじゃないですか。『†天使†』」
待て。なんか今、言葉に変なニュアンスが入った。
「『†天使†』という文字列で表現される、素晴らしきもののクオリア――美しきものは、美しき言葉で喩えられてこそその美しさを強く豊潤かつ鮮烈に有するのです……」
半分芝居がかった感じで熱弁される。
「……そこ、大事?」
「大事ですよ!! 言語的『強さ』が、概念をより高次へと高めてくれるこの……」
「あーうん、分かる気がする」
あんまり分かってはいないのだが、適当に流した。
しかしこの天神かわせみという女の子、ちょっとヤバい変人かと思っていたけれどもどうやら実際はそうじゃない。
「分かりますよね。言語が抽象界から高められて創造界へと《アセンション》していく感じ。この十六次元宇宙への移行こそが……」
テンション高くマシンガンのようによく分からない言語を投げ続けている天神さんを見ながら思う。この子、どうやら、ただの内気っぽい中二病だ。
大きな目を感情いっぱいに身振り手振りまでつけて楽しそうに話す彼女の姿は、同じように訳の分からない言葉を並べ立てまくられた数学の渡辺のときとは違い、なんだかかわいらしくて良い感じ。
こういうことなら、もっと前に話しかけてみるのも良かったかも知れない。
「ところで聞き忘れてたけれど、クリオネってなんだっけ」
「それ流氷の天使です」
短い休み時間はチャイムとともに終わりを告げる。
大きな音がスピーカーから教室を反射して、授業モードにならなければ的な気分を満たしていくそのわずかな時間を使って、
「ねえ、友だちになろうよ」
「……ほえ?」
わたしはなぜだかそんなことを口にしていた。
チューニンガール・クライシス 白日朝日 @halciondaze
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