虫取りするガキをニコニコしながら眺めるお姉さんの謎

春海水亭

つかまえた


 じっとりと肌に汗が滲む

 太陽は無慈悲に照り、風は生温い。

 八月、雲ひとつない青空。

 晴れているというだけでとても快とはいえない。

 ほとんど人間の体温と同じような気温の中を竹下翔吾は走っていた。


 ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。


 鳴り止まない蝉の鳴き声。

 絶え間なく世界に響き続ける騒音は、耳にすっかり馴染んでしまって静寂と大差はない。


 繁華街から車で三十分程度の住宅街。

 ビルはなく、規模の小さい畑はあり、竹藪もある。

 神社の境内にはちょっとした森もある。

 店は少なく、家と家の距離は近い。

 都会というには抵抗があるけれど、田舎というにはあまりにも文明的すぎる場所。

 それが翔吾の住む街である。


 半袖に短パン。緑の虫かごを肩にかけて、右手には自分と同じぐらいの身長の虫取り網。そういう格好で翔吾は神社へと向かう。

 虫取りをするつもりだった。


 本来ならば早朝の方がいいらしい。

 カブトムシやクワガタは夜行性であるし、昨今の太陽はあらゆる生物に厳しい。

 だから、早朝のラジオ体操が終わった後、そのまま神社へと向かう。

 そしてカブトムシやクワガタを捕る。

 格好いい昆虫をうっとりと眺めながら二度寝する。

 そういうのが完璧な計画を翔吾は練っていた。


 朝六時に起きることが出来たのは良かった。

 ラジオ体操に参加できたのも良かった。

 だが、それ以降が良くない。

 早朝の眠気にラジオ体操の安らかな疲労感が重なって、神社ではなく自宅に戻って眠ってしまい、起きたら十四時だった。

 両親はいない。

 長期間の夏休みは子供のもので、大人のものではない。

 今日もラップした昼食を冷蔵庫に残して働きに出かけている。


 また明日、早く起きて――そういう気持ちにはなれなかった。

 計画が破綻しても、今日虫取りに行きたかった。

 だから、翔吾は生きているだけでとろけてしまいそうな真夏日の中、駆けているのである。


 家から五分の距離に、その神社はあった。

 大きい神社ではない、少なくともその神社で縁日をすることは不可能だろう。

 鳥居から拝殿まで参道は十メートル程度、その周りをぐるりと鎮守の森が囲んでいる。

 立ち並ぶ木々は太く、高い。

 樹齢がどれほどのものであるか、翔吾は知らなかったが百年は軽く超えているのだと思っている。


 住宅街の中の神社だ。

 荘厳なものを感じないでもないが、それでも日常の延長線上の中にある。

 なんとなく不気味であまり人は来ないが、それでも正月ぐらいは人が集まる。

 それでも、空を覆う天井のような葉に陽光を遮られれば少しは思うところもある。

 境内はほとんど木立の影に覆われていて、あれだけ煌やいていた太陽の存在感がこの神社ではすっかり消え去っている。


 心の中で神様に軽率に感謝し、翔吾は両手で虫取り網を構える。

 カブトムシやクワガタは夜行性だ。今は地面や枯れ葉の下で眠っているのだろう。

 だが、探してみれば今も樹液を吸っている奴はいるかもしれない。

 とにかく翔吾は実際に探してみなければ満足できないのである。


 ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。


 その全身に降り止まない雨のような蝉の声を受けながら、翔吾は鎮守の森を歩く。

 首が痛くなるほど木を見上げてみるが、お目当てのものは見つからない。

 時には積もった枯れ葉を掻き分けてみるが、やはりお目当てのものは見つからない。


「見つかった?」

 翔吾の背後から声がした。

 涼やかな声だった。

 思わず「わっ」と声を上げそうになるのを懸命に堪えて、翔吾は振り返る。

 女がいた。

 身長は百六十センチメートルほど、翔吾よりも頭一つ程度高い。

 その頭には白い帽子を被っている。

 白いワンピースには汚れ一つなく、その裾から伸びる足も白い。

 彼女の白い肌が笑んだ赤い唇と黒い瞳の印象を強めている。

 美しい女だった。

 

 女の顔を見た翔吾の頬と耳に熱が宿る。

 太陽によるものではない。

 翔吾の内側からもたらされたものだ。

 抱いたことのない感情に翔吾は思わず女から目を逸らす。


「むし」

 降り注ぐ蝉時雨の中で、その声は際立つ。

「いっ、いえ……あの、お姉さん誰なんですか?」

 美しい顔と声、それ以外に翔吾が女について知ることはない。

 何故、自分に声をかけたのか。

 学校教育が小学生と不審な大人との会話を推奨していないことも忘れて翔吾は尋ねた。


「見てる人」

 そう言って女は翔吾を指差す。

「……僕を」

 少し考え込んだ後、翔吾が言葉を返す。

「ん」

 ニコニコと笑いながら女が頷く。


「……何でですか?」

「何でだと思う?」

「……わかりません」

「お気にせず。いいから続けるといいよ。私のことは気にしなくていいからね」

 どうぞどうぞと女は手をひらひらと振った。

 正直に言って、不気味である。

 家に帰ってしまいたくなる。

 翔吾の視線が入り口の鳥居に向く。

 その視線を遮るように女が立つ。


「続けて、続けて」

 ニコニコと笑いながら、女が言う。

 美しい声が、外気に触れたそばから腐っていくような――そんな恐ろしさがあった。

 幽霊であるとか、妖怪であるとか、そんな恐ろしいもののようにすら翔吾には思えた。

 とてもじゃないが虫取りを続ける気にはなれない。

 けれど、もしも続けなければ――どうなるのだろう。

 美しい人間の皮を投げ捨てて、自分を喰らう。

 そのような恐怖すら湧いてくる。


 翔吾は青ざめた顔で女を見上げた。

 先程と変わらない美しい笑み。


 ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。ぜい。


 沈黙を埋め尽くして、蝉が鳴く。

 この空間には恐怖と騒音が満ちている。

 走れば十秒もかからない距離にある鳥居が遠い。

 この神社から離れる出口が遠い。日常が遠い。


「続けて」

「はい」

 翔吾は虫取りを続けた。

 格好いい昆虫を捕らえるのだという高揚感はない。

 ただ恐怖に突き動かされて虫を探している。

 虫を見つけなければ、自分が食われるのだという気持ちで虫を探している。

 虫を見つけても自分が食われるのではないかという気持ちで虫を探している。


 日が沈む。

 空が赤く染まっている。

 数時間も突き動かされるように虫を探し続けたが、結局なにも見つからなかった。

 その翔吾の姿を女は笑いながらずっと見つめていた。


「よかったね」

 唐突に女が言った。

「途中で帰らなくて」

 我慢できてえらいぞ、と女は相変わらず笑いながら言う。


「……な、なんでですか?」

 翔吾の肌に滲む汗は冷たく、粘ついている。

 内側の恐怖心が外に滲みでたかのような厭な汗だった。


「帰ったら、死んでたからね」

 こともなげに女が言う。

 笑顔のままで。


「死……?」

「空き巣っているじゃん、誰も家にいない家に忍び込む奴。君の家って両親が共働きだし、近所の人も昼はいなくなるから、君さえ見張っておけば安心して物色出来るワケ」

「じゃあ、お姉さんは……」

「空き巣の、君を見る担当の人。で君の家にいたのは空き巣の盗む担当で……誰か来たら殺す担当にもなる人」

 そういうことをどこまでもニコニコと女は言った。

 思わず腰が抜けて、立ち上がれなくなる。

 ある疑問が浮かんでしまった。


「……なんで、それを僕に」

 言う必要は無いはずだ。

 いや、そもそも見張りならばもっと静かにやればいい。

 恐怖で神社に縛り付けられるとしても、顔を見られるというデメリットがある。


「なんでだと思う?」

 微笑んでいる。

 けれど、なぜだか。

 先程の笑みよりも嬉しそうだな、と翔吾は思った。


「私はね、君を見る担当の人で最後まで頑張った子供を殺すのが趣味の人」

 そもそも、先程の空き巣の話自体が嘘なのではないかと翔吾は思った。

 ただ、単にたっぷりと恐怖を与える――そういう妖怪、翔吾には目の前の女がそんな存在のように思えた。


「つかまえた」

 翔吾の虫取り網を彼の頭に被せて、冗談めかして女が言った。

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