Episode 2 証明出来ないものの美しさ

 ここまで身体が受け付けなかった登校は後にも先にもないだろう。昨日は色々なことが頭の中で反芻して、よく眠れなかった。おかげで朝は遅刻しそうになり、一時休もうかと考えたが、親に迷惑をかけるのも嫌だったので、無理やり身体を動かして家を出た。

 幸い通学路は毎日通っているからか、何も考えなくても足が勝手に学校へと案内してくれていた。だが周りにいるはずの生徒の声などは一切聞こえなかった。


 校門まで来たところで、やっと周囲からざわめきが聞こえ始めた。ここまでくると現実から逃避できないとわかったのだろう。

 そのせいか、どこからか僕の名前を呼ぶ声が聞こえる気がする。気のせいだと思いたい。


「……と、……朔人聞こえてる?」

「なんだよ透一、せっかく誰とも話したくない日だったのに」

「え? 朔人がそんなこと言うの珍しいね。何かあったの?」


 僕は足を止めた。いや、止まってしまったの方が正しい。僕は透一の目を見た。そこには、いつもの透一がいたのだ。普通に考えて、この表現はおかしいのだが、昨日の透一を見ていたら、何も間違ったことは言っていない。


「透一? 君は本当に透一なんだよな?」

「何言ってるの? さては、まだ寝ぼけているな? それかアニメの観すぎとか……」

「いや……」


 明らかに、昨日の面影はどこにもなかった。


「それより、本当に今日調子悪いみたいだけど、大丈夫?」


 いつもの透一が、心配の声をかけてくれた。だけど、昨日の僕を見た透一であれば、そんなこと聞くはずがない。どこか、昨日の僕を知らない透一と話している気分だった。


「おまえ……昨日のこと、覚えていないのか?」

「昨日の事?」


 透一はきょとんとして、手を顎に当てた。本当に何があったのかわからないようだ。

 あまり口にはしたくなかったが、言わないと進まないと思い仕方なく、口にする。


「ほら……あの……白城しらき、さんのことだよ……」

「白城さん? 白城さんがどうしたの?」


 僕は眉を寄せた。透一の表情はいたって真剣だ。


「透一も放課後、見ていたでしょ」

「放課後……? ぼくは昨日すぐに帰ったから、何も知らないよ」

「それ本当に言っているのか?」

「逆に嘘を吐く理由はなんなのさ」


 おかしい。何もかもがおかしく思えてきた。確かに、昨日放課後に透一はいたはずだ。実際にこの目で見た。そして話した記憶もしっかりとある。

 僕の胸の中で何か気持ちの悪いものが渦を巻いた。僕は胸をおさえて、冷静に考えようとした。


 もし、透一が昨日本当に僕と話していないのであれば、じゃあ僕は一体誰と話したのだろう。確かに昨日僕が話した透一は、いつもと違った雰囲気だった。まるで透一じゃない誰かと話しているかのような……。だがそれはあり得ないことだ。何故なら、昨日話した人は、今目の前にいる透一とそっくりなのだから。


 もし、透一が記憶をなくしているのであれば、納得は行くのだが、人はそう簡単に記憶をなくすように造られてはいない。それに透一は昔から物覚えだけは良い方であった。そんな透一が記憶をなくすには、昨日のあの後、事故か何かしらがあったはずだ。だが、透一は平気な顔して今ここにいるし、怪我だってどこにも見当たらない。


 考えれば考えるほど、頭がおかしくなりそうな気がしてきた。


「朔人? 大丈夫? 早く行かないと遅れちゃうよ」

「あ、ああ……」


 透一に声をかけられて、あと二分で朝礼が始まることに気が付き、僕はとりあえず教室へと向かった。



 ◇



 結局、答えのまとまらないまま、授業が始まってしまった。

 当然のように、授業に集中できるわけがなく、ずっと色々なことを考えてしまう。上手く思い出せそうにない昨日の記憶を絞り出して、何か違ったところがないか考えた。だが、やっぱり言動が何となくおかしかったようなことしか分からなかった。


 これ以上考えても仕方がないと悟った僕は、今にも消されそうな黒板に書かれた字をノートに写していく。

 だが一向に先生が黒板の字を消す素振りを見せない。授業を全く聞いていなかった僕は、今何を話しているのか全く理解できていない。よく聞いてみると、あまり授業に関するようなことは話していなかった。


 一限目の担当は、神山先生といわれる数学の先生だった。比較的人気な先生ではあるのだが、この人は少し他の人と違っていて、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。でも授業はわかりやすいため、皆から好かれるのだ。


 何も考えずに黒板に書かれてあるのを書き写していると、先生が、何やら僕たちに問題を出してきた。


「この世であらゆる現象について、証明出来ないものはないと一般的に言われている。だが私は、最も証明が難しいだろうと思う現象があるのだ。もはや証明できるかも怪しい」


 何故だか、先生が言ったことに、僕は強く興味を惹いた。つい先ほど、おかしな現象について証明しようとしていたところだったからなのかもしれない。


「それが何か、わかる人がいるか?」


 先生はその現象について、生徒に回答を促した。だがなかなか答えようとする生徒はおらず、先生は何としてでも誰かに言ってほしいのか、生徒を指名する。


「いないのであればこちらからあてるぞ。じゃあ……白城。わかるか?」


 先生が指名した名前を聞き、僕は鼓動が高まってしまう。出来るだけ意識しないようにしてきたはずだった。だが、その名前を聞いてから、一気にあの時の感情がよみがえってしまう。


 失恋──それは、僕が今までに体験した中で、一番といっていいほど辛いものであった。


 抑えきれない感情を胸に抱きながら、僕は右前に座っている白城さんの横顔を見た。いつもと変わらず、綺麗な顔だ。彼女は、自分が当てられると思っていなかったのか、慌てふためく。そんな姿でさえ愛おしい。


「えっとー……、わからないです……」


 白城さんは考える素振りを見せたが、結局思いつかなかったのか、そう答えた。僕もわからないので、その答えが普通だとは思うのだが、先生はつまらなさそうな顔をして話し出した。


「これはあくまで私の経験則であるが故に、否定してもらっても構わない。むしろ私に教えてほしいくらいだ」


 そこで一旦言葉を止めて、また続けた。


「それは、『恋』である。恋は、何であるか、その現象を説明するのは、私にとって恐ろしい難題である」


 なんだこの意味の分からない質問はと思っていたのだが、今僕は完全に脳が醒めてしまった。


「恋とは何か、調べてみると『特定の人に強くひかれること。』と書かれてあった。だが、そもそもである。自分がその人に対して強くひかれていると確信できる証拠はなんなのだろうか。それは恋だと断定できる仮定が十分でないのだよ」


 難しいが、言いたいことはわかる。時よりあるのではないのだろうか。自分はあの子のことが本当に好きなのか、気になるのだけどこれは恋愛感情の一種なのか、自分はその子の事をどう思っているのだろうか、そういった疑問を頭に浮かべたことがある人は少なくないと思う。


 ただ本当にひかれているのであれば自分でもわかるし、難しいのは好きと好きでないの境界線なのである。


「恋は、曖昧なんだ。それに、恋は必ず終わりも存在する。終着点、それは失恋か消失、また愛のいずれかである。数学や物理化学などであれば、解答は一つに定まるものが一般的なのだが、恋は定まっていない。その中でも愛は特に厄介だな。愛にもいろいろな形態があり、恋より愛の方が、自覚が難しい」


 恋の終着点……今、僕はどの場面にいるのだろうか……。終着点にたどり着いているのか、もしくはまだその途中であるのか。昨日僕は、心の中に確かなるものが変わった。どう変わったのかは説明しがたいが、今僕の心にはまだ何か残っているのだけはわかる。


「どのような環境と要因が組み合わさってこの現象が起きるのかは、いまだ証明されていない。様々な不確定要素が繋ぎ合わさって起こる現象のため、証明ができないのだ」


 要するに、己の感情について何度問いかけても、答えは何も返ってこないということだろう。恋で悩んでも仕方がない。誰も理解できないことなのであるから。


「だが、それは何も悪いことではない」


 僕は先生の目を見た。


「事実、証明出来ないものは、これ以上になく美しい。ピラミッド、アトランティス、バミューダトライアングル、そういった数々の謎の伝説は、美しいが故に言い伝えられる。恋も同じだ。証明できないからこそ、恋は美しい」


 そう先生が言うと同時に、一限目の終了を伝えるチャイムが鳴った。


「なんだ、もうこんな時間か。もっと言いたいことはあったのだが、まあまた今度にしよう。では、起立……」


 号令をすますと、僕はすぐさま先生の元へと向かった。この先生なら、何か知っているかもしれないと思ったからだ。


「神山先生、今日空いている時間はありますか?」

「ん? 君は……」


 神山先生は僕の声に振り返って、しばらく頭を悩ませた。うん、僕の名前を知らないのだろう。


田嶋朔人たじまさくとです」

「ああ、田嶋か。あまり授業を聞いていなさそうな子だな」

「は、はあ……」


 なんという雑な覚え方なのだろうと、不服に似たような気持ちを覚える。


「それで、空いている時間は……」


 僕は話を戻そうとそう言い……。


「ない」

「──え?」

「ないと言った。以上だ」


 先生はそう言い、こちらに目もくれず、教室を出ていった。僕はその姿を見て呆然と立ち尽くし……ていられるわけがない。僕はそのうしろ姿を追いかけて、声をかける。


「先生! ちょっと待ってください!」


 僕の呼びかけに先生は足を止めて、面倒くさそうな顔をしてこちらを見た。


「どうした、私は忙しいのだ」


 この先生が日頃何をしているのかはよくわからないが、少なくとも、この人が放課後や休み時間に何かをしていることを僕は見たことがない。それに、この人に用がある人も見たことがない。


 心の中で、絶対時間くらいあるだろ……とか思いながら、口には出さず懇願する。


「そこをなんとかお願いします」


 僕の言葉に先生は少し悩んで、折れたように答えた。


「仕方がない。簡潔に言ってくれ」

「ありがとうございます。実は、最近おかしな出来事があったのですが、神山先生なら何か知っているかもしれないと思いまして」


 先生は顎に手を当てて、考える。反応を見るからに、こういう質問を生徒にされたのは僕で初めてなのではないのだろうか。少し経って、先生は言う。


「ふむ、本当はそんなことに時間を割いていられるほど私は暇ではないのだが、今回ばかりは特別だ」

「本当ですか!?」

「ああ本当だ」


 僕は心の中でガッツポーズをする。正直今までこの人にそこまで興味を抱いていなかったのだが、今になってかなり興味を抱いてきていた。


「その代わりと言っては何だが」

 唐突な言葉に、この人が言うことはロクでもないことだろうと身構える。

「部室の掃除を手伝ってほしいのだ」

「部室……?」


 予想外の内容だった。というのも、神山先生が部活の顧問をしているなんて何も知らなかったからだ。それに、常識的な内容であるのも驚く。一体僕はこの人の事をどんな目で見ているのだろう。自分でもわからない。


「サッカー部の部室だよ。人手も人に頼む余地も私には残されていなかったから、丁度よい。放課後、HRが終わったらすぐだ。場所は知っているだろう?」


 この人はどれくらい時間がないのだろう……と呆れながらも、今更撤回するわけにもいかないので、同意する。


「はい……わかりました」

「それでは、私はもう行く」


 それだけ言い、先生は常人では見ないほどの歩く速さでどこかに行ってしまった。今更になって、僕はどれだけ途轍もない先生にお願いをしたのだろうかと、少しだけ後悔してしまった。

 まあでも、実際その時になってみないと、何が悪くて何が良いなんてわかりゃしないのだ。だから、今の悩みなんて全部忘れて、その時の僕に全て任せてしまおう。何とかなることを願って。

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